エレミヤ32章〜34章「私たちは真実でなくても、主は常に真実である」

2009年4月28日

私は昔、証券会社にいたとき、経済見通しが週ごとのように変わることに対し、何とも言えない空しさを感じていました。そのような中で、決して変わることのない聖書のことばに、心がますます惹かれるようになりました。宗教改革者マルティン・ルターは、「神の愛はその愛する相手を見いだすのではなく、創造するのである。人間の愛はその愛する相手によって成りたつ」と言いました。それこそ聖書の一貫したテーマではないでしょうか。私たちは自分の心の内側を見るときに、自分が愛されるに値しない存在であるかのように見えてきます。しかし、福音とは、そのような者を名実ともに愛するに値する者へと造りかえることにあると見えてくるとき、心が楽になります。しかも、その際、自分がどれだけ変えられたかなどと見直してばかりいてはなりません。「信仰」という言葉は「真実」とも訳すことができます。私は、「信仰によって救われる」ということばを聞きながら、「こんな不信仰では救われないのでは・・・」と不安になることがありました。しかし、信仰とは、キリストの真実から生まれるということが分かったとき、心が楽になりました。不真実で不信仰な者を真実な信仰者へと造り替えてくださる神の真実に目を向けたいと思います。

1.「彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える」

「ユダの王ゼデキヤの第十年、すなわち、ネブカデレザルの第十八年」(32:1)とは、エレサレムがバビロンによって陥落する前の年で、紀元前588年から587年にかけてのときを指します。「そのとき、バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中で、預言者エレミヤは、ユダの王の家にある監視の庭に監禁されていた」(32:2)とありますが、それはエレミヤが、「ユダの王ゼデキヤは・・必ずバビロンの王の手に渡され・・・バビロンへ連れて行かれる・・・あなたがたはカルデヤ人と戦っても、勝つことはできない」(32:4、5)と語り続けていたからです。エルサレムはこのときまで二度にわたってバビロンに屈服し(紀元前605年、597年)、王も貴族も神殿の宝物もバビロンに移されていましたが、それにも関わらず、なお、それが神のさばきによるものと認めず、エジプトに支援を求めていました。また、偽預言者たちは神が最後に奇跡的な救いを与えてくださるという根拠のない夢を語り続けていました。

一方、エレミヤは、イスラエルの民はバビロンに七十年間捕囚とされた後になって解放されるという気の長い預言をしていました。主はそれが夢物語ではないことを示そうと、監禁されていたエレミヤに「おじの子ハナムエル」を遣わし、「ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください」と土地取引を提案させました。エレミヤは、「それが主(ヤハウェ)のことばであると知った」(32:8)ので、「アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った」ばかりか、当時の公式な手続きに従って証人たちの署名をもらい、「監視の庭に座しているすべてのユダヤ人の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し」(32:12)ながら、その証書を「土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ」(32:14)と命じます。その際、「イスラエルの神、万軍の主(ヤハウェ)」ご自身が、「再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになる」(32:15)と保障しておられることを明らかにします。

その後エレミヤの祈りが記され、32章17-19節では、主がどのように偉大な方であるかを賛美しながら、現在の危機が、神の全能の御手の中で起こっているとの信仰が告白されます。特に、「先祖の咎を・・・報いる方」(18節)、「すべてに報いをされ」(19節)という表現に、これはイスラエル自身が招いたさばきであるとの告白が見られます。

その上で、続けて、出エジプト以来の歴史を簡潔に振り返りながら、「この町は・・・カルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は成就しました」と、これが当然の神の報いであると語りながら(32:24)、同時に今、自分が抱いている疑問を、「主、ヤハウェよ。あなたはこの町がカルデヤ人の手に渡されようとしているのに、私に、『銀を払ってあの畑 買い、証人を立てよ』と仰せられます」(32:25)と率直に訴えます。

それに対して主は、バビロン帝国を用いてエルサレムを滅ぼす理由を、四回に渡って、イスラエルの民が「わたしの怒りを引き起こした」(32:29,30,31,32)からと表現します。ただ、その後の希望に関して、「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(32:37、38)と約束します。それと同時に、主ご自身が彼らに対して再び怒りを燃やさなくてすむように、その心を内側から作り変えるという約束を、「わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える」(32:39、40)と言われます。これは「彼らがみな・・わたしを知るからだ」(31:34)と言われたことばの言い替えです。興味深いのは、「神を恐れる心」自体を、神ご自身が人々の心の中に起こしてくださると約束されていることと、その目的が、「彼らを幸福にするため」と記されていることです。

