詩篇32篇「赦したいと願われる神」

2009年5月17日

子供はしばしば、親に叱られて大泣きした後、まるでそれを忘れたかのように身体全体で喜びを表現するということがあります。その笑顔を見ている親も、「この子は本当に反省しているのかな・・」と疑う前に、何とも可愛くてたまらないという気持ちになります。ダビデにも同じような子供の心がありました。神の前に自分の罪を深く悲しんだと思ったら、その直後に、心からの喜びを表します。そんな彼を、神は喜んでおられたのではないでしょうか。

この詩篇でダビデは、罪を隠していたときの苦しみをリアルに表現しています。彼は神の恵みで平和と繁栄を享受できるようになったとたん、傲慢になり、家来を戦争に出しながら悠然と惰眠を貪り、自分の欲望のまま人妻を奪い、挙げ句の果てにその夫を計略にかけて殺してしまいました。そして、その上、彼は預言者ナタンに罪を指摘されるまで約一年間近く、罪を隠し通していました(Ⅱサムエル11,12章)。このように極悪非道の人間が、なぜ世界中の人々の尊敬を集めているのでしょう。私たちの救い主も、「ダビデの子」と呼ばれているほどです。

人は、どこかでとんでもない失敗をします。その人の価値を決めるのは、その失敗よりも、それをどのように反省し、またそれが人々にどのような益をもたらしたかということではないでしょうか。ダビデの罪は今、世界中の人に知られていますが、それを通して人は、罪を赦したいと願って近づいてくださる神に出会うことができるからです。

1.「黙っていたとき、私の骨々は疲れ果てました」

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主(ヤハウェ)が、咎をお認めにならない人」(1、2節)とありますが、ダビデにとっての何よりの「幸い」とは、自分の「そむき」「罪」「とが」の問題を神ご自身が解決してくださり、神との関係が回復されたことでした。ここには罪に関する三つの類語が記されます。第一の、「そむき(ペシャー)」とは、支配者に対する反抗、つまり、神の教えに背くことです。第二の、「罪(ハター)」とは、的を外すこと、つまり、神の教えを達成できないことです。第三に、「とが(アボン)」とは、ねじまげること、つまり、神の教えから逸脱することです。またこれは「とがめ」とも訳され、誤った行為への処罰の意味を含みます。これらはすべて「神の教え」との関係で定義されるもので、この世の罪の概念とは異なります。この世で罪人として裁かれながら、神の赦しを体験していることがあります。反対に、この世で「罪」でなくても、神の目に「罪」となることがあります。

ところで、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)とあるように、ダビデの罪は、その後の彼の家庭に大きな影を落としました。彼の息子のアムノンが腹違いの自分の妹を強姦し、彼女の実兄のアブシャロムがアムノンを殺し、アブシャロムは父ダビデに対してクーデターを起こし、それが一時的に成功し、ダビデは都落ちをせざるを得なくなりました。しかし、このような悲劇の中にあっても、神はいつもダビデとともに歩んでくださいました。そして、試練を通れば通るほど、神ご自身がダビデの家を堅く建ててくださるということが明らかになってゆきます。私たちの人生にも、自業自得での苦しみや試練があることでしょう。「後悔してもしきれない・・・」などということがあるかもしれません。しかし、神から罪の赦しを受けた者は、どのような困難にも立ち向かって行きながら、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と言うことができます

なお、ダビデは「幸いなことよ」と言いながら、「その霊に欺きのない人は」と付け加えています。それは、自分の過ちや心の醜さを正直に認める心の状態を指します。パウロは、「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません」(Ⅰコリント11:31)と言いましたが、パリサイ人は自分を義人であると自任することで罪あるものとされ、取税人は「こんな罪びとの私をあわれんでください」(ルカ18:13)と祈ることによって、神の前に義とされたということを忘れてはなりません。自分で自分を義とする者は、自分を偽っています。自分の「霊を欺いている」のです。

