マタイ5章1〜12節「主にすがる者の幸い」

2009年3月15日

マタイ福音書での 「山上の説教」と「終わりの日の説教」の対比 

〈モーセの最後の説教〉「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い死とわざわいを置く……私は、いのち祝福のろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい……あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ……」 (申命記30:15,19、20)

〈山上の説教の前提〉 イエスは宣教を開始して、言われた。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)

イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロ……と……アンデレをご覧になった……イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい……」

彼らはすぐに網を捨てて従った。……イエスは……ヤコブと……ヨハネ……をご覧になり、ふたりをお呼びになった。 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った

イエスはガリラヤ全土を巡って……あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された……大ぜいの群集がイエスにつき従った。この群集を見て、イエスは山に上り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこでイエスは口を開き、彼らに教えて言われた。(マタイ4:18-5:2)

〈終わりの日の説教の始まり〉 そのときイエスは群集と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども彼らの行ないをまねてはいけません。

彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとしません……人から先生(ラビ)と言われたりするのが好きです。しかし、あなたがたは先生(ラビ)と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。

あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師(指導者)と呼ばれてはいけません。あなたがたの師(指導者)はただひとり、キリストだからです。

あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(マタイ23:1-12)

〈九回の「幸い」(5:3-12)と、七回の「わざわいだ……」(23:13-36)との対比〉

心(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。

(23:13。続く14節は古代の写本にはなく、マルコ、ルカからの引用だと思われます。新改訳脚注参照)

✦ 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです(15節)。

✦ 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

わざわいだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う。「だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったのなら、その誓いを果たさなければならない。」(16節、自分が責められることなく、自分を正当化できるための様々な言い訳)

愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と黄金を聖いものにする神殿と、どちらが大切なのか……目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖くする祭壇と、どちらが大切なのか……

神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです」(17-22節)

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミン(それぞれ些細な薬味または香辛料の種類) などの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです……

目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだ(律法で食べてはならないと命じられている汚れた動物) はのみこんでいます。(23,24節)

✦ あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦で一杯です。目の見えぬパリサイ人たち。まず杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。(25,26節)

✦ 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側偽善と不法でいっぱいです。(27,28)

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、「私たちが先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろうと」と言います。こうして、預言者を殺した者たちの子たち(「神の子」との対比) だと、自分で証言しています。あなたがたも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。(29-32節。この表現はご自身の命を狙っている彼らに、先祖に従って血を流すことを勧めた皮肉)

✦ 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちはゲヘナの刑罰(「天においての報い」との対比) をどうしてのがれることができよう。だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです(「迫害される者」との対比)。(33、34節)

✦ わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは 幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。  (5:11,12)

それは義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るからです。

まことにあなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。(35、36節)

「杖にすがるとも、人にすがるな」ということわざがあります。そして、「すがる」ということばをネットで調べたら、「誰かにすがるしかできない……」とタイトルで、「ひとりでいることが辛くて睡眠薬を大量に飲んでリストカットして気を失った……」などという女性の痛々しい記事がすぐに出てきました。「すがる」というのは依存症的な生き方の象徴的なことばなのかも知れません。しかし、聖書では、「あなたがたの神、主(ヤハウェ)にすがらなければならない」、そのとき、「あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる」と記されています(ヨシュア23:8,10)。人が人にすがろうとすることは、ときに破滅への道となります。しかし、人が主(ヤハウェ)にすがるとき、千人をも圧倒する力を持つことができます。ところで、この世では、自分の生き方を変えるための様々な知恵が提供されます。先のリストカットの女の子の日記にも、多くのもっともなアドバイスが書き込まれていました。しかし、私はこの年になってつくづくと思いますが、自分も人も、本当は心の底では、変わりたいとは願っていないのではないでしょうか。ですから、どんなによいアドバイスを聞いても、それはほとんど役に立ちません。「すがる」という心理には、自分が「変わりたい」と願いなどはないように思います。ところが、人が主(ヤハウェ)にすがるとき、不思議にも、変わり始めることができるのです。それは、ちょうど、愛する人から、「そのままのあなたが好き!」と言われるときに、かえってその人を喜ばせるような行動をとりたくなるのと同じです。私たちは、「変わりたいと思わなければ……」などと自問しているとき、心の目は自分に向かっています。しかし、そこにはしばしば、空回りしか起きません。私たちが主(ヤハウェ)にすがり、心の目が主(ヤハウェ)に焦点を合わせられるとき、私たちは初めて変わり始めることができるのです。

