コロサイ2章6〜23節「キリストにあっての満ち満ちた歩み」

2013年6月2日

「クリスチャンは、こんな場合どう振舞ったら良いのでしょう?」と質問されながら、ふと「そんな外面的なことより、もっとキリストとの生きた交わりを意識して欲しい」と思うことがあります。イエスは、あなたの教会生活ばかりか、仕事や家庭、日常生活に深い関心を持っておられます。

教会内の活動に忙しすぎて、矛盾に満ちた世界に「遣わす」という観点が弱すぎる教会もあるかもしれません。遣わされるためにこそ、キリストご自身との、また、信仰者との「生きた交わり」が固くされる必要があります。

それにしても、最近の凶悪犯罪者の報道を見ながら、加害者である彼らが、いかに深い被害者意識に動かされているかに驚きました。

「満たされない」という思いは何と危険なことでしょう。ただ、それをハウ・ツー式に、「このようにしたら、満たされる」と考えることも危険です。信仰の成長にインスタントな方法はないからです。

1.「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです」

6、7節の核心は、「キリストにあって歩みなさい」です。イエスこそが「主」であることを、日々の生活の中で体験するようにとの勧めです。「根ざし、建てられ、信仰を堅くされ、感謝しなさい」も、「歩みなさい」を修飾する分詞として記されています。

つまりこれは、週日の日常生活の中で、自分が既に、キリストの愛に深く根を張らせていただき、その交わりのうちに建てられ組み合わされて、教えられながら信仰が堅くされ、キリストのいのちが感謝のうちにあふれ出るという、キリストにある歩みの幸いを体験するようにとの励ましと理解できます。

これは、深く高い山の中を歩く前に、どのように楽しむことができるか、またどのような危険に注意すべきかの講習を受けるようなものです。喜びは、歩んでみなければ分かりません。

その上で、パウロは、「注意しなさい」と命じます(8節)。その目的は、「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬように」ということです。なぜなら、彼らを「二流クリスチャン」かのように扱うユダヤ主義者の教えが広がっていたからです。

「だましごとの哲学」と呼ばれるのは、当時のギリシャ語では、信仰も「哲学」の一部と見られたからです。その特徴は、旧約聖書の核心部分を忘れて、それを「人の言い伝え」のような規則集にしてしまうことでした。

それはまた、「この世に属する幼稚な教え」によるものと説明されます。この「幼稚な教え」は原文では「元素」と記されており、新共同訳は「世を支配する霊」と訳しています。つまり、ユダヤ主義者の言っていることは、神の教えのように見えながら、この世的なハウ・ツーの教えの延長に過ぎないというのです。

現在も、聖書の教えを「このように行動したら、このような祝福を得られる」式に理解する人々が多くいます。

ところで、当時は、各民族や各都市ごとに異なった神々があり、民族の戦いは、彼らの神々の戦いと見られがちでした。そして、聖書の神、ヤハウェは、肉的なアブラハムの子孫であるユダヤ人だけの神と見られていました。それで、ユダヤ主義者は、既に「キリストのうちにある者」に、ユダヤ人になる儀式としての割礼を受けるように誘惑していたのです。

それに対し、パウロは、キリストこそが万物の創造主であり、すべてを保っておられ、すべてが主ご自身に向けて造られていると語りました(1:15-17)。ですから、キリストのうちには「神の満ち満ちたご性質が」、この地で目に見えるように「形をとって宿っている」(9節)のです。

そして、私たちは、その満ち満ちた「キリストの中に」既に移されているので、私たち自身も、「キリストにあって、満ち満ちている」(10節)というのです。

そして、「キリストは、すべての支配と権威のかしら」として、すべての上に立っております。キリストこそ、「王たちの王、主たちの主」(黙示19:16)なのです。それはあのオラトリオ「メサイヤ」の有名なハレルヤ・コーラスで歌われているとおりです。

私は昔、深い敗北感を味わっていた時、これを聞きながら深く慰めを受けたことがあります。

物事が期待通りに進まなかったりして敗北感を味わい、自分を二流クリスチャンのようにしか思えないことがあるかもしれません。

しかし、私たちは「キリストにあって」、既に、すべての富と力を約束されており、必要なものはすべて与えられているのです。

神が私たちに、敢えて貧しさを体験させるとしたら、それは訓練のためです。それは、既に王子や王女の地位を保証されている者が、王様から敢えて丁稚奉公に出されていることに似ています。

