「ユダヤ人の王としての十字架」

2012年4月6日

私たちは誰しも、平穏な毎日を過ごしたいと願います。それが人情でしょう。しかし、一年前の東日本大震災のように、良い人にも悪い人にも突如、襲ってくる災難があります。そのような中で、苦しみを自分のせいでも、また人のせいでもなく、神の御手の中にあるものと受け止められる人は幸いです。

苦しみという字は、三本の十字架が口の上に立っているというように解釈することもできます。もちろん、これは漢字の由来に反するこじつけに過ぎませんが、三本の十字架とは、まさに強盗の間に挟まれて十字架にかけられたイエスの御苦しみを思い浮かべることができます。

福島原発のすぐそばに立っていた福島第一聖書バプテスト教会の佐藤先生が次のようなことを話しておられました。教会員のお知り合いの方が、他県に逃れて、体調を崩し、病院に駆け込んだところが、原発の地域から来たと言うだけで、病院の外で長く立たされて待たされたというのです。また、ある教会員の方は、他県の市役所に転入届を出そうとしたら、「物でも欲しくて来たのですか」と言われたとのことです。また、別の所では、「福島ナンバーの車をこの地域に止めないでください」と言われたり、まるで、福島出身の方が汚れているかのような対応をされたことがあったとのことです。

そのような中で佐藤先生は、詩篇119篇71節の新共同訳が心に響いて来たのとことです。そこには、「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたのおきてを学ぶようになりました」と記されています。なぜなら、イエス様こそが、誰よりも激しくののしられ、嘲られた方だからです。

イエスの十字架の場面には、人の身勝手さ、おぞましさが、これでもか・・これでもか・・というほどに描かれています。だいたい、ペテロを初めとする弟子たち自身が、真っ先にイエスを見捨てました。

死の脅しにも屈すことなくイエスに従うと言っていたペテロは、ある女の人から、イエスの仲間ではないかと言われただけで、神に堂々と偽りの誓いを立てながら、「そんな人は知らない」と言ってしまいました。

イエスの弟子の集団の会計係をしていたユダもイエスを銀貨と引き換えに売ってしまい、偽りの口づけでローマの兵士たちを引き寄せました。また、イエスを十字架にかけろと罵ったユダヤ人たちは、そのたった五日前には、ダビデの子、万歳と言いながら、喜び迎えた人々だったのです。人の心は何と変わりやすいことでしょうか。

また、ローマの法律の執行者である総督ピラトも、イエスがローマの法律では無罪であることが分かっていながら、自分の身を守るために、イエスに死刑判決を下しました。

そしてローマの兵士たちは、イエスをユダヤ人の王として、散々にあざけりののしったあげく、イエスが苦しんでいるその足元で、イエスの衣をくじ引きにしていました。

まるで、イエスが、すべての人々の最も醜い性質を引き寄せているかのようです。

そして、実際、イエスの十字架は、サタンの攻撃をご自身の身に引き受けるという意味がありました。イエスはまるで両手を広げて、人々の不満、怒り、憎しみ、拒絶、辱め、優越感、サディズム的心理、それらの人間の罪をご自身の身に引き寄せているかのようです。

今回の震災でも、放射能汚染の収拾をめぐって、各地のエゴが丸見えです。瓦礫処理はまったく進みません。原発の再開を巡っても、安全性以前に、それぞれの利害関係が前面に出ています。

不安な状況は、本来やさしいと思われた人のエゴイズムを引き出します。私たちも、自分の身に危険が及びそうなときには、急に身勝手な行動に出たり、また、自分に不利益をもたらしそうな人には、急に高飛車に攻撃を加えるということがあります。

しかし、イエスは、そのような人々の内側にある身勝手な心をご自身の身に引き寄せ、そして、罪人の代表者として、私たちの代わりに、神の救いを求めてくださいました。それこそが、「わが神、わが神・・」という叫びの基本的な意味です。

そして、そのようなイエスの姿を見る時に、私たちの中にある怒り、憎しみ、妬みのような醜い思いが不思議に溶かされて行くのが分かります。

そして、不思議に、苦しみの中でも、神や人を恨む代わりに、神と人とに対する愛が生まれてきます。これは理屈では説明できない、十字架から生まれる不思議です。

実際、放射能問題で避難を余儀なくされた福島第一バプテスト教会の方々は、誰も、「神がおられるなら何でこんな目にあわされるのか・・」と言うことなく、かえって苦しみの中で主の慰めと守りを体験して、その家族も、次々とイエスを救い主として信じるようになったというのです。

