伝道者9章11節〜10章20節「時と機会を待ち望む生き方」

2009年3月1日

伝道者9章11節~10章20節 翻訳

改めて私は、日の下を見た。
足が早いからといって競争に勝つわけでも、強いからといって戦いに勝つわけでも、知恵があるからといってパンにありつくわけでも、賢いからといって豊かになるわけでも、知識があるからといって好意を得られるわけではない。
ただし、時と機会はすべての人に巡ってくる。
ところが、人は自分の時を知らない。
魚が災いの網にかかるように、鳥がわなにかかるように、人の子らも、災いの時が突然襲ってくると、わなにかかってしまう。
私はまた、日の下で知恵について次のようなことを見たが、それは私にとって大きなことだった。
わずかな人々が住む小さな町があった。
そこに強大な王が攻めて来て、それを包囲し、大きなとりでを築いた。
ところが、そこにひとりの貧しい知恵ある者がいて、その彼がその知恵で町を救った。
しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった。
それで、私は、「知恵は力にまさる」と言った。
ただし、貧しい者の知恵はさげすまれ、彼のことばは聞かれない。
静まった中で聞かれる知恵ある者のことばは、愚か者に囲まれた支配者の叫びにまさる。
知恵は戦争の装備にまさる。
しかし、罪人はひとりでも、多くの善いものを滅ぼす。

死んだはえが、香料作りの香油を腐らせ、臭くするように、わずかな愚かさは、知恵や栄誉よりも影響力がある。
知恵の心は右に向くが、愚かな心は左に向く。
愚か者は道を歩くときでさえ思慮に欠け、自分の愚かさを言いふらしている。
たとい支配者があなたに向かって気まぐれを起こしたとしても、自分の持ち場を離れてはならない。
健やかな心は大きな罪を抑えるのだから。
私は日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す誤り。
愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席についている。
何と私は、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た。
穴を掘る者はそれに落ち込むかもしれず、石垣をくずす者は蛇にかまれるかもしれず、石を切り出す者はそれで傷つくかもしれず、木を割る者はそれで危険にさらされるかもしれない。
斧が鈍くなっているのに、その刃を研がなければ、力をさらに込めなければならなくなる。
それゆえ成功をもたらすのに益となるのは知恵である。
ただし、まじないをかける先に蛇がかみつくなら、蛇使いの舌は何の益ともならない。
知恵ある者の口から出ることばは恵み。しかし、愚か者のくちびるはその身を滅ぼす。
その口のことばの始まりは愚かで、その口の終わりも忌まわしい狂気。
愚か者はことばを多くする。
人は自分に何が起こるかを知らない。
自分がいなくなったとき何が起こるかを、だれが告げることができようか。
愚か者たちの労苦は、自分を疲れさせるだけ。彼は町に行く道さえ知らないのだから。
惨めなことよ、王が未熟で、重臣たちが朝から宴会をする国は。
幸いなことよ、王が気高い子で、重臣たちがふさわしいときに、品位を保って、深酔いすることなく、食事をする国は。
怠けていると家が傾き、手をこまねいていると雨漏りがする。
食事を作るのは笑うため。また、ぶどう酒は人生を楽しくする。
そして、金銭こそはそのすべての必要に応える。
思いの中でさえ王をのろってはならない。寝室の中でさえ、富む者をのろってはならない。
なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。

