伝道者11章〜12章「元気のあるうちにあなたの創造者を覚えよ」

2009年3月8日

伝道者11、12章 翻訳

あなたのパンを水の上に流せ。多くの日々がたってから、あなたはそれを見いだすのだから。
受ける分を七つか八つに分けておけ。
地の上にどのような災いが起こるかを、あなたは知らないのだから。
雲が雨で満ちるなら、それは地に向けて空(から)になる。
木が南に、または北に倒れようとも、木は倒れた場所にそのままになる。
風を見守っている者は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。
あなたは、風(霊)の道がどのようなものかも知らず、また、妊婦の胎内での骨々がどのように成長するかを知らないのと同じように、すべてを成し遂げられる神のみわざを知ることはできない。
朝、あなたの種を蒔け、夕方も手を休めてはならない。
あなたはどれが成功するのかを知らないからだ。
あれか、これか、または両方が同じように成功するもしれない。
光は心地良い。日を見ることは、目に良い。
実に、もし人が長生きするなら、暗い日々が多くあるかもしれないことを覚えていながら、すべてにあって楽しむのがよい。
すべて起こることは空しいから。
若者よ。あなたの若さを楽しめ。若い日にあなたの心を幸せにせよ。
あなたの心にある道とあなたの目に映るところに従って歩め。
ただ、神は、それらすべてにおいて、さばきを下されることも知っておけ。
あなたの心から苛立ちを去らせ、肉体から災いを取り去れ。若さも、青春も空しいから。

あなたの創造者を覚えよ。あなたの若い日に。
災いの日々が来て、「私には何の喜びもない。」と言う年が近づく、その前に。
太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雲が戻って来る、その前に。
その日には、家を守る者は震え(手が震え)、力ある男も身を屈め(足がたわみ)、粉ひきは減って止まり(歯が抜け)、窓から眺める女は暗くなり(目はかすみ)、通りに面した扉は閉じられ(引きこもり)、粉ひく音は低くなり(食欲が細り)、鳥の声にさえ起き上がり(眠りが浅くなり)、歌う娘たちもみなうなだれる(耳が遠くなる)。
さらに彼らは高い所を恐れ、道には恐怖があり、アーモンドの花は咲き(白髪になり)、ばったは重荷を負い(よろめき歩き)、気力が衰える。
それは、人が永遠の家へと歩み、嘆く者たちが通りを巡るから(葬式の準備がされる)。
こうして、銀のくさり(美しいいのち)が切れ、金の器(かけがえのない身体)が砕かれ、水がめが泉の傍らで割れ(心臓が止まり)、井戸車が井戸で砕かれ(循環機能が止まり)、ちりはもとの地に帰り、霊(息)はそれを下さった神に帰る、その前に。(そのようになる前に、あなたの創造者を覚えよ。)
「何と空しいことか!」と説教者は語る。「すべては空しい!」と。
そしてさらに、説教者は知恵ある者で、民に知識を教え、思索し、探求し、多くの格言をまとめた。
説教者は、ふさわしいことばを見出そうと捜し、しかも、真理のことばをまっすぐに記した。
知恵ある者のことばは、(家畜を動かす)突き棒のようなもの、その編集されたものは、よく打ちつけられた釘のようだ。
それらは唯一の羊飼いである方から与えられた。
これに加えて、わが子よ。注意せよ。
多くの本を作るのには、限りがない。多くの研究をしても、身体が疲れるだけだ。
これらすべてを聴いてきたことの結論とは、「神を恐れ。その命令を守れ」。
これこそが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべての行いにさばきを下される。

