コロサイ3章12節〜4章1節「キリストを身に着けた生き方

2013年6月16日

私たちはすべて、神を賛美し、礼拝し、神の救いを祝うために創造されています。しかし、それに先だって、神ご自身が、あなたを祝っておられることを忘れてはいないでしょうか?

日本の文化では、欠点を謙遜に自覚して、それを修正するということが人間として成長することと思われがちですが、セルフ・イメージの低い人は、実は逆境の中での頑張りがききません。

勤勉だと言われた人は勤勉になれますが、怠け者と呼ばれた人は怠け者になります。人に向かって「ばか」と言う者は、小さいころから「バカ」と言われ続けてきたことの結果に過ぎません。

私たちはこのままで神に喜ばれているからこそ、人を喜ぶことができるのです。私たちは自分の心のみにくさに唖然とすることがありますが、十字架は、罪に対する刑罰以前に、罪人に対する神の愛の現れです。

神は、キリストを通して私たちを見てくださいます。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3:27)とありますが、キリストを身に着けた生き方をともに考えてみましょう。

1.「神に選ばれた者、聖なる、愛された者として・・・・身につけなさい。」

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として」(12節)は、1-11節をまとめたような意味があります。これは何よりもイエスご自身に当てはまることばですが、それが私たち自身への呼びかけになりました。

多くの人は他人と比較しながら、自分を「みにくいあひるの子」のように見ています。しかし、「キリストのうちにある」という真のアイデンティティーは、今は隠されていても、やがて必ず明らかにされます。そのことが、「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある・・」(3:3)と述べられました。これは、あなたの地上の生涯をひとことで表わすものです。

私たちはすべて、「本当に私は、神に愛され、生かされて、生きていた。自分の人生には意味があったのだ・・」と感謝できる時が来ます。今、あなたは、「造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、(神と自分に関する)真の知識に至る」(3:10)というプロセスの中に置かれているからです。

確かに自分の歩みを振り返ると、「申し訳ありません!」と言いたくなることばかりが目につきます。そればかりか、自分が善意で頑張ったことが、人から居場所を奪ったり、劣等感を感じさせることにつながっているなどという現実に目が開かれると、居たたまれない気持ちになります。しかし、そんな私が、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」と呼ばれているのです。

神はそれでも、欠けだらけの私をご自身の計画のために用いて下さるからです。確かに、私は人に様々な迷惑をかけはしますが、それを益に変えてくださる神がおられます。

その上で、パウロは、「身につけなさい」と命じます。これは12-14節までのすべてを支配するたった一つの命令形の動詞で、14節の「これらすべての上に愛を・・・」にまでかかります。それは、「新しい人を着た」(10節)と言うのと同じ動詞であり、すでに霊的に起こったことを目に見える形で表わすことの命令です。

私たちはすべて、キリストの生き方を身につけるように命じられています。それが「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」(12節)であり、また「互いに忍び会い、主があなたがたを赦して下さったように、互いに赦し合う」(13節)ことです。ひとつひとつの徳目は、ある意味で、どの道徳でも宗教でも大切にされていることです。

しかし、「愛」こそがキリストの生き方そのものであり、これらすべての徳目を統合し、人と人とをキリストのからだとして結びつける「結びの帯」(2:19では「筋」、または「じん帯」と訳された)だというのです。「愛」は、共同体として表現されるものです。

なお、「愛は結びの帯として完全なものです」とは、「愛こそは完全さをもたらす(からだの各器官を結びつける)じん帯です」とも訳すことができます。

たとえば効果的に走ることができるために、ひざのじん帯を強める必要がありますが、そのために大切なのは、グルコサミンやコラーゲンを含んだ栄養を補給することと合わせて、適度な負荷をかけた筋肉トレーニングです。私たちは愛の訓練をこの教会の交わりの中で行うことができます。

私は以前、栄養補給のことを中心的に考えてきましたが、適度な負荷をかけた訓練が「結びの帯」としての「愛」の成長のために大切だと示されました。

肉の家族も神の家族も、互いに愛することを学ぶための学校と定義することができます。肉の家族を通して受けた傷が、神の家族の中で癒されますが、その際、キリストのからだの中で新たに傷を受けることがあっても、キリストご自身が責任をもってくださるので心配ありません。