1970年にシャンソン歌手として有名な が歌って大ヒットした「希望」という歌があります。そこでは、「希望という名の あなたをたずねて 遠い国へと また汽車に乗る あなたは昔の わたしの思い出……けれどわたしが 大人になった日に 黙ってどこかへ 立ち去ったあなた……」と歌われます。残念ながら、大人になると多くの人は「希望」ということばを忘れてしまうからです。しかし、「悲しみだけが わたしのみちづれ」という現実に圧倒されるようなときこそ、「希望」が生きる力となります。岸洋子は東京芸大を卒業する22歳のとき「立ちくらみ・だるさ・微熱・食欲不振などの症状」に悩まされ、「心臓神経症」と診断され、医者から歌うことを諦めるように勧められますが、やがてシャンソンを歌う喜びによって病から立ち直ります。そして35歳のときこの「希望」という歌に出会い、それが大ヒットします。ただそのとき彼女の病はますます悪化し、膠原病と診断され、入退院を余儀なくされます。しかし、彼女はその中でも歌い続けます。その気持ちが、「となりの席に あなたがいれば 涙ぐむとき そのとき聞こえる 希望という名の あなたのあの歌」という歌詞に歌われているように思えます。日本レコード大賞の選考の日に入院中だった彼女は大賞を逃しますが、歌唱賞を授与されます。そして彼女の歌うこの歌は翌年の甲子園での選抜高校野球大会の入場行進曲に選ばれます。「希望」があるとき、人は困難に立ち向かうことができるというしるしでしょう。すべての人に「時と機会が巡ってくる」と言われますが、心の底に「希望」があれば、機会を生かすことができます。しかし、根拠のない淡い希望は、問題解決の先送りの原因にもなります。あなたの希望は何でしょう?

1.「時と機会はすべての人に巡ってくる」「人は自分の時を知らない」

私たちはこの地で、「より速く、より強く、より賢く」なるようにと幼いときから訓練を受け続けています。それは古今東西、どこにも共通する教育の目標の一つでしょう。ところが著者は、ここで、「改めて私は、日の下を見た。足が早いからといって競争に勝つわけでも、強いからといって戦いに勝つわけでも、知恵があるからといってパンにありつくわけでも、賢いからといって豊かになるわけでも、知識があるからといって好意を得られるわけではない」(9:11) という現実があることを思い起こさせます。ここには五つの能力が記されていますが、特に「知恵」「賢さ」「知識」は、この書全体で重んじられているものですから、それを軽く見るというのがここの趣旨ではありません。そうではなく、人は、自分の能力を高め、磨くことと同時に、その限界をも常に自覚する必要があるということです。

たとえば、ベトナム戦争で米国があのような敗北を喫すると誰が予想できたでしょう。それに懲りずに米国は再びイラクやアフガニスタンで泥沼にはまりつつあります。ハイテク兵器を駆使して、戦いを短期間で終えると計画したブッシュ政権は世界の信頼を失いました。根本的な誤解は、彼らが「状況を把握できる」(under control に置ける)と思い込んでしまったことです。ブッシュ前大統領は、第二次大戦後の日本やドイツにおける米国の占領政策が成功したことを例にあげていましたが、両国の成り立ちと歴史が現代のアラブ諸国と根本的に異なるばかりか、少なくとも当時の米国は、過剰なほどに、両国の占領の難しさと自国の限界を意識していたのではないでしょうか。これは私たち自身にも適用できることです。自分の能力を伸ばすことを常に心がけるべきことは当然です。しかし、自分の能力を過信し、自分の限界を忘れるとしたら、せっかくの能力は仇となります。ですから神は、私たちを謙遜にするために、あえて、能力が生かされない状況をも備えておられると解釈すべきではないでしょうか。聖書の最初の創世記には、人間の罪の根源は、自分を「神のようにしたい……」と願ったことにあったと記されています。

「ただし、時と機会はすべての人に巡ってくる」とは、古来から、勝利の要因として、人間の能力以上に、「天の時」「地の利」「人の和」が大切であると言われることに似ています。そしてこの書でも、「すべてには季節があり、天の下のすべての営みには時がある」(3:1) と、すべての時が天の神の御手の中にあると強調されています。「がむしゃらに前に突き進む」ことで問題がこじれると思えるようなとき、神の時を待つ忍耐が何よりも大切でしょう。

