黙示録20章「『千年』後の『第二の死』を恐れる必要のない者はだれか」

2023年9月17日 

黙示録は聖書の中で最も誤解されやすい書物とも言えますが、信仰者にとって不可欠な励ましの書とも言えます。それは22章10節に「この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです」と記されているからです。この書は、使徒ヨハネが信仰のゆえにパトモスという地中海の島に流されている中で啓示されたもので、迫害を受けている人々への慰めと希望のことばです。日本においてクリスチャンが受けて来た迫害は世界最悪のものの一つでしたが、もし江戸時代や第二次大戦時に黙示録が正しく読まれていたとしたら、もっと多くの信仰者が信仰を全うすることができたのかもしれません。

これが記されたのは、イエスの十字架と復活から60年余りたった紀元90年代のことだと思われます。当時のローマ皇帝ドミティアヌス (81–96AD) は、皇帝を「主」、また「神」として礼拝させようとしました。彼は、妹の娘ドミティラをキリスト信仰のゆえに島流しにしますが、彼女は後に殉教します。その夫クレメンスは皇帝の従弟として信頼されていましたが、信仰のゆえに死刑にされます。そして使徒ヨハネもこのとき島流しにされました。この皇帝は96年に暗殺され、大迫害はすぐ止みますが、黙示録が記された時は、大迫害のただ中にあったのかと思われます。そのような中で、主は、ヨハネを通して、これが世への証しの機会となると励ましました。なおこの書に分かりにくい象徴表現が満ちているのは、そのような権力者に迫害の口実を与えないためであったとも言われます。ただ、中心に流れているテーマは、ハレルヤ・コーラスにあるように、キリストは「王の王、主の主」としてこの地を支配しておられるということです。そして私たちは、不条理や不正が満ち満ちている世の中で、神はすべてを御手に治めておられるということを信じ、主を礼拝するのです。そのことを主イエスは、「(あなたがたは)世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33) とまとめてくださいました。

1.「その刻印を持っている者以外は、誰も物を売り買いできないようにした」

私たちはこの世界で、偶像礼拝を強要する権力者とお金を神として崇める誘惑と常に戦う必要があります。そして私たちの目を創造主から引き離す権力者こそがサタンです。黙示録20章1–3節は厳密に訳すと、「そして私は見た。御使いが天から下って来くるのを、それは底知れぬところの鍵と大きな鎖とをその手に持ってのことであった。彼(御使い)は竜を捕らえた。それは古い蛇、悪魔でありサタンであった。そして千年の間、彼(竜)を縛った。そして底知れぬ所に投げ込んだ、そして鍵をかけた。そしてその上に封印をした。それは彼がもう諸国の民を惑わすことのないためであった。それは千年が終わるまでのことであった。その後、彼は短い間、解き放たれる必要がある」と記されています。

神学用語で「千年王国」ということばがありますが、それは「諸国の民を惑わす」サタンの力が「千年の間」、封じられることで、「神の国」がこの地に実現すると考えられるからです。ただしそれは聖書のこの箇所以外のどこにもない概念で、その解釈を巡り、キリスト教会にはときに悲しい分裂が起きてきたことにも注意を向ける必要があります。大切なのは聖書がどのように語っているかを丁寧に見ることです。

サタンは「古い蛇」としてアダムとエバを「惑わし」、彼らが創造主の命令に背くようにしました。ですから私たちは今も昔もサタンの「惑わし」に対抗する必要があります。そのことをエペソ人への手紙6章11、12節では、神のすべての武具を身に着けなさい、それは悪魔の策略に対して堅く立つことができるためです。私たちの格闘は血肉に対するものではありません……この暗闇の世界の支配者たち、天上の諸々の悪霊に対するものです」(私訳)と記されます。私たちがこの世で権力や富を巡り、血で血を洗うような戦いをするのは、この「格闘」が霊的なものであることを忘れて、血肉の戦いばかりを考える結果です。簡単に言うと、あなたに意地悪をする人を目の前から排除しようと頑張ってはいけないのです。

