マタイ22章15〜22節「あれか、これか、を超えた神の視点」

2022年4月10日

私たちの世界ではしばしば、明確な対立軸を作りながら人々の心をまとめて権力を掌握し、変革を成し遂げるという手法が用いられます。しかし、根底に争いと憎しみを駆り立てる論理があることは次の問題を生み出す種となります。

私が若かった時には、多くのクリスチャンが非武装中立論を支持していたように思います。しかし、その理想を強力に主張していた日本社会党の党首が1994年に首相になったとき突然、自衛隊と日米安保条約を容認するという現実路線に転換します。そして今や、NATOという軍事同盟の会合に日本の外務大臣が参加することをほとんどだれも反対もしないという世論に変わっています。

またロシアのウクライナ侵攻によって、ドイツのメルケル政権が16年間進めてきたロシアとの融和政策が真っ向から批判される事態にもなっています。時代の変化とともに、それほどに世論が大きく揺れることに驚きを禁じ得ません。

私の少し前の学生世代では「安保反対、非武装中立」が半ば常識で、それに対する反対論を公言しようものなら袋叩きにあっていました。

今から二千年前のエルサレムでも、ローマ帝国との関わり方において国論が二分されていました。ローマとの融和によって国の安定と繁栄を守る現実論者が「ヘロデ党」と呼ばれました。一方、「パリサイ人」たちは律法を守るためにはローマ帝国との戦いも覚悟するという理想主義者でした。

両方の立場がそれぞれ多くの民から支持され、それは国論を二分するような論争になっていました。しかし、イエスはその対立を超えた神の視点を提示していました。

1.「パリサイ人たちは……相談した、どのようにイエスをことばにおいて罠にかけようかと」

イエスはこの二日前に、イスラエル王国を復興する救い主と期待されつつ、群衆の歓呼を受けてエルサレムに入城しました。多くの人々は、イエスが数多くの奇跡を行ない、新しい神の国の福音を宣べ伝えていることを知っていました。

そして人々は、イエスが新しいイスラエルの王として、この国をローマ帝国からの独立に導いてくれることを期待していました。当時の多くの人々が待ち望んでいた救い主の姿は、この約二百年前に、エルサレム神殿をギリシャ人の圧政から解放したユダ・マカベオスのような人でした。

22章15、16節では、「そのころパリサイ人たちは出て来て相談した、どのようにイエスをことばにおいて罠にかけようかと。彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わした」と記されています。

この「パリサイ人たち」とは、イエスが神殿から商売人を追い出した後に、「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか」と質問してきた「祭司長たちや民の長老たち」と同じ仲間です(21:23、21:45)。彼らはイエスから何かの政治的な発言を引き出して、訴えの口実を得るために、「自分の弟子たち」を、敢えて正反対の政治的見解を持つ「ヘロデ党の者たちと一緒に遣わした」というのです。

「ヘロデ党の者」とは、ローマ帝国の権力者に媚びへつらって自分の生活を守ろうとする体制派とも見られますが、国際政治の力関係を冷徹に見て行動する現実主義者と呼ぶこともできましょう。一方、「パリサイ人」は、自分たちの信仰深さをアピールしたがる偽善者とも見られますが、神の教えを命がけでも守ろうとする理想主義者と呼ぶこともできるかもしれません。

「パリサイ人たち」は神の民イスラエルがローマ帝国の文化に同化されることがないように、聖書の教えを日々の生活に適用することに情熱を傾けていました。多くのユダヤ人が今に至るまで、神の民としてのアイデンティティーを保ち続けることができたのは、彼らの功績とも言われます。

とにかく、彼らにはそれぞれ民衆に訴える明確なスローガンがあり、当時のユダヤ人は、ヘロデ党に親近感を持つか、パリサイ人に親近感を持つかで二分されていました。

これはソ連崩壊後のウクライナが対ロシア政策を巡って国論が二分されて揺れてきたことに似ています。しかも、そこではロシアのスパイ組織の暗躍が見られました。しかし、2014年のマイダン革命で親ロシア派が敗北したとき、ロシアの軍事侵攻が始まりました。そのプーチンを必死に宥めていたのがメルケル首相でしたが、彼女が今度は批判の矢面に立たされています。

そしてここで「パリサイ人の弟子たち」は、イエスを「ことばにおいて罠にかける」ためにおべっかを使いながら、「先生。私たちは知っています、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方であることを。それは、あなたが人の顔色を見ない方だからです」と言います (16節)。

