マタイ21章1〜11節「救い主のエルサレム入城」

2021年12月12日

今から百年余り前にフランスの画家ポール・ゴーギャンは、「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、 われわれはどこへ行くのか」という長いタイトルの大きな絵を描きます。

これを理解しているとき、目の前の様々な問題を、もっと余裕をもって見ることができるようになるのではないでしょうか。

人間の歴史はエデンの園から始まります。人はそこに、「神のかたち (image of God)」として創造され、その園を管理する者として置かれました。この世の神殿には神々のイメージが飾られますが、エデンにおいて神のイメージを現すのは、何と、人間自身だったのです。

それに対し歴史のゴールは黙示録21章2–4節で、「聖なる都、新しいエルサレムが……天から降って来る……見よ。神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる……神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである」と描かれます。

これは天にあった神殿がこの地を満たすことを意味します。私たちが天に昇るというよりも、天の祝福がこの地を満たし、この地が神の「新しい神殿」として再建される中に私たちは生かされるのです。

主 (ヤハウェ) がアブラハムとその子孫を選んだのは、主を忘れた人間にご自身を啓示し、主が真ん中に住む共同体のすばらしさを証しして、世界の人々をご自身のもとに導くためでした。しかし、彼らは主に逆らい、主が真ん中に住むことができないようにしました。

そこに神の御子が遣わされ、「神のかたち」としての生き方を示され、そこに新しい神の民の共同体を建て、世の人々にご自身の働きを証しし続けておられます。

私たちは今、最初の神殿である「エデンの園」と、来るべき神殿である「新しいエルサレム」の間に、「神のかたち」として置かれ、神の宮としての信仰共同体を、世の闇の中に形成しているのです。

1.「『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます」

20章ではイエスがエリコを通られたとき、道端に座っていた目の見えない二人の人が、「主よ、私たちをあわれんでください、ダビデの子よ」と叫び続けた様子が描かれていました。彼らがイエスをダビデの子と呼んだのは不思議なことです。イエスが彼らの目を見えるようにしたとき、彼らは道の真ん中を歩きイエスについて行った」と描かれます。

なお、エリコはヨルダン渓谷の低地にあり、世界で最も低地の町と言われます。そこ海抜マイナス240mですが、巡礼者はそこから標高800mのエルサレムまで標高差約1、000mを一気に上ります。彼らはオリーブ山から見下ろすエルサレム神殿の輝きに深い感動を覚えます。

ヘロデが大拡張工事をした神殿は世界の奇跡として立っていました。しかし、そこには神殿の心臓である「契約の箱」が存在せず、その宮は一度も神の栄光の雲に包まれたことがありませんでした。

そして今、イエスがエルサレムを訪ねている季節は、春の過越しの祭り直前で、これはイスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放されたことを記念する祭りでした。このときユダヤ人たちは全世界からエルサレムに上り、祭りを祝い、神の救い、神の国の実現を待ち望んでいました。

イエスの弟子たちもエリコからエルサレムに向かって登りながら、神の国の実現への期待に胸を躍らせていたことでしょう。

21章1節では、「さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たそのとき」と記されます。オリーブ山はエルサレムのすぐ東にある標高817mの山で、この東南の山麓にあった村です。

ここからエルサレムは目と鼻の先ですが、ここにきてイエスは不思議な行動を取ります。

そこで、「イエスは二人の弟子を遣わされます」、その際彼らに、「あなたがたの前の村へ行きなさい。そうすればすぐに発見します、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのを。それをほどいて、わたしのところに連れてきなさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。すぐにそれらを遣わしてくれます」と言われました (21:2、3)。

イエスは村に入る前から、そこにろば子ろばがつながれていて、それらがイエスの働きのために自由に用いられることを知っておられたというのです。

そしてイエスがこのように不異議なことを命じられた理由が、「このことが起ったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった」と描かれます (21:4)。

ただ、これはイエスの神としての超能力という以前に、彼が預言者のことばを心から深く味わい、それを実現することにご自分の使命を確信し、それに従って父なる神に祈られ、その答えをいただくことができたことの結果と言えましょう。

ここでイエスは、「ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいる」と言われましたが、これは創世記49章10、11節での「救い主」に関する預言を意識しておられたと思われます。

