ルカ20章19〜44節「理想と現実のギャップを超えた神の支配」

2009年5月10日

この世の中には、理想主義者と現実主義者の意見の対立が常にあります。私が神学校で学んだとき、同じ神学生仲間に、理想主義者的なひ弱さを感じました。しかし、現実の牧会の働きのなかで、教会の現実的な成長が見られない中で、大きな焦りを感じました。しかし、聖書を読めば読むほど、神はご自身の理想を常に守りながら、罪にまみれた現実の人間社会を、驚くほどの忍耐を持って導いておられることに感動を覚えました。その中で、「神の国」というのは本当に不思議な概念です。それは、平和が世界に満ちるという究極の理想の表現であるとともに、罪人の集まりに過ぎない教会という共同体に既に実現しているものでもあるからです。教会にはとてつもなく面倒な罪人の交わりという現実がありますが、同時に、そこにはやがて愛の交わりとして完成するものの「つぼみ」を見ることもできます。使徒信条にも、「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わりを・・信ず」と告白されているように、聖霊への信仰告白と教会への信仰告白は切り離せない関係にあります。主のことばが語られている教会は、どんなに矛盾と問題を抱えていたとしても、「キリストのからだ」であり、「聖霊の宮」なのです。信仰とは、目に見える現実を超えた姿を見させてくれるものです。それは、この面倒な現実の社会にも当てはまります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)とあるように、この世はキリストがいのちをかけてくださった愛の対象なのです。この世の矛盾や醜さのゆえにこの世を軽蔑する者は、神のみわざを軽蔑する者です。この社会が、神の愛が注がれている世界だと認めるなら、私たちはこの世の中で、生きていることの喜びを味わうこともできます。私たちの神は、この世を確かに、支配し、完成に導いておられるからです。

1.「カイザルのものはカイザルに・・神のものは神に返しなさい」

「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた」(19節)とありますが、これはイエスが「ぶどう園のたとえ」を用いて、彼らが神から管理を任された神殿を自分の私利私欲を見たす場に変えてしまっていることを非難したことへの反応です。彼らはイエスに対して怒りを燃やしながらも、民衆の顔色を見て何もできませんでした。そのような中で、「さて、機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者(スパイ)を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った」(20節)というのです。当時の宗教指導者たちにとってローマ総督は敵でしかなかったはずですが、彼らはイエスを排除するためには敵の権力をも利用しつくそうとしたのです。

イエスにとっても、当時の宗教指導者にとっても、「主(ヤハウェ)は王である」(詩篇96:10)という告白こそが信仰告白の核心でした。ところが、彼らの時代は、「ローマ皇帝こそが王である」と言わなければ生きられませんでした。その象徴が税金を払うということでした。イエスを「ダビデの子にホサナ」と叫んで迎えたエルサレムの群集も、この支配から解放されることを望んでいました。そのような中でその間者(スパイ)たちは、イエスを尊敬しているふりをして、「先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」と言います(21節)が、皮肉にも、彼らこそが人を「分け隔て」し、「真理に基づく」代わりに、民衆を恐れて、イエスを罠にかけることばかりを考えていたのでした。

間者(スパイ)たちはイエスに、「私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか」(22節)と尋ねましたが、これはどちらに答えてもイエスが窮地に追いやられる質問でした。もし、イエスが、「税金を納めることは、律法にかなっている」と答えるなら、宗教指導者たちはイエスをローマ帝国の支配にへつらう偽指導者として、群集に紹介できます。すると人々はイエスに失望したことでしょう。しかし、反対に、「律法にかなっていない」といえば、イエスをローマ帝国への反乱を扇動する革命家としてローマ総督に訴えることができます。彼らは、今までのイエスの言動から、イエスをローマ帝国の敵として訴えることができると思い、そのような答えを引き出すためにイエスを持ち上げるようなことを最初に言ったのだと思われます。

ところが、「イエスはそのたくらみを見抜いて」、「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」と彼らに反対に質問しました(23,24節)。このとき彼らは、自分たちが嫌悪するものを持ち歩き、それに頼っていることを認めざるを得なくなりました。そこには、「神の子のカイザル」という記述とともに彼の肖像が刻まれていました。それはまさに偶像のようなものでした。しかし、それは必需品でもありました。神殿に献げる時だけは、両替人を用いてその銀貨を両替しましたが、それで商業取引はできません。しかも、彼らの多くは、ローマの軍隊が守る通商路の恩恵を受けていました。この銀貨は、生活を保証するシンボルのように見えました。

