コロサイ4章2〜8節「キリストの奥義を味わう交わり」

2013年6月23日

あなたはクリスチャンの特権を十分に味わっているでしょうか?「いつくしみ深き」の原歌詞では、「何というすばらしい友をイエスにあって私たちは持っていることでしょう。彼こそは私たちの罪と悲しみを担ってくださる。すべてのことを祈りのうちに神に持って行けるのは何という特権でしょう。私たちがしばしば平安を失い、不必要な痛みを担ってしまうのは、祈りのうちに、すべてのことを神に携え行こうとしないからです」と歌われています。信仰の喜びは、神との交わりのうちにあります。それはまた目に見える信仰者との交わりを伴うものです。

1.「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」

パウロは結論的な勧めとして「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」(2節)と命じますが、この中心動詞は厳密には、「祈りに専念しなさい」(使徒1:14参照)と訳すことができます。人は常に何かに「専念」する傾向がありますが、何をもって心を一杯にしているかが問われます。ふたりの関係では、互いが相手の心の中にあることに気づくことが交わりの鍵となるように、神の御思いを知ることが祈りの始まりです。

キリスト者とは祈る者です。イエスは常に父なる神と対話し、御父は御子イエスにすべてをまかせ、御子は御父の願いをご自身の願いとしておられました。私たちは、その愛の交わりの中に、御霊によって招き入れられました。それは、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ローマ8:15)と記されている通りです。

あなたは今既に、イエスの弟、妹とされ、その傍らに置かれ、イエスの父を自分の父として祈っています。それを、心の奥底で導くのが御霊です。三位一体の奥義とは、このように御父、御子、御霊の愛に取り囲まれた生活に現わされます。祈りは何かを得るための手段であるよりは、完成に向かって成長する交わりです。愛し合うふたりが向き合って食事をしている時、会話自体を楽しんでいることは、誰の目にも明らかです。同じように、イエスの父なるかに向かって「アバ、父」と呼ぶ祈りの交わり自体の中に信仰者の最高の喜びがあります。

ここでは、「その中で、目を覚ましつつ」(私訳)と付け加えられます。イエスはゲッセマネで、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ26:41)と言われました。この地上には様々な誘惑があり、祈りの中で目を覚ましていなければ、すぐに罪の誘惑に負けてしまいます

さらに原文の順番では、「感謝のうちに」と続きます。「祈りの課題」は、「何か不足していること」を指すのでしょうか?それでは、その課題が深刻なほどに、それは公にできないという逆説が起こります。不足ばかりに目が向かうと心が病みます。ですからパウロの最大の祈りの課題は、コロサイの人々が日々の歩みの中でキリストにある救いの豊かさを心から味わい「父なる神に喜びをもって感謝をささげることができ」ること(1:12)でした。

ミシェル・クオストは、「生活のすべてが祈りとなる」で、「一万円札の前の祈り(百フラン札の前の祈り)」を記しています。彼は、お札に秘められた様々な人生を思いながら、その重さを思い浮かべます。それが人の人生を狂わせ、また幸せをもたらしてきたことを……。そして、「お金を贖う」ための祈りを次のようにささげます。

「主よ、ご覧くださいこのお札を。私はぞっとします。あなたはご存知でしょう。その秘密と、その歴史を……
それは人の死を担っているのです。それを数時間手にするために、自分を殺した哀れな人たちの死を……
主よ、このお札は、その無言の長い旅路で、いったい何をしてきたのでしょう……
それは、明日の食卓にパンを載せるために使われたでしょう
若者たちに笑いを起こし、年寄りたちを喜ばせたことでしょう……
しかし、それは死産の胎児の手術代にも使われたことでしょう
飲んだくれの酒代にも……犯罪の凶器を買うためにも使われて来たことでしょう……
主よ、私はこのお札を、その喜びの秘め事とその悲しみの秘め事と共に、あなたの前にささげます。
それがもたらした生きる喜びのゆえに感謝をささげ、
それがなした悪徳のゆえに、あなたの赦しを乞い求めます。
しかし、主よ、それにもまして、私はそれを人間のあらゆる労苦のシンボルとしてあなたにささげます。
それはやがてあなたの永遠のいのちにもあずかって、不滅の宝に変えられて行くでしょう。」

実は5節に記された、「機会を十分に生かして用いなさい」(5節)という表現は、厳密には原文で「時を贖いながら……歩みなさい」と記されています。私たちは、お金と時間に追われながら生きています。それはサタンの手から解放される必要があるのです。お金は大切ですが所詮、道具です。私たちは「……の必要が満たされますように」としばしば祈りますが、その際、祈りを手段に、お金を目的にする思いがないでしょうか?