私が大学の交換プログラムでアメリカに留学したのは1974年のことでした。その頃、カーペンターズの歌がいたるところで聞かれましたが、あるとき「Sing」という曲がスーッと心に響き、急に英語がわかるような気持ちになって世界がどんどん広がり始めました。その歌詞は、「Sing, sing a song, sing out loud, sing out strong. Sing of good things not bad, sing of happy not sad……」(歌おう。大きな声で力強く、悪いことではなく良いことを、悲しいことではなく嬉しいことを)というものでした。当時、私は、表面的な強がりの影に、何とも説明しがたい神経症な不安を抱えていました。それを忘れるため、良いこと嬉しいことばかりを歌っていたいと思っていました。これを歌ったカレン・カーペンターも同じような葛藤を味わっていたようです。彼女は日本語でもこの曲を、「Sing, 歌おう。声を合わせ、悲しいこと忘れるため……」と歌っていましたが、それが痛々しく感じられます。それから約十年後、32歳の若さで、拒食症による衰弱のため息を引き取ったからです。彼女は自分が太る体質であることを脅迫的に恐れ、食べた物が自分の肉にならないようにと身体を痛めつけ続けていました。ありのままの自分を受け入れることができずに必死に頑張り、ついに力が尽きてしまったのです。この悲劇を通して摂食障害という病が社会的に認知されるようになりましたが、何とも痛ましいことです。私たちの心も身体も自分の思うようにはならないということを受け入れることは最も大切な知恵でしょう。この心も身体は、私たちの創造者だけが、本当の意味で生かし用いることができます。私は幸い、留学中の若かったときに、私自身の創造者と出会うことができました。ただ、その頃、自分の心の闇を、信仰によって克服するというような発想でしかありませんでした。それにやさしく向き合うことができるようになったのは、信仰に導かれてから十年余りも経ってからのことでした。いろんなことが順調に進んでいると思われる元気なうちにあなたの創造者を覚えることができるなら、様々な試練の中でも、自分を優しく受け入れられるようになることでしょう。

1.「あなたのパンを水の上に流せ」

「あなたのパンを水の上に流せ。多くの日々がたってから、あなたはそれを見いだすのだから」(11:1) とは、自分の財がなくなるかもしれない危険を覚悟しながら、長期的な投資に賭けることの勧めだと思われます。たとえば、ソロモンは海上貿易で巨大な富を築きましたが (Ⅰ列王記10:22)、そこに大きなリスクが伴いました。それと同時に、これは貧しい人への「施し」とも解釈できます。それは、差し当たりは損なこととしか思えませんが、「寄るべのない者に施しをするのは、主 (ヤハウェ) に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」(箴言19:17) と、この無私であるはずの行為でさえ、主に対する投資のように説明されています。財産を自分の手元に安全に守ろうとばかりすると、お金の流れが止まり、それは結果的に経済を収縮させることになります。その原則は、三千年前も今も同じです。

これはまた、主のことばを伝えるという働きにも適用できることです。紀元前700年頃、預言者イザヤは、聞く耳のなかった当時のイスラエルの民に神のみことばを語り続けるように命じられましたが、その際、主は、「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしくわたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」(55:10、11) と約束しておられます。事実、イスラエルの民が、イザヤの預言に耳を傾け始めるようになったのは、それから約150年後のことだと思われます。ただ、イザヤの預言は、今も、ユダヤ人を改心させ続け、また私たちに、神の救いのご計画を知らせ続けています。

「受ける分を七つか八つに分けておけ。地の上にどのような災いが起こるかを、あなたは知らないのだから」(11:2) とは、分散投資の勧めと理解できます。しばしば、「信仰」を、「自分の期待が実現することを心で念じ続けるなら、それが成就すること」かのように誤解する人がいますが、「人は自分に何が起こるかを知らない」(10:14) とあるように、主は私たちに未来を隠しておられます。経済の見通しが立たない以上、たとえば自分の財産を、不動産、預金、証券などに分散することは当然のリスク対策です。ただ、そのような中で、何よりも優先すべきことは、私たちの未来を支配する神との関係ではないでしょうか。献金は神への最大の信頼の表現になりますし、それは報われることです。それは、使徒パウロも、「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(Ⅰコリント9:6) と語っている通りです。私たちはよく、「見返りを期待しないで……」と言いますが、多くの場合、自分で自分を慰めたり、褒めたりしてはいないでしょうか。そこには既に見返りが存在するばかりか、心の目が自分に向かっています。それよりはすべての行為を、創造主である神との対話のうちにするというのが聖書の語る信仰です。

「雲が雨で満ちるなら、それは地に向けて空(から)になる。木が南に、または北に倒れようとも、木は倒れた場所にそのままになる」(11:3) とは、自然現象は人の手が及ばないところにあるという意味です。最近は天気予報の精度が上がってはいますが、それでもこれらすべてが人には制御できない現実であることに変わりはありません。

「風を見守っている者は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない」(11:4) とは、最高の収益を得るタイミングばかりを計りすぎるなら、かえって時期を逸してしまうというアイロニーです。人は誰も、無駄な労力や無駄な投資は避けたいと思うものですが、それが怠惰や臆病の言い訳になってしまっては本末転倒です。