彼らはしぶしぶ、「カイザルのです」と答えざるを得ませんでした。それに対しイエスは、「税金を納める」という表現を避けながら、「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と言われました(24,25節)。イエスが、「カイザルのものはカイザルに」(21節)と言った時、税金を納めることを正当化しているようでいて、同時に、銀貨はカイザルの国の領域における便宜的な手段に過ぎないということを言っておられます。しかも、彼らはそれに依存して生きているのですから、税金を拒む権利はないと言えましょう。しかも同時に、イエスは、「そして神のものは神に返しなさい」と言うことによって、彼らのこころのあり方を問い直させました。それはこの国の真の支配者はカイザルである前に、神であられることを告白するようにという勧めです。彼らは口先では神をあがめていましたが、心の中では自分を神のようにして、自分の都合を優先して生きていました。

「彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった」(26節)とありますが、イエスはしばしば、「あれかこれか」の選択を迫る質問に、まったく別の角度からの答えを示されます。今も、さまざまな生き難さを抱えられた方は、多くの場合、「白か黒か」という二者択一の考え方の中でにっちもさっちも行かなくなっています。しかし、それこそサタンの罠ではないでしょうか。どちらの選択にも問題が見えるときは、一呼吸おいて神の前に静まることが大切です。そして、問題を別の角度から見るという知恵を求めることです。

イエスの当時、ローマ皇帝の支配から独立さえできればみんな幸せになれると思われていましたが、イスラエルはその百七十年ほど前に独立国家を形成しながら、内部の権力争いで自滅したばかりでした。当時の政治状況では、ローマ帝国を否定してしまっては、かえって社会全体が不安定になり、より大きな悪が生まれる可能性がありました。ですからパウロも横暴な皇帝ネロの支配下にありながら、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです・・・彼は無意味に剣をおびてはいないからです」(ローマ13:1,4)と剣による支配にさえ理解を示しています。

イエスの教えは、現在の経済制度にも適用することができます。たとえば、自由主義経済は、必ず勝者と敗者が生まれる弱肉強食の世界です。過当競争のために生産すれば生産するほど赤字になるような互いに互いの首を絞めあっているようにしか思えないときもあります。しかし、自由競争を完全に否定したら、少し前の中国や現在の北朝鮮のように、権力者が資源の配分から消費までをコントロールせざるを得ません。それは権力者の横暴と賄賂を生み出すシステムに他なりません。すべての物に、自由な市場システムによって値段がつけられるというのは、今考えられる最も効率的な経済システムです。ただ、そこでは、お金がすべてのバロメーターとして正当化されます。儲かることが正義になり、お金は偶像になってしまいます。単に、資源配分の効率化のための手段に過ぎなかったものに、たましいを売るような人が現れてしまいます。昨年以来の金融危機から生まれている大不況は、市場経済システムの落とし穴を示しています。しかし、そのシステムを否定してはより大きな問題が生まれます。

残念ながら現在の日本は、資源の配分を政治家と官僚の手に戻そうとする動きが強くなっていますが、本来、拝金主義にブレーキをかけるのは政治家の役割以前に、宗教指導者の責任でした。かつての日本でも、それなりの職業倫理が社会的に確立してきたと言われますが、それが通用しなくなりつつあるのが心配です。アメリカの教会ではお金の管理に関する講座を教会が開き、多くの人々がそこで立ち直っていると聞きます。聖書には驚くほど多くのお金の話が出てきます。それはお金の大切さを認めるとともに、その限界と危険を教えるためです。この世界を支配しているのは、市場経済のシステムである前に、聖書の神です。イエスは、お金の大切さを認めながらも、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません・・・神にも仕え、また富にも仕えるということはできません・・だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:24、33)と言われました。あなたの心の中で、神との交わりが常に第一とされ、神が神としてあがめられているでしょうか?イエスは、お金を「カイザルのもの」と呼びました。私たちにとってのお金は、「日本政府のもの」です。それは、社会のシステムを機能させるための道具であり、私たちはそれに頼りながら日々の生活をしています。道具が良いか悪いかを論じる以前に、使いこなす知恵が大切です。その第一は、あなたの主人は誰なのか、あなたはどなたに仕えようとしているのかを問うことです。

2.「神は・・生きている者の神です・・・神に対しては、みなが生きている」

「ところが、復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、イエスのところに来て、質問して・・・」(27節)とありますが、1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスは、「サドカイ人は、魂は肉体とともに消滅するという教義を信奉している。彼らは書かれた律法以外の何ものにも従うことを認めない。この教義を知っている人は少数で、それは高位の人たちである・・彼らは無作法であり、乱暴であった」と記しています。確かに旧約には、新約のように明確なかたちで死人の復活を保証している箇所はないように思えます。

