マルコ15章40節〜16章8節「空の墓から生まれる希望」

2012年4月8日

イエスの復活の記事は四つの福音書すべてにおいて、極めて生き生きと描かれています。私は最初その記述の違いに驚き、とまどいました。歴史的事実の記録なら、もっと記述に共通性があっても良いと思われたからです。しかし、記録の細かな違いに整合性をつけようとした形跡が見られないということ自体が、これら四つの福音書が、目撃者の記録をそのまま残しているということの証拠とも言えるということがわかって心が落ち着きました。

そして、今から百数十年前にエジプトでペテロ福音書と称される小さな羊皮紙が発見され、世界に衝撃が走りました。それは2世紀には多くの人に読まれていながら、同時に、それは偽物だと判断された記録でした。

たとえば、そのペテロ福音書と呼ばれる記録と、この四つの福音書を比べると、そこに決定的な違いがあることに気が付きます。それは、イエスが葬られたはずの墓が、誰一人目撃者のいない中で空になっていたということです。

四つの福音書は、すべて同じように、十字架で息を引き取られたイエスのみからだが、アリマタヤのヨセフによって引き取られ、女たちの見ている前で金曜日の日没前に葬られ、日曜日の朝に女たちが墓に行ったときには既に空になっていたということです。

しかも、イエスに従っていた者で、イエスの復活を期待していた者はなく、みな一様に、復活を信じがたいこととして受け止めていたということです。復活の何よりの証拠は、空の墓でした。

現在のエルサレムには、イエスの墓の上に建てられたと言われる聖墳墓教会と、今から百年あまり前に発掘された「園の墓」があります。前者には多くの聖画を飾った数々の黄金の礼拝室がありますが、後者はイエスの墓のイメージを今に伝えつつ空の墓を見せるとともに、後につけた木の扉にたった一言、「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」と英語で書いてあります。

私は27年ほど前に、その空の墓を見、そのみことばが扉に記されているのを見たとき、電流が走るように、空の墓こそが、私たちの信仰の出発点であることが分かりました。

マルコの記録は、四つの福音書の中で最も素朴で、空の墓の描写だけに焦点が当てられています。もっと詳しい説明が欲しいと思う人の期待を裏切るように、不思議な終わり方をしています。

しかし、その記録の素朴さ、また読者の様々な疑問を無視するような書き方に、これこそ最も古い復活の記録であるということが証しされます。

1.神の国を待ち望んでいたヨセフの行動

15章40,41節では、イエスが「息を引き取られた」ときの様子を、「イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たち」が「遠くから方から見て」いたと描かれています。マルコは、男については「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった」(14:50)でまとめ、復活の最初の目撃者として男性たちの存在をまったく無視します。

一方、女の弟子に関しては、「マグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメ」という三人の名を記録した後は、「マグダラのマリヤとヨセの母マリヤ」「マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメ」(15:47、16:1)というように名の記し方が変わりながら紹介されます。ある意味で、名の記し方に一貫性のないこと自体が、この記録が真実の証人によって記されたことの証しになります。

しかもその代表者の「マグダラのマリヤ」についても何の紹介もないばかりか、その心の動きも表現されません。この名が繰り返されるのは、目撃者に一貫性を持たせるためだけです。

しかも、「マリヤ」という名を敢えて繰り返しながら、イエスの母マリヤのことさえ省かれています。マルコは、読者の目を、人間以外に向けさせようとしていると言えないでしょうか。

それにしても、「このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた」(15:41)とあるのは不思議なことです。これは当時の女性の社会的な地位が低かったため、イエスについて来た者たちでありながら、男たちとは違い、ユダヤ人指導者からの攻撃を恐れる必要がなかったという面もありましょうが、とにかく神は、今、証言能力もないと見られていた女性たちをご自身の御子の復活の証人として用いようとされていたのです。

ここでは特に、「いつもつき従って仕えていた女たち」という描写が心に残ります。彼女たちは、イエスが死んだ後も、イエスに仕えようとしていました。その姿勢が、豊かに用いられようとしています。