ところで、ダビデは、神の前に自分の罪を認めていなかったときの痛みを、「黙っていたとき、私の骨々は疲れ果てました。一日中、私がうめいていたためです。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の潤いは、夏のひでりで枯れ果てたからです」(3,4節)と告白しています。当時のイスラエル地方での最も恐ろしい災害は日照りでした。それで、地獄の苦しみは、炎の中で自分の身体中の水分がすべてなくなってしまう状態で表されます。イエスは金持ちとラザロのたとえで、金持ちはハデスで苦しみながら、「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません」と訴える様子を描いておられます(ルカ16:24)。つまり、ダビデが自分の罪を隠していたときに味わった苦しみは、神の来るべきさばきを事前に心に知らせる機能だったのです。

ダビデは同じような苦しみを詩篇38篇で、「御怒りのため、私の肉には健全なところがありません。私の罪のため、骨にもやすらぎがありません。私の咎が、この頭を圧倒し、重すぎる重荷のようになっています。私の傷は、うみただれ、悪臭を放ちました・・・私はうなだれ、ひどく打ちのめされ、一日中嘆いて歩いています。腰は焼けるような痛みに満ち、私の肉には健全なところがありません」(3-7節私訳)と描いています。これは当時、感情の坐が腰にあると理解されていたからでもあります。

このような反応が起こるのは、私たちの心の中に、神の怒りを感じさせる受信機のような機能があるからです。それは「良心の呵責」と呼ばれます。英語のconscienceはラテン語に由来しますが、語源的には「共に知る」ことを意味し、自分の中にいるもうひとりの自分が自分を非難しているような状態を指します。

なお、仏典の涅槃経に阿闍世王の父親殺しの記事があります。彼は性格が邪悪で殺生をするのが好きで、好き勝手ができる王に一日も早くなりたいと思い、釈迦の友であった善良な父親を幽閉し、餓死させてしまいます。彼はその後、心に後悔の焔が燃え上がり、何も楽しむことができなくなったばかりか、身体中にできものができ、人を寄せ付けないほどの悪臭を放ちました。彼は「私は今すでに、この身で報いを受けた。地獄の報いも間近いのだろう」と夜も眠られないほどに悩み苦しみました。家臣たちは王に向かって、「地獄などは、人間の作り話に過ぎない。善悪も罪もない」という趣旨の説明をして慰めようとします。それを現代文で要約すると、「宇宙の存在はすべて自然の理に従って動いている。蜘蛛は蝿を平然と捕らえ、ライオンは鹿を平然と殺す。自然界に悪や罪は存在しない。人間だけが殺生に関し罪ということばを振りかざして騒ぎ立てる。罪とは客観的な実在ではなく、人間の偏見の産物に過ぎない。ゆえに、現世にも罪は存在しない」ということだと言われます。

それに対し、釈迦の弟子は、王が慙愧(ざんき)の念に苦しんでいること自体を評価して、「慙とは人間に対して恥じること、愧とは他人に向かって恥を表すこと、慙とは人間に対して恥じること、愧とは神に対して恥じることである。これをまとめて慙愧という。慙愧のないものは人と呼ばれず、畜生と呼ばれる。慙愧あるがゆえに父母や年長者を敬う気持ちが生じるのである」と言っています。そして、この慙愧の念が、阿闍世王を釈迦のもとに導き、救いを得たという物語ができています。浄土真宗の開祖親鸞は、この極悪非道の王が釈迦に救われたという物語に深い慰めを得ます。興味深いのは、創造主をもたない仏教の教えにおいてさえも、罪責感のゆえの苦しみというのが救いの大きなテーマとなっていることです。それは、人がみな「神のかたち」に作られていることの証拠です。

