イザヤ44章24節〜46章13節「期待はずれの現実の中に神の救いを見る」

2008年5月18日

大地震やサイクロン被害など、「神がおられるなら、なぜこんなことが・・・」と思える悲惨が次から次と起こっています。しかし不思議に、そのような中にこそ、人の勇気や善意が輝いて見えるということもあるのではないでしょうか。問われているのは、様々な痛みへの対応の仕方です。先日、私は肩を痛めてしまいましたが、運動の専門家から、「身体が歪むことがないように、痛みに耳を傾けながらも、周辺の筋肉を鍛え、新しいバランスを目指すように・・」と助言をいただきました。これは、期待はずれの現実への対処法を示唆する一般原則となりそうに思えました。 “イザヤ44章24節〜46章13節「期待はずれの現実の中に神の救いを見る」” の続きを読む

イザヤ42章18節〜44章23節「わたしに帰れ。わたしはあなたを贖ったから」

2008年5月4日

今日の箇所は旧約聖書でもっとも親しまれているところのひとつです。「イスラエル」とか「ヤコブ」という部分を自分の名前に置き換えて読んでみてはいかがでしょう。それこそが、旧約を今の時代の私の文脈から読むということにつながります。聖書の歴史を、あなた自身のパーソナルな人生の文脈で読みことの大切さを思わされています。信仰者としての模範的な「生き方」を教えるのではなく、天地万物の創造主からのかたりかけをパーソナルに聞きながら生きるという生きるというのが、新約時代の恵みです。 “イザヤ42章18節〜44章23節「わたしに帰れ。わたしはあなたを贖ったから」” の続きを読む

ルカ17章1〜19節「私たちは……なすべきことをしただけです」

2008年4月27日

「古人言く、径寸十枚、これ国宝に非ず。一隅を照す。これ則ち国宝なり、と」は、比叡山の開祖、最澄が日本に広めたことばです。私は高校の修学旅行のとき、根本中堂でこのことばを聞き、いたく感動しました。これは直径が一寸(3.03cm)もある宝石十個よりも、自分に与えられた場で全力を尽くす人こそが国の宝であるという意味です。 “ルカ17章1〜19節「私たちは……なすべきことをしただけです」” の続きを読む

イザヤ36章〜39章「わたしが計画し、今、それを果たした」

2008年4月6日

私たちは自分でコントロールできることとできないこと、「変えられることと変えられないこと」の区別を明確にしているでしょうか。私たちの明日のことは主が支配しておられます。ですから、いつでもどこでも、主の前に静まり、主に向かって祈ることがすべての原点です。一方、私たちは様々な目の前の問題に、ほとんど条件反射的な、肉的な応答をしてしまいがちです。どのような立派な人間でも、とっさに、驚くほどに愚かな間違いを犯すことがあります。直感は、本当に大切です。しかし、一呼吸おいて、それを主の前で吟味することを忘れてはなりません。 “イザヤ36章〜39章「わたしが計画し、今、それを果たした」” の続きを読む

イザヤ31章〜35章「見よ。神は来て、あなたがたを救われる」

2008年3月31日

メッセージをしながら改めて思わされたイザヤ書の面白さがあります。それは目の前の危機的状況の解決から、「新しいエルサレム」へのイメージが膨らむということです。それは、たとえば、「祈りが聞かれた」というひとつの体験が、「私はもう天国にいるも同然!」という感動に結びつくようなものです。確かに目の前には、なお問題が山積してはいます。 “イザヤ31章〜35章「見よ。神は来て、あなたがたを救われる」” の続きを読む

Ⅰコリント15章12〜28節、50〜58節「終わりのラッパとともに、私たちは変えられる」(ヘンデル作 メサイア第二部、第三部 テキストから)

2008年3月21日

キリストの復活を文字通りの歴史的な事実と信じる必要はないという人々が数多くいます。私自身も昔、その影響を少しばかり受けていました。しかし、コリント人への手紙第一15章の生々しい表現に圧倒され、考えを改めました。パウロはそこで、そのような霊的な解釈は、「神について偽証」(15節)になるばかりか、「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者」(19節)だと断言します。 “Ⅰコリント15章12〜28節、50〜58節「終わりのラッパとともに、私たちは変えられる」(ヘンデル作 メサイア第二部、第三部 テキストから)” の続きを読む

イザヤ52章13節〜53章6節(ヘンデル作オラトリオ「メサイア」第二部のテキストから)「のろいの十字架に隠された祝福」 

2008年3月16日

イエス・キリストはこの世の中では、愛の模範として尊敬されています。それは福音書に描かれたイエスの姿をベースにしています。しかし、よく見ると、福音書では繰り返し、イエスにおいて旧約の預言が成就したと記されています。つまり、旧約聖書を飛び越えてイエスの人間としての生き方ばかりを見るように聖書は記されてはいないのです。 “イザヤ52章13節〜53章6節(ヘンデル作オラトリオ「メサイア」第二部のテキストから)「のろいの十字架に隠された祝福」 ” の続きを読む

イザヤ28章〜30章「困難の中に神を見る」

2008年3月9日

目の前の問題に圧倒されていたとき見えなかったことが、ふとしたことで解決が見えたというようなことがないでしょうか。「知恵の輪」をはずすのと同じように、「何だ、こうすればよかったんだ・・」と思うようなことがあるかもしれません。熱くなりすぎたり、力づくになってしまうことは、かえって問題を複雑化させてしまいがちです。平安の祈りに、「一日一日を生き、今、このときを楽しみながら、困難を平和への道として受け入れさせてください」という祈りがあります。困難の背後に、またその中に、神がおられます。すべては神との交わりを豊かにする契機になります。 “イザヤ28章〜30章「困難の中に神を見る」” の続きを読む

ルカ16章14〜31節「神の恵みをむだに受けないようにしてください」

2008年3月2日

私たちは様々な恵みの賜物を受けています。しかし、それは常に両刃の剣です。富が罠となるように、ある種の才能も罠になります。たとえば、「僕には、道産子の忍耐心がある!」などと自分を誇っていると、それは同時に、「融通の効かない頑固さ」として、人を振り回すことになってしまいます。 “ルカ16章14〜31節「神の恵みをむだに受けないようにしてください」” の続きを読む