ネヘミヤ12章27〜43節「主を賛美する群れとしての成長」

2012年2月26日

聖書の民の礼拝の最大の特徴は、その中心に豊かな音楽があるということです。そして、その豊かさは、共同体全体として専門の聖歌隊や楽器奏者を支えるということから生まれます。ダビデの何よりの遺産は、その美しい詩篇の賛美とともに、専門家を育て、賛美を組織化したということにあります。ルターの宗教改革の何よりの特徴は、その音楽の豊かさにありました。

そして、私たちの教会が目指すことも、より豊かな音楽による礼拝です。教会堂建設でも何よりも礼拝堂における音の響きを重視したいと思っています。本日はエルサレム城壁再建の後の奉献式のことを覚えますが、そこには繰り返し、礼拝音楽のことが記されています。

しばしば、福音的な教会の礼拝では、みことばの説教ばかりが前面に出て、聖歌隊賛美や会衆賛美、祈りにおける音楽の用い方が余りにもおざなりにされてきた傾向があります。しかし、それは決して、聖書が描く礼拝の姿ではなりません。感動的な説教を聞くということ以前に、主への賛美がもっと注目される必要があります。

バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民にとっての最大の憧れを多くの人は忘れています。ダビデの子ソロモンの時代に壮麗なエルサレム神殿が建てられ、そこでの最初の礼拝の様子が、次のように記されています。これこそ、聖書の民にとっての憧れの礼拝です。

「歌うたいであるレビ人全員も・・白亜麻布を身にまとい、シンバル、十弦の琴および立琴を手にして、祭壇の東側に立ち、百二十人の祭司たちも彼らとともにいて、ラッパを吹き鳴らしていた─

ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主(ヤハウェ)を賛美し、ほめたたえた。

そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と主(ヤハウェ)に向かって賛美した。そのとき・・主(ヤハウェ)の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主(ヤハウェ)の栄光が神の宮に満ちたからである」(Ⅱ歴代5:12-14)

1.「民のつかさたちはエルサレムに住んだ」

11章には城壁が再建されたエルサレムに住んだ人々の名が具体的に記されています。この記事は6章までで城壁の再建の様子が感動的に描かれ、7章4節で当時のエルサレムの様子が、「この町は広々として大きかったが、そのうちの住民は少なく、家もまだ十分に建てられてはいなかった」と記されていたことに続くものです。エルサレムはまだまだ周辺国からの攻撃にさらされる可能性が高く、しかも、それぞれの農地から離れており、人々が積極的に住んでみたいという気持ちを起こさせるような魅力的な町にはなっていなかったのかと思われます。

ネヘミヤは城壁の修復作業を52日間で完成するという驚くべき速さで町の外面を整えましたが(6:15)、その後、すぐに城壁の奉献式を行う代わりに、信仰共同体としての中身を整えることに多くの労力を費やしました。

5章では、城壁工事の真っ最中、自分の子供を奴隷に売らなければならないような貧しい同胞のために、豊かな人に借金の抵当や利子を返すように強く迫ったことが記されました。6章では城壁の完成が、7章では系図の見直しのことが描かれていました。

そして8章では城壁完成直後に盛大に祝った仮庵の祭りの様子が記されます。そこで強調されていたのは、「主を喜ぶことはあなたがたの力である」(8:10)ということでした。

そして、9章ではイスラエルの民がそろってモーセの律法の朗読に耳を傾け、悔い改めの祈りをささげる様子が描かれます。そこでの中心は、「ご覧ください。私たちは今、奴隷です」(9:36)という訴えでした。

そして、10章では女性や子供を含む、みことばを理解できるすべての民が、律法を守るという堅い盟約を結んだということが記されています。盟約の中心は、安息日を初めとする「時を聖別する」ことと、十分の一のささげものに象徴されるように「収穫の実を聖別する」ということでした。