これは極めて皮肉に満ちた状況です。かつて「祭司長たちや民の長老たち」がイエスの権威について質問をしたとき、主は反対に、「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか、天からですか、それとも人からですか」と問い返されました。そのとき彼らは「群衆が怖い」と思いながら、正直に答えることができませんでした。

それで彼らはここでイエスのことを「人の顔色を見ない方」という面から評価したのでしょう。

しばしば、お金のことを気にする人に限って、人前では「私はお金には無頓着です」などと言いたがります。同じく、人の目を気にする人に限って、「私は真実さや真理を大切にしています!」などと敢えて言います。

でも、彼らからしたら、イエスはKYな人、「空気を読めない人」と言いたかったことでしょう。

しかし、彼らはそのような批判めいたことばは横に置いて、イエスから本音を引き出そうとリップサービスを並べました。多くの人には、褒め殺しか、相手の怒りを引き起こすようなことばが有効だからです。

2.「なぜわたしを試すのですか……税として納めるお金を見せなさい」

22章17節において「パリサイ人の弟子たち」は、「ですから、どう思われるか、お聞かせください」と言いながら、当時のホットな話題として、「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」という質問をしました。

マルコの並行記事では、「納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか」ということばが追加され、分かりやすく二者択一の答えを迫る問いかけになっています。

イエスにとっても、当時の宗教指導者にとっても、「主 (ヤハウェ) は王である」(詩篇96:10) という告白こそが信仰告白の核心でした。ところが、彼らの時代は、「ローマ皇帝こそが王である」と言わなければ生きられませんでした。その象徴が「カエサル(ローマ皇帝)に税金を納める」ということでした。

イエスのことを「ダビデの子にホサナ」と叫んで迎えたエルサレムの群集も、ローマ皇帝の支配から解放されることを望んでいました。そのような中でパリサイ人たちは、イエスを尊敬しているふりをして、本音を引き出そうとしました。

ここでもしイエスが、「税金を納めることは律法にかなっている」と答えるなら、宗教指導者たちはイエスをローマ帝国の支配にへつらう偽指導者として非難する、格好の証拠を引き出すことになります。すると人々はイエスに失望してしまうことでしょう。

しかし反対に、イエスが「税金を納めることは律法に……かなっていないと答えるなら、イエスをローマ帝国への反乱を扇動する革命家としてローマ総督に訴えることができます。彼らは、今までのイエスの言動から、彼を「ローマ帝国の敵」として訴えることができると期待し、そのような答えを引き出すためにイエスを持ち上げるようなことを最初に言ったのだと思われます。

実際、ルカ22章70節によれば、この三日後にイスラエルの指導者たちは、イエスを最高議会において尋問し、ご自分が「神の子」であるとの発言を引き出します。その上で、彼らはイエスをローマ総督ピラトのもとに連行します。

そのとき彼らはイエスを、「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました」と訴えました (同23:2)。これはまったくの嘘の訴えとは言えません。なぜなら、当時のローマ皇帝は自分を「神の子」「最高の祭司」だと紹介していましたが、イエスがご自分を「神の子」と認めたことは、ローマ皇帝の権威を否定したことと理解するのが当時の常識だったからです。

当時の人々にとっての「救い主(キリスト)」とは、「イスラエルの王」としてローマ帝国からの独立を勝ち取るはずで、当然にローマ皇帝への納税を禁じるはずだと思われていました。

とにかく、彼らの質問にはイエスを訴える明確な口実を引き出そうとする魂胆が見え見えでした。そのためにパリサイ人たちはこの場に「ヘロデ党の者たち」を同席させたのです。それは彼らが、ローマ帝国への反抗を扇動する人々をローマ総督に訴えることに情熱を傾けていたからです。

それに対し「イエスは彼らの悪意を見抜いて、『なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。税として納めるお金を見せなさい』と言われました」(19節)。そして、「彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持ってきた」と描かれます。

このとき彼らは、自分たちが嫌悪するものを持ち歩き、それに頼っていることを認めざるを得なくなります。当時のローマ帝国のすべての支配地で貨幣として流通していた「デナリ銀貨」には、皇帝ティベリオスの肖像画の下に、「アウグストス・ティベリオス、神聖なるアウグストの息子」と記され、裏には「(ローマの宗教儀式の)最高祭司」と記されていました。

それは、当時のユダヤ人にとっては、異教の神殿のお守りを持ち歩くような、嫌悪すべき現実でした。彼らはそんなものを一切持つことなく暮らしたかったことでしょう。

しかし、それは必需品でもありました。神殿に献げる時だけは、両替人を用いてその銀貨を偶像のない通貨に両替しましたが、それでは日常の商業取引はできません。

しかも、彼らの多くは、ローマの軍隊が守る通商路の恩恵を受けていました。この銀貨は、生活を保証するシンボルのようにも見えました。

ここでイエスは、彼らが持ってきたその銀貨を手にしながら、「これはだれの肖像と銘ですか」と尋ねました。それに対し、彼らは、しぶしぶ、「カエサルのです」と答えざるを得ませんでした。