2.「詩と賛美と霊の歌をもって、互いに教え、戒める」

パウロは、引き続き、個人主義的な文化的背景を持つギリシャ人に、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです」(15節)と言い替えています。

「支配するようにしなさい」という命令形は、先の「身につけなさい」と並行関係にある命令形です。心の「平和」は、何よりも目に見える共同体が「一体となっている」こととして表現されます

そして、三番目の命令形として、「感謝の心を持つ人になりなさい」と記されます。これはパウロがこの手紙で最初から強調していることです。自分たちや人の欠けを見る前に、互いを「キリストにある者」として見ることがすべての感謝の根拠になります。

パウロはその上で、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい」(16節)と命じます。それはたとえば1章15-20節に記されていたようなキリスト賛歌を暗唱し、自分の心の中に豊かに住まわせ、いつでも口から出るように備えることです。

そのための方法が、「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」ることですが、文法的には、「詩と賛美と霊の歌」は、「神に向かって歌う」以前に「教え、戒める」ことにかかると解釈する方が自然だという見方もあります。最近のフランシスコ会訳では「あらゆる知恵を用い、恵みによる詩編や賛美の歌、霊的な歌をもって互いに教え、忠告し合い、神に向かって心から歌いなさい」と訳されています。少なくともルターに始まる宗教改革の伝統の中ではそのように解釈されてきました。それは、エペソ書で「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り」(5:19)となっていることからも明らかです。

ですから、様々な賛美の歌の中心的な使命は、神に向かって歌うという以前に、「キリストのことばを豊かに住まわせる」ことにあったのです。讃美歌のいのちは、歌詞にあります。メロディーは何よりも歌詞を伝える媒体であるということを忘れてはなりません。現在ルターの説教を聞くことができませんが、彼が作った讃美歌は、キリストのことばを力強く伝えてくれます

ここで「詩と賛美と霊の歌」を、もとの「聖歌」の版に見られる区分のように詩篇歌、伝統的な礼拝讃美歌、聖会でのリバイバル聖歌のように機械的に区分することには疑問がありますが、聖書の伝統では、聖書の教えを理性的論理的に語ること以上に、詩や音楽を通して心の奥底に響かせるということが大切にされてきました。詩や歌は、人の感性を通して心に語りかけるからです。

そして、「詩と賛美と霊の歌」は、「結びの帯(じん帯)」としての「愛」を育てる最高の栄養です。それは暗唱され、いつでもどこでも口づさむものです。

そして、「感謝にあふれて心から神に向かって歌う」ことは、「キリストのことば」である聖書の真理が、「詩と賛美と霊の歌」によって「豊かに住まわせ」られた結果として必然的に起こることです。

自分で自分を元気付けようとするのはこの世の宗教であり瞑想テクニックです。しかし、私たちはみことばを心に豊かに住まわせた結果として、神のみことばによって、身体全体で喜びにあふれて「神に向かって歌う」ということが可能になるのです。

神への賛美は、神の側からの愛の語りかけから始まります。神は、ひとりひとりに向かって、「何を心配し自己嫌悪に陥っているのか?このわたしがあなたを選び、あなたの名を呼んだ。あなたはすでに聖なる民だ。わたしはあなたを愛している。」と歌ってくださっています。

しかも、しばしばそれは、私たちが神への愛のゆえに傷つく時、特別に大きく心の底に響いてきます。それは「愛」という「結びの帯」(じん帯)の力を鍛え、キリストのからだとしての教会を建て上げるために不可欠なプロセスです。

このようにして、キリストの愛が、しっかりと自分の身に着き、兄弟姉妹と結び合わされなら、そこに心からの神への感謝の歌が生まれます。そのためにこそ、日頃から、「詩と賛美と霊の歌」をじっくりと味わい心に刻み付けましょう。

3.「すべてを主イエスの名によってなしなさい」

「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」とありますが、この命令形の中心は、「すべてを主イエスの名によってなしなさい」ということにあり、「主によって父なる神に感謝しなさい」ということばは、それを修飾する分詞です。

