エレミヤ35章〜38章「主のことばを軽蔑する悲劇」

2009年5月24日

韓流ドラマなどでは良い人と意地悪な人の対比が驚くほど強調される傾向がありますが、現実の世の中のほとんどはどちらとも言えない人でしょう。今回の箇所には、「忠実な人」、「極悪人」、「気の弱い善人そうな悪人」の三種類が出てきます。この世では、この第三の分類に入る人が多いのではないでしょうか。そこには「信じたいけど、信じたくない」という「アンビバレント」(両面価値感情)な思いが見られます。たとえば、子供は親に、「尊敬しているけど、軽蔑している」などという矛盾した感情を抱きがちです。私たちの心にはいつも矛盾した気持ちが交錯しています。私たちの前には、いつも明確な主のことばがありますが、それを感謝しながら、信頼しきれない自分がいます。しかし、信仰がなければそんな葛藤も生まれないはずですから、その現実を正直に認め、主に祈ってゆくことが必要でしょう。ただし、居直ってはなりません。主のみことばを軽蔑する者には悲劇が待っているからです。

1.レカブ人から学ぶ

「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代に・・」(35:1)とは、紀元前597年の第二次バビロン捕囚の少し前の話だと思われます。レカブ人はカナンの原住民の子孫ですが、その後イスラエルの民に加わり、北王国でアハブ家を滅ぼしバアル礼拝を廃止した王エフーに協力した「レカブの子ヨナタブ」の子孫となっています(14節、参照Ⅱ列王記10:15)。彼らは紀元前723年の北王国滅亡後も、アッシリヤの民族同化政策に対抗して、主(ヤハウェ)への誠実を守り通していました。このとき、彼らはバビロンの攻撃を避けて、エルサレムに避難してきていました(35:11)。

このとき主はエレミヤに、「レカブ人の家に行って、彼らに語り、彼らを主(ヤハウェ)の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ」(35:2)という不思議な命令を与えます。それに対し彼らは、「私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです」(35:6、7)と答えます。聖書には、禁酒も天幕生活も命じられてはいませんが、彼らの先祖ヨナダブは自分たちの立場の弱さや不安定さのゆえに、他民族に隷属しない自由な生き方を全うするためにはこの戒めを子孫に守らせる必要があると判断したのですが、その特殊な戒めが、二百年余りにわたって守られ続けて来たのです。

そして、これをもとに主は、「ユダの人とエルサレムの住民」に向かって、「レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた・・・ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞かなかった・・・ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない。わたしがあなたがたと先祖たちに与えた土地に住めと言ったのに・・・」(35:14、15)と、レカブ人の従順さと比べて、ユダの民の不従順を責めます。その上で、主は、「わたしはユダと、エルサレムの全住民に、わたしが彼らについて語ったすべてのわざわいを下す。わたしが彼らに語ったのに、彼らが聞かず・・呼びかけたのに・・答えなかったからだ」(35:17)と、さばきを宣告されました。

一方、主はエレミヤを通して、レカブ人の家の者に、「あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行った」と賞賛しつつ、「レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない」という約束を与えてくださいました(35:18,19)。

昔は、多くの家に家訓のようなものがあり、それに疑問をはさむことは許されませんでした。それに対する反動なのでしょうが、今の時代は、価値観が多様化し、善悪の基準も不明確になっています。しかし、どこかで、「悪いものは悪い、お前がこの家の子である限り、これは守らなければならない・・・」という不動の軸も必要なのではないでしょうか。たとえば、神のみ教えの核心である「十のことば」など、有無を言わさず暗誦し、心に刻むべきでしょう。置かれた状況によって意見が変わる人など、信頼できないのではないでしょうか。忠実さこそ信頼の鍵です。