しばしば、教会の歴史の中では、地獄の炎の恐ろしさを強調することによって人為的に神への恐れを沸き立たせようとしたり、また、神を恐れるという教えが人を幸せにするどころか、萎縮させる方向に働く場合がありました。しかし、たとえばジョン・ニュートンは、Amazing Graceの二番目の歌詞で、「’Twas grace that taught my heart to fear, and grace my fear relieved」(恵みこそ、私の心に恐れることを教え、また恵みによって私の恐れは和らいだ)と歌っていますが、私たちは福音のすばらしさを知れば知るほど神への恐れが沸くとともに、この世への恐れから解放され、心が自由を得ることができます。この世の権力を恐れるのは、真に恐れるべき方を忘れることの結果なのです。ですからイエスは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことができる方のことを恐れなさい」(10:28)と言われました。そしてイエスは、その神のさばきを私たちの身代わりに、十字架において引き受けてくださいました。しかし、私たちが十字架のみわざを罪の消しゴムのように軽く見るなら、それは恵みを軽蔑するという罪を犯すことになります。

そして主は最後に、主は、「わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす・・・この国で、再び畑が買われるようになる・・・山地の町々でも、低地の町々でも、ネゲブの町々でも、銀で畑が買われ、証書に署名し、封印し、証人を立てるようになる。それは、わたしが彼らの繁栄を元どおりにするからだ」(32:42-44)と言われます。土地の売買が活発になることが神の祝福の現われとして表現されるのは何とも奇妙に思われます。しかし、当時、「畑を買う」というのは自分たちが労苦を注ぐ場を増やすということを意味しました。それは、「自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っている」(Ⅰ15:58)という信仰告白を意味しました。主ご自身が私たちの労苦がむだにならないように守り通してくださいます。その希望を持つ時、いつでもどこでも目の前の働きを誠実に行おうという勇気が生まれます。

ルターは、「たとえ明日、世界が滅亡すると分かっていても、それでも今日、私はリンゴの木を植えよう」Wenn ich wüßte, daß die Welt morgen untergeht, würde ich dennoch heute einen Apfelbaum pflanzen と言いましたが、それこそ私たちが心がけるべきことでしょう。なお、興味深いことに、映画「感染列島」ではこのことばが何度も繰り返されます。それは、最後の瞬間まで諦めることなく、目の前の課題に取り組む勇気として、このことばが語られた背景を無視して引用されていました。しかし、私たちは、神のご支配を知っているからこそ、今を精一杯生きる勇気が生まれるのです。

2.「昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約」

「エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき」(33:1)のことですが、主は彼に「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(33:3)と言われます。その上で、「ユダの王たちの家々」が、「カルデヤ人と戦おうとして出て行くが、彼らはわたしの怒りと憤りによって打ち殺されたしかばねをその家々に満たす」(33:5)と言われます。つまり、彼らはカルデヤ人と戦おうとしているように見えて、実は主ご自身と戦っているというのです。しかし、それが彼らの悪に対する主のさばきであると理解できるなら、それが完了したときに、主がのろいに代えて祝福をもたらしてくださると信じ、希望を持つことができます。そのことを主は、廃墟とされるエルサレムが、「世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる・・・」(33:9)と約束することで示されます。それは黙示録21,22章に記される「新しいエルサレム」として完成します。なおここではまた、そのときに実現する繁栄が、「主(ヤハウェ)の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が再び聞こえる」(33:11)と描かれますが、来るべき「新しいエルサレム」では、復活のキリストご自身が神殿となってくださり、「人々は諸国の民の栄光と誉れとをそこに携えて来る」(黙示21:26)ようになるのです。

そして、この33章14-16節で、「その日」(複数)ということばを原文では三回繰り返しながら、主は、「その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽ばえさせる・・」と言われますが、これは救い主が「ダビデの子」として誕生することを指します。また、「エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主(ヤハウェ)は私たちの正義』と名づけられる」(33:16)とありますが、ここで「正義」ということばは神がダビデに対するご自身の約束を守り通してくださるということを指していると思われます。これはかつて、ダビデが主に対して、神の住まいである神殿を立てたいと申し出たときに、反対に、主ご自身がダビデの家を確立するという意味を込めて、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまで続き、あなたの王座はとこしえまで堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16)と約束されたからです。

そしてそのことが、「ダビデには、イスラエルの家の王座に着く人が絶えることはない。またレビ人の祭司たちにも・・いつもいけにえをささげる人が絶えることはない」(33:17、18)と記されます。マタイ福音書の最初に、アブラハムに始まり、ダビデを経てバビロン捕囚にいたる王家の系図ばかりか、歴史に残っていないバビロン捕囚以降の王家の系図が記されているのは、このダビデ契約が成就したという意味を示すためです。そして今、私たちはキリストの祭司とされレビ人として、日々、「賛美のいけにえ」(ヘブル13:15)を絶えずささげる者とされています。

