マルコ9章14〜29節「信じます。不信仰な私をお助けください

2012年3月4日

人は誰しも、毎日を楽しく、気力にあふれて目の前の課題に取り組みながら、「生きていて良かった!」という感動を味わいたいと思っているのではないでしょうか。書店に行くと、そのように生きることができるため様々な方法(How to)を書いた本が平積みにされています。しかし、すべてがHow toで解決できるなら、神を求める必要などなくなってしまうことでしょう。

私は今まで、数えきれないほどの失敗を繰り返し、人に迷惑をかけてきました。そして、そのたびに、「今度は、このようにしたら良いのでは・・」などというアドバイスをいただいてきました。どうも、人から何かを言われやすい性格なのか、いろいろなことを言っていただけます。しかし、正直、それを聞きながら落ち込んでしまうことがあります。どうしても、「あなたは愚かですね・・」というニュアンスに自分の中で解釈してしまうからです。

しかも、多くの場合、そこで根本的に見落とされている問題があります。それは、すべての人間は、日々数多くの失敗を繰り返しており、すべて前向きにチャレンジしようとする人は必ず、何度も失敗しているということです。本当に大切なのは、目先のHow toではなく、その人の根本的な生き方であるということです。

聖書のメッセージはある意味で簡単です。それは、人はみな神に向けて創造されており、神を忘れては、神の望まれるような人生を歩むことができないということです。目先の方法よりも、人生の方向とあり方が問われているのです。

イエスの弟子たちは、イエスの身近にいて、イエスがどのように問題を解決するかをつぶさに見ていました。そして、イエスが三人の弟子たちと一時的に山に登っているときに、残された九人の弟子たちはイエスの方法を試してみました。ところがそれは機能しませんでした。それは、彼らが最も大切なことを見落としていたからです。

それは、マルコ1章35節に、「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」と書いてある記事です。イエスと父なる神との交わりを忘れてはすべての方法は空しい結果に終わります。

1.「お弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした」

イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて山に登り、一時的に天の栄光の姿を表されました。ところが、彼らが山から降りて、「弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた」(9:14)というのです。それは、残された弟子たちが人々に失望を与えていたからでした。

そこで、「群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをし」ましたが、イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」(9:16)と聞かれました。

「すると群衆のひとりが、イエスに答えて」、「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした」(9:17、18)と答えたというのです。

少年の病は、「てんかん」(マタイ17:15)と訳されることもありますが、マタイでの原文は、「月に打たれた」と書いてあります。確かにそれは「てんかん」と訳すことができる当時の表現であり、このマルコに描かれた「倒れ、あわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせ」という症状は「てんかん発作」のように見えます。

しかし、これを「てんかん」と訳すことには慎重でなければなりません。最新のカトリック・フランシスコ会訳では、「引きつけを起こして」とのみ訳しています。この病は原因を特定できない場合も多く、脳で発生する何らかの電気信号のようなものの異常から起こるとも言われ、百人にひとりぐらいの発症率がある珍しくない病です。

ただ、残念ながら、日本では狐に憑かれたなどと見られ、差別を受けてきました。二千年前のパレスチナでも悪霊に憑かれた者として忌み嫌われていたと思われます。しかし、このマルコではあくまでも「口をきけなくする霊」と記されています。

なお、三人の弟子を除くイエスの他の弟子たちがこの少年から悪霊を追い出すことができなかったからといって、それが律法学者たちを巻き込む議論になり、それがまた多くの群衆を寄せ集めていたということ自体が不思議です。それは、弟子たち自身が、自分たちには悪霊を追い出す力があると思い込み、また、群衆もそれを期待していたからでしょう。

6章7-13節で、十二弟子は「汚れた霊を追い出す権威」をイエスから授けられてガリラヤ地方の村々を巡り歩き、「悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした」と描かれていました。ですから、弟子たちはこのとき自分たちにはこの少年を癒すことなど、簡単なことだと思えたのではないでしょうか。彼らは五千人のパンの給食、四千人のパンの給食でも、イエスの手の中で増えたパンを人々に配るという特権にあずかっていました。群衆はイエスの弟子たちを、期待を持って仰ぎ見るようになったことでしょう。

そして、7章31節以降の記事では、イエスが、耳が聞こえず口のきけない人をいやした様子が描かれていました。そこでイエスは、「その人の両耳に指を差し入れ・・つばきをして、その人の舌にさわられ・・・天を見上げ、深く嘆息して、その人に『エパタ』すなわち、『開け』と言われた」と記されていました。人は、そのような特異な癒しのみわざを見ると、それと同じ方法を試したいと思うものです。