そして、15章42、43節ではイエスが息を引き取られた後の様子が記されています。「すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので・・」とありますが、当時の安息日は金曜日の日没後に始まりましたから、ここでは、イエスの身体を葬る最後の時間の終わりが迫ってきたということが強調されています。

続けて、「アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った」と突然、新しい名が登場します。そして彼に関しては「ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった」と描かれます。

それにしても、ヨセフはイエスに死刑判決を下した最高議会のときはどうしていたのでしょう。そのときは欠席していたのか、それともイエスの死刑判決にいったん賛成して、その後、悔い改めたのかは、わかりません。

ただ、「思い切って」と敢えて記されているように、彼はイエスの十字架の場面を目撃した結果として、大胆に行動する勇気を得たと言えましょう。ただ、そこのことについてマルコは何も記述はしていません。

しかも、ヨセフに関しては敢えて、「みずからも神の国を待ち望んでいた人」であったと紹介されています。申命記21章22-23節には、木につるされた死体を「次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない」と記されています。

ヨセフはイエスの死体にふれることによって、身を汚したことになり、過ぎ越しの食事にあずかることもできなくなったはずですが、イエスを自分の家族として葬ろうとしたのです。また、他の議員仲間から、イエスの仲間として激しい攻撃を受ける可能性もありました。しかし、「神の国」への情熱が、今なすべき正しいことへと彼を動かしたと言えましょう。

しかも、この記述の中心は、何よりも、イエスが、犯罪人専用の共同墓地にではなく、富む者のための「新しい墓」に葬られた経緯を解説することにあります。

これはイザヤが、「墓は悪者どもと共にされるはずだったが、葬られたときは富む者と共にされた。それは、彼が暴虐を行なわず、その口に何の偽りもなかったから」(イザヤ53:9私訳)と預言していた通りでした。

ヨセフは、イエスの死体が共同墓地に投げ込まれるのを避けたいと熱心に願っていただけですが、結果的にそれによって、イザヤの預言を成就することになったのです。

そして、これこそ、イエスの復活が宣言される舞台設定になりました。共同墓地に投げ込まれた人が、復活して弟子たちに現われたと言っても、だれも信用できないからです。なお、これらすべての箇所で人物描写が驚くほどそっけなく思えるのは、これらの場面における隠れた主人公を前面に出すためと言えないでしょうか。

2.「イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた」

その後のことが、「ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた」(15:44、45)と記されます。

なお、このときの百人隊長は、イエスの十字架の死の様子を見て「この方はまことに神の子であった」と告白したその人であったことは間違いないことでしょう。当然ながら彼は、ヨセフの行動を支援する者として行動したことと思われます。

なお、これはヨセフがそれまで43節に記されていたように、「思い切って」行動することができなかったことが益に変えられたとも言えましょう。彼がイエスの弟子であるとわかっていたなら、ヨセフはイエスの身体を引き渡してもらうことはできなかったはずだからです。

そして、その後の忙しい行動が、「そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた」(15:46、47)と記されます。

イエスが息を引き取られたのは午後3時ぐらいでしたが、それから日が沈むまでの短い間に、これらすべてのことがなされました。女性たちはイエスのみからだをもっと丁重に葬ってさしあげたいと願っていましたが、それをすることはできませんでした。そして、それもその後の復活の証しにつながって行きます。

なお、当時の葬りは二段階に分かれていました。最初は遺体に香油を塗り、そして、匂いを消すための香料をふんだんに用いて亜麻布で包み、洞穴の中にしばらく放置します。すると肉が腐敗して溶けてなくなります。その後、骨だけを集めて、それを骨壺に入れて同じ洞穴か別の場所に安置しました。

とにかく、この自然な腐敗のプロセスを、悪臭を放つ醜いものにしないようにと、当時の人々はこの埋葬処理に時間をかけました。しかし、このときは安息日の始まりが迫っていたので、そこにいた女性たちは、安息日が明けてからもう一度丁重に葬りの処理をしたいと切望していたのです。イエスに対する彼女たちの愛が、このような行動へと彼女たちを動かしました。