「あなたは、風(霊)の道がどのようなものかも知らず、また、妊婦の胎内での骨々がどのように成長するかを知らないのと同じように、すべてを成し遂げられる神のみわざを知ることはできない」(11:5) とは、人は自然現象や人間の誕生という生活の基本に関わる知識さえ知ってはいないという知恵の限界を述べたものです。なお、「風」ということばは「霊」とも訳すことができますが、イエスはこのことばを意識しながら、「風は思いのまま吹に吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこに行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(ヨハネ3:8) と言われたのではないでしょうか。人がなぜイエスを主と告白し、キリスト者としての歩みを始めるようになるのか、これは人の誕生と同じように神秘的なことです。それを人間的な努力の成果の尺度で測ってはなりません。

「朝、あなたの種を蒔け、夕方も手を休めてはならない。あなたはどれが成功するのかを知らないからだ。あれか、これか、または両方が同じように成功するもしれない」(11:6) とは、「成功」は人間の努力を超えた神の御手の中にあるということを謙遜に受け止めるとともに、今、何もしなければ、何の結果も期待できないという現実を示しています。これは私たちの日々の働きすべてに適用できる真理です。この地に起きるすべてのことは神のみわざです。しかし、それは私たちの努力を軽蔑するものでは決してありません。人の側での「種を蒔く」という地道な働きがなければ、それを成長させ、成功させてくださるという神のみわざを体験することはできないのだからです。

ただ、それと同時に、「光は心地良い。日を見ることは、目に良い。実に、もし人が長生きするなら、暗い日々が多くあるかもしれないことを覚えていながら、すべてにあって楽しむのがよい。すべて起こることは空しいから」(11:7、8) と、日々の生活を楽しむことが同時に勧められています。それは「楽しむ」という余裕もないほどに働きすぎてはならないという教えです。聖書の教えで何よりもユニークなのは、週に一日の安息日を初めとし、労働してはならないと言われる日、休みが義務とされている日が驚くほど多いということです。それはすべてが主の恵みであることを覚え、労働の実を家族や隣人と分かち合って喜び楽しむための日です。多くの日本人のサラリーマンは、知力や体力がもっとも充実したときをすべて仕事にささげ、退職が近くなるころには、何をしてよいかわからないというような状態になることがあまりにも多いように思われます。「休み」は、貯金できるようなものではありません。

2.「あなたの創造者を覚えよ。あなたの若い日に」

「若者よ。あなたの若さを楽しめ。若い日にあなたの心を幸せにせよ。あなたの心にある道とあなたの目に映るところに従って歩め」(11:9) は、信仰が道徳主義に流れることを修正させる大切な教えです。ポール・トゥルニエというスイスの精神科医は、戦後まもなくスイスの教会に意気消沈している若者が多く集っていることに心を痛め、教会が「いのち」よりも「道徳」を教える場になってはいないかと警告を発しました。彼は、聖書には道徳とはかけ離れたような人々が満ちていることをあげながら、「宗教とは、神とその恩恵を情熱的に追求することを意味します。これに反して、道徳主義とは自分自身を追及することを意味し……・善悪を自分の力で識別し、あらゆる過ちから自分で自分の身を守ることを自分に要求するということです。こういう人間は、自分はまちがっていないだろうかと始終びくびくしながら、真面目一点張りに、あらゆる楽しみを断念します。この態度が極端になると、しまいには神も必要ないし、神の恩恵もいらないということになるのです」と語っています(「人生の四季」1970年、ヨルダン社、三浦安子訳P74)。神の前に正しく生きようとすることが、皮肉にも、神を不要にする生き方につながり得るというのです。

ここで、「若者」ということばは、文脈から明らかなように、行動が体力や気力から制限されてくる老年期との対比で用いられ、非常に幅の広い期間を指します。「若さを楽しめ」とは、「今、このとき」を神の恵みとして「楽しむ」ことです。しばしば、若い人は、社会的な影響力を発揮できる中年期に憧れ、中年の人は元気だった若い頃を懐かしみますが、そのどちらも現在に不満を抱くということで同じです。しかし、若さを楽しむことができる人は、結果的に、老年期をも楽しむことができることでしょう。それにしても、「若い日」だからこそ、「心を幸せに」できるという機会があります。それは、感激する心であったり、恋愛をしたり、心に湧き上がって夢に賭けるような情熱ではないでしょうか。北海道大学のキャンパスには、建学の基礎となったクラーク博士の銅像が飾られ、そこに彼の別れのことばが、「Boys, be ambitious(青年よ、大志を抱け)」と記されています。それはもちろん、品のない野心のことではなく、自分の小さな殻に閉じこもることなく、神の広い恵みの世界にはばたいて、神と人とのために生きることを意味します。