神の救いのご計画の全体像が見えるとき、痛みや苦しみの中にも喜びを見出すことができます

2.「キリストにあっての割礼、バプテスマ」

「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました・・」(11節)で、「キリストの割礼」とは「バプテスマ」(12節)を指します。ユダヤ人は、男性器の包皮の肉を切り取られることでアブラハムの子孫として受け入れられましたが、彼らギリシャ人も、洗礼によって同じ「神の民」として公に受け入れられるというのです。

それは「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです・・・それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(ガラテヤ3:27-29)とある通りです。

「肉のからだを脱ぎ捨て・・・」というのは、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」(ガラテヤ3:28)と記されているように、血肉によるアイデンティティーを超えて、神の民とされることを意味します。

私たちは、洋服を着るように、自分が持っている資格や学歴、社会的な地位などの、肩書きを身に着けています。誇れるものがないと、自分の居場所がないように思えます。

しかし、私たちは何よりも、キリストをその身に着ているということに誇りを感じるべきなのです。それは、しばしば「天国人とされた」とも言われますが、キリストの再臨によって実現する「新しいエルサレムの市民」とされているという意味です。

なお、バプテスマは、「キリストとともに葬られ・・キリストとともによみがえらされた」(12節)ことの象徴ですが、私たちは「キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる」ことによって、与えられた信仰によって、まだ復活にあずかっていないにも関らず、既に死に勝利した者として、来たるべき「新しい天と新しい地」のいのちを、今から生きることができているのです。「永遠のいのち」とは、そのことを意味するのです。

また、「あなたがたは罪(罪過)によって、また肉の割礼がなくて死んでいた者なのに」(13節)とは、異邦人たちが自分の罪ばかりか、神の選びを受けていない民として「望みもなく、神もない人であった」(エペソ2:12)状態を描いたものですが、「神はそのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくだいました」というのです。

12,13節で「キリストとともに」と三回繰り返されていることに注目したいと思います。それは、キリストにつながることによって、キリストの死と復活が既に自分のものとされ、肉体が衰え死んで行くようでありながら、天にいるキリストと一体とされた祝福に満ちた勝利の人生を、既に「歩む」ことが可能になったという意味です。

ですから、私たちがこの地で様々な苦しみに会うとしても、それは十字架で死んでよみがえられたキリストとともに歩む人生の一部であって、そこには必ず「脱出の道が備えられています」(Ⅰコリント10:13)。

多くの人々は、苦しみを恐れる余り、キリストにある冒険の人生に歩みだすことができません。しかし、パウロは、自分の苦しみを「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」(1:24)と断言し、誇りと感動に満たされて歩んだのです。

3.「債務証書は無効になり、すべての支配と権威の敗北は決まった」

聖書には、守るべき「定め」(14節)が数多く記されています。それを聞くたびに、私たちも負い目を感じざるを得なくなります。それをパウロは、「私たちを責め立てている債務証書」と呼びました。それは、まるでサラ金業者に追われている人の気持ちに似ています。わずかの額だと思ったのに、調べているうちに次々と増えて来て、死を覚悟せざるを得なくなります。

しかしキリストは、私たちに代わって借金を支払い、この「債務証書を無効にして」くださいました。「十字架に釘づけにされる」とは、支払いが終わった証書に穴が開けられて処理される様子を現しています。

ただし、これはひとつのたとえですから、人間的な理屈で、神を借金取りとして誤解しないようにと、私たちの罪を赦してくださる主体は、キリストである以前に神ご自身であることをパウロは注意深く記しています。

父なる神を裁く神、子なる神を赦す神と分裂させて見る人がいますが、それは決定的な誤りです。神は、キリストにある者に「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)と語りかけておられます。

なお、人間的な目に、十字架は、イエスが当時のユダヤ人やローマ人の世の支配者たちの力に屈服して殺されたしるしに見えます。しかし、それこそ、「キリストこそが、すべての支配と権威のかしらである」ことを反対に証しする機会となりました。

主の復活は、彼らが武装解除されたしるしでした。彼らは「俺たちに屈服しなければ殺す!」と脅しますが、「キリストにある」者のいのちを奪うことはできません。かえって、彼らの無力さが顕にされるだけです。