そこでは、「王権はユダを離れず……諸国の民は彼に従う。彼は自分のろばをぶどうの木に、雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ」と記されています。

これは、ユダ族から生まれる王の支配下での繁栄を「ぶどう」の収穫の豊かさにかけて、互いの所有権を主張する必要のない、愛の交わりが実現している状態を描いたものだと思われます。とにかくここで、ダビデの子イエスは、王として平和のうちにこの地を治めていることが証しされます。

しかも弟子たちが主がお入用なのです……」と言うことに、村人たちが従うとイエスが言われたことも驚きです。これは村人たちがイエスのことを既に知っており、その権威に服するという意味です。それによって、イエスの「王としての権威」が明らかにされて行きます。

もし、イスラエルの栄光の王ダビデが自分の部下を用いてこれを行ったとしたら、誰も驚きはしません。「ダビデ王がお入用なのです」と言われて断ることができる国民などはいなかったはずだからです。今、イエスは、待ちに待った「ダビデの子」としてエレサレムに入城するのです。これぐらいのことが起こるのは当然のことと言えましょう。

イエスは、ご自分のエルサレム入城を、預言の成就として、劇的に演出しようとしておられました。それはイエスが、ご自分がこの五日後に十字架にかけられることを予期していたからこそ、弟子たちやそこにいる人々に、ご自身の王としての支配を、あらかじめ明らかにされたと言えましょう。

なおイエスは今も私たちが大切にしているものに対し、ご自身の弟子を通して「主がお入り用なのです」と言わせることがあります。その際、自分たちが大切にしているものを差し出せることは何と名誉なことでしょう。今、「神のかたち」に創造されたすべての人に、神の救いのご計画の実現に参与する特権が与えられています。

2.「見よ。あなたの王があなたのところに来る」

21章5節には預言のことばが旧約から引用されますが、実はイエスは聖書全体のストーリーの成就を意識しておられ、そこでは複合的な預言の成就が示唆されます。

まずイエスのエルサレム入城自体に、イザヤ62章10、11節の成就が示唆されます。そこでは、「通れ、通れ、城門を。この民の道を整えよ……見よ、主 (ヤハウェ) は地の果てまで聞かせられた。娘シオンに言え。『見よ、あなたの救いが来る。見よ、その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と」記されています。

これはエルサレムに真の王が入城し、全世界がその王の支配に服して、世界の平和が実現することを預言したことばです。

中心的な引用はゼカリヤ9章9節からのものですが、そこでは、「娘シオンよ。大いに喜べ。娘エルサレムよ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来る義なる者で勝利を得ている、柔和な者でろばに乗っている。それも雌ろばの子であるろばに」と記されています。

これは、かつてダビデが自分の後継者がソロモンであることを人々に明らかにするために、彼を「ダビデ王の雌ろばに乗せた」ことに由来します (Ⅰ列王1:38)。ただそれでも「雌ろばの子」に乗ると預言されるのは驚きです。それは戦いを止めさせることの象徴でもあります。

ただその際、人々が「ソロモン王、万歳」と、その即位を祝ったのと同じように、ダビデの子イエスもエルサレムの王として勝利の入場をするのですが、そこには「義なる者」「柔和な者」としてのしるしが伴っています。

一方、この福音書では、それらを要約する形で、「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗りながら、それも荷ろばの子である子ろばに』」と記されます。

ここでは、ゼカリヤのことばから「大いに喜び叫べ。娘エルサレムよ。喜び叫べ」が省かれていますが、それはマタイの次の場面で生き生きとその実現が描写されています。

また「義なる者で勝利を得ている」ということばは、この五日後の十字架と表面的には矛盾するように見えるので、その部分が省かれているとも思えます。

とにかくイエスのエルサレム入城はダビデの子である救い主の入城にふさわしいものとして、預言が一つ一つ成就するというプロセスとして描かれているのです。

マタイの描写では、その後のことが、「そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に乗られた」と描かれます (21:6、7)。

マルコの並行記事では、「まだだれも乗ったことのない子ろば」一頭に焦点が当てられますが、ここでは二頭のろばが登場します。それは「まだだれも乗ったことのない子ろば」は、母ろばがともにいないと落ち着いて人を乗せることができないからだと思われます。