ひょっとしたら、このときの弟子たちは、少年の舌に自分たちのつばきをつけ、「エパタ!」と叫んでいたのかもしれません。しかし、何も起きませんでした。弟子たちも群衆も、この少年はすぐに癒されると思い込んでいたからこそ、これが大きな騒ぎになってしまったと言えましょう。

しかし、よく調べると、イエスの癒しのみわざは毎回ユニークで、まったく同じ方法の繰り返しはありません。ただ、そこに共通している原則があります。それは目の前のひとりひとりに心から注目していたということと、そこにいつも父なる神への祈りがあり、神の栄光を求めていたということです。How toではなく、主の目の方向を見ましょう。

2.「ああ、不信仰な世だ」

イエスは、このような弟子の失敗の様子を聞いて、「ああ、不信仰な世だ・・」(9:19)と深く嘆かれました。イエスはいつも人々に優しく接する方というわけではありません。特に、ご自身の十字架のことを予告されてからの弟子たちに対することばには非常に厳しいものがあります。イエスはペテロの傲慢な態度に対して、「下がれ。サタン」と、厳しいことばを返されました(8:33)。

「世」ということばには、弟子たちを含めたそこにいるすべての人への叱責が込められています。イエスは彼らの「不信仰」を責めておられます。しかし、弟子たちの失敗自体を責めているのではないと思われます。それより問題は、弟子たちが自分たちには悪霊を追い出す力があると思い込んだこと、また群衆が、イエスの弟子たちにはそのような力が宿っていると期待したこと自体にあるのではないでしょうか。

多くの人々は、「不信仰」ということばを誤解しています。人によって、悲観的な見方や、期待通りの結果を生み出すことができない消極性を指します。その裏には、信仰が深くなれば、目の前の道がどんどん開かれ、期待通りの結果を出すことができるはずだという誤解があるように思えます。しかし、聖書が語る「不信仰」とは、不真実とも訳すことができます。神の真実を信じる代わりに、神を不真実と見ることを指します。

人間の能力や心構えの問題ではなく、神のみわざに目を留めることが信仰です。「あの人は、信仰深いから・・・」などという言い方は正しくありません。神をどのような方と見ているかが、問われるべき信仰の基本です。

残念ながら、人は神のみわざを人間的な能力ととりかえてしまう落とし穴があります。そこにいる人々は、悪霊追い出しを神のみわざとしてよりは人間の働きかのように誤解していました。また弟子もかつての成功体験にあぐらをかいていたのかもしれません。

続けてイエスが弟子たちに向かって、「いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」と言われたのは、イエスの人間としての感情を表しています。イエスはご自分の気持ちが通じなくて、悲しんでおられたのです。

この福音書を書いたマルコの背後にペテロがいると言われますが、ペテロはこのときのことばが心に突き刺さったことでしょう。そして、後にイエスとの交わりを思い起こしながら、自分がどれだけ主のみこころを傷つけ、苦しめてきたかを深く反省したことでしょう。

なお、パウロはコリントの教会の人々が恩を仇で返すような態度を取った時、「私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるようになるのでしょうか」(Ⅱコリント12:15)と自分の痛みを表現しましたが、人を援助する働きには、必ずそのような局面がどこかでやって来ると言えましょう。

人の痛みに寄り添い、誠心誠意尽くしたつもりで、その気持ちが誤解されるなどというのは耐え難い苦しみですが、その痛みはイエスご自身が弟子たちとの関係ですでに味わっておられたことです。私たちの人間関係から生まれる苦しみは既にイエスご自身がすべて体験してくださいました。

人間関係の悩みのただ中にイエスはともにいてくださいます。そのような嘆きを味わっているとき、あなたは要領が悪いのではなく、イエスの御跡を従っているという誇りを持って良いのです。

ところで、イエスは、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われました。イエスはご自身の心の痛みを表現されながら、決して目の前の必要から目を背けるようなことはなさいませんでした。

そして、「そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た」(9:20)というのですが、「その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った」と症状がかえって悪化しました。それは悪霊がイエスを恐れていたからです。

イエスの聖さが迫ってくると、人の中のみにくいものがクローズアップされます。それによって、一時的に問題は悪化したように感じられます。しかし、それは癒しのプロセスの始まりに過ぎません。私たちもイエスのみもとに近づくときに、同じようなことが起こるかもしれませんが、慌てる必要はありません。

その様子をご覧になったイエスは、その子の父親に、「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか」と尋ねます(9:21)。それは、父親の絶望感に寄り添いながらも、その気持ちを敢えて引き出すような質問をされたと言えるのではないでしょうか。

それに対し、父親は、「幼い時からです」と答えたばかりか、「この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました」(9:22)と答えました。これを見る時に、この少年の病は、「てんかん」というよりは、悪霊の働きであるということが明確になります。