2.主のことばを記した巻物を燃やしたエホヤキム

「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年」(36:1)とは、紀元前605年から604年にかけての年で、バビロン帝国がユーフラテス河畔のカルケミッシュでエジプト軍を打ち破り、カナンの地に攻め上ってきたときのことです。当時の指導者たちは、百年前のヒゼキヤ王の時代にエルサレムがアッシリヤの攻撃から奇跡的に守られたという不思議がもう一度起こるという夢ばかりを追い求め、ヒゼキヤやヨシヤの時代の主の救いは、人々が、「みことばを読んで、主(ヤハウェ)に立ち返り、自分の行いを改める」ということから始まったという信仰の基本を忘れていました。

そのような中で、主(ヤハウェ)はエレミヤに、「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ」(36:2)と言われました。これは、25章3節に記されていた23年間にわたって主からエレミヤに啓示されたことばを書き留めることでした。その目的を主は、「ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる」(36:3)と言われました。主は、ユダの民に災いを下すことを厭い、悔い改めの願っていたのです。

それで、「ネリヤの子バルク」が、「エレミヤの口述に従って・・・主(ヤハウェ)のことばを、ことごとく巻き物に書きしるし」ました(36:4)。このときエレミヤは閉じ込められていて、主の宮に行くことができなかったので、バルクに、「断食の日に・・主(ヤハウェ)のことばを・・・ユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ」と命じます。そして、「エホヤキムの第五年、第九の月・・・エルサレムに来ているすべての民に、主(ヤハウェ)の前での断食が布告され」ました(36:9)。これは紀元前604年の12月のことだと思われます。バビロン軍はこのとき地中海岸の町アシュケロンを滅ぼしていました。エルサレムの指導者は、主の奇跡的な救いを求めて断食を布告していたのだと思われますが、先祖以来から自分たちに続いている偶像礼拝の罪が主の怒りを引き起こしているということを認めていませんでした

そのような中でバルクは、主(ヤハウェ)の宮の門の入り口の部屋から、「すべての民に聞こえるように、その書物からエレミヤのことばを読んだ」のでした(36:10)。そして、その後、バルクは、「すべての首長たち」、つまり、エルサレムに住む高級官僚たちに呼ばれて、このエレミヤの預言を語って聞かせました。「彼らがそのすべてのことばを聞いたとき、みな互いに恐れ」、バルクに、「私たちは、これらのことばをみな、必ず王に告げなければならない」と告げました(36:16)。そして、彼らは、この巻物が記された経緯を聞いた後、バルクに、「行って、あなたも、エレミヤも身を隠しなさい。だれにも、あなたがたがどこにいるか知られないように」(36:19)と言います。なぜなら、これらのことばは、王の政策に反していたばかりか、王は自分の反対者を容赦しないとわかっていたからです。

その後、王は、エレミヤの預言を聞くことになりますが、そこで恐ろしいことが起きます。「王は冬の家の座に着いて・・彼の前には暖炉の火が燃えていました」(36:22)が、「エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした」(36:23)というのです。エホヤキムは主のみことばを暖炉に燃やした極悪人として歴史に名を残すことになりました。彼は、何よりも自分の外交政策が批判されたと思って怒り心頭に達したのでしょう。しかも、一部の首長たちは、「巻き物を焼かないように、王に願ったが、王は聞き入れ」ませんでした(36:25)。エレミヤのことばは、この少し前の偉大な王ヨシヤの政策とは基本的に矛盾していませんでした。冷静に聞く人はそれがわかるはずでした。ところが、王は、「書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるよう命じ」ました。しかし、「主(ヤハアェ)はふたりを隠された」というのです(36:26)。