1.「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています」

モーセが五つの書を記したように、マタイはイエスの五つの説教を残しています。そして、その最初は「山上の説教」、最後は「終わりの日の説教」と呼ばれます。前者の始まりでは九回の「幸い」が描かれ、後者の始まりでは七回の「わざわいだ」というさばきが描かれています。しかも、モーセは、最後の説教で、「見よ。私は確かにきょう、あなたの前に、いのちと幸い、死とわざわいを置く……あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:15,19節)という選択を迫りましたが、イエスもマタイにおける説教で、「律法学者やパリサイ人の義」(5:20)に従って滅びるか、イエスご自身に従って永遠の祝福を受けるかの選択を迫っておられるのではないでしょうか。

先に続く申命記30:20では、「いのちを選ぶ」という生き方が、「あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き、主にすがる」こととして言い換えられています。「すがる」ということばは、創世記2章25節では「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い」というときの「結び合う」と同じことばです。私たちは常に、関係の中に生きています。そしてそこには優先順位があります。幸せな結婚をしたければ、父母を「離れる」ということと妻と「結び合う」ということが同時に起こらなければなりません。父母に精神的に「すがる」代わりに、伴侶に「すがる」ということでしょうか……でも、そのように言うと、妻から、「私はあなたのお母さんじゃないのよ……」と言われてしまいます。そのような不満が出るのは、たいてい、夫が妻を愛し、妻の声に十分に耳を傾けてはいないからではないでしょうか。神との関係でも、「主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き」ということと「主にすがる」ということはセットになっています。それは、自分の願いがかなえられることばかりを求める関係は、必ず破綻するからです。私たちにとって、イエスにすがるということと、イエスを愛し、イエスの痛みを知るということは必ずセットになっていなければなりません。

ただし、どちらにしても、「いのちを選ぶ」という生き方は、この世のむなしい約束に「すがる」代わりに、「主(ヤハウェ)にすがる」という生き方に他なりません。自分の信仰を証することとは、「教会に行っているおかげで、こんなに強く生きられるようになった……」などと自慢することではなくて、「私はひとりになると何をしでかすかわからないような弱い者なので、イエス様なしには生きて行けないのです……」と謙遜に言うことではないでしょうか。

ところで、イエスが宣教の初めにいわれたことばは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」です。「悔い改める」ということばの中心的な意味は、「心の方向を変える」ということを意味します。それは、「主を愛し、主に聞き、主にすがる」という生き方に立ち返ることを意味しました。そして、「天の御国が近づいた」というのも、目に見えない神の哀れみに満ちたご支配が目の前に来ている」という意味です。「天の御国」とは、天国と呼ばれるようなこの世と離れた時間や空間のことではなく、「今ここで」、イエスを救い主として信じ、イエスの父なる神にすがって生きるという「関係」の中にあります。そして、それはイエスご自身の主導権によって始まりました。

イエスご自身がガリラヤ湖のほとりを歩いて、漁をしているペテロやヨハネの傍らに行って、彼らを召し出し、彼らを弟子としてくださったのです。彼らの側に立派な信仰があったというのではなく、彼らはイエスの権威と魅力にとらえられたに過ぎません。そればかりか、人々がイエスを探す以前に、「イエスは(ご自身の側から)ガリラヤ全土を巡って……民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(4:23)と記されています。

これと対照的なのが、「律法学者やパリサイ人は、モーセの座を占めている」(23:2)という姿勢です。彼らは自分のほうから人々に近づこうとしていたのではなく、いつも上から愚かな民衆を指導するという態度をとっていました。しかも、「彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとしません」(23:4)というような人々を突き放したような教え方ばかりをしていました。その方が、面倒を抱え込まなくて済むからです。

彼らは人々に自分たちの知識や敬虔さを見せびらかし、「人から先生(ラビ)と呼ばれるのが好き」(23:7)でした。しかし、イエスは、大ぜいの群集がつき従ったのを「見た」上で……「山に上り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで」(4:25,5:1)、全く新しい教えとして、ご自身に従う者の「幸い」を九つに分けて語ってくださったのです。それは、あくまでもイエスに従うことを既に決意している弟子たちに向けてのことばです。つまり、これは、「幸せに生きるための教科書」のような教えではありません。反対に、多くの人々が憧れるような、自立した人間としての立派な生き方なら、イエスからではなく、パリサイ人や律法学者から聞くことができたのです。

彼らは、自分の努力で幸せをつかむ方法を教えましたが、イエスは、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇いている者」、そして、ご自身のために「迫害されている者」という、この世で苦しみ損をしている人への「幸い」を保証されました。これらはすべてイエスなしには決して実現できないものです。ところが彼らは、自分たちが「教師」、「父」、「指導者」になり、人々がイエスに直接につながるのを邪魔しました。イエスが彼らに対して驚くほど攻撃的なのは、彼らが人々に、イエスと父なる神に「すがる」ことを邪魔したからです(8-10節)。それは、海で溺れている人に差し出された救命ボートを取り去って、泳ぎ方を大声で教えるようなものです。

2.「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者」が「幸い」であるとは?

