イザヤ56章1節〜59章13節「主 (ヤハウェ) の名を呼ぶ者はみな救われる」

2008年7月6日

私たちプロテスタントの教会では、私たちが義と認められるのは、行いによってではなく信仰によるという「信仰義認」の教えが受け入れられています。しかし、それが、「信仰深い者は救われる」という教えにすりかわってしまうことがあるのではないでしょうか。そして、無意識のうちに、ある特定の枠にはまる人だけが救われるというように解釈し、人を排除するばかりか、自分自身のうちにある醜い不信仰な思いにも蓋をして、それを排除してはいないでしょうか。しかし、神は、私たちが救いようもない不信仰な者だからこそ、人となられたのです。 “イザヤ56章1節〜59章13節「主 (ヤハウェ) の名を呼ぶ者はみな救われる」” の続きを読む

ルカ17章20〜37節「目の前にある神の国」

2008年6月15日

私たちの生活では、ジェットコースターのような上がり下がりがあるかもしれません。そのようなときに、常に心に留めるべきことは、神の国には、すでに実現しているという側面(already)と、まだ実現していない(not yet)という両面があるということです。そして、そのふたつをつなぐのが、イエスを見上げて生きるということです。 “ルカ17章20〜37節「目の前にある神の国」” の続きを読む

イザヤ50章1節〜52章12節「さめよ。さめよ。」

2008年6月8日

私たちは心の中に様々な「駆り立て」の言葉を聞き過ぎ、今、ここでの神の語りかけに耳を傾けることができなくなってしまいがちです。多くの人の心には、常に、「急ぎなさい」「もっと努力しなさい」「強くありなさい」「完全でありなさい」「人を喜ばせなさい」という五つの言葉のどれかが響いていると言われます。 “イザヤ50章1節〜52章12節「さめよ。さめよ。」” の続きを読む

イザヤ47〜49章「このわたしはあなたを忘れない」

2008年5月25日

多くの人の愛唱聖句に、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」というのがあります。この聖句が出てくる背景を話しながら、あらためて、神との対話、神の語りかけを聞きながら生きるという意味を考えました。 “イザヤ47〜49章「このわたしはあなたを忘れない」” の続きを読む

イザヤ44章24節〜46章13節「期待はずれの現実の中に神の救いを見る」

2008年5月18日

大地震やサイクロン被害など、「神がおられるなら、なぜこんなことが・・・」と思える悲惨が次から次と起こっています。しかし不思議に、そのような中にこそ、人の勇気や善意が輝いて見えるということもあるのではないでしょうか。問われているのは、様々な痛みへの対応の仕方です。先日、私は肩を痛めてしまいましたが、運動の専門家から、「身体が歪むことがないように、痛みに耳を傾けながらも、周辺の筋肉を鍛え、新しいバランスを目指すように・・」と助言をいただきました。これは、期待はずれの現実への対処法を示唆する一般原則となりそうに思えました。 “イザヤ44章24節〜46章13節「期待はずれの現実の中に神の救いを見る」” の続きを読む

イザヤ42章18節〜44章23節「わたしに帰れ。わたしはあなたを贖ったから」

2008年5月4日

今日の箇所は旧約聖書でもっとも親しまれているところのひとつです。「イスラエル」とか「ヤコブ」という部分を自分の名前に置き換えて読んでみてはいかがでしょう。それこそが、旧約を今の時代の私の文脈から読むということにつながります。聖書の歴史を、あなた自身のパーソナルな人生の文脈で読みことの大切さを思わされています。信仰者としての模範的な「生き方」を教えるのではなく、天地万物の創造主からのかたりかけをパーソナルに聞きながら生きるという生きるというのが、新約時代の恵みです。 “イザヤ42章18節〜44章23節「わたしに帰れ。わたしはあなたを贖ったから」” の続きを読む

ルカ17章1〜19節「私たちは……なすべきことをしただけです」

2008年4月27日

「古人言く、径寸十枚、これ国宝に非ず。一隅を照す。これ則ち国宝なり、と」は、比叡山の開祖、最澄が日本に広めたことばです。私は高校の修学旅行のとき、根本中堂でこのことばを聞き、いたく感動しました。これは直径が一寸(3.03cm)もある宝石十個よりも、自分に与えられた場で全力を尽くす人こそが国の宝であるという意味です。 “ルカ17章1〜19節「私たちは……なすべきことをしただけです」” の続きを読む

イザヤ36章〜39章「わたしが計画し、今、それを果たした」

2008年4月6日

私たちは自分でコントロールできることとできないこと、「変えられることと変えられないこと」の区別を明確にしているでしょうか。私たちの明日のことは主が支配しておられます。ですから、いつでもどこでも、主の前に静まり、主に向かって祈ることがすべての原点です。一方、私たちは様々な目の前の問題に、ほとんど条件反射的な、肉的な応答をしてしまいがちです。どのような立派な人間でも、とっさに、驚くほどに愚かな間違いを犯すことがあります。直感は、本当に大切です。しかし、一呼吸おいて、それを主の前で吟味することを忘れてはなりません。 “イザヤ36章〜39章「わたしが計画し、今、それを果たした」” の続きを読む