黙示録12章9節では、「大きな竜」と呼ばれるサタンが「地に投げ落とされた」と描かれますが、それは「神のキリストの権威が現れた」結果であるとも言われます (12:10)。つまり、神の御子の現れによって世界に希望が生まれ、世界は神の平和の完成に向かって大きく動き出してきてはいるのですが、同時に「悪魔が自分の時が短いのを知って激しく憤る」(12:12) という問題も生まれたのです。そして13章4節では「竜が獣に権威を与え……人々は獣も拝んで言った。『だれがこの獣に比べられるだろうか。だれがこれと戦うことができるだろうか』」という、権力者を礼拝させる様子が描かれます。これはこの書が記された時代の現実として、ローマ皇帝が神として崇められる状況を表しています。日本でも第二次大戦中、天皇を神として崇め礼拝させる強制力がありました。13章15節では、「獣の像を拝まない者たちをみな殺すようにした」ばかりか、獣を拝んだ者には「その右の手あるいは額に刻印を受けさせた。また、その刻印を持っている者以外は、だれも物を売り買いできないようにした」と描かれています(13:16、17)。つまり、偶像礼拝をしているという「しるし」を持っていない者は、経済活動から排除されたというのです。

戦時中にキリスト信仰を全うし、戦後は東京大学の総長に抜擢された無教会運動の指導者、矢内原忠雄氏は、この時代のことを、「思うに二・二六事件当時 (1936年) のいわゆる非常時より、太平洋戦争の終了にいたるまでの十年間、わが国はサタンの権力の風靡するところとなった。天皇を現人神としてその神格の承認を国民に強要し、神社参拝を命令し、獣の像を拝せざる者には厳しき弾圧が加えられた。獣はまた大言とけがし言を語る口を与えられ、もろもろの族、民、国語、国をつかさどる権威を与えられた。而して、多くの偽祭司、偽預言者、偽宗教家……どもは、あるいは一身の危険を恐れ、あるいは利益に迎合して、獣のために或いは論じ或いは行うて、国民をして獣を拝ませた。而して獣の徽章を右の手或いは前額にあった者だけが……比較的自由に売買することを得た。キリストに対する貞潔は失われ、教会の中にも獣に対する……賛美の声が満ちた。かかる中にありて一筋の細き信仰の道を歩んだ者は、ただヨハネの幻影に教えられて、忍耐と信仰を守ることができたのであった」と記しています。つまり、矢内原は、戦時中の日本では、黙示録13章の記述の通りのことが起きていたと分析しているのです。

矢内原はさらにそのときを振り返りながら、「獣(国家権力)は猛威を振るった。しかし、それはまことに『一年と二年と半年の間』(12:14) であった。過ぎ去った今、往時をかえりみれば、一場の悪夢である。而して我に帰れば、神の勝利に対する賛美と神の恩恵に対する感謝のみが我が心に沸き起こる。しかしながら、サタンは未だまったく滅ぼされたのではない。『七つのラッパ』(8–11章) は終わったけれど、やがてまた新しき審判の連環として『七つの鉢』(16章) が始まるであろう。その時、キリストに対する操守(そうしゅ)を全うして己が永遠の生命を失わぬよう、今の中にヨハネの幻影の教うる意味を心して学んでおかなければならないのである」と記しています。事実、矢内原は、戦時中の集会で、黙示録を講義し味わいながら、大患難に耐えたのですが、同時に、戦後には別のサタンの誘惑があると警告しています。

