マルコ10章46〜52節「あなたの信仰があなたを救ったのです」

2012年6月10日

マルコの福音書には多くの奇跡的な癒しが記されています。それらはすべて「神の国が目の前に来た」ことのしるしでした。その背後には「神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(イザヤ35:4-6)という預言の成就というテーマがあります。 “マルコ10章46〜52節「あなたの信仰があなたを救ったのです」” の続きを読む

マルコ10章32〜45節「みなのしもべになりなさい?」

2012年5月27日

キリスト教は奴隷制を擁護する宗教として批判を受けてきたことがあります。アメイジング・グレイスの作者ジョン・ニュートンは難破しそうな船の中で、自分は死後地獄にゆくしかないという恐怖に襲われて劇的な回心を果たしますが、その後も奴隷船の船長としてしばらくは働き続けました。しばらくして奴隷貿易がいかに神の御心に反するかを悟って、牧師になり、奴隷制廃止のために献身します。 “マルコ10章32〜45節「みなのしもべになりなさい?」” の続きを読む

マルコ10章13〜31節「誰が神の国に入れていただけるのか」

2012年5月13日

イエスは山上の説教で、「だれもふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と言われました(マタイ6:24)。しかし、このイエスのみことばほど理解し難い、腹に落ちにくいことばはありません。旧約聖書で意味する「祝福」とは、豊かさや力を持つこと、子どもが増えることを意味しましたし、イエスの教えはそれと矛盾するものではないはずだからです。 “マルコ10章13〜31節「誰が神の国に入れていただけるのか」” の続きを読む

マルコ10章1〜12節「戒律ではなく、対話の中に生きる」

2012年4月29日

シェークスピアの名作「ロミオとジュリエット」の最初の場面で、ジュリエットはロミオに聞かれているとも知らずに、「おお、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの・・」と問いかけながら、ロミオがモンタギュー家を捨てるなら、私もキャピュレット家を捨てるという趣旨のことを言ってしまいます。両家は激しい敵対関係にあったからです。しかし、ふたりが死によってひとつとなった時に、両家の和解が導かれました。 “マルコ10章1〜12節「戒律ではなく、対話の中に生きる」” の続きを読む

マルコ15章40節〜16章8節「空の墓から生まれる希望」

2012年4月8日

イエスの復活の記事は四つの福音書すべてにおいて、極めて生き生きと描かれています。私は最初その記述の違いに驚き、とまどいました。歴史的事実の記録なら、もっと記述に共通性があっても良いと思われたからです。しかし、記録の細かな違いに整合性をつけようとした形跡が見られないということ自体が、これら四つの福音書が、目撃者の記録をそのまま残しているということの証拠とも言えるということがわかって心が落ち着きました。 “マルコ15章40節〜16章8節「空の墓から生まれる希望」” の続きを読む

マルコ15章1〜39節「世界の王としての十字架」

2012年4月1日

当教会での礼拝が始まったころ、世はバブルの全盛期でした。私は時代に逆らうように、この受難節の時期、来る日も来る日も、イエスの十字架の御苦しみに思いを馳せるというメッセージをし続けました。そこに私たちの癒しがあると信じていたからです(ただ、時代に逆らいすぎると、話は通じない、という現実も悟りましたが・・・)。そこではとにかく、「イエスの十字架を、罪の消しゴムのように軽く見てはならない・・」と、「重・・・く」語り続けました。それは当然、大切な真理です。 “マルコ15章1〜39節「世界の王としての十字架」” の続きを読む

マルコ9章30〜50節「神の国を今から生きる」

2012年3月18日

多くのクリスチャンの心の中に、「イエス様を信じて、良い人間になって、天国に入れてもらおう・・」という思いがあるかもしれません。しかし、そこでの天国とは、しばしば「極楽」の言い換えに過ぎないのではないでしょうか・・・ “マルコ9章30〜50節「神の国を今から生きる」” の続きを読む

マルコ9章14〜29節「信じます。不信仰な私をお助けください

2012年3月4日

人は誰しも、毎日を楽しく、気力にあふれて目の前の課題に取り組みながら、「生きていて良かった!」という感動を味わいたいと思っているのではないでしょうか。書店に行くと、そのように生きることができるため様々な方法(How to)を書いた本が平積みにされています。しかし、すべてがHow toで解決できるなら、神を求める必要などなくなってしまうことでしょう。 “マルコ9章14〜29節「信じます。不信仰な私をお助けください” の続きを読む

マルコ8章34節〜9章13節「栄光の姿から十字架を見る」

2012年2月12日

人の心の中には、矛盾した自分が住んでいます。同じ人が、とてつもなく臆病でおどおどとしているときがあるかと思うと、世間体など気にせずに堂々と自分の意見を主張するときがあります。たとえば、私などは、「僕って、鋭い分析力を持つと同時に、すばらしい優しさを備えている・・」などと思うことがある一方で、「自分は愚図でのろまで、偽善者だ。結局、自分のことしか考えていない・・」と自己嫌悪に陥ることさえあります。それがごくたまに、一日のうちに何度も繰り返されることだってあります。 “マルコ8章34節〜9章13節「栄光の姿から十字架を見る」” の続きを読む

マルコ8章22〜38節「良い人ではなく、一途なキリスト者に」

2012年1月29日

私たちは多くの場合、自分の力の限界や心の醜さを示され、「より良い人間になりたい・・」と願ってイエスを救い主として告白するように導かれました。しかし、そこから矛盾が始まります。この世には、立派で力のある人々は数多くいます。そこで私たちは、そのような人々に劣らない、「良い人」と評価されることが何よりの証しになると思うようになり、生真面目な、失敗を恐れる臆病な生き方に走ることがあります。 “マルコ8章22〜38節「良い人ではなく、一途なキリスト者に」” の続きを読む