悪霊の働きは、何よりも人を自暴自棄や破滅に追いやるものです。しかも、この霊は、取りついた人を公衆の面前で激しく苦しめるものでした。悪霊は、この子を通して、人々を恐怖に落とし入れ、神よりも悪霊を恐れるように仕向けたのだと思われます。

悪霊の働きを表面的にとらえてはなりません。世田谷区にお住まいだった湯原和子さんは16歳の時、編み物を習っている最中に突然ばったりと倒れ、口からあわを吹きだし昏睡状態に陥りました。彼女はその後何度も発作に襲われますが、その苦しみ以上に、人々の前で惨めな姿をさらすかもしれないという恐怖のゆえに家に閉じこもり、劣等感に悩み、何度も自殺を試みました。

しかし、あるとき死ぬために向かった松江で、礼拝の讃美歌の声に引き寄せられて教会に入りました。そして、そこで出会った男性と結婚に導かれ、男の子を出産し、愛に満ちた家庭が与えられ、日本てんかん協会でカウンセラーを長く続け、最近は、その協会から特別功労賞を受けております。

彼女は「私は、ある時期から、発作が起こった時には、神様が私を訓練したもうのだ、と思うようになっていました・・私にとって「てんかん」とは、すばらしい人生の巡りあわせだったと言って良いでしょう」と語っています。

悪霊の働きの目的は、何よりも、わざわいを通して、人が神をのろい、自滅するように追いやることです。ある病が、悪霊によるものかどうかなどを、軽々に判断してはなりません。大切なのは、その病がその人をどの方向に向かわせているかを見ることです。

現代は、多くの場合、悪霊を追い払うことよりも、その人が神に向かって祈ることができるように導くことが大切です。なぜなら、悪霊は神に祈っている人のもとから去らざるを得ないからです。そして、敢えて言うと、悪霊の働きは、何よりも、人に祈ることを止めさせることにあるのではないでしょうか。

3.「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで・・」

この父親は、それまでの弟子の失敗を見、しかも、イエスの前に連れてこられたことでこの子の症状が「あわを吹きながら、ころげ回る」ようなことになったので、かえって主の御力に対しても疑問を抱いてしまいました。

その思いが、「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」(9:22)という表現に現されています。ところが、そのように聞かれたイエスは即座に、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と厳しく迫りました。

しかし、「信じる者には、どんなことでもできる」と保障されているにも関わらず、私たちの目の前には、「できないことばかり」のように思えます。「なすべき働きがたくさんあるのに、時間が足りない・・能力が足りない・・」とか、「どうしてもこの交渉は成立させたいのに、相手が・・・」と嘆きたくなることばかりです。

しかし、イエスはここで基本原則を語っているのです。真の信仰とは、神の思いと私たちの思いが一つになることです。

そのとき、神が全能であられるからこそ、神の思いと一つになった私たちの願いはすべて成就することになります。つまり、真に信じるということは、何よりも困難なことで、それはイエス以外にはできないのかもしれません。

ただし、これは、信仰がない者にはイエスの癒しのみわざは実現しないという意味では決してありません。イエスはそれまで何度も、信仰の持ちようのない人の痛みに寄り添い、癒して来られました。

イエスがここで父親に問いかけているのは、「もし、おできになるものなら」という逃げ腰の中途半端な態度です。父親からしたら、もう何度も失望を味わっていますから、期待通りにならなかったときの備えをしているような気持かもしれません。

しかし、私たちの信仰の基本とは、「神にとって不可能なことはひとつもありません」(ルカ1:37)、また、「それは人にはできません。しかし、神にはどんなことでもできます」(マタイ19:26)と告白することではないでしょうか。天地万物の創造主を信じるとは、この広大な宇宙が、神のことば一つで生まれたということを信じることです。

そして、さらに大切なのは、それをするのは、イエスであるというよりも、天地万物の創造主がイエスの父なる神であり、イエスの願いならすべてかなえてくださるということを信じることです。

この父親は、不可能を可能にしてくださるのは、創造主であられる神であることを忘れて、「弟子もできなかった・・だからその先生もできないかもしれない・・・」と、悪霊を追い出すという働きを人間のわざとして見てしまっていたことにあるのです。

これと似た表現で、「もし、みこころならば・・」と、控えめに付け加えながら、自分の願いを神に訴えるということがあるかもしれません。しかし、祈りの基本は、そのようなことばを一切付けることなく、ただ、「主よ。この私をあわれんでください」と訴えることです。自分の切迫した気持ちをただ訴え、また、主に期待することを真正面から訴えることが信仰です。