サドカイ人はイエスに、「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかった場合は、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』 ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子どもがなくて死にました。次男も、三男もその女をめとり、七人とも同じようにして、子どもを残さずに死にました。あとで、その女も死にました。すると復活の際、その女はだれの妻になるでしょうか。七人ともその女を妻としたのですが」(28-33節)と尋ねました。

これは申命記25:5-10の解釈に関することです。そこでは、子を残さずに死んだ夫の妻が、彼の兄弟との再婚によって夫の血筋を絶やさないことが義務とされていました。それは、神から委ねられた土地を、責任を持って管理し続けるためでした。しかも、当時の人々は、旧約外典トビト書に記されたサラを尊敬していました。彼女はアッシリアの首都ニネベ捕囚とされたナフタリ族の者で、七人の男に嫁ぎながら初夜の前に先立たれ、八人目の男性トビトの子トビアとの間で初めて子孫を残し、異郷の地で先祖の血筋を守り通しました。ですからこのたとえは身近なものでした。その場合、復活の後、彼女は誰の妻なのかという疑問が出るのも無理からぬことです。つまり、再婚が義務として命じられているということは、復活がないということの何よりの証拠だと彼らは主張したのです。

それに対してイエスは、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです」(34-36節)と語りました。御使いは土地を所有せず、神との交わり自体を喜んでいます。同じように復活後の世界では子孫を残す必要がないので、「復活の子」たちには結婚が不必要になるというのです。イエスがこのように話されたのは、当時の人々が結婚を、子孫を残す手段と見ていたからですが、それはイエスが結婚をそのように手段として軽く扱ったという意味ではありません。復活の後の新しい世界においては、私たちが神の家族として完成します。そこでは、私たちの愛の交わりが、すべて最愛の伴侶の関係以上の水準にまで引き上げられるのです。この地上でさえ、肉の兄弟姉妹は結婚することはありません。まして神の家族が完成するところに結婚は必要がないのです。

しかも当時は再婚に際してさえ、妻は最初の夫に縛られ続けていました。しかし、主はこのことばによって、伴侶に先立たれた人に、新しい人生を始めさせる完全な自由を保障したのです。

その上でイエスは、死人の復活を証明するために、出エジプト記の有名な記事を引用しながら、「死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、このことを示しました」(37節)と言われます。そこで主(ヤハウェ)は、エジプトで奴隷となっているイスラエルの民に、ご自身のことを、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジ3:6以降)と紹介されました。これが「死人がよみがえる」ことの証明に用いられるのは不思議です。それは、三人とも約束の地を与えるとの神の約束を聞きながら、旅人、寄留者として、地上の生涯を終えたからです。もし、彼らが「死んだ者」であるならば、神の約束は、果たせぬ夢だったことになります。それで、イエスは、「神は・・・生きている者の神です」と言って、彼らが今も神のみもとで生きており、その約束も生きていると語ったのです。それをまとめてイエスは、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです」(38節)と言われました。これは、「すべての人が生きる」または、「救われる」という意味ではなく、神に向かって生きている者は、みな生きている、または、神との交わりは永遠に生きたものとして続くという意味です。ですから、私たちも、自分に与えられた救いを、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が、今、私の神となられた」と表現できるのです。

サドカイ人は目に見えるものに固執し、この世の成功を神の祝福、反対に、不幸を神のさばきと見ていました。しかし、本当の幸せは、目に見えるようなものや所有できるものではなく、愛の交わりという「関係」の中に存在するのではないでしょうか。そして、この地での結婚とは、愛を学ぶ学校です。愛することの難しさを体験し、天で完成する愛の交わりへの望みを育む関係です。サドカイ人たちの教えは地上の神殿と共に滅びました。復活を信じない者の末路はあわれです。損得を越えた愛の永遠性を信じないで、どこにいのちの喜びがあるでしょう

3.キリストはダビデの子であると同時に、ダビデの主であられる

「律法学者のうちのある者たちが答えて、『先生。りっぱなお答えです』と言った。彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった」(39、40節)とありますが、この律法学者とは先のサドカイ人と対立関係にあるパリサイ人であったと思われます。そして質問できなくなったのはサドカイ人だと思われます。マタイでは、「パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人を黙らせたと聞いて、いっしょに集まった」(22:34)と記されています。この二派は対照的でした。ヨセフスは「パリサイ人は、簡素な生活を営み・・数々の戒めを守ることに重点を置き・・・もし律法のために死ぬ必要があれば、喜んで死ぬような者にこそ神は復活を許し、より良い生を与えると信じている」と記しています。