つまり、ネヘミヤは、エルサレムの城壁を再建するということ以上に、イスラエルの民を真の神の民の共同体として整えるということに何よりも心を配っていたのです。私は長い間、新約につながるイスラエルの信仰共同体が、これほどまでにネヘミヤの共同体改革に負っているということに気づいていませんでした。

現在、私たちの教会も、開拓23年目にしてようやく会堂建設に着手しようとしております。以前、マレーシア福音自由教会の会長がここでメッセージをしてくださったとき、会堂建設は何よりもひとりひとりの信仰の成長の機会であるということを強調してくださいました。

会堂建設は決して、目的ではなく、神の民として成長するための手段です。私たちの目的は、全身全霊で主を礼拝することと、神の家族として互いに愛し合うということにあります。教会堂はそのための器に過ぎません。

ただ、確かに、人はうわべを見ますし、それによって影響を強く受けますから、器にも大切な面があります。それは、ネヘミヤが城壁再建のために人々の心を動かしたのと同じです。

11章の始まりは、「民のつかさたちはエルサレムに住んだ」という新しい動きとして訳すべきでしょう。なぜなら、城壁再建の最中は、ネヘミヤが民に向かって、「だれでも自分に仕える若い者といっしょにエルサレムで夜を明かすようにしなさい」(4:22)と敢えて命じる必要があったほどに、多くの人々は離れた町に自分の家を持っていたからです。

そして、ほかの民の一割の人がくじ引きでエルサレムに住むようになりました。エルサレムはまだまだ危険な町でしたから、そこに進んで住もうとする人は民の特別な祝福を受けることができました。

その上で、4-6節まではエルサレムに住んだユダの民の系図が、7-9節はベニヤミンの系図が記されています。これと重なる系図がⅠ歴代誌9章にありますが、そこには興味深いことに、「エルサレムには・・・エフライムおよびマナセ族の者が住みついた」(9:3)と失われたと思われた北の十部族の一部もエルサレムに住んだ様子が記されます。それは新しい神の民としての真の意味でのまとまった再出発が、このときにあったことを示しています。

2.「組と組が相応じて、神の人ダビデの命令に従い、賛美をし、感謝をささげた」

そして、10-14節にはエルサレムに住んだ祭司の系図と人数が、15-18節にはレビ人の系図と人数が記されていますが、特に17節では、「祈りのために感謝の歌を始める指揮者・・副指揮者」のことが言及されます。

なお、11章1,18節で、「聖なる都」という記述があるのは感動的です。一時は廃墟とされた都が、神の聖なる都として復活したからです。

19節には門衛のことが記されていますが、Ⅰ歴代誌9章17-27節には彼らがダビデ以来の門衛の務めを持つレビ人の家系に属することが記されています。

そして、11章22,23節にはレビ人の監督者ウジのことが、「アサフの子孫の歌うたいのひとりで神の宮の礼拝を指導していた」とアサフの賛歌などで知られる由緒ある「歌うたい」の伝統のことが記されます。Ⅰ歴代誌25章には、ダビデの時代の「主にささげる歌の訓練を受けた・・達人」たちの系図が記されていました。ここでも、「彼らについては王の命令があり、歌うたいたちには日課が定められていた」と、神殿礼拝において主への賛美の歌がどれほど尊重されていたかが明らかにされます。

25-30節にはユダの子孫が住んだエルサレム以外の町々が記されます。キルヤテ・アラバとはヘブロンのことです。27節にはさらに南のベエル・シェバのことが記されます。ユダ族はエルサレムが主な地域でした。また31-35節にはベニヤミン族の居住地が記されますが、それは主にエルサレムの北西に広がっていました。

12章1-11節には紀元前537年にエルサレムに戻ったバビロン捕囚からの第一次帰還者の祭司とレビ人の名が記されています。また、12節から26節には、それから約90年後の紀元前445年に帰って来たネヘミヤの時代に、すでにエルサレムにおいて奉仕をしていた祭司とレビ人の名が記されています。