2.「私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た」

現代の教会が直面しているサタンの誘惑とは、17、18章に描かれる「大淫婦」、「大バビロン」と言えましょう。17章3、4節には、「一人の女が緋色の獣に乗っているのを見た……その女は、紫と緋の衣をまとい、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものと、自らの淫行の汚れで満ちた金の杯を手に持っていた」と描かれています。これはローマ帝国の安定下で、ヨーロッパからアフリカ北部、中東が一つの市場になり、それに伴って、商人たちが大きな力を持ち、政治権力さえもお金で左右される事態が生まれた当時の状況を指しています。これは現代のグローバル市場経済の先駆けです。物もお金も、民族や国語の相違を超えて取引され、富裕な人は、もう国境や文化の枠を越えて活動し、豊かな人はこの世のマスメデアをも支配し、何百人もの少年に対する性暴力が70年間隠蔽される事態まで生まれます。

そして17章5、6節では、この「大淫婦」の姿が、「その額には、意味の秘められた名、『大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母』という名が記されていた。私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た」と描かれます。これは、グローバリゼージョンの波の中で、誠実な仕事をしている信仰者たちが時代の変化に乗り遅れ、職を失って血を流すような事態を指しています。お金持ちは、自分が育ててもいない会社を買収し、忠誠を誓わない社員を辞めさせることもできます。そのような中で人々は互いに忖度をしあって、忌まわしい犯罪さえ見て見ぬふりを続けます。しかし17章では、このお金を神とする力が、あっけなく権力者の「獣」に滅ぼされる様子が描かれます (17:16)。

たしかに、「お金は大事だよ……」と言われることは真実であり、お金も市場経済も、本当に役に立つからこそ、偶像になってしまうと言えます。ただそのような中で、無意識にせよ、人も自分も、その価値を市場原理で計ってしまうようになるのが、大バビロンの誘惑です。そのとき、人はお金の奴隷になっているのです。お金は使うものであって、お金にあなたの人生の方向を決めさせては決してなりません。

一方で、この世の権力はどのように砕かれるのでしょう。その鍵のことばが、「ハルマゲドン」です。これは誤って『人類最終戦争』などと呼ばれることがありますが、16章13–16節を見ると、「竜の口と獣の口、また偽預言者の口から……汚れた霊が出て……全世界の王たちのところに出て行く。全能者なる神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを召集するためである……こうして汚れた霊どもは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めた」と記されます。これは私たちにとって恐怖ではなく、サタンの勢力の断末魔のもがきに過ぎません。そして、ハルマゲドンの戦いの結末は、19章11節以降に描かれます。そこでは、再臨のイエスが「白い馬」に乗って現れ……その衣ともものところには、『王の王、主の主 (King of kings and Lord of lords)』という名が記されていた」と描かれます (19:11、16)。その上で、戦いの結末が驚くほどあっけなく、「また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方とその軍勢に戦いを挑むのを見た。しかし獣は捕らえられた。また……獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。そして、この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた」と描かれます (19:19、20)。つまり、信者がこの世の権力者と戦いを交えることはないのです。戦いは、キリストの御口から出ている「鋭い剣」によって (19:15)、一瞬のうちに勝敗がつきます。私たちに求められているのは、「神のことば」と言われるキリストから目を離さず、偶像礼拝の圧力に屈しないということだけです。

このように見てくると、サタンがこの世の権力と富の力で信仰者を迫害するのは、自分の滅びを悟っての断末魔のあがきに過ぎません。矢内原は弾圧が激しい最中の1942年1月の集会で、目の前の様々な困難を前に、「我々は天にあっては既に戦いは勝たれている、地にあっては地が口を開いて川を呑んでくれる  (黙示録12:7、8、16)。それで自分たちの戦いの意味も、事の起こりも終わりも、こうして示されております。あとは忍耐する事と、信仰することだけなのです。これはそんなに難しいことではない。苦しくないことではありませんが、難しいことではない。人もし耳あれば聞くべしだ」と大胆に語っています。