多くの人は他の人を批判するときには、自分の置かれている現実を忘れています。昔、ある大臣を、「あなたは、疑惑の総合商社だ!」と攻撃した女性議員が、後には、秘書給与流用問題で、「疑惑の人民公社!」と非難されるようになったように、偶像礼拝に関して人間的な厳しい規範を作っていたパリサイ人たちは、自分たちが嫌悪する対象を生活のために持ち歩いていることを認めざるを得ない状況に追い込まれました。

イエスは、彼らのそのような矛盾を、デナリ銀貨を見せるように要求することで人々の目に明らかにしました。この時点で、彼らの敗北は明らかになりました。

注目すべきなのは、イエスは、彼らの矛盾を決して真っ向から非難をしてはいないということです。ただ彼らが気づかざるを得ないように導いただけです。

3.「それなら、返しなさい、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」

その上でイエスは、「税金を納める」という表現を避けながら、「それなら、返しなさい、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と言われました (21節)。これは、表面的には、税金を納めることを正当化しているようにも聞こえますが、主の意図は彼らの問いに明確な返事も与えず、彼らの発想を変えさせることにありました。

イエスのことばは、ローマの貨幣を使いながら、それで生活をしていることに疑問を感じない彼らに、「あなたがたは、ローマ帝国の権威を否定しながら、皇帝が保障する通貨を持っているのですよね。こんなカエサルの像のついたものは早くカエサルのもとに返してしまいなさい」という皮肉を言ったとも解釈もできます。

パリサイ人たちはローマ帝国の支配からの独立を目指しながら、実際は、ローマ帝国の通貨を使い、その政治的な保護のもとにあるエルサレム神殿のシステムによって潤っていました。

つまりイエスは、当時の「ヘロデ党」に歩み寄るような意味で、「あなたがたはローマ帝国で経済的な便宜を受けているのだから、その現実を受け止め、つべこべ言わずに税金を納めるように」などと、権力への服従を訴えたわけではありません。

イエスは一貫して、お金の奴隷になることを戒め、またローマ皇帝にたましいを売るような生き方を戒めておられました。

同時にイエスは、「ローマ皇帝の肖像がついた銀貨を持ち歩くことは偶像礼拝になる……」などと、現実離れした偏狭なことを教えたわけではありません。

親に精神的に依存している人に限って親の悪口を言うということがありますが、政治権力に対する姿勢も、パリサイ人のような反抗でもなく、ヘロデ党のようなへつらいの服従でもなく、別の見方が必要なのです。

そしてイエスは続けて、「そして神のものは神に」と言われましたが、原文では「返しなさい」ということばはありません。これは不思議な表現です。当時の銀貨がローマ皇帝の像(イメージ)を刻印していたと同じように、私たち人間は、神のかたちイメージ)に創造されています。

人はみなこの世界に神のイメージを現すために置かれたのです。ところが人は、自分を世界の善悪の基準、神としてしまい、神のイメージとして生きることをやめてしまいました。それに対し「神のものは神に!」ということばは、ローマの銀貨をカエサルに返すのと同じように、自分が神のイメージに創造されたという原点に立ち返るように勧めたことばです。

当時の「ヘロデ党の者たち」は、ローマ皇帝を自分の王とすることが現実的だと居直っていました。一方、パリサイ人たちは、自分たちはローマ皇帝ではなくイスラエルの神を自分の王としていると言いながら、心の中では自分を神の立場に置いて、人々をさばいていました。

それに対し、「神のものは神に」とは、生活すべてが神のご支配の中にあることを謙遜に認め、いつでもどこでも神のご意思に従って生きることを指しています。この世の権力に対しても、「神によって立てられている」(ローマ13:1) という尊敬の心を持ちながらも、最終的には、神の権威と矛盾するときには神のことばに従うという覚悟が求められています。

その結果が、「彼らはこれを聞いて驚嘆した。そしてイエスを残して立ち去った」(22節) と記されます。これは、彼らがもう、ことばによってイエスを罠にはめるようなことはできないと諦めたという意味です。