昔から「名は体を現わす」などというように「主イエスの名によって」とはイエスを主と告白し、イエスに習った、この地におけるイエスの代理としての生き方を現わします。

そしてそこにはイエスの「父なる神に感謝する」ことが伴われます。これは生活のすべてが、神への礼拝となることを意味します。

つまり、ひとりひとりが、キリストのことばを豊かに住まわせた結果として、兄弟姉妹が愛によって結びつけられ、そこに日曜礼拝における、神への心からの感謝の歌が生まれ、それがまた、それぞれの日常生活を、神への感謝の礼拝となるように変えて行くのです。

そして、それが18節からは「夫と妻の関係」として、20節からは「親と子の関係」として、22節からは「奴隷と主人との関係」として描かれます。つまり、17節の勧めは、3章18節から4章1節まで記される人間関係の基本になる教えなのです。

マルティン・ルターはキリスト者の自由の書き出しで、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者はすべてのものに奉仕するしもべであって、何人にも従属する」という逆説的な命題を掲げています。これこそ、この箇所の要約と言えましょう。

そして先に記されていたように、「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです」(3:3)とは、私たちが、この地上的なアイデンティティーから自由に生きるためのキーワードです。

「妻たちよ・・・夫に従い(夫の下に置き)なさい」(18節)とは、男尊女子ではありません。ここでは、「主にある者にふさわしく」が鍵です。自分が「キリストにあって満ち満ちている」(2:10)ことを味わっているなら、自分を人の下に置く心の余裕を持つことができます。

それは自分をドア・マットのように踏みつけられるのに任せるという意味ではなく「自分を卑しくし、死にまで、実に十字架の死にまで従われた」(ピリピ2:8)キリストの姿に習うことです。神は女性に対し、キリストの姿に習う姿勢での主導権を取るように期待しておられるのです。

夫が妻に従って悲劇が起こりました。アダムは、妻が取ってくれた木の実を食べて神に背き、知恵に満ちたソロモンも異教の妻たちの影響で「心が移り変わり」(Ⅰ列王記11:9)ました。

悪女の代表イザベルは「アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イザベルが彼をそそのかしたからである」(Ⅰ列王記21:25)と記されています。

男性は一般的に、仕事に生き甲斐を見出し、常に問題解決に心を傾けがちですが、感情の交流に不得手で、非常な傷つきやすさを隠しています。女性が男性のもろさを理解し、妻が夫を上に立てるとき、男は与えられた能力以上の働きをし、極めて生産的になることができます。

これと並行して、「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たっては(苦しめ、しいたげては)いけません」(19節)と命じられています。これは夫に対し、妻を保護するばかりか、その必要に真剣に応えるように命じたものです。

「善悪の知識の木の実」を取って食べた後の夫と妻は「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配する」(創世記3:16)という関係になりました。これは、妻が夫を悪に誘惑する(恋い慕う)かもしれませんが、夫は妻を肉体的精神的に破壊してしまう可能性があることを示しています。

多くの妻は夫との感情の交流を求めていますが、夫にとって、妻の話しを聞くことは時間の無駄としか思えない傾向があります。

ペテロは夫に妻のことを「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい」(Ⅰペテロ3:7)と命じています。「愛し」また「尊敬する」ことは何よりも、妻の話しに耳を傾けることを意味します

女性は、愛の交わりを男性以上に大切にする傾向があるため、しばしばキリストの愛を実感することにおいて男性に勝ります。

ですから、多くの教会での成長のパターンには、妻が家庭集会等で信仰に導かれ、その妻の変化を見て夫が信仰に導かれるというものが多くあります。これから結婚を考えている方は、このような夫と妻の関係を築くことができると思う人を選ばなければなりません

「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい(聴従しなさい)」(20節)とは、何よりも神への信仰が親から子へと受け継がれることを願ってのことです。イスラエルの民は、「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい」(申命記6:7)と、みことばを子どもの心に擦り込むことが命じられていました。

信仰の継承は土地の継承の前提としての絶対命令でした。そのため、神を恐れることと親を敬うことは一体でした。

しかも、この「従う」は「聴く」が元になっており、子が親のロボットになる勧めではありません。子が親の人生の中で学んだことに真剣に耳を傾けることがなければ、人間は同じ過ちを繰り返してしまうことになります。

「それは主に喜ばれること」とは、子が親に従う前提ですから、親の不信仰や偶像礼拝に従うことは本末転倒です。それにしても、親の人生に真剣に耳を傾けることは、親に従うことの始まりです。それは、何よりも主に喜ばれることであり、また不信仰な親をも主に喜ばれる者に変えていただく始まりです。