イエスの十字架の上には、「これはユダヤ人の王、イエスである」という罪状書きが記されていました。これはたしかに、嘲りのためでもありますが、それ以上に、これは神ご自身が記させた十字架の意味を表す神のことばでもあります。それは、ユダヤ人の代表者として、真のユダヤ人としての誠実を貫くという意味がありました。

当時のユダヤ人の問題は、ローマ帝国の暴力支配に対して、同じように暴力で対応しようとしていました。つまり、この世の王国と神の民の王国が同じ原理で動くようになってしまっていたのです。私たちクリスチャンも、知らないうちに、この世の原理を身に着けて、力に対して力で応じるという姿勢に駆り立てられてしまいます。

先日も、土地の交渉のことで、僕は不動産業者に真っ向から怒りと不満をぶつけてしまいました。それはこの世の脅しの原理をやはり自分が身に着けていることの表れでもありました。

そのことを書いたら、あの被災地石巻で、誠実に被災者に仕えておられる友人の金谷先生が、「僕も、昔、会堂の土地取得のことで、ひどい目にあわされたことがあります。それを通して、へりくだるということを学ばされました。そして、へりくだるということを通して、近隣の人々の理解を得ることができました」と、どきっとするようなことを書いてきてくださいました。

彼の言葉が僕の心に響くのは、彼が口先だけではなく、本当に、僕とこの教会のために祈っていてくださるということが分かっているからです。

イエスは真の神の民、イスラエルの王であったからこそ、謙遜と柔和の姿勢をもって、人々の罵りや嘲りに耐えることができました。そして、イエスの王としての権威は、何よりも、苦しみを忍ぶことができるという力に現されていました。

たとえば、福島第一バプテストの佐藤彰先生の誕生日は3月11日でした。そして、奥様は二十年も前から、教会員がバスに乗って旅を続けるという不思議な夢を見ていたそうです。そして、今回、このような災いに会ったとき、自分たちは神から特別に期待され選ばれたのだと信じることができたとのことです。

多くの人々は、王様は、楽をできる立場だと誤解していますが、本来の王の責任は、民全体の苦しみを担うということに現されます。

イエスの死刑判決は、まずユダヤ人の最高議会で宣告されましたが、その最大の理由は、イエスがご自分のことを「神の子キリスト」であると認めたばかりか、「今からのち、人の子が力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」と、ご自身がこれから神の栄光に包まれると言ったことにあります。

それを聞いた人々は、イエスをとんでもない大ウソつき、神を冒涜する者だと思いました。しかし、イエスがユダヤ人の王として、人々のあざけりを受けて、息を引き取られた様子を見ていたローマの百人隊長は、「この方はまことに神の子であった」と認めることになったのです。

しかも、イエスが息を引き取られた時、「神殿の幕が上から下に真っ二つに裂けた」ばかりか、「地が揺れ動き、岩が避け」、「墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちの身体が生き返った」というのです。まさにイエスはご自身の栄光を十字架で現してくださいました。

苦しみは、しばしば、何か大きなことが起きるきっかけに変えられます。福島第一聖書バプテスト教会は、昨年9月16日に福島県いわき市に1420㎡の土地、当教会の14倍の広さの土地を取得しました。

この三月にはその近くに、高齢者用アパートが建ち上がり、8月には、鳥が翼を広げ元の地に向かって新しい旅立ちをする形の「祈りと復活の」の教会堂が建ち上がることになっています。

それは世界中から献金が集まった結果として可能になりました。それは、すべてのものを失った彼らの痛みを、自分の痛みとしたいという心が多くの信仰者のうちに芽生えたからです。途方もない災いが、途方もない目に見える愛の交わりを生み出したのです。

イエスの十字架には、憎しみを愛に変える力、絶望を希望に、不安を平安に、孤立を和解に変える力があります。その意味で、十字架は何よりもサタンと世の力に対する勝利でした。サタンは、わざわいから憎しみを生み出す専門家です。しかし、イエスはわざわいから愛を生み出してくださいます

私たちの人生にはいつも様々な問題が横たわっています。しかし、キリストにあっては、すべての災いは、神への愛と人への愛を成長させてくれるきっかけとされるものなのです。

イエスは神の民、ユダヤ人の王として十字架にかかってくださいました。それは脅しと「おくびょうの霊」が支配する国ではなく、真の「力と愛と慎みとの霊」が支配する神の国をこの地の実現するためでした。