その際、「あなたの心にある道とあなたの目に映るところに従って歩め」とあるように、歩むべき方向性は、何か外から与えられるようなものではなく、自分の心と目に聞くことから始まります。たとえば、「この理想の実現のため……」とか、「このような生き方を……」と、いろいろな良い話を聞きながら、「何か自分の心にしっくり来ない」とか、「どうも自分の目に迫ってこない……」ということがなかったでしょうか。それと反対に、「人が何と言おうとも、これをやってみたい」と前向きになれたことがなかったでしょうか。その思いに正直に生きるとき、私たちの心身は驚くほどの力を発揮し始め、結果的に夢を実現することができます。使徒パウロはこのみことばを前提に、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2:13) と言ったのではないでしょうか。

ただし、「ただ、神は、それらすべてにおいて、さばきを下されることも知っておけ」(11:9) と警告されるように、明らかに神のみ教えに反することに情熱を燃やしてはなりません。それでも、もし、「神は私にどんな働きを期待しておられるのでしょう……神のみこころがわかりません」と疑問を持つようなときには、神の明確なみこころに反するものでない限り、自分のうちに沸いてきた思いに身を任せるので良いのではないでしょうか。そうするとき、心と身体に活力がみなぎります。「あなたの心から苛立ちを去らせ、肉体から災いを取り去れ。若さも、青春も空しいから」(11:10) とは、それを前提とした勧めだと思われます。「若さも、青春も」たちまちのうちに去って行くような「空しい」ものであるからこそ、今、このときを精一杯生きることが大切なのです。どちらにしても、人は、老年になるに連れて、自分の思うように心も身体も動かなくなるのですから、若いときから老人のように生きる必要はありません。

「あなたの創造者を覚えよ。あなたの若い日に」(12:1) という有名な勧めは、その後に続く、三回の「その前に」ということばとセットになっています。第一は、「災いの日々が来て、『私には何の喜びもない。』と言う年が近づく、その前に」ということで、人生を謳歌しているような若いうちに「あなたの創造主を覚えよ」という意味です。そして、第二は、「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雲が戻って来る、その前に」(12:2) ですが、これは神がこの世界をさばかれる日という「主の日」が来る前に (イザヤ13:9、10) という意味にも理解できますが、それ以前に、繁栄に満ちた時代が過ぎ去り、奴隷のように虐げられながら生きざるを得なくなる苦しみの時が来る前に (エゼキエル32:7、8)「あなたの創造主を覚えよ」という勧めとしても理解できます。人は、中年期には、自分の年齢に応じた影響力を発揮することもできますが、老年になると、年とともに影響力を失い、ついには自分よりもはるかに若い人の命令に従って生きざるを得なくなります。自分の青春時代を謳歌できなかった人にかぎって、それを屈辱と感じることでしょう。しかし、自分の力を発揮でき続けた人は、若い者の振る舞いを、余裕を持って見ることができることでしょう。

そしてその老年の痛みが、詩的に表現されているのが12章3–5だと思われます。括弧の中のことばは原文にはありませんが、著者はそのような意味をこめながら、人の老年を、「その日には、家を守る者は震え(手が震え)、力ある男も身を屈め(足がたわみ)、粉ひきは減って止まり(歯が抜け)、窓から眺める女は暗くなり(目はかすみ)、通りに面した扉は閉じられ(引きこもり)、粉ひく音は低くなり(食欲が細り)、鳥の声にさえ起き上がり(眠りが浅くなり)、歌う娘たちもみなうなだれる(耳が遠くなる)。さらに彼らは高い所を恐れ、道には恐怖があり、アーモンドの花は咲き(白髪になり)、ばったは重荷を負い(よろめき歩き)、気力が衰える。それは、人が永遠の家へと歩み、嘆く者たちが通りを巡る(葬式の準備がされる)から」と描いたのだと思われます。