イエスは続いてパリサイ人である律法学者に積極的に語りかけます。当時の人々は、自分たちを外国の支配から解放してくれる救い主(ギリシャ語では「キリスト」)を待ち望んでいました。そして、たとえばイエスに救いを求めた盲人は、主を「ダビデの子」と呼び、またエルサレムに迎えた群衆も、「ダビデの子にホサナ」と叫んでいました。そのような中でイエスは、それを認めない律法学者に向かって、「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか」(41節)と不思議な質問をします。彼らも、キリストを、現実的な王国を立ててくれる「ダビデの子」と呼んでいたからです。それに対してイエスは、ダビデが記した詩篇110篇で、キリストを「私の主」と呼んでいることを指摘し、キリストはダビデの主でもあると語りました。この詩篇は新約聖書に最も多く引用されている詩篇です。ダビデはそこで、「主は私の主に言われた。『わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい」と述べています(42,43節)。これは、父なる神である主(ヤハウェ)が、「ダビデの主」キリストに向かって、主(ヤハウェ)がキリストの敵を、完全にキリストの支配下に服従させるまで、主(ヤハウェ)の「右の座」、つまり宰相の地位にとどまっていなさいと言われたというもので、神の救いのご計画の想像を絶する広がりを示すものです。

それによって、イエスは彼らのキリスト理解がいかに人間的で、浅薄なものかを示されたのです。彼らは、イスラエルがローマ帝国から独立し、ダビデ王国が復興され、神の救いが完成すると信じていました。しかし、それは歴史が証明するように、別の民族紛争の始まりでしかありません。しかし、世界の完成とは、キリストが神の右の座、つまり宰相の地位について、すべての敵が、キリストの足の下に従わせられるときです(43節)。その時、「最後の敵である死も滅ぼされる」(Ⅰコリント15:25、26)のです。つまり、イエスは、キリストはダビデが果たすことができなかった全世界的な神の王国を立てる方であると言われたのです。それを理解させるためにイエスは、「こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう」(44節)と問いかけられました。

彼らは、神の救いを、カイザルに税金を納めなくて済む独立国家を建てる程度にしか理解せず、その枠でイエスはキリストではありえないと主張していました。それに対し、イエスは、ご自分が今もたらそうとしている神の国が、地上のダビデ王国の概念を超えたものであることをこの詩篇110篇によって彼らに理解させようとしたのです。

キリストは、ダビデの子として、目に見える神の国を実現してくださいました。それは現在、キリスト教会として全世界に広がっています。しかし、イエスは同時に、ダビデの主として、ダビデが果たすことができなかった、全世界的な真の平和(シャローム)を実現してくださいます。パウロは、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、暗やみの世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)と記していますが、キリストは、この戦いに対する勝利を、ご自身の復活によって確定して下さいました。それによって私たちはすでに「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)とされており、自分のいのちを守るためにこの世の権力者と戦う必要がありません。目標は、地上的な問題の解決ではなく、世界の完成、愛の交わりの完成です。エデンの園にあった、祝福に満ちた、神と人、人と人、人と被造物の交わりが、さらに拡大された形で、新しいエルサレムにおいて実現するのです。今、私たちのうちには、復活のキリストの御霊が宿っています。ですから、私たちは今ここから、「復活の子」としての歩みを始めることができます。神と人とを真の意味で愛することは、生まれたままの人間には不可能です。しかし、キリストの御霊は、あなたの中に、ご自身の愛を注ぎ、また神と人とを愛する力を生み出してくださいます。

評論家はこの世の矛盾をするどく指摘し、あるべき理想の状態を提示することができます。しかし、評論家がそのようにできるのは、この世の現実と距離を置いているからに過ぎません。私たちが現実の中に自分の身を置いて生きるなら、そこには次から次と予想外のことが起こり、その場その場で、瞬時の判断を求められます。キリストに見られる神の支配は、何とも不思議です。取税人や遊女という理想から程遠い社会の底辺に生きる人々に寄り添いながら、そこに誰も作ることができなかった愛の共同体を創造してくださいました。神の国は、今、すでに、ここに始まっています。問題の只中にいると、それが見えません。しかし、それは確かに、完成に向かっているのです。泥水の中に咲く蓮の花を見るように、暗い現実の中に、神の国の完成の「つぼみ」を見て行きたいものです。