それと同時に、私たちは生きている限り、「時と機会は……巡ってくる」ことを期待し、希望を持つことができます。たとえば、ナチス・ドイツの強制収容所から生還した精神科医の は、「私は人生にまだ何を期待できるか」と問う代わりに、「人生は私に何を期待しているか」を問うという発想の転換を勧めます。彼は好んで次のような実話を話します。あるとき、マルセイユの港から、無期懲役の判決を受けたひとりの黒人が、レビヤタン(ヨブ記41:1などに記されている海の巨獣)という名の船で囚人島に移送されました。その船が沖に出たとき火災が発生しましたが、その非常時にこの黒人は、手錠を解かれ、救助作業に加わり、十人もの命を救うことができました。そして、その働きに免じて後に恩赦に浴することができ、釈放されたのです。彼は、囚人船に乗る前は、「生きる意味などはない」と考えていたでしょうが、この船の火災の後は、人生の期待に答えることから生きる意味が生まれるということを実感できたことでしょう。船の名のとおり、海の巨獣のレビヤタンも神の御手の中にありました。

フランクルはこの話を「それでも、人生にイエスと言う」という書に載せていますが、もともとその本のタイトルは強制収容所の囚人たちが、「私たちはそれでも人生にイエスと言おう Wir wollen trotzdem Ja zum Leben sagen」と歌って励ましあっていたことに由来します。私たちは誰も、「時を支配する」ことはできませんが、与えられた時と機会を生かすことはできます。そして、自分の人生の意味は、その連続のなかで自ずと明らかになってくるのです。使徒パウロも、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」(エペソ5:16) と勧めています。

なお、著者は引き続き、「ところが、人は自分の時を知らない。魚が災いの網にかかるように、鳥がわなにかかるように、人の子らも、災いの時が突然襲ってくると、わなにかかってしまう」(9:12) と記しています。先に著者は、多くの男性が悪女の誘惑に負けて人生を破滅させるという「わな」や「網」のことを記していましたが (7:26)、私たちは「機会を生かす」ことと同時に、自分を破滅させる「時」への警戒心を持つ必要があります。私たちは自分の自制心を過信してはなりません。聖書には、ダビデ王を初めとする多くの信仰の偉人たちの失敗談が赤裸々に記されています。まして凡人の私たちは、誘惑の時と場所からは、身を遠ざけることこそが最高の知恵と言えましょう。

2.「静まった中で聞かれる知恵ある者のことばは、愚か者に囲まれた支配者の叫びにまさる」

このように著者は、力や知恵の限界を語った上で、今度は知恵の大切さを、「私はまた、日の下で知恵について次のようなことを見たが、それは私にとって大きなことだった。わずかな人々が住む小さな町があった。そこに強大な王が攻めて来て、それを包囲し、大きなとりでを築いた。ところが、そこにひとりの貧しい知恵ある者がいて、その彼がその知恵で町を救った」(9:13–15) という具体例で記します。「とりで」とは、原文で、先の「網」ということばと同じで、強大な王に包囲されて網にかかった魚のようになった小さな町が、ひとりの貧しい人の「知恵」によって解放された記録です。Ⅱサムエル記20章には、ダビデ王国を分裂させようとしたシェバがマアカという小さな町に逃げ込んだときのことが記されています。その際、ダビデの将軍ヨアブがこの町を包囲したのですが、「ひとりの知恵のある女」がヨアブと交渉して町を救いました。ただ、この女の名はどこにも記されていません。著者はそれを思い起こしながら、「しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった」と記しているのだと思われます。ただしそのように人の評価は空しいという現実があるにしても、「知恵は力にまさる」というのは永遠の真理なのです (9:16)。

その上で、「ただし、貧しい者の知恵はさげすまれ、彼のことばは聞かれない。静まった中で聞かれる知恵ある者のことばは、愚か者に囲まれた支配者の叫びにまさる」(9:17) と記されます。この世の人々は、「愚か者に囲まれた支配者の叫び」にばかり注意を向け、「貧しい者の知恵」をさげすむという現実があるにしても、それでも、最終的にこの世界を動かすのは、「静まった中で聞かれる知恵ある者のことば」だというのです。これらの結論として、「知恵は戦争の装備にまさる」(9:18) と断言されます。たとえば、イエス・キリストは多くのユダヤ人たちがローマ帝国に対する独立戦争を叫んでいるただ中で、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39) と静かに語りました。また弟子のペテロが剣を抜いてイエスを守ろうとしたときも、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」(同26:52) と言われました。その後ユダヤ人の独立運動はローマ帝国に鎮圧され、エルサレムは破壊され、ユダヤ人は流浪の民とされました。しかし、イエスの教えはローマ帝国の中に広がり続け、やがてこの強大な帝国はイエスの前にひざまずくことになります。