お金のために祈る人は多くても、それを用いて神と対話する人は少ないように思います。何よりもこの祈りの素晴らしさは、「目を覚ます」ことと「感謝を持つ」ことの両方が入っていることです。

2.「私がこの奥義を当然語るべき語り方で、はっきり語れるように祈ってください」

パウロは「同時に、私たちのためにも祈ってください」(3節)と願いました。手紙の始まりで、「私たちはいつもあなたがたのために祈りながら感謝をささげています」(1:3私訳)と語った彼は、この手紙の読者にも、パウロと同労者のために同じことをするように求めたのです。しかもその課題は、投獄されているパウロの身の安全のためという前に、「神がみことばのために門を開いてくださる」ことでした。それは、理性や努力が人を変えるのではなく、「福音の真理のことば」自体が「実を結び、広がり続け」、人に救いを与えるからです(1:5,6)。そして、彼は、「みことば」を「キリストの奥義」(3節)と描き、それを「語れるように、祈ってください」と願いました。

「奥義」とは、原文ではミュステリオン(英語のmysteryの語源)と記され、「以前は隠され、今明らかにされた真理」という意味です。それは多くのユダヤ人には、律法を軽んじて民族の独自性を失わせる異端の教えと聞こえました。その結果、「この奥義のために、私たちは牢に入れられています」という事態に至ったのです。

しかも、彼は、「私がこの奥義を当然語るべき語り方で、はっきり語れるように(原文「明らかにすることができるように」)祈ってください」(4節)と付け加えました。自分の身の安全や聴衆の反応などは問題ではなく、正確に伝えられることこそが課題でした。それは彼の立場をますます悪くすることではありましたが……。

「キリストの奥義」とは、特に1章13節以降の「キリスト賛歌」に現されますが、私たちの救いとは、御子のご支配の中に移されたことであり、その御子は創造主であるとともに、新しい神の民のかしらであり、また贖い主だというのです。ここでは、「万物は、御子によって(through)、御子のために(into) 造られているのです。御子は万物の先に存在し、万物は御子にあって(in) 成り立っています。そして、 御子は そのからだである教会のかしらです」(16-18節)と、キリストの神としての権威と力が高らかに歌われています。そして、パウロはすぐにこれを私たちの期待をはるかに上回る形で、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(1:27)と言い変えます。奥義とは、「キリストのうちに」と、「キリストが私たちのうちに」の両面を指すのです。

自分自身ばかりか、仕事や家族、置かれている環境のすべてを、「御子にあって、御子によって、御子のために」という枠で見直す時、そこに何とも言えない平安と喜びが生まれます。また、自分の弱く罪深い現実を見ながらも、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」という「奥義」に思いを向けるときに、復活の希望に満たされ、生きる勇気が湧いてきます。パウロはこのような奥義を心から味わっていたからこそ、自分の身の安全より、「キリストの奥義」が語られることを何よりも望みました。祈りは常に相互交流であるべきです。牧師はひとりひとりのために祈っていますが、同様に牧師が「キリストの奥義をはっきり語れるように」お祈りください。

3.「外部の人に賢明にふるまう」とは?

5節では、「外部の人に賢明にふるまい……なさい」とありますが、これは厳密には、「外部の人に対し、知恵のうちに歩みなさい」と記されています。パウロはかつて「あなたがたが、主にかなった歩みができるように」(1:10)と祈っていると語り、そして、「主キリスト……にあって歩みなさい」(2:6)と命じました。クリスチャン生活とは、ただ黙想ばかりすることではなく、歩みながら祈り、また歩みながら「外部の人に」、実生活の場でキリストの奥義を証するものです。そのために「知恵」のうちに「歩む必要があります。続けて、「機会を十分に生かして用い」とは、「歩みなさい」を修飾する分詞です。これは、時間に追われるのではなく、あなたの時間を神のご支配の中で見直すことです。タイミングの良し悪しを人間的な尺度で測ってはなりません。証しの機会はいつもあります。

「あなたがたのことばが、いつも親切で(恵みのうちに)あるようにしなさい」(6節)とありますが、同じ真理を語りながらも、そこに相手への尊敬の思い、愛があるかないかで伝わり方がまったく違います。