なおこのとき、エホヤキムはこの巻き物を焼きながら、「あなたはなぜ、バビロンの王は必ず来てこの国を滅ぼし、ここから人間も家畜も絶やすと書いたのか」と、その内容を批判したのですが、それに対し主は、「彼のしかばねは捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる」(36:30)と、彼の悲惨な死が予告されます。なお、これはエレミヤの預言に既に記されていたことであり(22:18-19)、王はそのことばに何よりも腹を立てたのでしょうが、警告を侮った者は、かえって警告どおりの悲惨を招くことになると言うのです。同時に、主は、「わたしは・・・彼らとエルサレムの住民とユダの人々に、彼らが聞かなかったが、わたしが彼らに告げたあのすべてのわざわいをもたらす」と言われます(36:31)。エホヤキムが巻物を燃やしたので、人々は主のことばを聞くことができなくなりましたが、主のさばきは、みことばを聞かなかった人にも及ぶというのです。つまり、彼は、そのかたくなさのゆえに、自分ばかりか、彼の周りの人、その後の世代の人をも道連れにしてしまうというのです。彼はエルサレムを最終的な滅亡に導いた張本人です。彼は自分の生活の安定ばかりを求め、自分を批判するものには容赦のない罰を加えた悪王の代名詞のような存在です。そして、神にとっての極悪人とは、彼のように、反省能力のない人間を指します

その後、書記バルクは、「エレミヤの口述により、ユダの王エホヤキムが火で焼いたあの書物のことばを残らず書きしる・・さらにこれと同じような多くのことばもそれに書き加えた」(36:32)というのですが、これが現在のエレミヤ書につながっています。神のみことばは、この後も、何度も迫害の火を潜り抜けて残されてゆきます。それにしても、人々からみことばを読む機会を奪うような者は、最悪の神の敵となってしまうことを忘れてはなりません。

3.主のみことばを求めながら、語られたことばに耳を傾けないゼデキヤ

「ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコヌヤに代わって王となった。バビロンの王ネブカデレザルが彼をユダの国の王にしたのである」(37:1)とは、紀元前597年のことです。36章に記されたエホヤキムが死に、その子のエコヌヤが18歳で王に即位しましたが、三ヵ月後にバビロンに捕囚とされ、彼の叔父のゼデキヤがネブカデネザルの傀儡政権の王として立てられます。ところが、その後10年間近くの間にわたって、「彼も、その家来たちも、一般の民衆も、預言者エレミヤによって語られた主(ヤハウェ)のことばに聞き従わなかった」(37:2)という状態が続きます。エレミヤはバビロンへの服従を説き続けていましたが、彼らは反抗の機会を狙い続けていました

そのような中でエジプトの勢力回復の兆しが見えます。これは34章の記事と同じときです。ゼデキヤ王は使者を預言者エレミヤのもとに遣わし、「どうか、私たちのために、私たちの神、主(ヤハウェ)に、祈ってください」(37:3)と願います。それは、「パロの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデヤ人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから退却したときであった」(37:5)とあるように、バビロンのくびきから脱するよい機会と思えたからです。ところが主は、それは一時的な気休めに過ぎず、主の計画は変わらないという意味を込めて、「見よ。あなたがたを助けに出て来たパロの軍勢は、自分たちの国エジプトへ帰り、カルデヤ人が引き返して来て、この町を攻め取り、これを火で焼く」(37:7、8)と言います。そして主(ヤハウェ)は、彼らの幻想を打ち砕くために、「あなたがたは、カルデヤ人は必ず私たちから去る、と言って、みずから欺くな。彼らは去ることはないからだ」(37:9)と言われたばかりか、「たとい、あなたがたが・・・カルデヤの全軍勢を打ち、その中に重傷を負った兵士たちだけが残ったとしても、彼らが・・・この町を火で焼くようになる」(36:10)と、エルサレムの滅亡は避けがたいと言われます。

ゼデキヤはエホヤキムとは違った柔軟性と用心深さがあり、主のみことばに心を開こうという姿勢がありました。現代的には、ふだん聖書をあまり開かなくても、何か人生の危機や大きな岐路に立たされたとき、急に、「主のみこころを知りたい・・・」と言うようになったり、「先生、祈ってください」と教会に来たくなるということに似ています。あわれみ深い主は、「困ったときの神頼み」のような姿勢にも優しくお答えくださることでしょうが、しばしば、そこでは、「それは昔、聞きました。何か明るい目新しい教えはないのですか・・」と応答したくなるかもしれません。