どちらにしても、このマタイではイエスが乗ったのは、王のために用意された特別なろばではなく、多くの人々が物を運ぶために使う「荷ろばの子」に過ぎません。そこにイエスが王でありながら貧しい人の仲間となっているしるしが見られます。

しかも、ゼカリヤが預言しているろばに乗った王は、敵を圧倒して従える王として描かれ、その支配は当時の人々にとっての海の向こうのヤワン(ギリシャ)にまで及ぶと記されています (ゼカリヤ9:13)。

それに対して、マタイが描くろばに乗った王は、「荷ろばの子」に乗る貧しい姿が強調されています。イエスは確かに一つ一つの預言を成就しますが、その姿は、当時の人々の期待とは異なった「平和の王」でした。

ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」

そして、イエスがろばの子に載ってエルサレムに入城されると、「非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた」(21:8) と描かれます。当時の人々は上着を何枚も持ってはいませんが、それをイエスがろばに乗って進む道の前に惜しげもなく敷いたというのです。これはまさに、人々がイエスを待望の王、ダビデの子」として認めたというしるしです。

Ⅱ列王記9章13節では、アハブの家を滅ぼすために神がエフーを王として立てたということを認めた者たちは、「みな大急ぎで自分の上着を脱ぎ、入り口の階段にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹き鳴らして、『エフーは王である』と言った」と記されています。

新しい王を迎えるとき、家来たちは我先にと自分の上着を敷物として差し出して臣従を誓うことがありました。

また同時に、「木の枝を切って道に敷く者たちもいた」と記されますが、これはマルコでは「葉のついた枝」(11:8) と記されます。

この約200年前に、シリヤ全域を支配したギリシャ人の王アンテイオコス・エピファネスがエルサレム神殿にゼウスの像を置き、祭壇に豚のいけにえをささげさせて神殿を汚したとき、ユダ・マカベオスに導かれたユダヤ人が、ゲリラ戦によって奇跡的な勝利を収め、神殿をきよめました。

そのとき人々は「テュルソスや葉を茂らせた枝や、さらになつめやしの枝を手にして、ご自身の場所が清められるよう道を整えてくださった方に賛美の歌を献げた」(Ⅱマカバイ10:7) と記されますが、当時の人々はイエスがユダ・マカベオスのような軍事指導者であることを期待して、このように迎えたのです。

そしてそこでは、「群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ、『ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナいと高き所に』」と描かれます (21:9)。それは詩篇118篇25、26節に基づいています。

そこでは、「ああ、主 (ヤハウェ) よ。どうぞ救ってください。ああ、主 (ヤハウェ) よ。どうぞ栄えさせてください。祝福あれ、 (ヤハウェ) の御名によって来られる方にと記されます。

ここで「どうぞ救ってください」ということばはヘブル語で「ホシアナ」と記され、それがアラム語化して「ホサナ」という叫びになったのだと思われます。ただ、イエスの時代にはこのことばは、神の栄光をたたえる賛美の感嘆詞のようにも用いられていたようです。

不思議なのは、これをイエスに向かって叫びながら、イエスを「 (ヤハウェ) の御名によって来られる方」としてたたえていることです。これは、イエスを期待された救い主として認めたという意味です。

ルカではこれと並行して、「するとパリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、『先生。あなたの弟子たちを叱ってください』と言った」(19:39) と記されています。彼らの目には、人々が神の代わりに人間をあがめていると思われたからです。

世の人々は、イエスを最高の道徳教師であるかのように見ていますが、もしそれが事実なら、パリサイ人の言うとおり、イエスはこのような賛美を止めさせるべきでした。ところがイエスはここで、「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」(19:40) と答えました。つまりイエスは、ご自分こそが、「主の御名によって来られる王」であると主張されたのです。

イエスは、決して、謙遜な道徳教師の枠に納まる方ではありません。イエスはここで、ご自身の身をもって、聖書の預言を成就しようとされたのです。

そればかりかマルコの並行記事では、彼らは「祝福あれ、いま来ているわれらの父ダビデの国に。ホサナ、いと高き所に」と叫んだと描かれています (11:10下線部私訳)。これは、イエスによって新しいダビデ王国が実現しつつあるという途方もない宣言です。