つまり、「千年の間」、サタンが縛られ、「諸国の民を惑わすことのないように」されたということの中心的な意味は、サタンの力を抑えるのは神の働きであり、私たちに求められるのは、何よりも信仰の忍耐に他ならないということです。私たちは知らないうちに、霊的な戦い血肉の戦いに置き変え、この世の権力闘争、政治闘争、お金を巡っての戦いに巻き込まれてしまいます。興味深いのは、黙示録19章でキリストがこの世の権力者の支配を打ち砕いてくださったと描かれた後で、「千年の間」サタンが縛られると記されていることです。つまり、この世界の平和は19章で実現しているのです。それにも関わらず20章でサタンのことが描かれるのは、これが時間的な流れというよりは、神がサタンを支配していることを思い起こさせる象徴的な表現に過ぎないと解釈することもできましょう。ただこれも断言はできません。

どちらにしても、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16) と記されるように、神は目に見える、混乱に満ちた地を愛しておられます。ですから、神はこの天と地が過ぎ去った後の新しい天と新しい地」を見せる前に、この目に見える世界の千年間の平和を見せようとされていると、これを時間的な推移として理解することもできましょう。いろんな見解があり得ることと思います。

 

3.「この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない」

20章4–6節は厳密には、「そして私は見た、数々の座(座の複数形)を、(彼らは)その上に座っていた。彼らにはさばきの権威が与えられた。そしてイエスの証しと神のことばによって首をはねられたたましいを(見た)。その者たちは獣もその像も拝まなかった。また、額にも手にも獣の刻印を受けてはいなかった。そして彼らは生き返った。そして(王として)治めた、キリストとともに千年の間。残りの死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である。幸いで、聖である者こそ、この第一の復活にあずかる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない」と記されています。つまり、ここで厳密に記されているのは、第一の復活にあずかる人は、信仰のゆえに首をはねられた殉教者であり、彼らにとっては「火の池に投げ込まれる」という「第二の死」(20:14) は心配ないというのです。

ただ、Ⅰテサロニケ4章にもあったように、イエスにあって死んだ人も生き残っている人にも何の分け隔てもないはずですから、この「第一の復活にあずかる者」に、すべての信仰者が含まれると考えるべきでしょうが、ここではそのようには記されていません。そこに「千年王国」の概念を時間的な枠や聖書全体の救いの計画に広げることの難しさがあります。一方で、私たちが「キリストとともに……王として治める」(20:6) ということは聖書全体から言えることで、そこに敢えて「千年の間」と付け加えられるのはこの箇所だけなのです。ですからこの描写は、殉教者たちに対する特別な慰めとして記されているとも言えましょう。黙示録6章10節では、殉教した者たちの「たましい」が天において、「聖なるまことの主よ、いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか」と「大声で叫んだ」と記されています。つまり、そのような殉教者たちの「叫び」に対して、この「千年の間」の祝福が敢えて記されていると考えることができます。しかも、「千年」とは、「一時と二時と半時の間」(三年半)への対比表現としての、殉教者たちに対する慰めとも言えます。それを「救い」の体系に入れることには無理があります。

一方、5章9、10節にも記されたように、キリストが私たちをご自身の血によって贖ってくださった目的は、私たちが王とされ、地を治めるためです。使徒パウロは互いに争い、世の裁判所に仲間を訴える人に対し「聖徒たちが世界をさばく」ばかりか御使いたちをもさばくようになる」(Ⅰコリント6:2、3) と記しています。そこから分かることは「千年王国」という用語を用いることなく、信者がこの地を治めるということは確かなことです。それはダニエル書7章27節に記されています。しかもそこではキリストが「人の子」として「天の雲とともに来られた」ことのゴールはそこにあると記されています。そこにも千年王国を示唆する概念はなく、「聖徒たちは、一時と二時と半時の間」、迫害を受けるものの (同7:25)、神がこの世の権力者を滅ぼされ、この地に平和を実現すると描かれます。そしてそれは黙示録19章で完結していることです。

