マタイ21章17〜22節「神のさばきから生まれる平和」

2022年2月6日

イエスはエルサレム神殿を指して「あらゆる民の祈りの家」と呼ばれましたが、それと同時に、神殿の崩壊を告げました。それから40年もたたない紀元70年に、地上のエルサレム神殿は廃墟とされ、今に至っています。そして「あらゆる民の祈りの家」としての教会が全世界に広がっています。

実は、ローマ帝国の軍隊によって当時の神殿が破壊されたところから、地下に隠れた交わりとしてのキリスト教会の劇的な成長が始まっています。神殿の破壊は、ローマ帝国全体に平和の福音が広げられる出発点になったとも言えます。

見せかけの「平和シャローム)が壊されることから真の平和シャローム)が生まれるのです。

今日のテーマは「山をも動かす信仰」(Ⅰコリント13:29) ですが、マタイ17章20節ではそれが悪霊を追い出すという希望に満ちた約束として描かれますが、今回の21章20節では見せかけの希望を与えた「いちじくの木」を枯らすという破壊的とも言える主のみわざと結びついています。

パウロは、「たとえ私が……山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです」と言いました (Ⅰコリント13:2)。

イエスは「目の見えない人たちや足の不自由な人たち」への愛のゆえにエルサレム神殿から商売人を追い出しましたが、それは当時の宗教指導者に対するさばきの宣告でもありました。それは真の平和をもたらすための破壊に見えましたが、そこには社会的弱者に対する愛が満ちていました。

1.もし、からし種のような信仰を持っているのなら、この山に「移れ」というなら「移る」

マタイ17章14–20節で、イエスと三人の弟子たちが高い山に登って留守であった時に、残りの弟子たちが「てんかん」の症状に苦しむ息子を癒すことができなかったことから、その父親がイエスに訴えてきたという話がありました。

その後の19節では、「弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。『なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか』」と記されます。彼らは恥じらいながら、群衆に聞こえないようにイエスに質問したのでした。

それに対し主は率直に、「あなたがたの薄い信仰のゆえに(信仰が薄いから)です」と答えました (20節)。「薄い(乏しい)信仰」とは「オリゴピスティア」という一つの単語です。

似た用語では「信仰の薄い者(オリゴピストス)」があり、イエスは弟子たちを何度もそのように呼んでいました。ガリラヤ湖の嵐で舟が沈みそうになり、弟子たちが眠っていたイエスを起こして助けを求めたとき、主は「どうして怖がるのか、信仰の薄い人たち」と言われました (8:26)。

またペテロが水の上を歩かせてもらいながら、「強風を見て怖くなり、沈みかけた」とき、主は彼に「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われます (14:31)。

また弟子たちがガリラヤ湖の向こう岸にパンを持ってくるのを忘れ、互いに議論を始めた時、イエスが「信仰の薄い人たち、パンがないなどと、なぜ論じ合っているのか」と言われます (16:8)。

それらはすべて、イエスと共に神のご支配が現わされていることを忘れ、目の前の恐怖や不安に圧倒されているときに言われた表現です。弟子たちの心は、目の前の状況に左右されすぎていたのです。

ここでの「薄い(乏しい)信仰」はそれに似てはいますが、直前にイエスが「不信仰で曲がった時代だ」と嘆かれたとように、弟子たちの信仰に、本質から離れた状態が見られたことを非難したものと言えます。

その上でイエスはここで、「まことにあなたがたに言います。もし、からし種のような(ほどの?)信仰を持っているのなら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言うならば、そのように移るのです。あなたがたにできないことは何もありません」と言われました (20節)。

「からし種」は「小ささ」より「成長力」を示します。事実、13章31、32節では、「天の御国はからし種に似ています。どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どんな野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作る」と描かれました。

ですからここでは、弟子たちが世的に取るに足りない者であっても、信仰において創造主なる神と心を一つにされるなら、全世界を変えるような大きな実を結ぶことができるという「神の国」の不思議を指していると思われます。

実際に、キリストの福音は、ガリラヤ湖の無学な漁師を中心とした交わりから、全世界に広がり、結婚や医療や社会福祉の制度を作り上げ、今も世界の人々の心を変え続けています。

「信仰」は「真実」と訳すこともできます。それは人間的な能力や資質というよりも、神の真実に動かされる私たちの心の状態を指します。神のみこころの受信機のようなものとも言えるかもしれません。