彼らは廃墟となっていたエルサレムで主への礼拝を復興させ、それを受け継いだ者たちとして、その名が永遠に記憶されました。

興味深いのは、8節で、「感謝の歌を受け持っていた。彼らの兄弟は・・向かい側に立った」、24節では「組と組が相応じて、神の人ダビデの命令に従い、賛美をし、感謝をささげた」とペアーの聖歌隊の働きが特筆されていることです。

新しい神の都では、聖歌隊の働きが何よりも重視されていました。ダビデが記した多くの詩篇には、それぞれ固有のメロディーがついて歌われるようになっていたと思われます。それは二つのグループに分かれて、交互の歌うように作られていました。レビ人たちは、それを親から子へと代々受け継いでいったのです。

私たちの礼拝でも、翻訳しなおした交読文の形で、多くの場合、それぞれの節の前半と後半を分けて朗読するようにしていますが、詩篇にはことばとともに読み方、歌い方が指定されていました。私は詩篇の読み方を少しでも本来のあり方に近づけようとして独自の交読文を作りましたが、これは何か奇抜なことを勝手にやろうとしていることではなく、現代の日本の礼拝の形を、少しでも聖書的なものに戻そうとしている大切な試みです。

残念ながら、三千年前の歌い方がどうであったかは想像もつきません。今後の研究に任せたいと思いますが、とにかく詩篇を、二つに分かれた聖歌隊が組になって、交互に歌ったということは確かです。

そして、エルサレムを聖なる都として建てなおす何よりの原動力は、主への賛美にあったということを私たちは思い起こすべきでしょう。

3.「ユダのつかさたちを城壁の上に上らせ、二つの大きな聖歌隊を編成した」

12章27-43節には「エルサレムの城壁の奉献式」のことが描かれています。ネヘミヤ自身の働きが「私」という主語とともに前面に出てくるのは7章5節以来のことです。彼は城壁の完成直後に奉献式を行う代わりに、イスラエルを神の民の共同体として整えることを最優先しました。

そして、この奉献式においては何よりも聖歌隊の働きが重んじられました。そのことが、「レビ人を、彼らのいるすべての所から捜し出してエルサレムに来させ、シンバルと十弦の琴と立琴に合わせて、感謝の歌を歌いながら喜んで、奉献式を行おうとした。そこで、歌うたいたちは、エルサレムの周辺の地方・・から集まって来た」(12:27-28)と描かれますが、ここに記された村々はみなエルサレム周辺にありました。

そのことが、「この歌うたいたちは、エルサレムの周辺に自分たちの村々を建てていたからである」(12:29)と記されています。彼らはエルサレムと自分の村を行き来するようにして働きまた奉仕していたのだと思われます。礼拝のための奏楽や聖歌隊賛美は、レビ人にとっての最も大切な責任と見られていました。

そして、奉献式の始まりにあたって、「祭司とレビ人は、自分たちの身をきよめ、また民と門と城壁をきよめ」ました(12:30)。これは奉仕者が水を浴び衣服を洗い全焼のいけにえをささげ(民数記8:5-13)、また、「やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を・・注ぎかける」(ヘブル9:13、民数記19章)ことによってなされました。

その上でネヘミヤは、「ユダのつかさたちを城壁の上に上らせ、二つの大きな聖歌隊を編成し」(12:31)、それぞれを左右別の方向から城壁を半周させて神殿で合流させるようにしました。その出発点は、エルサレムの南半分のダビデの町の西側の「谷の門」からであったと思われます。そこはネヘミヤが最初にエルサレムに到着して町の城壁を密かに調べたときの出発点でもありました(2:13)。

そしてこのとき、「一組は城壁の上を右のほうに糞の門に向かって進んだ」とありますが、これはこの隊が反時計回りに進み谷の門から南端に向かったことを指します。そして、この隊の中心には、学者エズラがいて(12:36)、民のつかさたちの半分が従っていました。そこで、祭司たちのある者はラッパを持ち、レビ人たちは「神の人ダビデの楽器を持って続いて行った」と描かれます(12:36、Ⅰ歴代誌23:5参照)。