当時の人々は救い主の登場によって、自分たちがローマ帝国の支配から解放されることを望んでいました。イエスの時代の人々は、ヘロデが大拡張工事をした壮麗な神殿が、ソロモンの時のように神の栄光の雲に包まれることを期待していた面がありました。そしてヘロデは自分をイスラエルの救い主として見せるために、神殿に莫大なお金をつぎ込みました。

しかし、人々はヘロデの支配に心から失望し、真の神の国」の実現を待ち望んでいました。

そして今、イエスがエルサレムに預言された王として入城するとは、この「神の栄光」がエルサレムに戻ってくることを意味しました。

かつて預言者エゼキエルは、終わりの日にエルサレム神殿に起こる幻を、「イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。その音は大水のとどろきのようで、地はその栄光で輝いた…… (ヤハウェ) の栄光が東向きの門を通って神殿に入ってきたと描いています (43:2–4)。これこそ旧約の預言者たちが待ち焦がれていた喜びの時、「神の国」の幕開けのしるしだったのです。

使徒パウロは、イエスによる救いを宣べ伝えることの祝福を、「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」(ローマ10:15) と記しますが、それはイザヤ52章7節からの引用でした。

そこでは、「その足は、平和を聴かせ、幸いな福音を伝え、救いを聴かせ、『あなたの神が王となる』とシオンに告げる」(私訳) と解説され、そのとき人々が共に喜ぶ理由が、 (ヤハウェ) がシオンに帰られるのをまのあたりに見るからだ」と説明されます。

その上でシオンに帰られる主のしもべの姿がイザヤ52章13節から53章12節に描かれます。つまり、イザヤの預言においては、「あなたの神が王となる」、また「主がシオンに帰られる」という世界の歴史を変える画期的な出来事が、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、苦しみの人で病を知っていた」(53:3) という、あまりにも意表をつく「主のしもべの姿」によって現されると預言されていたのです。

そしてこの福音書ではその後のことが、「こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、『この人はだれなのか』と言った。群衆は、『この人は(あの)預言者イエスだ、ガリラヤのナザレからの』と言っていた」と記されます (21:10、11)。

ここでの「預言者」ということばには定冠詞がついており、申命記18章15–18節でモーセのような一人の預言者を神が起こされると言われたことの成就と見たという意味と理解できます。

さらに、ヨハネの福音書6章14節でも、「人々はイエスがなさったしるしを見て、『まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った」と記されますが、それもモーセのような預言者の現れを指しました。

そこにいる人々はイエスが「神の御子」であるとまでは思いもしませんが、ダビデ王国を再建するために神から遣わされた方であるということまでは期待していたのだと思われます。

イエスのエルサレム入城は、「 (ヤハウェ) がシオンに帰られる」という預言の成就でした。しかし、それは人々の意表を突く姿によってでした。人々はイエスを、独立王国を立てるダビデの子として、神殿の解放者ユダ・マカベオスの再来として迎えました。

しかし、イエスはご自分を、ゼカリヤが預言した柔和な王として示しました。それは彼らの期待とは異なる「神の国を示すためでした。本来、神はこの世界をご自身の神殿として創造し、人は「神のかたち(イメージ)」として、神がどのような方かを示すことができるはずでした。それに失敗したすべての人に代わって、今、イエスこそが真の「神のかたち」として、神がどのような方かを現わしてくださいました。

そして今、私たちの交わり自体が今、神の神殿とされ、この神殿は、栄光に満ちた完成へと向かっています。イエスこそが真の神のイメージであり、私たちの王です。

イエスはご自分が「ダビデの子」、「救い主」であることを、エルサレム入城の際に明確に示されました。ただ、それはこの世の戦いの指導者ではなく、イザヤが預言した「 (ヤハウェ) のしもべ」としての姿でした。

この世界には、被造物の」うめき」が満ちています。世界は変えられる必要があります。そのためには権力を握ることが大切かもしれません。しかし、偉大な理想を掲げたはずの人が、かえってこの世に争いと混乱を広げてきたというのが人類の歴史ではないでしょうか。

力は力の反動を生みます。「神の国」は、神の御子がしもべの姿となることによって始まったことを忘れてはなりません。あなたの隣人にどう接するかが何よりも問われているのです。

しかもその働きは、キリストのからだである教会に問われています。