ゼカリヤ14章やエゼキエル47章では、終わりの日に、エルサレムの東にあるオリーブ山が南北に分かれて谷を作り、エルサレム神殿から流れ出る「いのちの水」が死海に流れ込み、その湖には非常に多くの種類の魚が多く生きるようになると預言されています。

まさに世の終わりに、神は山を動かされます。ただ、あなたの勝手な望みで山が動くのではありません。神のみこころに沿ったあなたの願いが、世界を変えるのです。

人間的な小さな枠に留まって自分の可能性を勝手に狭めてはいけません。あなたの意思が神のご意思と調和するなら、「あなたにできないことは何もありません」という状態が生まれます。

たとえば、現在の米国の黒人の地位向上に決定的な影響力を発揮したマルティン・ルーサー・キング牧師は、黒人と白人の和解が成立するということを信じ、非暴力でそれが実現できると訴えました。それからたった45年後に米国に黒人の大統領が誕生しました。

マザー・テレサはたった一人でカルカッタのスラムに入り込み、その行動が世界中の人々の心を動かしました。

彼らに共通するのは、神のみこころを真剣に求め、人間的な計算や可能性にとらわれることなく、大胆に神に信頼し続けたということです。まさにそのような信仰こそ、「山をも動かす信仰」と言えるのではないでしょうか。

2.これからいつまでも、おまえの実は成ることがないように

マタイ21章12節では、「それからイエスは宮に入られた。そして宮の中で売ったり買ったりしている者たちすべてを追い出された。さらに、両替人の台(テーブル)をひっくり返された、鳩を売っている者たちの腰掛をも……」(12節) と描かれます。

そして、イエスは激しい実力行使の理由として「主 (ヤハウェ) のことば」を引用しながら、「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる」』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている」と言われました (13節)。

この引用先のイザヤ書56章7の文脈では、当時は人と見られなかった「宦官」や、犬と呼ばれた「異国の民」が神の宮で歓迎されるという意味で、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」と記されていました。

そしてここでは「宦官」や「異国の民」の代わりに、すると(新改訳:また)、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来た。それで、イエスは彼らを癒された」(14節) という新しい展開が描かれます。

これはダビデが最初にエブス人が住むエルサレムを攻略した際、彼らから「目の見えない者どもや足の萎えた者どもでさえも、おまえを追い出せる」と嘲りを受けたことに遡ります。ダビデはそれに腹を立てて彼らを殺し、それ以来「目の見えない者や足の萎えた者は王宮に入ってはならない」と言われるようになった」と記されています (Ⅱサムエル5:8)。

ですから、イエスが彼らを癒した時、イエスはダビデ以来の伝統を覆して、身体の不自由な方を歓迎したのです。しかし、それこそイザヤ預言の成就の時でした。

さらにイエスが引用したのはエレミヤ7章11節からの引用ですが、その文脈では、当時の宗教指導者が、「これは主 (ヤハウェ) の宮だ。主 (ヤハウェ) の宮だ。主 (ヤハウェ) の宮だ」と、エルサレム神殿が不滅であることを誇っていたことへの皮肉が語られていました。

ところが当時の神殿では、外面的には神殿が彼らの誇りとなっていながらも、その内実は、「盗み、殺人、姦淫、偽りの誓い」がなされ、「バアルに犠牲」が「供え」られていたほどでした。

それを見た主 (ヤハウェ) は、「わたしの中がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた」と言われました。預言者エレミヤは、当時の神殿における退廃が正されることがなければ、ダビデ、ソロモンが神の導きによって建てた栄光に満ちたエルサレム神殿が跡形もなく外国の軍隊によって破壊されることを預言していたのです。

イエスも同じようにマタイ24章1、2節で当時の奇跡と呼ばれたエルサレム神殿を指し、「ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません」という完全な崩壊を預言されました。

なお、主はエレミヤを通して宗教指導者の欺瞞を、「彼らは、わたしの民の傷を簡単に手当てし、平安(シャローム)がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」と非難しました。

その上で「わたしは彼らを刈り入れたい」と言われながら、「いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをそのままにしておく」と言われました (8:11、13)。