そして、彼らの歩いたルートが、「彼らは泉の門のところで、城壁の上り口にあるダビデの町の階段をまっすぐに上って行き、ダビデの家の上を通って、東のほうの水の門に来た」(12:37)と描かれます。

そして、「もう一組の聖歌隊は左のほうに進んだ」(12:38)とありますが、これは谷の門からエルサレムの西側を時計回りに北上するルートで、その中心にはネヘミヤがいました。そのことが、「私は民の半分といっしょに、そのうしろに従った。そして城壁の上を進んで、炉のやぐらの上を通り、広い城壁のところに行き、エフライムの門の上を過ぎ・・魚の門と、ハナヌエルのやぐら・・を過ぎて、羊の門に行った」(12:39)と描かれます。「羊の門」とは、神殿北部のいけにえを運び入れる門でした。

「そして彼らは監視の門で立ち止まった」とは、この二つの組がそこで落ち合って、神の宮に入ったことを指しているのでしょうか。とにかくこの二つの聖歌隊に導かれた民は、半分ずつに分かれて、城壁の上を一周し、神殿での礼拝に臨んだでした。

その結論が、「こうして、二つの聖歌隊は神の宮でその位置に着いた。私も、私とともにいた代表者たちの半分も位置に着いた」(12:40)と描かれます。

彼らは次のような詩篇48篇12-14節のことばを歌いながら、城壁の上を歩いたのかもしれません。

シオンを巡り、その回りを歩け。そのやぐらを数えよ。その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。

この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる」

41節には、エルサレム神殿の庭に入った七人の「祭司たち・・も、ラッパを持って位置に着いた」(12:41)と描かれ、42節では8人のレビ人の指導者が、「位置に着いた」(12:42)と記されますが、ウジについては、11章22節では「神の宮の礼拝を指導していた」と記されていました。

「それから、歌うたいたちは、監督者イゼラフヤの指揮で歌った」とありますが、イゼラフヤとはウジの子だと思われます(Ⅰ歴代誌7:3)。ですから、ここでは民の指導者たちが前に立っている中で、イザラフヤの指揮でふたつの聖歌隊が詩篇の賛美を交互に歌ったのだと思われます。

そして、そのときの結論が、「こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげて喜び歌った。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた」と描かれます(12:43)。

エルサレム神殿の礎が築かれたときには喜びの叫び声と民の泣く声が混ざっていましたが(エズラ3:12,13)、このときは喜びの声ばかりで満たされ、それが遠くまで聞こえたというのです。とにかく彼らはこの日、数多くのいけにえをささげるとともに、「喜び歌った」のでした。

新約の時代は、イエスの十字架によって動物のいけにえをささげる必要はなくなりました。それで、「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」(ヘブル13:15)と勧められています。

4.「イスラエル人はみな、歌うたいと門衛のために定められた日当を支給していた」

12章44節では、突然、「その日、備品や、奉納物、初物や十分の一を納める部屋を管理する人々が任命され、彼らは祭司とレビ人のために、律法で定められた分を、町々の農地からそこに集めた」と記されます。これは祭司やレビ人の働きを民全体でささえるということを改めて明確にしたものです。

そしてその理由が、「これは、職務についている祭司とレビ人をユダ人が見て喜んだからである」と記されています。

そして、神殿奉仕者のことが、「彼らおよび歌うたいや門衛たちは、ダビデとその子ソロモンの命令のとおりに、彼らの神への任務と、きよめの任務を果たした」(12:45)と描かれ、その由来が、「昔から、ダビデとアサフの時代から、神に賛美と感謝をささげる歌うたいたちのかしらがいた」(12:46)と改めて描かれます。

そして、バビロン捕囚からの帰還者が何よりも主への賛美を大切にしたということが、「ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代には、イスラエル人はみな、歌うたいと門衛のために定められた日当を支給していた」(12:47)と描かれます。なお、その際、レビ人には民の収入の十分の一が分けられ、レビ人の収入の十分の一は、アロンの子孫である祭司に分かち合われました。

