イエスはエルサレム神殿を指して「あらゆる民の祈りの家」と呼ばれましたが、それと同時に、神殿の崩壊を告げました。それから40年もたたない紀元70年に、地上のエルサレム神殿は廃墟とされ、今に至っています。そして「あらゆる民の祈りの家」としての教会が全世界に広がっています。 “マタイ21章17〜22節「神のさばきから生まれる平和」” の続きを読む
マタイ21章12〜17節「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」
主が私たちの教会に与えられた ヴィジョン は週報の右上に記されています。ただ、教会形成の上でもっと分かり易い指針があった方が良いという意見もあります。その参考になるのが今回の箇所です。 “マタイ21章12〜17節「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」” の続きを読む
マタイによる福音書1章「ダビデの子としての救い主の誕生」
新約聖書の最初が一見、無味乾燥にも思えるイスラエルの系図から始まっています。しかしそれは主 (ヤハウェ) がイスラエル王国のダビデ王に、「あなたの家とあなたの王国は。あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16) と約束されたことの成就を意味します。 “マタイによる福音書1章「ダビデの子としての救い主の誕生」” の続きを読む
マタイ21章1〜11節「救い主のエルサレム入城」
今から百年余り前にフランスの画家ポール・ゴーギャンは、「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、 われわれはどこへ行くのか」という長いタイトルの大きな絵を描きます。 “マタイ21章1〜11節「救い主のエルサレム入城」” の続きを読む
マタイ20章29〜34節「イエスが通り過ぎると聞いて……」
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福音書には多くの奇跡的な癒しが描かれます。それらはすべて「天の御国(神の国)が目の前に来た」ことのしるしでした。 “マタイ20章29〜34節「イエスが通り過ぎると聞いて……」” の続きを読む
マタイ20章17〜28節「皆のしもべ(奴隷)になりなさい?」
キリスト教は奴隷制を擁護してきたと批判されたことがあります。実際、イエスは弟子たちに向かって「皆のしもべ(奴隷:slave)になりなさい」なとど、とんでもないことを命じられました。 “マタイ20章17〜28節「皆のしもべ(奴隷)になりなさい?」” の続きを読む
マタイ20章1〜16節「わたしの善が、あなたの目には悪なのか」
多くの人は他者との比較で自分が受けている祝福を測ります。それゆえあまり苦労していない者が特別に祝福されると、それを不公平と思いたくなります。 “マタイ20章1〜16節「わたしの善が、あなたの目には悪なのか」” の続きを読む
ぶどう園の労働者のたとえ〜マタイ20章1–16節
明日の礼拝ではマタイ20章1–16節の「ぶどう園の労働者のたとえ」からお話ししますが、これを現代の日本で課題になっている同一労働同一賃金の理想からすると、とんでもない不条理とも言えます。 “ぶどう園の労働者のたとえ〜マタイ20章1–16節” の続きを読む
マタイ19章16〜30節「イエスの麗しさに魅せられて従う」
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イエスは山上の説教で、「だれも二人の主人に仕えることはできません……あなたがたは神と富とに仕えることはできません」と言われました (マタイ6:24)。 “マタイ19章16〜30節「イエスの麗しさに魅せられて従う」” の続きを読む
マタイ19章10〜22節「イエスの招きを受け入れられる幸い」
多くの女性はルツ記のストーリーに感動します。しかし、女性の人権の観点から考えると、これはとんでもない話とも言えます。物語の核心は、没落したエリメレクの家の再興のために、ユダヤ人から軽蔑されていたモアブの女が自分の身を、親戚の家に差し出すという話です。 “マタイ19章10〜22節「イエスの招きを受け入れられる幸い」” の続きを読む