「父たちよ。子どもをおこらせ(侮辱し、けなし)てはいけません。彼らを気落ちさせないためです」(21節)とは、上記の命令の裏返しです。親は、神に習い、力によってではなく、愛によって子どもを従わせる責任があります。

その際、何よりも避けるべきなのは、無価値観を植え付けることです。「おまえが生まれてしまったおかげで・・」とか、「おまえは間違うから、代わりに決断しよう」などという親によって、子の人格が傷つけられます。

「気落ちする」とは、生きる力がなくなることを意味します。親は、子どもを力で抑えこむ代わりに、ほめて励ましながら、善悪を植え付ける責任があります。

その模範は、父なる神ご自身です。父は、子どもの失敗を見守り、しかも励ます忍耐を、父なる神ご自身から学ぶことが求められております。

「奴隷たちよ・・」とは、現代のサラリーマン、何らかの組織の中で働くすべての人に適用できる勧めです。当時、労働は奴隷の責任でした。その際、主人の前では熱心に働き、いないところでは怠け、叱られない程度に仕事をするという誘惑がありました。

それに対して、「主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(22,23節)と命じられます。

「従いなさい」ということばは、子供に向けての勧めと同じ言葉で、大切なのは、「聴く」ことです。つまり、ただ単に、上司の命令に従うというよりも、上司の身になって、その心の声を聞こうとすることが大切です。

しかも、仕事を、上司から命じられたもの以上に、神から与えられた使命と受けとめ、上司ではなく、神の評価を心に留めながら働くことです。

そして、「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています」(24節)とは、当時の奴隷の心に響くことばでした。奴隷は財産を所有することができませんでしたが、神は奴隷に相続財産を与え、自由人としてくださる方であると約束されていたのです。

これは基本的に来たるべき新天新地でのことを意味しましたが、それが「絵に描いた餅」ではないことを、神は、今の世でも、豊かに示してくださる方なのです。

なお、地上的には、報酬を与えるのは雇用者の責任ですが、ここでは、究極的に報酬を与えてくださるのは主ご自身であるという意味を込めて、「あなたがたは主キリストに仕えているのです」と記されます。

これは仕事の姿勢すべてを貫くべき発想です。あなたの「主」は、上司である以前に、「キリスト(救い主)」ご自身なのです。

「不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます」(25節)とは、奴隷に対する警告である以上に、横暴で不当な主人の下で苦しむ奴隷すべてにとっての慰めです。

「それには不公平な扱いはありません」とあるように、あなたが、横暴な主人の抑圧を覆そうと戦わなくても、神ご自身がさばきを下してくださるからです。

「主人たちよ・・奴隷に対して正義と公平を示しなさい」(4章1節)は、画期的な勧めです。聖書は、奴隷制を廃する前に、奴隷を作り出す人間の心を変えようとします。歴史を見ると、共産主義のように、抑圧される者の解放のために戦った当人自身が最大の抑圧者に変わるという人間の罪深が確認できます。

しかし、すべての地上の主人を見張っている全能の神がおられます。そのことが、「あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから」と描かれます。

「天におられる」とは、天国ではなく、目に見えない神のご支配の現実を指しています。

詩篇34篇15,16節では「主(ヤハウエ)の目は正しい人を顧み、その耳は彼らの叫びに傾けられる。主(ヤハウェ)の御顔は悪をなす者に立ち向かい、彼らの記憶を地から消し去る」と記されています。

私たちは何かをするときに、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として」という自覚をどれだけもっているでしょうか。「馬鹿にされてたまるか・・・」というような動機では、キリストの姿にならうことはできません。

私たちはもっと、自分を責める前に神の子とされた誇りを身に着けるべきではないでしょうか。

妻も子も奴隷も自分の権利を守るために戦う必要はありません。夫や父親や主人も「私たちのいのちであるキリストが現われる」(3:4)ことを意識するなら横暴になることはできません。それはさばきのときでもあるからです。しかも、自分の「いのちが、キリストとともに、神のうちに隠されてある」という霊的現実を思うことは、私たちに真の誇りと余裕を与えます。そして、互いを自分よりも勝った者と認め合い、仕え合うことを可能にします。