主はこの契約の確かさを保障するために、不思議にも、「もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう」(33:20、21)と表現されました。昼と夜との契約とは、大洪水の後に、主がノアに向かって、「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない」(創世記8:22)と約束されたことを意味します。私たちは毎朝目覚めるとき、既に日が昇っていることを当たり前だと思っています。「それは地球の自転による・・・」などとわかったように言ったところで、なぜ、この神秘の惑星が丁度よい速度で回転し続けることができるのか、また、季節が丁度よく巡って来るように、なぜ地軸が適度に傾いているのかに関して、誰も明確に答えることはできないのではないでしょうか。宇宙の不思議を見れば見るほど、「それは偶然の産物だ・・・」と言うよりも、「すべては創造主のみわざです!」と告白することの方が、合理的に思えるのではないでしょうか。そして、神がこの世界を美しく保っておられることの中に神の真実を見出し、その神の真実こそが、ダビデに対する契約を守らせ、神の国を完成に導く最大の原因であるということが明らかにされてきます。

そればかりか、ここでは、「天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす」(33:22)と言われますが、キリストの弟子となった私たちこそ、神に仕える新しいレビ人です。ところで、主はここで、「あなたは、この民が、『主(ヤハウェ)は選んだ二つの部族を退けた』と言って話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民をもはや一つの民ではないとみなして侮っている」(33:24)と言っておられますが、「ふたつの部族」ということばは、北王国イスラエルと南王国ユダを指し、主がこの百年余り前に北王国を滅ぼし、また今、ユダ王国を滅ぼそうとしておられることを人々が非難していることへの答えです。主は、北と南をひとつのダビデ王国として見ておられます。そして再び、主が、「昼と夜とに契約を結び」「天と地との諸法則を・・定め」ておられるという表現が使われながら(33:25)、アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデに対する神の約束は守り通され、彼らの子孫は繁栄すると保証されます。そして、私たち異邦人も、信仰によってアブラハムの子孫にされていますから、この神の約束はキリスト教会において成就されているのです。

Ⅱ賛美歌191番の二番目の日本語の歌詞は名訳で、「春も秋も夏冬も、月も星もすべては、主のまこととあわれみとつきぬ愛を現す」と歌われています。そして繰り返しの部分は、原歌詞では、「あなたの真実は偉大です。朝ごとに私は新しい慈しみを見ます。私に必要なものをすべて、あなたは備えていてくださいます。主よ、あなたの私に対する真実は偉大です」と歌われています。私たちは、天に示された神の真実を覚えながら、その神が、この私に対しても真実を尽くしてくださるということを確信するようにと導かれているのです。

3.「わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを・・・」

「バビロンの王ネブカデレザルと・・彼の支配下にある地のすべての王国・・が、エルサレムとそのすべての町々を攻めていたとき」(34:1)、主はエレミヤを通して、「ユダの王ゼデキヤ」に、「あなたはバビロンへ行く」と言いながら、同時に、「あなたは剣で死ぬことはない。あなたは安らかに死んで、人々は・・・あなたのためにも香をたき、ああ主君よと言ってあなたをいたむ」と言われました(34:3-5)。つまり、ゼデキヤはネブカデネザルに頭を下げるなら、寿命を全うするこができ、人々から悼み悲しんでもらえるというのです。

このとき、バビロンの軍勢はエルサレムの南西にある二つの城壁のある町「ラキシュとアゼカ」を攻めていました。近年、ラキッシュの廃墟跡の土器から21通の当時の手紙が発見されました。その第四の手紙には、エルサレム防衛の前線基地のひとつからラキシュの防衛司令官に宛てた文書がありました。そこには、「私たちはもうアゼカを見ることができないので、貴官がラキッシュから送ってくださるあらゆるしるしに注目しているということをお知りおきください」と記されていました。そこには、アゼカが既に滅ぼされ、アキシュの状況にエルサレムの前線基地が固唾を呑んで見守っている緊張感が感じられます。そのような中で、ゼデキヤは、主のあわれみにすがるような気持ちで、「エルサレムにいるすべての民と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言し」(34:8)たというのです。

その内容は、「同胞のユダヤ人を奴隷にしないという契約で・・・二度と彼らを奴隷にしないことに同意し・・彼らを去らせた」(34:9、10)という画期的なもので、律法の原点に立ち返った行為でした。ところが何と、「彼らは、そのあとで心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻して、彼らを奴隷や女奴隷として使役した」(34:11)というのです。この心変わりの背景は、21,22節、また37章11節の記事から推察できます。ゼデキヤたちは、エジプト軍が南から救援にやってくるという噂を耳にし、カルデヤの軍隊が一時退却したのに安心し、必死に主のあわれみを求めて主にすがるという必要を感じなくなったのだと思われます。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざがありますが、ゼデキヤの信仰は、「苦しいときの神頼み」程度の一貫性のないものであったことがこの変節によって明らかになりました。そのようなご都合主義的な信仰に、主は怒りを発せられました。