ドイツではどんな小さな町でも、公共のホールでの音楽会が定期的にもたれるなど、文化を支えることを住民全体で取り組んでいますが、そのような発想は、今から2500年前の貧しいイスラエルから始まっていたことだったのです。

13章1節では、「その日、民に聞こえるように、モーセの書が朗読されたが、その中に、アモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった」と記されます。これは申命記23章3-5節に記されていることで、その要約が、「それは、彼らがパンと水をもってイスラエル人を迎えず、かえって彼らをのろうためにバラムを雇ったからである。

しかし、私たちの神はそののろいを祝福に変えられた」(13:2)と改めて記されます。これによってイスラエルの民は祝福されましたが、アモン人とモアブ人は自分たちにのろいを招くことになりました。

神の民をのろう者は自滅せざるを得ません。ただ、モアブの女ルツの場合のように、その信仰のゆえに神の民へと加えられ、ダビデ王家の先祖となる者もいました。神はひとりひとりの信仰を見ておられます。

ただし、このときは「彼らはこの律法を聞くと、混血の者をみな、イスラエルから取り分けた」(13:3)と描かれます。これは、非常に厳しい措置のように思われますが、エズラの宗教改革の基本が外国の女をすべて追い出すということであったことを考えれば当然のことです。

彼らは神の民としての純粋さを保ち、それを後の子孫に受け次ぐ必要がありました。彼らは神の民として、ようやく約束の地に戻され、これから神の民としての再出発を図ろうとしていました。小さな妥協が、神の民の存在価値自体を無に帰してしまう可能性があったからです。

ネヘミヤ記を通して読むことで何よりも感動的なのは、城壁の再建という外枠の働きと並行して、主を礼拝する共同体としての形が整えられて行くプロセスが記されていることでした。

そして、バビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻ってきた神の民は、何よりも、祭司やレビ人が礼拝音楽において訓練され、礼拝音楽を通して民の礼拝を導くということが大切にされていました。そこには何と多くの礼拝音楽の専門家が育っていたことでしょう。今も昔も、音楽の訓練には驚くべきお金がかかります。彼らはそれを共同体として支えていたのです。

私たちも今、礼拝音楽をより豊かにするために、礼拝音楽の奉仕者の層を広げ、専門家を育てるということも考えても良いのではないでしょうか。様々な種類の集会を持って、人々に聖書のみことばを分かち合うということはもちろん、教会にとっても最も大切な使命ですが、それと同時に、主への礼拝がより豊かにされるように、そのために会堂という礼拝環境を整え、専門家を育て人々を訓練するということも並行して大切にされる必要があります。

旧約の時代と新約の時代の何よりの区別は、動物のいけにえをささげる必要がなくなったということにあります。しかし、旧約の時代から現代まで一貫して流れている礼拝の形の強調点が礼拝音楽にあるということを、多くの人は忘れているのではないでしょうか。

主への賛美は、レビ人にとって親から子へと受け継がせる最大の働きでした。そして、祭司やレビ人にとって、最高の奉仕とは、主を賛美すること、会衆の賛美をリードするということでした。

私たちは今、教会堂建設に向けて動き出していますが、それを通して何を目指そうとしているかを今一度心に留めるべきでしょう。礼拝音楽はみことばの説教と並んで礼拝の要です。その意味を改めて考え直してみましょう。

なお、ネヘミヤのときの礼拝では、ソロモンのときのように神の栄光の雲が宮に満ちるということはありませんでした。彼らは、それを実現してくれる救い主を待ち望んでいました。それから、約500年近くたって、神の御子ご自身がエルサレム神殿に入って来られました。人々はその方を十字架にかけて殺しましたが、彼は三日目に死人の中からよみがえることで、驚くべき神の栄光を現してくださいました。

そのことは、「キリストは、本物の模型に過ぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです」(ヘブル9:24)と記されています。

キリストこそ、最高の神の栄光の現れでした。それゆえ新約時代の礼拝のことが、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」(コロサイ3:16)と記されています。そのような礼拝を目指しましょう。