しかもそれは、「塩味のきいたもの」であるべきです。塩は、素材の味を際立たせます。時には砂糖よりも甘さを出す力があるほどです。自分のことばの貧しさのゆえに臆病になる必要はありません。あなたの人生には既に味がついています。ただ、それに気づいていない人が多くいます。牧師はそれをともに発見することに生き甲斐を感じていますが……。どのような方法にしろ、神が自分になしてくださったみわざを黙想し、言語化する準備を積むなら、あなたの人生のストーリーを通して、キリストの奥義が塩味のきいたものとして伝わります。それこそ、「そうすれば、ひとりひとりに対する答え方が分かります」(6節)という意味です。

讃美歌529番は「Blessed assurance, Jesus is mine!」(祝福された確信、イエスは私のもの)という詩で始まります。これは盲目の詩人ファニー・クロスビーの作で、彼女の墓にも刻まれている最高傑作ですが、その繰り返しの部分は、「This is my story, this is my song, Praising my Savior all the day long」(これは私のストーリー、私の歌。一日中、私の救い主を称えよう)と繰り返されます。福音の豊かさを心から味わい、それを自分個人の人生のストーリーとして語ることができるように思い巡らしましょう。あなたを通して「奥義」が伝わるために。

4.「テキコとオネシモが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう」

パウロは、「私の様子については、主にあって愛する兄弟忠実な奉仕者同労のしもべであるテキコが一部始終を知らせるでしょう」(7節)と、テキコの立場を三重に表現し、この手紙をコロサイ教会に届ける者への尊敬を訴えました。それはパウロに会う代わりに「彼によって心に励ましを受ける」(8節)ためでした。人が顔と顔とを合わせて語り合う時に、手紙やメールでは表現できない「心」が伝わります。テキコの使命は重大でした。

同じようにパウロは、オネシモを「あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟」と描きます。ピレモンの手紙にあるように、彼は、主人の愛を裏切り、お金を盗んで逃げ出した奴隷です。その後、彼は、「放蕩息子」(ルカ15章)のように居場所を失い、主人が尊敬していたパウロを頼らざるを得なくなったのだと思われます。彼は、深く悔い改め、生まれ変わったのでしょうが、それでも逃亡奴隷です。普通なら、送り返すに当たってテキコを監視役として紹介するのが当然です。ところが、パウロは、オネシモをテキコと同じような「忠実な愛する兄弟」と呼び、「このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう」と、彼にも同じ役割を与えているのです。

パウロは、それほどに、人を根底から変える福音の力を信じていました。先に、パウロは「キリストのうちにある者」に起こった変化を、「あなたがたは古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです……そこには……奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」(3:9-11)と描きましたが、今、オネシモのすべての罪が消えたものとして扱われ、身分も、奴隷ではなくパウロの兄弟とされています。これこそ、福音が生きて働いていることの証しです。

パウロは手紙の差し出し人を、「兄弟テモテ」との連名にしていました(1:1)。そして、今、テキコとオネシモをペアーで遣わしました。「使徒はふたりで立つ」と言われますが、愛の福音は、目に見える交わりとして提示されました。コロサイの人は、「個人主義的な霊性」ばかりを強調する教えに影響されていました。それは現代にも続いています。人間関係はどこでも煩わしいものであり、そこには、しばしば、傷が伴います。しかし、それを恐れる者は、いつまでも孤独地獄から自由にされません。孤独な人ほど「愛」に理想的な憧れを抱きがちですが、愛は、現実の目に見える人と人とを結びつける「結びの帯(じん帯)」(3:14)であることを忘れてはなりません。

5.「彼らは私を激励する(慰める)者となってくれました」

パウロは続けてアリスタルコ、マルコ、ユストという三人からの挨拶を記します(10-11節)。彼はこの手紙で、「肉の割礼」(2:13)を誇るユダヤ主義者と戦っており、同胞のユダヤ人から憎まれていました。しかし、彼は同胞の救いを誰よりも熱心に求めていました。ですから、三人を指して、「割礼を受けた人では、この人たちだけが、神の国のために働く私の同労者です」(11節)と説明する中には、大きな痛みが伴っています。しかし、少数であっても、同胞の彼らが共に労してくれることは、パウロにとって何よりの「激励する者(慰め)」となっていたのです。