イエスは、マタイ23章13節からの「終わりの日の説教」で、七回にわたって「わざわいだ……」という厳しいことばを律法学者やパリサイ人に向けて投げかけます。それは、彼らの「偽善」のゆえです。彼らがイエスの働きの敵となっているのは、「人々から天の御国をさえぎっている」(23:13)という点にあります。彼らは文化の中心エルサレムに住み、聖書を徹底的に学び、誰よりも自分たちこそが天の御国に近い存在と自負していました。そして、上から見下ろすように苦しんでいる人々指導しますが、その結果、人々は、「私は天の御国からはほど遠い……」と自暴自棄に陥ります。イエスのまわりに集った人々はそのような落ちこぼれ意識を味わっていました。

そのような人に向かって、イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから」と言われました。イエスは宣教の初めには、「天の御国は近づいた」と言っておられましたが、ここでは何と、「天の御国は(既に)その人のものだから」と断言しておられます。つまり、「自分は大丈夫だ」と思っている人は「天の御国」に入っていないのですが、「自分は何と惨めな人間なのだろう……」嘆きながら、「自分はイエスにすがることしかできない」と自分の無力さに打ちひしがれている人は、すでに「天の御国」に入っているというのです。

米国大統領就任式の祈祷を導いたリック・ウォレン師は、アルコールや薬物その他の様々な依存症の方々の自助グループを教会の中で導き、Celebrate Recoveryというプログラムを開発しています。その第一は、「心の貧しい者は幸い……」の意味を心から理解することから始まります。そのテキストのタイトルは、Stepping out of Denial into God’s Grace「否認から抜け出て神の恵みの中に足を踏み入れる」です。依存症は「否認の病」と言われ、たとえば、自分にアルコールや薬物をコントロールする力がないということを認められなくて、どんどん深みにはまり、問題の原因を自分の周りのせいにするからです。彼らは人を振り回すようなすがり方はしますが、本当の意味で自分の無力さを認めてはいません。私たちもみな、心の奥底で同じような問題を抱えています。しかし、自分の弱さや汚れを正直に認めることこそが、神のみわざが心のうちに始められる第一歩なのです。そして、その人は、その問題を抱えたままの状態で、今、既に、「天の御国」(神の国)に入れられているのです。

「悲しむ者は幸いです」の「悲しむ」とは、他の人には慰めようもないほどに深く嘆いている状態の人を指します。その人が「幸い」であるはずはないのですが、「慈愛の父、すべての慰めの神」(Ⅱコリント1:3)と呼ばれる方が、やがて慰めてくださるという保障があるからこそ「幸い」なのです。一方、パリサイ人たちは、「海と陸とを飛び回る」ほどに、疲れ知らずに働きながら、「改宗者を自分よりも倍も悪いゲヘナの子」にするというのです(23:15)。彼らは、神を信じているというより、「自分の信念」を生きているのです。それは、ギャンブル依存症の人が、「今に必ず大儲けできる!」と信じて同じ過ちを繰り返し、自分の周りの人々を不幸に引きずって行くのと同じです。このような人は、周りの世界を恨み、怒ってはいても、本当の意味で自分の惨めさを嘆いてはいません。深い悲しみを押し殺しているだけなのかもしれませんが……。しかし、本当に自分に絶望しながら、神に向かって嘆くとき、「人のすべての考えにまさる神の平安」(ピリピ4:7)を体験できるのです。これこそ信仰の神秘の世界です。

「柔和な者は幸いです」の「柔和」とは、自分の正当性を訴えて争う生き方と対照的です。パリサイ人たちは議論の天才でした。彼らは自分の聖書の知識を利用して、たとえ自分の誓った通り実行できなくても自分を正当化できる逃げ道を作りました(23:16,18)。しかし、イエスは、知識を誇る彼らこそ、「目の見えぬ人」だと繰り返されました。彼らは天を指して誓ったあげく、言い逃れをしますが、その結果、地を受け継ぐことさえできないばかりか、人々を滅びに導いている教師だというのです。確かに短期的に見ると、効果的に争うことができる人こそが、得をしているようにも見えます。ただし、伝道者の書に、「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない」(7:16)とあるように、一見「強い人」は、人の反感を買い、争いを広げることによって自滅してしまうということがあります。それどころか、イエスは、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と言われました。それは報復の連鎖を断ち切る教えであるとともに、神がこの地を支配しておられるとの前提で語られたことです。それをもとに、イエスは、「柔和な者」こそが「地を受け継ぐ」と言われたのです。そこで問われているのは、自分の力に頼って争うか、神の力にすがって「柔和」に生きるかの選択です。

3.「義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者」の幸いとは?