2.「わたしのそむきを主(ヤハウェ)に告白しよう。」

ダビデは、「私は、罪を、あなたに知らせ、咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきを主(ヤハウェ)に告白しよう」と。すると、あなたは 私の罪のとがめを赦されました」(5節)と記していますが、バテ・シェバを奪いウリヤを殺した事件の際、彼は、罪を自分から告白したわけではありませんでした。彼の罪の告白は、神が預言者ナタンを遣わし、それを指摘した後のことでした。それにしても、私たちは自分の罪を指摘されても素直に謝ることはまずできません。精神科医のポール・トゥルニエは、「人間の裁きはまったく逆に、自分を正しいとする断固たるメカニズムを働かせる」と言いましたが、まさにそのとおりです。人類の父祖アダムは、神から罪を指摘されたとき、女と、女を造った神を非難するばかりで、自分の罪を認めることはできませんでした。ですから、私たちが、他の人にその罪を認めさせたいと思うとき、何よりも、その罪を赦そうとする愛を伝えている必要があります。「謝ったら、赦してあげる!」というのではなく、「あなたを心の中で赦したい。だから謝って・・・」という気持ちが必要です。

イエスの十字架は、何よりも、神の側から罪人との和解を望まれたということの現われです。そのことをパウロは、「ちょうど、神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(Ⅱコリント5:20)と記しています。

預言者ナタンは、権力者の横暴に関してある例話を語りました。ダビデは自分のことが語られているとは全く気づかず、「主(ヤハウェ)は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ」(Ⅰサムエル12:5)と反応しました。人は自分が責められていると感じないときには問題の本質を見る余裕ができます。このナタンの知恵によって、ダビデは自分の罪を自分でさばく余裕が生まれたのです。主(ヤハウェ)はご自身の側からダビデとの交わりを回復したいと思われ、預言者ナタンを遣わし、罪を指摘されました。主は、ダビデを赦したいと願われたからこそ、そうされたのです。

しかも、ダビデがナタンの指摘を素直に受け入れることができたのは、彼自身が自分の罪を隠していることの苦しさに耐えられなくなっていたからでした。5節にあるように、ダビデが主体的に自分の罪を告白できたと記される背景には、神ご自身の側から彼をあわれんでくださったことと、神が彼の心の中に良心の呵責という苦しみを与えられたことの両方が作用しています。ここでも、ダビデは「罪」「とが」「そむき」という三つの類語を用いながら、自分がウリヤを殺したことは、何よりも、神に対する罪であることを明確にしています。残念ながら、世の人々は良心の呵責のゆえに、「・・・を供養しなければ」などという偶像礼拝に走ります。しかし、善悪の基準を作っておられるのは神であり、同時に、だからこそ、罪の赦しは、創造主のみができるということが明らかになっています。

先の仏典では、阿闍世王が釈迦を訪ねたとき、釈迦が彼に与えたのは、罪の赦しではなく、発想の転換の教えでした。それは、彼を苦しめていた善悪の価値観が無常であり、実体のないものであるという不思議な説明でした。それに対して、釈迦よりはるか昔に生きていたダビデは、「わたしのそむきを主(ヤハウェ)に告白しよう」と言って、その結果、「すると、あなたは、私の罪のとがめを赦されました」と告白することができたのです。罪責感に悩むとき、その感情を分析し、「見方を変えよう」とすることは、神から与えられた受信機の機能を否定することになります。何よりも大切なのは、罪を赦す権威をお持ちの方に罪を告白し、赦しを受けるということなのです。

神の赦しを受けたダビデは、「それゆえ、聖徒は、みな、お会いできる間に、あなたに祈りましょう。大水があふれるときも 聖徒に及ぶことはありません。あなたこそが私の隠れ場。苦難から私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます」(6、7節)と告白します。不思議なのは、これほど恐ろしい罪を犯したダビデが自分のことを「聖徒」と呼んでいることです。神の変わることのない、裏切ることのない誠実な愛は、ヘセッド(恵み、慈愛)と呼ばれますが、ここでの「聖徒」ということばの語源も同じです。ダビデは人間的には不誠実極まりないことをしましたが、それでも、決して別の神々に浮気をすることもなく、ひたすら神のさばきを恐れ、神の赦しを願い、神にすがり続けたという意味で、神に対して誠実な人、つまり、「聖徒」となることができました。