男の弟子のほとんどは、ただ恐れて身を隠していましたが、女の弟子たちは心が張り裂けるほどの悲しみを味わっていました。そして、自分たちに今できることに心を集中していました。イエスはガリラヤにおいて、「心の貧しい者は幸いです・・悲しむ者は幸いです」と言われました。その幸いを、女たちが体験しようとしていました。

3.「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」

16章では「さて、安息日が終わったので」という記述から始まります。土曜の日没とともに安息日は終わっていました。「マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った」とは、土曜の夜のことだと思います。夜にはどの店も閉まっていたことでしょうが、彼女たちは大胆に行動しました。

「そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた」(16:2)とありますが、彼女たちは朝まだ暗いうちに家を出ることによって、日が上ったときにお墓につくことができました。とにかく、彼女たちは少しでも早くお墓についてイエスのみからだに香料を塗って差し上げたいと必死でした。

そして、彼女たちは、墓に向かう途中で、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていましたが、墓について、「目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」というのです(16:4)。

そこでのことが、「それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた」と記されます(16:5)。これは明らかに神の御使いです。

そして、青年は、「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です」(16:6)と言いました。

私たちも、空の墓を心の目で見るように招かれています。女性たちは、別に、イエスの復活を期待してその洞穴に向かったわけではないことは明らかです。彼女たちはあくまでもイエスの身体を丁重に葬ることしか頭になかったのです。

その彼女たちが、誰よりも、墓が空っぽであることに驚き、唖然としているのです。空の墓こそ、イエスの復活の何よりの証拠であることは明らかです。それ以外の説明は成り立ちえません。

そこで引き続き、この青年は、「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい」と彼女たちに告げました(16:7)。イエスはかつて弟子たちに向かって、彼らがイエスを見捨てるということを予告して、「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると羊は散り散りになる』と書いてありますから」と言われましたが、そのときすぐに続けて、「しかし、わたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤに行きます」とご自身の復活と、ガリラヤでの再出発のことを既に語っておられました(14;27,28)。

イエスは卑怯にもイエスを否認し、逃げてしまった弟子たちに向けて、ご自身の復活を、女性たちを通して知らせるととともに、神の国の宣教を始めたガリラヤから再び、弟子たちが神の国の福音を宣べ伝えることを求めたのです。

イエスは弟子たちを、信仰の原点に立ち返らせようとしておられます。弟子たちは、これを直接にではなく、女たちから聞いたことで謙遜にされました。

ただ、マルコ16章8節では、その後のことが、「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と記されています。

なお、16章9節以降は、最も古い写本のどこにも残ってはいない記録です。ですから、本来のマルコの記事は、8節までしか残っていないということは多くの保守的な聖書学者も認めていることです。

ただ、これは、どう考えても不思議な終わり方です。多くの学者は、マルコは本来、その後の女性たちの行動やイエスと弟子たちのガリラヤでの出会いのことを書いていた可能性が高いと思われます。

ただ、それはマタイの福音書にも明確に記録されていることですから、それによってイエスの復活の物語が変わることはないとも言えましょう。

それにしても、摂理的にこの福音書は、女たちが動転していたということで終わっていること自体が、当時の弟子たちにとって、イエスの復活があり得ない、信じ得ない話であったことが明らかになります。残念ながら、今も、多くの人々が、イエスの復活は弟子たちが創作した物語であると主張します。

しかし、このマルコの終わり方に明らかなように、イエスが何度もご自身の復活に関して語っていたにも関わらず、イエスの復活は、どのような敬虔な弟子たちにも理解しがたいことであったということです。

近代の合理主義の影響を受けた学者たちが、イエスの復活を、「歴史的な事実というよりは、弟子たちの心の中に生まれた信仰の現実」などと説明する場合がありますが、昔の人にだって、イエスの復活は、とうてい信じられないことでした。

もし復活が初代教会の信仰の産物だとしたら、女たちが最初の復活の証人として描かれはしません。それは証拠として認められなかったからです。女たちは、大きな石がわきへ転がされたことと、墓が空であったという事実に、動かされるようにして、恐る恐る男の弟子たちに知らせたのです。