ところで、一時的に、「カルデヤの軍勢が・・エルサレムから退却した」ときに、「エレミヤは、ベニヤミンの地に行き、民の間で割り当ての地を決めるためにエルサレムから出て行」こうとします(37:11,12)。これは32章の出来事と結びついていると思われますが、詳細は不明です。ただ、この行動が、「カルデヤ人のところへ落ちのびる」ことと誤解され、「首長たちはエレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、書記ヨナタンの家にある牢屋に入れ」、「エレミヤは丸天井の地下牢に入れられ、長い間そこに」いることになってしまいました(37:14-16)。

そのような中で、不思議に、「ゼデキヤ王は人をやって彼を召し寄せ」、「主(ヤハウェ)から、みことばがあったか」と尋ねます(37:17)。それは、ゼデキヤが不安のあまり、主からエレミヤに今までとは別のみこころが示されることを期待したためと思われますが、これは正月に神社に行って、大吉が出るまでおみくじを引きたくなる心理と似ています。それに対し、エレミヤは、「あなたはバビロンの王の手に渡されます」と、それまでと同じことを宣言します。ゼデキヤは、神に意図的に反抗しようとする人間ではありません。しかし、彼は、主のみこころを求めると言いながら、自分にとって都合の良いことを聞きたいだけなのです。私たちの中にも同じような心理がないでしょうか。

そしてエレミヤはゼデキヤ王に、「あなたや、あなたの家来たちや、この民に、私が何の罪を犯したというので、私を獄屋に入れたのですか。あなたがたに『バビロンの王は、あなたがたと、この国とを攻めに来ない』と言って預言した、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか」(37:18、19)と問いかけます。このときまで、二度にわたってエルサレムはバビロン軍に包囲され、王侯貴族は捕囚とされ、神殿の宝物も略奪されていたからです。この時点で、それまで勇ましいことを預言していた偽預言者の多くは、主の裁きを受けて死んでいました。私たちの周りに、耳障りの良い楽観的なことを断言する人がいたとしても、その末路を冷静に見る必要がありましょう。

その上でエレミヤは、自分を丸天井の地下牢から解放することを願います。王は、彼の願いを一部聞き入れ、「エレミヤを監視の庭に入れさせ、町からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から、毎日パン一個を彼に与えさせる」という配慮を見せます(37:20)。そして、32章の記事はこの直後のことだと思われます。ゼデキヤは自分の意図に反することを告げられても、エホヤキムのように預言者を殺すなどということはしませんでした。これは一時的に信仰から離れる決心をしながらも、聖書だけは大切に保管しようとする心理に似ていることでしょう。

4.家臣と民衆の顔色を見ながら真実に耳を傾けないゼデキヤ

38章の出来事は、37章と同じ時期のことだと思われます。一部はそれを別の角度から述べ、また新たなことも記されています。ここでは、まず、エレミヤのメッセージを聞いた首長たちは王に、「どうぞ、あの男を殺してください。彼は・・・この町に残っている戦士や、民全体の士気をくじいているからです。あの男は、この民のために平安を求めず、かえってわざわいを求めているからです」(38:4)と迫ります。災いを避けるために言っていることが、災いを招く預言者と非難されてしまいました。これに対してゼデキヤ王は、「今、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない」(38:5)と責任逃れのようなことを言います。彼はバビロンのネブカデネザルによって王とされましたから、家臣に対しても権威を発揮はできませんでした。ただ、それにしても、彼はエレミヤを偽預言者とは思っていなかったことだけは確かですから、真に主を恐れる気持ちがあるなら、このような卑怯な言い方をするはずはなかったことでしょう。彼は、神よりも人を恐れていたのです。その結果、「彼らはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ・・・穴の中には水がなくて泥があったので、エレミヤは泥の中に沈んだ」(38:6)という絶体絶命の状態にエレミヤは追いやられました。

