ルカ22章1〜23節「新しい契約としての聖餐式」

2009年4月5日

「旧約と新約の違いは何ですか?」と聞かれたらどのように答えるでしょう。残念ながら、人によっては、「旧約はユダヤ教で、新約はキリスト教です」とか、「カトリックは律法主義で旧約を大切にし、プロテスタントは福音主義で新約を重んじる」などと答えるかもしれません。それからすると、旧約の解き明かしばかりをする当教会などはプロテスタントの異端児になるのでしょうか? “ルカ22章1〜23節「新しい契約としての聖餐式」” の続きを読む

マタイ5章1〜12節「主にすがる者の幸い」

2009年3月15日

マタイ福音書での 「山上の説教」と「終わりの日の説教」の対比 

〈モーセの最後の説教〉「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い死とわざわいを置く……私は、いのち祝福のろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい……あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ……」 (申命記30:15,19、20)

〈山上の説教の前提〉 イエスは宣教を開始して、言われた。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17) “マタイ5章1〜12節「主にすがる者の幸い」” の続きを読む

ルカ20章1〜19節「誰のために生きるのか」

2009年2月15日

昨年以来、証券会社や投資銀行の評判は悪くなるばかりで、その一員であった私は、何とも複雑な気持ちを味わっています。先日、日本福音自由教会協議会総会で、不本意にも、四人の役員の一人に選ばれました。担当を決める際に、「先生は金融機関に勤めていたから、会計をしてよ・・」などと言われ、さらに嫌な気持ちになりました。同じ金融機関でも、銀行と証券は水と油です。 “ルカ20章1〜19節「誰のために生きるのか」” の続きを読む

エレミヤ21章〜24章「主のみことばを聴く群れとして」

2009年1月11日

アルコール依存症で明らかに人生が破綻している人のほとんどが、「まだ、自分は大丈夫だ・・」と思っているとのことです。その家族は疲労困憊しながら助けを求めているのに、当人は自分が病気であることを認めようとはしません。なぜなら、その病いの根本は、自分の弱さを正直に認められないことだからです。 “エレミヤ21章〜24章「主のみことばを聴く群れとして」” の続きを読む

エレミヤ17章19節〜20章18節「陶器師の御手の中で」

2009年1月4日

人間の苦悩の源泉は、「災害と退屈」であると言われます(ショーペンハウアー「孤独と人生」P43)。「災害」は創造主なる神が支配しておられますが、「退屈」は私たち自身が向き合うべき問題です。イスラエルの民は約束の地に入って生活が安定したとたん、カナンの刺激的な宗教に走りました。そして、最終的に神の怒りを買って、国が滅びます。それがエレミヤ書のテーマです。それは現代の私たちの課題でもあります。退屈(倦怠感)から逃げ出そうとして、やってはならない刺激的な誘惑に手を出し、自分で苦しみを招いてしまうということがないでしょうか。 “エレミヤ17章19節〜20章18節「陶器師の御手の中で」” の続きを読む