そこで、「イスラエルの神、主(ヤハウェ)」は、「わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの国、奴隷の家から連れ出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない・・・しかし、あなたがたの先祖は・・耳を傾けなかった」(34:14)と、彼らが主の契約を軽んじたという歴史を振り返ります。その上で、主は、「しかし、あなたがたは、きょう悔い改め、各自、隣人の解放を告げてわたしが正しいと見ることを行い、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ」(34:15)と、彼らの悔い改めを喜んでいたということを伝えます。ところが、「それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚し・・」(34:16)と、彼らの心変わりに激しい怒りを表現します。これは、生き方を百八十度変えたと思ったら、そこから再度百八十度心を変えて、もとに戻ってしまったことを意味します。これでは、一度人々に希望を与え、その後、それを裏切るのですから、何もしなかったよりもはるかに悪いことをしたことになります。

主は彼らの変節を激しく怒られ、「あなたがたは・・・自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので・・・見よ、わたしはあなたがたに・・剣と疫病とききん(に向けて)の解放を宣言する」と皮肉を込めて言われます(34:17)。

そして主は彼らに、「わたしの契約を破った者たちを、二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする」(34:18)と仰せられます。当時の契約では、契約を結んだ両者は、二つに断ち切られた動物の間を通りながら、「私がこの契約を破るなら、同じように真っ二つにされることを覚悟します」と宣言しあうことになっていました。創世記15章にある記事では、アブラハムはこの動物の間を通らずに、主ご自身だけが通って、ご自身の契約の確かさを保障してくださいましたが、ここでは、当時の契約の習慣に従って、彼らを契約不履行者として処罰すると警告されているのです。これは、主がもう彼らの不従順を見過ごすことができなくなったということを意味します。

そして、「二つに分けた子牛の間を通った者は、ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と一般の全民衆であった」(34:19)と記されますが、これは、彼らがバビロン軍によって虐殺されたことを指します。そして、主は、前言を翻したゼデキヤに対し、同じようにご自身の前言を翻され、「わたしはまた、ユダの王ゼデキヤとそのつかさたちを・・・あなたがたのところから退却したバビロンの王の軍勢の手に渡す・・・わたしは・・・彼らをこの町に引き返させ・・・ユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする」(34:21、22)と宣言されます。34章の最初にあったように、彼らがバビロンに服従し続けていたら、いのちは守られたはずでした。しかし、その後、彼らはエジプトの救援を当てにして主とバビロンの両者に対して高ぶった態度を取り、それに対し主ご自身もバビロン帝国も、当初の予定よりも厳しいさばきを下すようになりました。残念ながら、人は心変わりをするたびに、元に戻るのではなく、より悪い状態を招くことになります。これはもがけばもがくほど深みにはまる底なし沼のようなものです。主は、はるか前から、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)と語っておられました。しかし、彼らは人間的な解決ばかりを求め、そのたびに心変わりを繰り返し、最終的に壊滅的な滅びを招いてしまったのです。

私たちも目の前の状況が変わるたびに自分の意見を変えてしまいたい誘惑に駆られることがあります。また、無意識に、自分の意見を変えてしまっていることがあります。しかし、神は私たちの心の真実を何よりも求めておられるということを忘れてはなりません。それはパウロが弟子のテモテに向けて、「もし私たちが、彼(キリスト)とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだら、彼もまた私たちを否まれる私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:11-13)と書いているとおりです。私たちが保ち続けるべき真実とは、自分の不真実を正直に認めて、いつでもどこでも、主の御名を呼び求め、主にすがり続けるという一貫性です。ルターの最後の言葉は、「われわれは乞食である。それはまことである」というものでした。私たちの言動は常に、ある出来事への反応として生まれます。そのため、状況が変われば、以前とまったく異なった言動を取っているように見られたり、また、そのように反省せざるを得ないということは常にあります。しかし、何が起ころうとも、常に一貫しているべきことがあります。それは私たちの心の方向です。北斗七星は、時間や季節によって、さかさまに見えたり、立っているように見えたり、見え方が変わってきます。しかし、常に、ひとつの場所に留まる北極星を指し示すということでは一貫しています。同じように、私たちのも、逆立ちをしていようと、寝ていようと、まっすぐ立っていようとも、常に、その心が、「主の真実」に向かっているという点では一貫している必要があります。乞食に過ぎない私たちが評価されるのではなく、何の取り柄もない者に恵みを注ぎ続けてくださる主人があがめられる必要があります。