そこで、「王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクは」、王にエレミヤの助命を嘆願し、「王さま。あの人たちが預言者エレミヤにしたことは、みな悪いことばかりです。彼らはあの方を穴に投げ込みました。もう町にパンはありませんので、あの方は、下で、飢え死にするでしょう」(38:7-9)と言います。何と外国人、しかも、宦官が、エレミヤを助けるために立ち上がります。これに心を動かされたのか、王は、この人に命じて、「あなたはここから三十人を連れて行き、預言者エレミヤを、まだ死なないうちに、その穴から引き上げなさい」と言います(38:10)。ゼデキヤにはそれなりの優しさと反省能力がありました。愛に満ちた人の意見には、愛で応答する姿勢が見られます。

それを受けて、「エベデ・メレクは人々を率いて、王宮の宝物倉の下に行き、そこから着ふるした着物やぼろ切れを取り、それらを綱で穴の中のエレミヤのところに降ろし・・・エレミヤを綱で穴から引き上げ」ます。その結果、「こうして、エレミヤは監視の庭にすわっていた」という安全な状況の中に置かれます(38:11-13)。

その後、再び、「ゼデキヤ王は人をやって、預言者エレミヤを・・召し寄せ」、「私はあなたに一言尋ねる。私に何事も隠してはならない」と言います(38:14)。それに対しエレミヤは、「もし私があなたに告げれば、あなたは必ず、私を殺すではありませんか。私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞きません」(38:15)と、今までの彼の態度を責めます。それに対し、「ゼデキヤ王は、ひそかにエレミヤに誓って」、「私たちのこのいのちを造られた主(ヤハウェ)は生きておられる。私は決してあなたを殺さない。また、あなたのいのちをねらうあの人々の手に、あなたを渡すことも絶対にしない」と言います(38:16)。ゼデキヤのことばが何とも空々しく響きますが、このことばによって、少なくとも彼は自分を誠実な人間だと思っていたことが明らかになります。

するとエレミヤはゼデキヤに対する主のことばを、「もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる。あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この町はカルデヤ人の手に渡され、彼らはこれを火で焼き、あなたも彼らの手からのがれることができない」(38:17、18)と述べますが、これは、今までに何度も述べられたことばです。エレミヤはこのことのゆえに殺されそうになっているのですが、彼は決してメッセージを変えようとはしません

それに対し、ゼデキヤ王は、誰も聞いていないからということで、エレミヤに自分の本音を、「私は、カルデヤ人に投降したユダヤ人たちを恐れる。カルデヤ人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするかもしれない」(38:19)と告げます。皮肉にも、ゼデキヤが恐れていたのは、敵であるカルデヤ人ではなく、味方であるはずのユダヤ人からの攻撃でした。これは、どこの国においても戦争末期に起こることかもしれません。民衆は指導者に早期に戦いを止めて欲しいのですが、指導者は徹底抗戦を叫ぶことによって、自分の地位を守ろうとします。民衆は、敵ではなく、後ろにいる自分の指導者からの攻撃を恐れて、何も言えなくなりますが、心のうちでは、自分たちの指導者に対する憎しみを増幅させています。それにしても、ゼデキヤのような人は、部下や民衆には命がけで戦うことを命じながら、自分は自分の命のことばかりを考えています。しばしば、勇ましいことを言う指導者は、恐怖心の虜になっている場合があります。私たちはそれを冷静に見分ける必要があります。ただ、それにしても、私たちもしばしば、自分が本当は何を恐れているのか、問い直する必要があるのではないでしょうか。