「義に飢え渇く」とは、この世の不条理に心を痛めながら、「神の正義」がこの地の実現することを強く憧れながら生きることです。たとえばパリサイ人たちは、盲目に生まれた人や障害者を、神にのろわれた人と見ていました。彼らは、どんな些細なものの十分の一を献げることに几帳面ですが、人を人とも思わない傲慢な姿勢で、人を簡単にさばいていました。イエスは、それを、律法の核心である「正義もあわれみも誠実もおろそかにする」ことだと指摘されました。それは、ぶよのような小さな虫をこして除くことに熱心でありながら、らくだのように大きな、律法で食用に適さないと言われている動物を飲み込むことと同じだというのです(23,24節)。彼らは、真の意味で、「義に飢え渇いて」はいません。それゆえ、神によって「満ち足りる」ことを味わうこともないというのです。

「あわれみ深い」とは、隣人の痛みや悲しみに、心の奥底が共鳴して震えるような状態です。私たちは人の痛みにいちいち自分の心が反応しないほうがこの世では楽に生きられます。パリサイ人たちは、貧しい人を心の底では軽蔑しながら、頻繁に「施し」を実践しましたが、心の底では人の尊敬を得ることばかりを願っていました。イエスは名誉に貪欲な彼らを、「あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦で一杯です」と非難しました。私自身も自分が人の痛みを聞くことに慣れすぎて、心が反応しなくなりはしないかと反省させられることがあります。あなたも人の悲しみを聞きながら、「優しい人に見られたい」という気持ちに動かされている場合がないでしょうか。それは、「あわれみ深い」のではなく、人の賞賛ばかりを求めるパリサイ人の心です。

ここでは、「義に飢え渇く者は……満ち足りる」「あわれみ深い者は……あわれみを受ける」と、神の報いがまっすぐに約束されています。ただしそれは、自分でコントロールできる世界ではありません。自分の心は単に、この世の不条理に痛み、また人の苦しみに合わせて心がふるえているだけなのです。その際、電車のつり革につかまると自由に揺れることができるように、神にすがる者は、自分の心を、一時的に渇いたままに、また、震えるままに開いておくことができます。そして、そのとき、神ご自身がその心を満たし、あわれみを注いでくださいます。

「心のきよい」とは、心の中が神の聖さで満たされているという意味ではなく、自分の醜さを認める正直さです。英語ではしばしば、「pure in heart」(心の中が純粋)と訳されます。先のセレブレイトリカバリーでも、この部分に最も多くのページが割かれ、自分の過ちを正直に神に告白することと同時に、信頼できる人に告白するようにと勧められています。イエスはパリサイ人を「白く塗った墓」(23:27,28)と呼びました。それは、「その外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱい」になっており、外側の美しさは、内側の汚れを隠す手段に過ぎないからです。しかも、外から見える姿を整えることに精神を集中すればするほど、自分の心の中が見えなくなってしまいます。「心のきよい」とは何よりも、「透明さ」を指すことばです。自分の心を透明に見ることができることと「神を見る」ことは切り離せない関係にあるのです。なお、「神を見る」とは、何かの恍惚体験であるよりは、パウロがエペソ人の手紙の中で、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものなのか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」(1:18,19)と祈ったことが実現してゆくというプロセスではないでしょうか。要するに、自分の心の闇が明らかにされればされるほど、神のめぐみの偉大さも明らかにされてくるというのです。