ここで「バルナバのいとこであるマルコ」(10節)を使者として遣わすので「歓迎するように」と指示されていることには、画期的な意味があります。マルコはパウロとバルナバの第一回目の伝道旅行の際、働きの途中でエルサレムに帰ってしまいました。第二回目の伝道旅行の際、バルナバは再びマルコを同行させようとしましたが、パウロはそれに反対したためこの二人のリーダーの間に、「激しい反目」(15:39)が生まれました。バルナバはエルサレムの使徒たちと親しかったため、これはパウロとエルサレムの使徒たちとの関係にも影響を与えかねませんでした。すべては不信仰で臆病なマルコが蒔いた種でした。しかし、ここでマルコは、パウロを激励する者」の一人に上げられ、正当な使者とされています。伝承によれば、彼はペテロの通訳として付き従いながら、マルコによる福音書を記しました。つまり、彼はペテロとパウロ両者それぞれの同労者となり、同時に、この二大指導者をつなぐ役割を果たしたのかも知れません。ここにも福音が生きて働く様が現わされています。

パウロは、マルコを巡って深く傷つきましたが、それは修復されました。信仰の仲間によって傷つくことがあっても、必ず癒される希望があります。それと同時にここには、愛の福音が、愛の交わりを基地として伝えられるという真理が現わされています。「互いに愛し合うこと」を訴える者が、愛し合っていないことは自己矛盾です。

6.エパフラス、ルカ、デマス、アルキポへのパウロの配慮

「エパフラス」(12節)は、コロサイ教会の基礎を築きましたが、異端者の攻撃を受けて、今パウロに指導を仰ぎに来ています。それがこの手紙の背景になっています。ただし、パウロは彼を指導してすぐに送り返す代わりに、テキコやマルコを遣わしました。それは、傷ついた関係のただ中にすぐに戻す代わりに、一呼吸置き、同時に、彼を身近に置いて教育するためだったかと思われます。パウロはここで、エパフラスを高く評価することによって、彼が再び戻って働ける布石を打っています。彼のすばらしさは、何よりも「いつも祈りの中で戦って(奮闘して)いる」ということでした。その祈りは、「神のすべてのみこころに関して、成熟し、満ち満ちた者とされて立つ」とも訳すことができます。私たちは「みこころ」と言う時、「私たちは何をすべきか……」という観点から考えますが、神が私たちを救うためのご計画に思いを潜め、それで私たちの思いが満たされることこそ何よりも大切です。

ルターは、「偽キリスト」の諌めを、「わたしが言っておいたことをお前は今度もやっていない」と表現しました。残念ながら、多くの人は過去の経験から、そのような叱責を感じ、また人からそのような声を聞きとって過剰防衛に走ります。しかしすべての始まりは、神のみこころ全世界を新しくする神のご計画として聞くことにあります。

「愛する医者ルカ」(14節)とは、ルカの福音書の著書ですが、彼はその中で自分を隠しています。パウロは晩年に「ルカだけは私とともにおります」(Ⅱテモテ4:11)と記しましたが、そのような紹介がなければ、彼の素性は闇の中に隠れたことでしょう。それと対称的なのが「デマス」です。パウロは同じ箇所で、「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまいました」(Ⅱテモテ4:10)と記しました。それは、私たちの交わりで、自分を隠しながら素晴らしい働きをする真の信仰者と、いざとなったら離れてしまう名目上の信仰者がいる現実を示します。これは、どの交わりでも避け難いことかも知れません。時が来なければ分からないことです。

「ラオデキアの兄弟たちに……よろしく言ってください」(15節)とあるのは、この手紙がそこにも回されて読まれることを前提として記されたからです。そして、「ラオデキアから回ってくる手紙を読んでください」とは、エペソ人への手紙を指すのではないかという見方が有力です。これらはセットにして読まれるべきでしょう。

最後に「アルキポ」(17節)への言付けが記されますが、彼はエパフラスの留守中の務めを任された人物だと思われます。このように記されることで、アルキポの務めを重く受け止め、祈ることの必要が示唆されます。

熱帯ジャングルの奥地で労しておられたある宣教師に、「そこでの生活で、何が一番大変ですか?」とお尋ねしたところ、「同労者との人間関係です」と答えてくださいました。人と人との関係は、多くの人にとって、生涯を通しての頭痛の種だからこそ、そこに困難があることを正直に認め、主の助けを求めなければなりません。

パウロ自身も同労者との関係で傷つき、また慰めを受けていました。彼は十字架前のイエスとの交わりがなかった新参者であるにも関わらず、使徒のリーダーのペテロをさえ皆の面前で非難したことがある(ガラテヤ2:14)ほどの人ですから、さぞ人間関係で苦労したことでしょう。しかし、彼は、人の好意を得ようと顔色を伺うようなことなく、主イエスを愛し続けました。しかも、同時に、それは兄弟姉妹を愛することと並行して進むことであることを、多くの具体的な人の名をあげながら証ししました。愛は目に見える交わりを通して現されるからです。