「彼らを捕虜として凱旋行列に加える」とは、戦争報道がなかった当時の将軍が、勝利の証しのために敵からの分捕りものや敵の支配者たちをさらしものにすることのたとえです。イエスの復活は、彼こそが、この地で、唯一恐れられるべき真の支配者であること証明したのです。

人間的に見ると、キリストのためにパウロほどの苦しみに会った人はいないかもしれません。しかし同時に、彼ほど「キリストにあって」自分が「満ち満ちている」ことを味わった人もいないことでしょう。彼はそれを次のように述べています。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう・・神に選ばれた人を訴えるのは誰ですか。神が義と認めて下さるのです。罪に定めようとするのは誰ですか。死んで下さった方、いやよみがえられた方であるキリスト・イエスが・・・とりなしていてくださるからです・・患難・・苦しみ・・迫害・・剣・・の中にあっても、私たちは圧倒的な勝利者となっているのです」(ローマ8:31-37)。

4.「本体はキリストにある」のに、その「かしらに堅く結びつくことをしません」

「こういうわけですから・・」(16節)とは、8-15節の説明を踏まえて、キリストにある新しい民としての具体的な生き方の勧めです。ユダヤ主義者はギリシャ人を中心としたコロサイ教会に、モーセ五書をベースにしていると言われる「食べ物と飲み物・・祭りや新月や安息日」の「言い伝え」を守っていなければ神の民としてふさわしくないと「批評」(または「裁いて」16節)していましたが、それに対し、パウロは、彼らの主張に耳を傾けてはならないと命じました。

ただし、パウロは、聖書に記された食べ物や祭りの規定を否定したのではなく、「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにある」(17節)と表現しました。

イエスご自身が、「わたしが来たのは律法や預言者を・・廃棄するためではなく、成就するために来た」(マタイ5:17)と言われたからです。

神は、ユダヤ人を偶像礼拝の民から分離し、神の民として整え、彼らによって世界を救おうとされました。しかし、今や、ご自身の御子キリストによって直接に、新しい神の民を創造してくださいました。

それによって、ユダヤ人を他の民族から分離する規定は必要なくなったのです。

パウロは、まず最初に、ユダヤ主義者たちに「ほうびをだまし取られてはなりません」(18節)と警告します。それは、競技の勝利者が、後でルール違反として失格を宣告されることがあったように、キリストにあっての勝利を無効と宣言する人がいたからです。

しかし、彼らこそ、「ことさらに自己卑下をしたり」して肉体の必要を軽んじたり、「御使い礼拝したり」する失格者です。私たちは「御使いをもさばくべき者である」(Ⅰコリント6:3)のに、人間の立場を卑屈にとらえ、御使いをあがめてはなりません。

また「彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り」とは、同じ人たちの別の問題で、御使いに憧れるあまり、何かの恍惚体験を人間的に誇ってしまうことです。そして、彼らに共通するのは「かしらに堅く結びつくことをしない」(19節)という問題です。

これは現代にも起こり得ることです。与えられた理性や感性を軽視して、恍惚体験や超自然的な語りかけを求めたり、この世との分離ばかりを強調する人々がいます。

彼らはしばしば、霊的な自己満足に陥ります。しかし、イエスは「心(霊)の貧しい者は幸いです」(マタイ5:3)と言われました。それは、この世で傷つき、苦しみ、イエスに堅く結びつくことを切望する者への幸いの約束です。私たちは渇いた結果として満たされるのであり、渇くことを最初から避けてはなりません。

ただし、私たちは、万物の創造主であるキリストと結びついており、「万物を成り立たせている方」(1:17)が、ともに歩んでくださるのですから、恐れ退く必要はないのです。

5.「関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられる」

「このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされ」(19節)とありますが、私たちはひとりひとり、からだの一器官としてキリストにつながります。

その際、「関節と筋(じん帯)」という各器官を結びつける機能が大切です。それは、各器官が摩擦を起こさないためのクッションとなり、堅い骨と骨を組み合わせ、驚くほど柔軟な身体にします。その負担が余りにも大きいため、人間の身体の衰えや故障は、この部分に際立って現れます。

その鍵を握るグルコサミンやコラーゲンは年齢とともに不足しますが、キリストのからだでは異なります。

「愛こそ結びの帯」(3:14)と言われますが、これは「愛こそ(器官を結びつける)じん帯です」という意味です。そして、「愛」は、「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント4:16)とあるように、信仰の歩みの年を重ねるほど、豊かにされてくるものです。