20章7–9では、「しかし、千年が終わると、サタンはその牢から解き放たれる。そして彼は地の四方の民を惑わすために出て行く。それはゴグとマゴグのことである。それは彼らを戦いのために召集するためである。彼らの数は海の砂のようである。彼らは地の広いところに上って行った。そして聖徒たちの陣営と愛された都を包囲した。すると天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした」と描かれます。サタンが千年の終わりに一時的に解放され、諸国の民を惑わすというのですが、ここでの敵の勢力は「ハルマゲドン」を上回るかのように描写されています。これは「千年の間」、サタンが縛られたような中でも、また、この目に見える世界が平和に満たされていたとしても、多くの人々が創造主に立ち返らなかったことを示唆します。それは「死の力」に支配されたままのアダムの子孫の限界を示しているとも言えましょう。その解決は、14節での「死とよみは火に池に投げ込まれた」という「さばき」を待つ必要があります。

なお、ここに登場する「ゴグとマゴグ」とはエゼキエル38、39章からの引用です。そこでは37章のダビデ王国の再建の後、神が王国の敵を敢えて駆り立てて神の民を攻撃させ、「激しい怒りの火」(38:19) で滅ぼすと描かれます。そして40~47章では終わりの日の神殿再建が記され、神殿から四方の国々を生かす水が流れ出ると描かれます。つまり、エゼキエルでの「ゴグとマゴグ」は時間的な経過では「千年王国」前のことのように描かれているのです。ここでも20章の「千年」を歴史的に見る必然性が疑われます。

ここでの焦点は20章10節での、「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も苦しむ、永遠から永遠へと」という記述で、サタンに対する永遠のさばきが描かれます。とにかく、19章ではこの世の権力者を象徴する人々を惑わす偽預言者へのさばきが、20章ではその背後にいるサタンへのさばきが描かれるという二重の描写があるのです。それは私たちがこの世の政治的な戦いや神学論争と、その背後にいるサタンとの戦いを見分けることができるためです。多くの場合、正義感に駆り立てられるように、目に見える人との戦いを繰り広げているとき、だれよりもそれを喜んでいるのはサタンです。12章10節ではサタンのことが、「私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者として描かれます。ですから、私たちが兄弟姉妹を神に告発し、その罪を訴えているとき、サタンの手先になっている可能性があるということを忘れてはなりません。

20章11–15節では「大きな白い御座」における神のさばきが記されます。ここでの「行いに応じてさばかれる」ということばに恐怖を抱く人もいるかもしれませんが、これと並行して「いのちの書」ということばが繰り返されます。13章8節には「地に住む者たちはすべてこの獣を拝むようになる、それは世界の基が据えられたときから、屠られた子羊のいのちの書に名が記されていない者たちである」と記されています。つまり、神の永遠のご計画の中で選ばれていのちの書に名が記されている者」は、この世の迫害に耐えることができ、「火の池に投げ込まれる」という第二の死」は恐れる必要はありません (21:14)。

多くの信仰者たちは、もし自分が厳しい迫害に会うなら、偶像礼拝の強要を拒絶することはできないと言います。しかし私たちの信仰を全うさせてくださるのは、人間の力ではなく聖霊ご自身なのです。聖霊は三位一体の神、創造主であられますから、私たちに忍耐する力を必ず与えてくださいます。

「千年王国」に関わる記述を丁寧に見れば見るほど、その教理を絶対化することへの疑問が生まれます。福音自由教会の歩みは様々な変遷を遂げてきましたが、そのたびに「聖書は何と言っているか」という原点に立ち返って、互いに謙遜に語り合い、歩みを修正してくることができました。そして、ここには何よりも、「死の脅し」に打ち勝った殉教者たちの勝利が描かれています。サタンを「千年の間」縛っても、死の力」が滅ぼされるまでは、サタンが解放されたとたん人々は誘惑に屈しました。「永遠のいのち」とは、肉体的な死を超えた「いのち」が今から始まっていることを意味し、それが「いのちの書に名が記されている」こととして保証されています。その「救い」の原点に立ち返ることが何よりも大切でしょう。