ここで、「私の創造者」ということばを、「私の手の、足の、歯の、目の、耳の創造者」と言い換えて見ると良いでしょう。自分の身体と五感のすべてを神からの賜物として受け止め、それが機能するうちに思う存分それを生かし、その感覚を優しく受け止め、「今、ここで」の感覚を大切にして生きるということです。大阪大学の鷲田清一教授は、若い女性に多く見られる摂食障害について、「観念が身体をガチガチにしている。スリムでなければいけない、という思い込みで身体が金縛りになり、生理の根っこまでダメージを受けている。身体は本来、限界を超えないために眠気とか、痛みを危険信号として発するはずなのに、それが機能しなくなっている」と語っていますが(明念倫子「強迫神経症の世界を生きて」2009年、白揚社、P167)、その人たちはある意味で若いうちから老人のように生きてしまっているといえないでしょうか。そして、これは私自身の問題でもありました。四十代後半になって、私も、「観念が身体をガチガチにしている」という自分の問題に気づいてスポーツクラブに通い始めました。身体全体を生かすということを実践しだすと、頭痛に悩むことも減り、食事もおいしくなり、五感で世界を喜ぶことができるようになってきました。

そして、第三の「その前に」ということばが、原文では12章6節の初めに記されます。そして6、7節は、人間の死を詩的に表現したものと思われます。解説を加えると、「こうして、銀のくさり(美しいいのち)が切れ、金の器(かけがえのない身体)が砕かれ、水がめが泉の傍らで割れ(心臓が止まり)、井戸車が井戸で砕かれ(循環機能が止まり)、ちりはもとの地に帰り、霊(息)はそれを下さった神に帰る、その前に」と訳すことができます。人は、死という現実を、どうにか美化して受け入れやすくしようともがきますが、それでも、死とは人間が無生物の「ちり」と同じ状態になることに他なりません。著者はかつて、死の状態においては人間も獣の何の違いもないということを強調していました (3:18–21)。つまり、獣と同じようになる死を迎える前に、「あなたの創造者を覚えよ」と強調されているのです。

なお、私たちが、私たちの創造者との親しい交わりのうちに生きるときに、神に向かって、「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません」(詩篇16:10) と告白することができます。つまり、人は創造主との交わりの中で、初めて、死を乗り越えることができるのです。

つまり、「あなたの創造者を覚えよ。あなたの若い日に」とは、生きているうちに、気力が充実した元気なうちに、物事が順調に進んでいるうちに、あなたの身体も個性もすべてをパーソナルに創造してくださった神を覚えなさいという意味です。「あなたの創造者」ということばには、私たちの様々な欠点や弱さや障害のすべてをご存知で、私たちをこのままの姿で受け入れてくださる方という意味がこめられています。そして、私たちが自分の力で世界を開くことができるかのような好い気になっているそのようなときこそ、創造者を覚えることが大切だというのです。実際、老年になってしまうと、なかなか自分の生き方や発想を切り替えることができません。そして、自分を中心にしか世界を見られない人は、年を重ねるとともに、恨みや不満を募らせながら生きるということになりかねません。

3.「神を恐れ。その命令を守れ」

「『何と空しいことか!』と説教者は語る。『すべては空しい!』と」(12:8) という表現は、この書の始まりに私たちの心を立ち返らせます。それは、目に見える世界の空しさを思い起こさせることばで、この書のテーマです。

その上で、著者は、この書を記した動機と経緯を最後に、12章9–11節で記します。「そしてさらに、説教者は知恵ある者で、民に知識を教え、思索し、探求し、多くの格言をまとめた。説教者は、ふさわしいことばを見出そうと捜し、しかも、真理のことばをまっすぐに記した」(12:9、10) とは、著者がこれをまとめるにあたって、どれだけの思索を重ね、また、ことばをどれだけ注意深く選んできたかとを思い起こさせるためです。しかも、それは自己満足のためではなく、神から授かった「知恵」を用いて、「民に知識を教える」という愛に満ちた指導者の自覚から生まれたものです。そして、「知恵ある者のことばは、(家畜を動かす)突き棒のようなもの、その編集されたものは、よく打ちつけられた釘のようだ。それらは唯一の羊飼いである方から与えられた」(12:11) と記されます。大きな動物が小さな「突き棒」によって、その歩む方向が変えられるのと同じように、この書のことばには人の歩みを変える力があるというのです。それはこのことばが、「唯一の羊飼いである」神ご自身から与えられたからです。しかも、この書には様々な格言が脈絡なく集められているかのように見えますが、それは慎重に編集されたもので、ひとつひとつのことばが、「よく打ちつけられた釘」のように抜くことができない、はずすことのできないものであるというのです。