私たちは、各器官それぞれの機能に注目しがちですが、各器官を互いに結びつけながら頭の指令を伝えてそれぞれを動かし、また栄養を器官から器官へと伝えるのは、この「関節とじん帯」の働きです。これこそ神の奇跡です。

エペソ書で「からだ全体は、備えられたあらゆる結び目によって、組み合わされ、結び合わされる」(4:16)と言われる「結び目」がここでは「関節」と訳されています。それは独立した器官としてではなく、各器官に備えられた「結び目」として描かれています。

つまり、まとめ役や潤滑油的な存在によって人と人とが組織的に結びつくというのではなく、それぞれが主体的に他の器官に結びつくことで、身体として成長するというのです。

「人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、本当は、無意識の中で、愛することを恐れているのである」(エーリッヒ・フロム)とも言われますが、私たちのうちに愛を起こしてくださるのはキリストの愛です。ただし、それは天から直接に降ってくるのではなく、からだの器官から器官へと伝えられるものです。

ですから、「ぶつかると痛いから・・」などと、交わりを避けることは自殺行為です。神は、ご自身のからだに属する者に、みことばの説教や黙想、聖徒との交わりを通して、豊かな愛を注ぎ、あなたに備えられた「結び目」を強めてくださいます。

それが、「神によって成長させられる」という意味です。これは厳密には、「神の成長によって、成長する」と記されており、「神が成長させてくださることによって成長する」とも訳すことができます。

6. 禁止命令は、肉のほしいままな欲望には何の効き目もない

「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら・・」(20節)とは、「すでにキリストとともに死んでいる」ということを前提として、8節にあったような「この世の幼稚な教え」ハウ・ツー式の、神の民としての生き方をユダヤ人の慣習に結びつけるようなものから自由になることの勧めです。

その中心は、「すがるな(つかむな)、食べるな、さわるな」(21節)などのような、この世の汚れから分離させるための禁止命令です。

それに対して、パウロは、「そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって・・」(22節)と、彼らの目を、地上的な次元での分離のことから、天の神との永遠に消えることのない交わりへ向けさせます。

「そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、(偽りの)謙遜とか、または肉体の苦行のゆえに賢いもののように見えますが」とは、肉の思いを制するための工夫を凝らした、謙遜ぶった礼拝儀式のことを指しています。

たとえば、日本の宗教にも様々な荘厳な礼拝儀式があり、それぞれに由緒ある知的な根拠が説明されたりします。しかしそれは、「肉のほしいままの欲望に対しては、何のききめもない」(23節)というのです。

私たちが真に目を向けるべきことは、人と人との愛の交わりを破壊するような傲慢さとか、怒りやねたみ、争いの思いではないでしょうか?しばしば、宗教的な儀式が、人の優越感を満足させることにしかならない場合さえあります。

イエスの弟子たちが、言い伝えの方法で手を洗わずパンを食べたとき、ユダヤ人の宗教指導者はそれを非難しました。それに対してイエスは、「外側から人にはいって人を汚すことができる物は何もありません。人から出てくるものが、人を汚すものなのです」(マルコ7:15)と反論してくださいました。

それは、私たちが注意しなければならない「汚れ」とは、外に現れることではなく、心の内側のことであるという意味です。その問題は、この世からの分離によってではなく、イエスと結びつくことによってしか解決できないことなのです。

イエスは、律法の核心を、「・・してはならない」という禁止命令よりは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神を愛せよ」また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という積極命令として表現しました(マタイ22:37,39)。

それは、当時の宗教指導者が、禁止命令の背後にある神のみこころを誤解していたからです。神ご自身が、恋人の愛にも勝って、罪人である私たちとの交わりを求めておられます。

母親が乳飲み子の微笑みを何よりも喜ぶように、神は私たちが自分の能力や正しさを示すことよりも、愛の応答を喜ばれるのです。

パウロは、ユダヤ的な分離主義者を批判しましたが、同時に「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)とも勧めています。

地の塩、世の光」として生きることは、世からの分離と世との協調との狭間で生きることです。自分でバランスを取ろうとすることは至難のわざですが、私たちに求められているのは、何よりも、キリストとの交わりを深めることです。

主が世に遣わされたから、私たちも遣わされるのです。私たちも確かに、この世との分離が必要な場面がありますが、それは主との交わりを深めるという目的に照らして考えるべきことです。