ただそれで彼らはイエスを排除することを諦めたのではありません。彼らはこれからこの世の権力という暴力を用いてイエスを殺すために動き出します。

パリサイ人たちは、ローマ帝国のデナリ銀貨を持ち歩きながら、ローマ帝国との戦いを励ますようなことを教えていました。またローマ帝国の権威を否定するようなことを言っていながら、イエスを殺すためには帝国の権威を利用します。何と矛盾に満ちていることでしょう。

それにしてもイエスはしばしば、「あれか、これか」の選択を迫る質問に、まったく別の角度からの答えを示されます。今も、多くの人々が、「白か黒か」という二者択一の考え方の中でにっちもさっちも行かなくなっています。

しかし、それこそサタンの罠です。どちらの選択にも問題が見えるときは、一呼吸おいて神の前に静まることが大切です。そして、問題を別の角度から見るという知恵を求めることです。

この箇所から、「カエサルの支配」と「神の支配」を区別する政治と宗教の分離の原則を読み取る人々が歴史上に多くいました。しかし、政治を動かしているのはその時代の集合的な国民意識のようなものです。

当時は政治的独立を熱望するユダヤ人の意識に対し、世界制覇を願うローマ人の意識があり、また現代的には領土問題を巡って対立を激化させるナショナリズムがありますが、真の神のご支配を信じる者は、もっと別の神の視点からこの世界の情勢を観察し、この世の政治に対しても冷静な見解を提示すべきでしょう。

二者択一を超えた神の視点を、神を知らない人々に分かち合いたいものです。

イエスの時代の人々は、ローマ皇帝の支配から独立さえできればみんな幸せになれると期待していました。しかし現実は、イスラエルはその百七十年ほど前に独立国家を形成しながら、内部の権力争いで自滅したばかりでした。

真の問題は、ローマ人の支配以前に、互いの憎しみを増幅させるような意識にありました。この後、歪んだ民族主義者の勢力がますます強くなり、無謀な軍事行動を生み出し、ついにはローマ皇帝軍の攻撃を招いてしまいます。そしてその後、ユダヤ人は約二千年間近くにわたって国土を持てなくなります。

イエスが「それなら、返しなさい、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と言われたとき、権力への妥協でもなく、反抗でもない、新しい視点を示されたのです。

後に使徒パウロは皇帝ネロの支配下で、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです……彼は無意味に剣をおびてはいないからです」(ローマ13:1、4) と、剣による支配にさえ理解を示したかのようですが、それはこの世の権力を神のご支配のもとで見直すという視点を示したもので、権力者の横暴を正当化するものでは決してありません。

イエスの教えは、現在の経済制度にも適用することができます。たとえば、自由主義経済は、勝者と敗者が生まれる弱肉強食の世界とも言えますが、そのシステムを否定してしまえば、政治家が資源の配分から消費までをコントロールせざるを得なくなります。それは、権力者の横暴と腐敗という別のより大きな問題を生み出します。

本来、拝金主義にブレーキをかけるのは政治家の役割以前に、様々な宗教家の責任でした。かつての日本でも、それなりの職業倫理が社会的通念になっていたとも言われますが、それが通用しなくなりつつあるのが心配です。

アメリカではお金の管理に関する講座を教会が開き、多くの人々がそこで立ち直っているとも聞きます。聖書には驚くほど多くのお金の話が出てきます。それはお金の大切さとともに、限界と危険を教えるためです。

イエスは、「だれも、二人の主人に仕えることはできません……あなたがたは神と富とに仕えることはできません…… まず神の国と神の義を求め(捜しseek)なさい」(マタイ6:24、33) と言われました。あなたの心の中で、神との交わりが常に第一とされ、神が神としてあがめられているでしょうか?

イエスは、お金を「カエサルのもの」と呼びましたが、それは、社会のシステムを機能させるための道具に過ぎません。私たちはそれに頼りながら日々の生活をしています。道具が良いか悪いかを論じる以前に、使いこなす知恵が大切です。

その第一は、あなたの主人は誰なのか、あなたはどなたに仕えようとしているのかを問うことです。創造主だけがあなたのいのちを守ることができる方です。

私たちは日々、様々な問題を前にして、「あれか、これか」の選択を迫られていますが、地上的な問題の解決は、必ず次の問題を引き起こすということを忘れてはなりません。

それよりもはるかに大きな問いかけは、「問題を抱えたまま生きる力」ではないでしょうか。「あれか、これか」の対立軸を見せて、人と人とを争わせることこそ、サタンの常套手段です。確かに目の前の問題に蓋をし、見るべきことを見なくなるのも大きな問題ですが、徹底的に互いを非難し合うような状況は、より大きな「悪」を招く原因ともなります。

イエスは目の前の問題を根本的なところに立ち返って見るようにと、私たちの心を導いておられます。