しかも、「お会いできる間に」とありますが、私たちは罪に居直り続けると、良心の働きが正常に機能できなくなります。聖書には、「良心が麻痺する」(Ⅰテモテ4:2)、「良心が汚れる」(テトス1:15)などという表現がありますが、良心の声を無視し続けると、神の怒りさえ感じられなくなるのです。皮肉にも、地獄は、地獄を感じない人のために存在しているという面があるのではないでしょうか。その意味で、自分の心に地獄を感じる人は幸いです。

そして、「聖徒」には、「大水があふれるときも、聖徒に及ぶことがありません」とあるような恵みが施されます。それは、夏の間枯れている川が、冬の雨季になると予想もつかない鉄砲水になって人や家畜を飲み込む、そのような悲劇から守られるという意味です。そのように、主はご自分の聖徒を破局から守ることができるのです。それが、「あなたこそが私の隠れ家」と言う告白に結びつきます。しかも、そのように主は、私たちを「苦難から守る」ばかりか、反対に積極的に、「救いの歓声で、私を取り囲む」という最終的な喜びを保障してくださいました。これは戦いの勝利を祝う勝ち鬨で囲まれているイメージです。神に従う者に対して、パウロは、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」(Ⅱコリント5:14)と言いましたが、それこそ、罪の赦しの確信が与えられていることの意味です。

ダビデの誠実さとは、叱られても、さばきを宣告されても、子供が父親のふところに飛び込むように、神から目をそむけず、神のふところに飛び込み続けたということです。この世的に有能で信頼できる人は数多くいます。しかし、神が求めておられるのは、そのような正しさである前に、何があっても神にすがり、神との関係を第一にしようとする姿勢です。そして、罪の赦しとは、何よりも、そのような神との交わりの回復にあります。私たちは自分を見ると、「これでは神に愛される資格がない・・」などと思います。しかし、しばしば、親にとっては不出来な子供ほど可愛いということもあります。叱られても、叱られても、親にすがりついてくる子供を、親は決して憎むことはできません。叱りながらも、「なんて可愛い子なんだろう・・・」と思うことでしょう。神も同じではないでしょうか。

3.馬や騾馬のように悟りのない者であってはならない。

「わたしは、あなたを賢くし、行くべき道を教えよう。わたしの目をあなたの上に置き、助言を与えよう。馬や騾馬のように悟りのない者であってはならない。それらは、くつわや手綱で押さえなければ、あなたに近づかない」(8、9節)とは、神の側からの語りかけです。「わたしの目をあなたの上に置き」とは、神が私たちをご自身の愛の眼差しで導かれるような様子を指しています。それは、権力者が自分の眼差しで部下をおびえさせるようなものではありません。神は、脅しをかけたり、力ずくで人を動かす代わりに、私たちが主体的に神の愛に応答するのを待っておられます。それと対照的なのが、馬や騾馬です。特に騾馬は雄ロバと雌馬の交配によってできた中間種で、強健で耐久力が強く、粗食に耐えるため珍重されましたが、感受性に乏しい動物でした。アブシャロムは騾馬に乗って逃げているとき、頭が木に引っかかりました。しかし、彼を乗せた騾馬はそのまま走り去ってゆきました。馬も騾馬も、くつわやたずなで頭を動かされないと方向を変えることができません。そうなってはならないのです。

神との交わりが深くなった者は、心が敏感にされます。感受性が豊かにされます。それは神が私たちを力ずくで動かさないようになるための前提です。ダビデは良心の呵責で、身体全体が熱を発するほどの苦しみを味わいましたが、それは彼の良心がきちんと機能していたことのしるしです。悪いことをしても悪いと感じなくなった人は、救いようがなくなります。そのような人は、神を求めようとする自分の心を麻痺させてしまっているからです。