4.「平和をつくる者、義のために迫害されている、ありもしないことで悪口を浴びる者は幸い」

しばしば、真理のために命を賭ける人は、争いを作ります。パウロもパリサイ人だった時、「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」(使徒9:1)いました。「私たちが先祖の時代に生きていたら……」(23:30)という人も、そのように、「私は他の人のように愚かではない」と思う心自体が、争いの姿勢を正当化していると言えます。それに対してイエスは、「平和をつくる者」こそが「幸い」であり、その人こそが「神の子どもと呼ばれる」と語りました。ここにある九つの「幸い」の中で唯一の積極的な行動が、「平和を作る」という教えです。私たちは自分を被害者に仕立てる天才ですが、「平和の祈り」にあるように、「憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに和解を、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信頼を、誤りのあるところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらす」ような積極的な生き方を求めるべきなのです。そしてそのように生きる者は、「神の子」と呼ばれるのですが、このことばはイエスを、「神の子」と呼ぶときと同じことばです。私たちは、「平和を作る者」として生きるとき、名実ともに、小さなイエス、イエスの弟、妹とされ、イエスに結び合って(すがって)いる者とされています。ただ、その際、私たちの行動が決して押し付けにならないように注意しなければなりません。イエスは「叫ばず、声をあげず……くすぶる燈心を消すこともない」方でした(イザヤ42:2,3)。

「義のために迫害されている者は幸いです」(5:10)と、イエスはご自分の弟子たちに不思議なことを言われましたが、一方で、「終わりの日の説教」では、律法学者やパリサイ人こそが、イエスとイエスの弟子たちを、「町から町へと迫害して行く」ような者であると非難しました(23:34)。彼らは、質素でしたが生活に困りはせず、社会的な尊敬を受けており、その既得権益を守る思いから、イエスの「天の御国」の教えを迫害する側になったのでした。それに対して、イエスは、「天の御国は」迫害されている者たちの側にあると断言してくださったのです。

そればかりか、イエスは、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、またありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから」(5:11,12)と約束してくださいました。なぜなら、それは人々があなたをイエスに結び合わされた者と見たことの最大の証だからです。私たちが心から目指すべき目標とは、イエスと一体とされることではないでしょうか。迫害者はそれを手助けしてくれているのです。なおこれは、厳密には、「死んだ後、天国で慰めを受ける」という意味ばかりではありません。マタイは、「天」を、「目に見えない神のご支配の現実」という意味で用いています。ですから、イエスはここで、当時の宗教指導者へのさばきが「この時代の上に」目前に迫っている(23:35、36)ことと、イエスの弟子への「報い」が、今から永遠に続くことを対比しているのです。イエスに従う者は、今、ここで、命を落すような迫害のただなかでも「喜びおどる」ことができるのです。しかも、それは永遠の喜びの始まりです。

ルターが、超真面目人間の友人メランヒトンに宛てた有名な言葉があります。それは多くの誤解を生み出した危険なことばでもありますが、そこにはこの世の道徳とは決定的に異なる福音の本質が隠されています。

マルティン・ルター / フィリップ・メランヒトン
こしらえ物ではなく、本当の恵みを語れ……
神は架空の罪を犯した者を赦し給うのではない。
罪人であれ、そして大胆に罪を犯せ。
しかし、罪と死に勝利したキリストをさらに大胆に信じ、喜べ。

我々が我々である限り、罪は犯されるに違いない。
この生は義の住家ではなく、
「正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいる」(Ⅱペテロ3:13)のだから。
世の罪を除く小羊を神の栄光の富によって知ったことで十分なのだ。
たとい千回、一日に千回、姦淫と殺人の罪を犯そうとも、
罪は主から我々を引き離しはしない。

考えても見よ。
我々の罪のためにこんなに大きな小羊によってなされた賠償額が、
そんなに小さなものであろうか。
雄々しく祈れ、君は断固たる罪人なのだから

私たちに求められていることは、誰からも非難されることがないような立派な人間になることではなく、イエスに従い続けることなのです。その中で、あなたは結果的に造り変えられて行きます。そして、それは神がなしてくださることです。「そのままの姿で、留まる」ことと、「そのままの姿で、従う」ことには天と地の差があるのです。
神のみこころは、私たちが自分の弱さを正直に認めて、神にすがり続けることです。信仰と道徳とは真っ向から反する面があります。自分で自分を律することができると思う人は、自分の心から神を締め出しているのではないでしょうか。そのような人は、ある意味で、イデオロギーを信じているのであって、「神にすがっている」のではありません。それは私たちのうちにも起こり得る誤りではないでしょうか。「主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き、主にすがる者」は、「いのちを選んでいる」のですが、パリサイ人のように自分の力による自律的な生き方をしている人は、イエスから「わざわいだ」と言われ、「死」と「のろい」を選び取っています。一見立派な人が信仰者なのではなく、「イエス様なしには生きられない!」と、「主にすがっている人」こそが、神に喜ばれる信仰者なのです。そして、そのような人は、イエスが約束してくださった不思議な九つの「幸い」を今から味わうことができます。