しかも、弟子たちには、イエスのからだを盗んで、復活の話しを捏造する動機は全くないことは明らかです。彼らはイエスの復活を信じられなかったからあれほど臆病だったのであり、また、イエスの復活を確信できたからこそ、その後、命がけで福音を伝えることができたのです。

誰が、自分たちが捏造した嘘のために命をかけるなどということができるでしょう。

4.「こうして、福音があらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません」

16章9節以降は、マルコの末尾が失われたことを二世紀または三世紀の信徒たちが書き加えたものと思われます。それまでとは文体も描写の仕方も明らかに異なるからです。何よりも不思議なのは、この期に及んでマグダラのマリヤのことが、「イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった」という紹介が記されていることです。

しかも、この後に記されていることはすべて、他の福音書に記されていることの寄せ集めです。当時の教会の多くは現在のようにまとまった聖書は持っていませんでした。ですから、このように他の福音書からの記録を書き加えることには大きな意味があったと思われます。

それにしても、16章14節に、「しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである」のは興味深いことです。ここでもイエスの復活が弟子たちにとって想定外のことであったということが何よりも強調されています。

また15節でイエスが弟子たちに言ったことばは、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と記されますが、これは厳密には、「者」ではなく、被造物すべてを指すことばです。宣教の働きは人間ばかりか、すべての被造物を対象とするという意識が初代教会にはあったということを現していると思われます。

また17,18節の信じる者たちに伴うしるしは、「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず」などと、理解しがたいことが書いておありますが 初代教会のペテロやパウロの宣教に多くのしるしと不思議が伴ったことは確かです。奇跡を完全に否定するのは伝えられている信仰の基本から外れることになります。

なお、マルコ自身、すでに13章10節でイエスの言葉を「こうして、福音があらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません」と言いながら、その後、迫害の中でも聖霊ご自身がひとりひとりのうちに働いてイエスのみわざを証させてくださると記されています。

私たちは宣教の内容と方法を人間的に考えすぎる傾向があるかもしれません。宣教の中心はあくまでも神の国であり、イエスの十字架と復活です。また宣教の方法の基本は何よりも聖霊のみわざです。

使徒パウロは後にイエスの復活を大胆に語った後、その結論を、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と言いました。これこそ復活の記事から生まれる私たちの日々の生活への指針です。

私たちは、自分たちの労苦がむだになるように思えることがあります。努力が目に見える実を結ばないことを見るのは、非常に疲れることです。しかし、アリマタヤのヨセフもマグダラのマリヤも、自分たちの行動がどのような結果をもたらすかを知らずに、目の前のできることに集中しました。彼らはその結果、世界の歴史を変えた出来事の最高の舞台を設定し、また最初のキリストの復活の証人とされたのです。

この時代は、いつでもどこでも、結果ばかりが求められる風潮が見られます。しかし、主は、私たちの想像を超えた形でご自身のみわざを進めておられます。だいたい、「空の墓」こそが、最大の復活の証拠となるということ自体が不思議なことです。それは、復活などあり得ないと主張する人々への最大の反証とも言えましょう。

以前に流行った「ベンハー」という映画は、無神論者がイエスの復活を否定しようとあらゆる証拠を集めようとして、復活以外に「空の墓」の意味を説明することができないという事実に圧倒された人が書いた小説をもとにしています。今、何の結果も見えないと嘆いている人は、まさに空の墓の前にたたずんでいる人です。

マルコは、アリマタヤのヨセフや女性たちによる絶望の中での淡々とした行動だけに読者の目を向けさせています。そして、空の墓こそ、復活の最大のしるしであるとは、今、何の結果も見えないという事実こそが、あらゆる希望の源となることを示します。

先の希望が見えない中で、目の前に示されている働きを一歩一歩忠実に行うことから世界の歴史が変わりました。

そして「あなたがたの労苦は、主にあってむだではない」というのはすべての信仰者にとっての最も大切な常識、信仰の基本です。一方、エデンの園の外においては、労苦がむだになると思えることは、日常茶飯事です。しかし、私たちの救いとは、その空しさを超えたところに見られるものなのです。