「悪者には苦痛が多い。しかし、慈愛(ヘセッド)は、主(ヤハウェ)に信頼する者を、取り囲む。主(ヤハウェ)にあって楽しめ。喜び踊れ。正しい者たちよ。喜びの声をあげよ。すべて心の直ぐな人たちよ」(10、11節)とありますが、まず「悪者」は、「主(ヤハウェ)に信頼する者」との対比で用いられています。「信頼する」とは、幼児が母の胸に抱かれて安心している姿であり、「悪者」とは、何よりも神に信頼できない姿を指しています。字義的には「悪者」の反対語は、「正しい者」ですが、ここでの「悪者」は、この世の基準と違い、自分が正しいと思い込んでいる人、また自分には神の赦しとあわれみなど必要がないと思い込んでいる人と言えましょう。なぜなら、「主(ヤハウェ)にあって楽しめ、喜び踊れ」と勧められている「正しい者」とは、文脈から明らかなように、悪を行わなかった人のことではなく、「そのそむきを赦され、罪をおおわれた」人、また、自分の「罪を神に告白し、咎を隠さなかった」人を指しているからです。

この詩で用いられている罪の三つの類語、「そむき」「罪」「咎」はすべて、神の赦しとあわれみの対象となっています。しかし、「霊に欺きのある人」はあわれみの対象ではありません。その人は、神にも人にも自分を偽っています。イエスが誰よりも厳しく立ち向かったのは、パリサイ人の偽善です。ですから、この詩は、「喜びの声をあげよ。すべて心の直ぐな人たちよ」で締めくくられます。「心の直ぐな人」とは、心が神に対してまっすぐに開かれていることを意味します。それは神のみ教えにすなおに反応する心です。それはまた、たとえば、子供が、親の愛を疑うことなく、親に心を開き、自分の気持ちを正直に訴えるとともに、その話しを真剣に聞きような心の状態です。

そして、「悪者には、苦痛が多い」と記されているのは、悪者の心は、「悟りのない馬や騾馬」のようであるからです。競馬などで、たたかれながら必死に走っている姿が痛々しく見えることはないでしょうか。頑固な人は、いつも、神からの愛の鞭を受けないと、生き方を変えることができません。そればかりか、幸いを与えようとする神のみ教えを軽蔑して、自分の欲望のままに生きて、進んで落とし穴に落ちたり、人との争いを作ったりします。放蕩息子は苦しみの中で父の愛に立ち返ることができましたが、そのようにできない人は自滅するしかありません。

神に心を閉ざしながら生きる人は、外科手術を怖がって、痛みを抱えたまま、病状が悪化するのにまかせて生きるようなものです。しかし、主(ヤハウェ)に信頼して、自分の罪をいつでもどこでもすなおに告白する人に対しては、「主の慈愛(ヘセッド)が(その人を)取り囲む」というのです。そして、この詩は、「楽しめ」「喜び踊れ」「喜びの声を上げよ」という勧めが最後に記されていますが、これは自分の罪を悲しむことと矛盾することではありません。それは、「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリント7:10)とあるとおりです。主にあって悲しむ者は、主にあって楽しみ、喜び踊ることができるのです。

私は昔、とんでもない罪を犯しながら、「神は私を赦してくださった・・・」などと図々しく言っている人を見ながら、「簡単に罪が赦されては、神の正義が成り立たない。何よりも本人が自分の罪の重大さを認識し、心から悔い改めるのでなければ同じ失敗を繰り返すだけだ。神の赦しは、人の悔い改めに対する応答としての神からの恵みなのだから・・」と考えたことがあります。しかし、ある方が開いてくださったみことばが私の誤解を正してくれました。

そこには、「主(ヤハウェ)はあなたがたを恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主(ヤハウェ)は正義の神であるからだ」(イザヤ30:18)と記されていました。「神の正義」とは、神のさばきではなく、救いに値しないような者にご自分の方から近づき、恵み、あわれもうとすることに他なりません。この最初の文はNIV訳では、「Yet the LORD longs to be gracious to you」(主はあなたにあわれみ深くありたいと切望している)と訳されています。神の正義とは、罪人を赦すことに現されているというのです。これは、何という慰めでしょうか。