このマタイ21章19節で、イエスが人の期待を裏切る「いちじくの木」を指して「これからいつまでも、おまえの実は成ることがないように」と言われた背後には、このエレミヤの預言がありました。そこには、エルサレム神殿が廃墟とされるという預言が込められています。

マタイ21章17節は原文で、「イエスは彼らを後に残して、都を出られた。ベタニアに向けてで、そこに泊まられた」と描かれます。主はベタニアのマルタ、マリア、ラザロの家を宿舎としていたのだと思われますが、主は祭司長や律法学者たちとの対話を簡潔に切り上げたということが強調されています。

そしてイエスの行動が描かれますがマルコの記事によると、イエスは宮清めを行う月曜日の朝にいちじくの木をご覧になって、「今後、いつまでも、だれもお前の実を食べることのないように」と、のろいとも言えることばをかけ、翌朝に再びその場を通りかかったときに、それが「根元から枯れているのを見た」と記されています (11:12–14、20)。

マタイの記事はこの二つの日の出来事を一つに合わせて語ったものと思われます。それはエルサレム神殿が見せかけだけの神の宮となっていたことと、見せかけだけのいちじくの木を合わせて、その両者に神のさばきを告げるためと言えましょう。

とにかくマタイ21章18、19節では、「イエスが朝早く都に戻る途中、空腹を覚えられた。道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行かれた。ただ、そこには葉があるだけで他には何もないことを発見された。それでイエスはその木に言われた。『これからいつまでも、おまえの実は成ることがないように』と。すると、たちまちいちじくの木は枯れた」と記されます。

これは先のエレミヤ預言にあったように、主は当時のエルサレム神殿が見せかけの栄光を誇って、内実は「強盗の巣」と化していたことへの神のさばきを宣言したことと同じです。

なお当時の神殿には、神の契約の箱がありませんでしたから、それを「神の住まい」と見ることはできませんでした。それはまさに見せかけだけの神殿に過ぎませんでした。

しかし、その神殿の外面的な豪華さはユダヤ人にとっての誇りでした。それに対してイエスは、エレミヤのときと同じ神のさばきが待っているということを、ご自分の弟子たちに見せかけだけの「いちじくの木」を用いて教えられたのです。

3.「あなたがたが祈りにおいて求めるものは何でも、信じることで、受けることができます」

21章20節では、「弟子たちはこれを見て驚いた、『どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか』と言いながら」と記されています。弟子たちは、イエスのことばが「いちじくの木を枯らす」という結果をすぐに生み出したことに、つまり、イエスのことばの権威に驚いたというのです。

そしてそれに対し、イエスは、弟子たちの質問に正面から答える代わりに、彼らのことばにもそのような変化をもたらす力が生まれるという意味で、次のように言われます。

「まことに、あなたがたに言います。もし、あなたがたが信仰を持っていて、疑うことがないなら、いちじくの木に起ったことと同じことを起こすばかりではなく、この山に向かって、『立ち上がって、海に入れ』と言えば、それが起ります」(21節)。

これは17章20節に描かれた「山をも動かす信仰」ですが、ここでのテーマはいちじくの木を枯らしたと同じことが、あなたのことばによって実現するということです。しかもそれは、エルサレム神殿が立っている山を移動させて、神殿を破壊するという驚くべきことと結びついています。

「この山」というのがオリーブ山を指すなら先に書いたように、エルサレム神殿から「生ける水の川が流れ出す」ことにつながりますが、シオンの山を指すなら、エルサレム神殿の崩壊という破壊的な預言として理解できます。

さらにイエスは続けて、「あなたがたが祈りにおいて求めるものは何でも、信じることで、受けることができます」と言われました (22節)。

このことばを聞いた弟子たちが、エルサレム神殿の崩壊を「求める」ことはあり得ないと思われますが、マルコの並行記事でイエスは、「ですからあなたがたに言います。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」と言っておられます (11:24)。

さらにそこでは続けて、「また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対して恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます」と言いました (11:25)。

この両方とも、当時の神殿でのいけにえを不必要にするような画期的な教えとも解釈できます。イエスの時代の人々は、何か願い事をするときに、エルサレム神殿において高価ないけにえをささげながら、具体的な願いを神に訴えていました。

しかしマルコ11章23–25節では、「この山に向かい、『立ち上がって海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じなさい。そうすればそのとおりになります」、また「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」、また「祈るため立ち上がる……赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も……赦してくださいます」と、三度に渡って、祈りが父なる神に届く前提を、神殿でいけにえをささげるというプロセスを経ずに、「そうすれば(そうなる)」と繰り返しておられます。