これに対しエレミヤは、王の身勝手さを責める代わりに、「彼らはあなたを渡しません。どうぞ、主(ヤハウェ)の声、私があなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたのいのちは助かるのです」(38:20)と優しく語ります。これは、手術を恐れる癌患者に、医者が、「今、手術を受けるなら直ります」と優しく説得することに似ています。ただ同時に、これに従わないときに起きる悲劇を、「しかし、もしあなたが降伏するのを拒むなら・・・ユダの王の家に残された女たちはみな、バビロンの王の首長たちのところに引き出される」ばかりか、彼女たちもゼデキヤに対して、彼が家臣たちの言葉に振り回されて判断を誤り、自滅したということを、「あなたの親友たちが、あなたをそそのかし、あなたに勝った。彼らはあなたの足を泥の中に沈ませ、背を向けてしまった」と歌うと告げます(38:21、22)。そればかりか、エレミヤは王に、今までと同じように、一時的な痛みを避けようとすることが、彼と家族とエルサレム全体にどれほど大きな災いを招くかと厳しく警告します(38:23)。

それに対し、ゼデキヤはエレミヤに「だれにも、これらのことを知らせてはならない。そうすれば、あなたは殺されることはない」と不当な沈黙を命じます。そればかりか、首長たちが彼と王との話の内容を尋ねても、「私をヨナタンの家に返してそこで私が死ぬことがないようにしてくださいと、王の前に嘆願していた」と答えるようにとまで命じます(38:24-26)。これは確かに、37章20節にあったように、エレミヤが王に願ったことばですが、物事の本質を徹底的に歪めて知らせ、「臭い物には蓋をする」という姿勢です。これは、手術を勧められた患者が、それを聞かなかったことにしようと心で決め、癌のことなど忘れていたら、癌細胞も自分のことを忘れてくれると信じるようなものです。しかし、問題の先送りということは、日本国中どこにでも見られることかもしれません。

そして、「首長たちがみなエレミヤのところに来て・・尋ねたとき、彼は、王が命じたことばのとおりに・・告げた」(38:27)とありますが、それは首長たちに真実に耳を傾ける気持ちがなかったからです。そして、「エレミヤは、エルサレムが攻め取られる日まで、監視の庭にとどまっていた。彼はエルサレムが攻め取られたときも、そこにいた」(38:28)と記されます。まさに、彼らは主のことばに対して耳を閉ざすことによって、自滅に向かって行ったのです。

エホヤキムは家臣の助言を無視して、主のことばが記された巻物を燃やしました。ゼデキヤは家臣のことばに押されてエレミヤの命を危険にさらしますが、同時に、主のみことばを求めようとします。一見、対照的なふたりですが、真心から主を恐れ、主のことばを聞こうとはしていなかったという点で共通しています。そして、両者とも、主のことばを軽蔑したことによって自滅しました。それにしても、ゼデキヤのように、一見、優しく柔軟な人のようでありながら、今までの行動の変化を促すような悔い改めのことばには心を閉ざすという人は意外に多いのではないでしょうか。それは、「信じたい。でも、信じるのが怖い・・・」という思いです。人は残念ながら、とことん行き詰まるまで自分の行動を変えたくないものです。だから問題を先送りしようとします。しかし、それでも、聖書を読み、また信仰者たちの証しを聞きながら、「信じたい」という思いが強くなってくることがあることでしょう。そのとき私たちは、「信じます。不信仰な私を助けてください」(マルコ9:24)と祈ることができます。私たちの心は、ゼデキヤのように揺れますが、どこかで決断しなければなりません。そのとき、自分の恐れや不信仰を否定するのではなく、その弱い心を支え導かれるようにと祈るべきです。主は、あなたの心を作り変えるために、聖霊を遣わしてくださるからです。

ところで、主は、決してエルサレムやダビデの子孫を捨てたわけではありませんでした。主は、エレミヤに、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている・・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)と語っておられました。信仰があってもないような私たちを救うために神の御子は人となってくださいました。そして、十字架にかかり復活されたイエスは、私たちの心を内側から作り変えるために聖霊をお遣わしくださいました。私たちの中にもゼデキヤの心が住んでいます。それを認め、その揺れ動く心を、主にささげましょう。主が私たちを作り変えてくださるのですから。