みこころならば実現するし、みこころでなければ実現しません。それは神の領域に関わることですから、そこにまで配慮を表現するというのは、神に対してのよそよそしすぎる表現とは言えないでしょうか。

「するとすぐに、その子の父は叫んで」、「信じます。不信仰な私をお助けください」と答えます(9:24)。まず父親は、慌てて叫びました。それは自分の問題を真正面から認めたというしるしです。そして、その後のことばは、多くの英語訳では、「I believe; help my unbelief!」(信じます。私の不信仰を助けてください)と訳されています。

それは、「信じます!」と叫びながら、自分の心を変え、信じることができるように助けてくださいと願うことです。私たちの信仰自体が神の賜物です。ただ、その神のみわざに自分の心を開きますという意味で、まず「信じます」と告白する必要があります。

私たちは自分の不信仰を認めざるを得ません。しかし、正直にそれを認めながら、なお「私の不信仰をお助けください」と祈る者は幸いです。自分の不信仰に悩む暇があったなら、このように祈りましょう。

4.「多くの人々は、『この子は死んでしまった』と言った」

そして、「イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって」、「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな」と言われました(9:25)。イエスの神としての御力とご性質は、何よりも、悪霊を追い出すということを通してあらわにされました。

そして、その結果が、「するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになった」(9:26)というのです。それはこの子の心が悪霊に完全に支配されていたために、悪霊が出て行った後に、たましいの抜け殻のような状態になったと理解することもできましょう。

とにかくここで、「多くの人々は」、「この子は死んでしまった」と言ったというのです。そこにいた多くの人々は、さらに深い失望を味わいました。しかし、イエスは、絶望の中に希望を生み出してくださる方です。

そのことが「しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった」(9:27)と簡潔に記されます。これはかつてイエスがヤイロの娘を生き返られた状況に似ています(5:35-43)。イエスの悪霊追い出しの働きは、死人をよみがえらせる働きとも比較できます

イエスはヨハネ福音書5章24、25節で、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」と言っておられます。

ところで、その後のことが、「イエスが家に入られると、弟子たちがそっとイエスに」、「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが」と尋ねたと記されます(9:28)。それに対して、イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません」(9:29)と言われました。

これは当たり前のことを言っているようですが、私たちの誤解を正す最も根本的なことです。今も昔も、人々の心はハウツーに流れます。当時はたとえば、「シェマー(聞きなさい)。イスラエル」から始まる申命記6章4-6節を唱えることが悪霊を追い出すことにつながるとか、詩篇3篇、詩篇91篇を唱えることが悪霊に対する戦いになると言われていました。そして、中世の物語の中では十字架をかざすことがドラキュラを退けることになると言われていました。そこで忘れるのは、不可能を可能にするのは、私たちの信仰や技術ではなく、天地万物の創造主ご自身であるということです。

ルカではその結果が、「人々はみな、神のご威光に驚嘆した」と記されます(9:43)。つまり、人々の目が、イエスのご威光ではなく、父なる神に向かったということが何よりも驚きではないでしょうか。人々は、「神の国」、つまり、神のあわれみに満ちたご支配が、この地に戻ってきたことを感謝できたのです。それは、様々な預言者たちの預言が成就したことを意味します。

私たちも「あの人の信仰が立派だから・・」などと、人の信仰心とか人格とか賜物にばかり目を向けて、神のご威光」をともにあがめるというところに行き着かないことがないでしょうか。

なお、マタイの記事では、弟子たちの質問に対しイエスは、「あなたがたの信仰が薄いからです。まことにあなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったなら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」と言われたと記されています。

これは非常に解釈が難しいことばですが、ひとつはっきりしていることは、いまだかつて誰も、これを文字通り実行できた人はいないということです。ですから、これは結果的に、すべては人間のわざではないということを示すことになります。

私たちはからし種ほどの信仰を自分の力で獲得することはできません。このように見てくると、この子の父親が、「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫んだことは、途方もなくすばらしい信仰告白であるということがわかります。

私たちが神の子供とされたのは、自分の願い通りの人生を歩むことができるためではなく、神の願う働きをするためです。そこに真の生き甲斐があります。この世の多くの人々に決定的に欠けているのは、生きる目的と、生きることの意味です。神の救いとは、それが明らかにされることに他なりません。

「生きていて良かった!」というような真のいのちの感動は、神と人のため、この世界をより良くするために自分の人生を神に差し出している結果として生まれる副産物としての感動です。

イエスは、「信じる者には、どんなことでもできるのです」と言われました。しかし、だれが真の意味で信じることができるでしょう。誰が、神の思いを、真に自分の思いとすることができるでしょう。だからこそ、私たちは心を開いて、「信じます。私の不信仰を助けてください」と祈り続ける必要があるのです。