「これに加えて、わが子よ。注意せよ。多くの本を作るのには、限りがない。多くの研究をしても、身体が疲れるだけだ」(12:12) と著者は記します。たとえば、私たちの周りには、数え切れないほどの先人たちの格言がありますが、それらすべてを調べたり、またそのことを記したりしても無益であるとも語ります。なぜなら、人が知るべき知恵、真理は、簡潔なひとつのことばにまとめることができるからです。そのことばが、「これらすべてを聴いてきたことの結論とは、「神を恐れ。その命令を守れ」。これこそが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべての行いにさばきを下される」(12:13、14) とまとめられています。

最近、スピリチュアリティー(霊性)ということばが、様々な意味で用いられていますが、聖書はそれを、「神を恐れよ」というひとことで表現しているように思われます。ただし、それは、神のさばきをびくびくと恐れながら生きるという意味ではなく、毎日の生活を、また家族や友との交わりを喜びながら生きるということにつながります。食べたり飲んだり楽しむことと、「神を恐れる」ことは、コインの裏表のようなものだからです。神を恐れ、神の命令に注目し、守る中に、生きることの喜びが生まれます。なぜなら、「神」は、私たち自身の「創造者」であられるからです。

また、「善であれ、悪であれ、すべての隠れたことについて、すべての行いをさばかれる」というのも、神が私たちの地上の働きに公正な評価を下してくださるという希望と慰めのことばとして理解できます。なぜなら、私たちは何よりも、自分の働きがこの世では正当に公平には評価されないことに傷ついているからです。

キリストを信じる者にとっての老年とは、暗いものではなく、光に向かっての歩みです。それをパウロは、「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント4:16) と表現しています。つまり、肉体の衰えと霊的な成長とは反比例して進むというのです。そのように生きるための秘訣が、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」(同4:18、5:1) と記されます。

この伝道者の書の最後では、肉体の死を詩的に表現していますが、それをパウロも、「地上の幕屋がこわれる」という一時的な通過点と描き、「神の下さる建物」「天にある永遠の家」に思いを馳せるようにと勧めています。私たちはイエス・キリストに結びつくことによって、今このときから、死を乗り越えたいのちの中に生きることができます。たといこの肉体が滅んでも、私たちは新しい霊の身体を受けて、永遠の喜びの中に生きることが保障されています。そこで私たちは朽ちることのない新しい身体となって、太る心配もなく食事を楽しみ、すべての人と最愛の伴侶と同じように心を通い合わせ、あらゆる芸術を喜び、神を賛美することができます。つまり、この書で勧められている人生を楽しみ喜ぶことは、「新しい天と新しい地」における生活を、この地で前味として喜ぶことに他ならないのです。

そして、私たちを待っている神のさばきについて、使徒パウロは、「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになる」(同5:10) と記します。つまり、「神のさばき」が、「キリストのさばき」へと変えられているのです。そして私たちはキリストのさばきを恐れる必要がありません。なぜなら、キリストは私たちのすべての罪をその身に負って、この罪人のままの私たちを神の子供として受け入れるために、死んでよみがえってくださった方だからです。パウロは、この世的な打算や恐れを超越した情熱的な生き方の秘訣を、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」(同5:14) と語っています。私たちもキリストの愛に取り囲まれながら生きることができます。そして、私たちがキリストの前で問われるのは、犯してしまった罪や失敗の数々ではありません。なぜなら、キリストはそれを赦すために十字架にかかってくださったからです。私たちが問われるのは、どれだけ、あなた自身の創造者を覚え、感謝し、喜び、自分に与えられた身体と心と五感のすべてを生かして、キリストの愛にどれだけ応答して生きてきたかということです。失敗をしながらも、キリストのために働いたこと、結果が出なくても努力したことの報いをいただくことができます。もう自分の失敗を恥じたり隠したりすることなく、「ですから私たちは勇気を失いません」と言いながら、明日に向かって生きることができます。