イエスの時代の人々はエルサレム神殿を誇りにしていました。ですから、イエスは神殿の崩壊を直接的に告げることはこの時点ではできません。イエスは婉曲的な表現を用いながら、弟子たちの心をエルサレム神殿から天の父なる神に向けさせ、そこで求められることは、御父への揺るぎない信頼であることを明らかにされたのです。

神はおことば一つで地と海との境を造られました。そして、その神を信頼する者は、「たとえ、地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るようなことがあっても、「われらは恐れない」と告白することができます (詩篇46:2)。

何よりも大切なのは、目に見える神殿での高価なささげものよりも、神への信頼を持つことであると言われたのです。そして、このときから40年近く経ってエルサレムがローマ軍によって包囲されたとき、イエスの教えを聞いていたユダヤ人クリスチャンは、いつでもどこでも天の父なる神にお祈りできるということを頼りに、全世界に出て行って福音を伝えることができました。

今や私たちは、神のことばである聖書を共有することで、どこでも「あらゆる民の祈りの家」としての集会の場所を持つことができます。

当時のエルサレム神殿には、ユダヤ人と異邦人を区別する「隔ての壁」がありましたが、「キリストこそ私たちの平和です。キリストは……ご自分の肉においてを、隔ての壁である敵意を打ち壊し……敵意を十字架によって滅ぼされました」と記されています (エペソ2:14-16)。

当時のユダヤ人にとってエルサレム神殿の崩壊は、世界の終わりに他ならないと思えました。しかし神は預言者イザヤを通して、エルサレム神殿の崩壊とバビロン捕囚を前提に次のように言われました。

わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、
大いなるあわれみをもって、あなたを集める。
怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、
永遠の真実の愛 (ヘセド) をもって、あなたをあわれむ。
——あなたを贖う方、主 (ヤハウェ) は言われる。

これは、わたしにはノアの日のようだ。
ノアの洪水が、再び地にやって来ることはないと、誓った。
そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。
たとえ山が移り、丘が動いても、
わたしの真実の愛 (ヘセド) はあなたから移らず、
わたしの平和 (シャローム) の契約はあなたから動かない

イスラエルの民がバビロン捕囚を通してその信仰がリバイブされたように、イエスのエルサレム神殿へのさばきの預言は、主にとって「平和(シャローム)の契約」の実現のために必要なことでした。

そこで当時の宗教指導者が民衆を支配するシステムとしての神殿が破壊され、それ以降の神の民は、いつでもどこでも、全能の神への信頼によって、この世界に神の平和を広げることができるようになったのです。

インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンジーは、ヒンズー教徒でありながらイエス・キリストを心から尊敬していた人でした。米国のキング牧師は、ガンジーを心から尊敬し、彼の非暴力運動を倣ったと言われるほどです。

最初、ガンジーは特にロシアのキリスト教作家トルストイとの交わりを通して、非暴力やキリスト教的な愛に感動していました。彼は英国で弁護士資格を取って、南アフリカで仕事を始めます。そこで彼は何週間にもわたってキリスト教会の礼拝に参加します。その時の感想を彼は、「会衆は献身的なたましいの群れではなく、この世的な価値観の人々の集まりに過ぎず、彼らはただ余暇と習慣に同調するために教会に来ているように見えた」と記しています。

残念ながら、しばしばキリスト教会こそが人種差別を正当化していました。それを神の創造の秩序として正当化していました。ガンジーはイエスに憧れながら、キリスト教会に失望したのです。

イエスが見せかけだけのいちじくの木を枯らすことによってエルサレム神殿の破滅を預言しました。現代の教会でも、一人ひとりの神への真実が問われています。

私たちの信仰とは、神の真実に対する私たちの応答です。ことば一つで世界を創造された方にとって、山を動かすことなど簡単なことです。問われているのは私たちの心の思いが、どこまで神の願いと調和しているかということです。

神のみこころに沿ったあなたの願いが、世界を変え、この世界に平和シャローム)を創造します。

あなたの意思が神のご意思と調和するなら、「あなたにできないことは何もありません」という状態が生まれるのです。そこで何よりも問われている動機は、神と隣人への「愛」です。