預言者イザヤは、救い主の働きを、「彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声も聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」(42:2、3) と、そのことばの静けさを強調します。現れた救い主の姿は、「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53:3) と描かれるような「貧しい者」で、「彼のことばは聞かれない」ように当時は思われましたが、それは、「静まった中で聞かれる知恵ある者のことば」そのものでした。そして今も、イエスのことばは世界の歴史を変え続けています。残念ながら「キリスト教は嫌い!」という人が数多くいます。それは、真理を、高飛車に独善的に説得しようとする姿勢への嫌悪感ではないでしょうか。私たちはイエスの静かで謙遜な語り方に立ち返る必要があります。

ところで、「しかし、罪人はひとりでも、多くの善いものを滅ぼす。死んだはえが、香料作りの香油を腐らせ、臭くするように、わずかな愚かさは、知恵や栄誉よりも影響力がある」(9:18、10:1) とあるように、短期的に見ると、「知恵」よりも、「ひとりの罪人」や「わずかな愚かさ」の方が「影響力がある」ように見えます。実際、イエスが十字架にかけられたのはそのためでしょう。群集心理は「不安」や「憎しみ」や「欲望」を駆り立てる断言調のことばに動かされるからです。しかし、「知恵の心は右に向くが、愚かな心は左に向く。愚か者は道を歩くときでさえ思慮に欠け、自分の愚かさを言いふらしている」(10:2、3) とあるように、長期的には「知恵」と「愚かさ」の差は歴然としてきます。

それを前提に、「たとい支配者があなたに向かって気まぐれを起こしたとしても、自分の持ち場を離れてはならない。健やかな心は大きな罪を抑えるのだから」(10:4) と勧められます。「健やかな心」ということばは、新改訳では「冷静」と訳されていますが、本来は「いやし」を意味することばで、英語の Serenity(平安、平静)の意味が込められていると思われます。私たちは、「神様、私にお与えください。自分に変えられないことを受け入れる Serenity(平静な心)を。変えられることは変えてゆく勇気を。そして、ふたつのものを見分ける賢さを……」と祈る必要があります。世界は不条理に満ち、私たちに権威を振るう人の心も「気まぐれ」のような怒りをぶつけることがありますが、そのような中で、目の前の働きを投げ出すことなく、落ち着いて成し遂げなければならないからです。その際、「健やかな心」を持つことができるための鍵は、何よりもこの世界をどのように見るかの「知恵」にかかっています。

ソロモンはその箴言で、「知恵」を擬人化して、神が世界を創造されたときのことを、「わたしは神のかたわらで、これを組み立てるものであった」(8:30) と描いています。聖書はキリストを、世界の初めから存在し、父なる神とともに世界を創造された「神の知恵」として紹介します (Ⅰコリント1:24、30参照)。私たちはキリストを知ることによって、世界がどのように始まり、どのように保たれ、どのように終わるかのすべてを知ることができますが、それこそが私たちに必要な「知恵」です。たとえばこの聖書を実際に記した昔の人々は、太陽が地球の周りを回っていると思っていたことでしょう。それは現代人の目からは「無知」と称されるかもしれません。しかし、地球が太陽の周りを回っているということを悟ったことが、その人の人生にどのような影響を及ぼしているというのでしょう。地球の法則を知るよりも、自分の感情に振り回されることなく、隣人を愛してゆくことの方が、はるかに大切なことではないでしょうか。

しかも、そこでは、「わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ」(箴言8:30、31) と、「神の知恵」であるキリストが、この世界と私たちの存在を喜んでおられたと記されています。それと対照的なのがギリシャ神話です。そこではゼウスが人間を懲らしめるためにひとつの箱をパンドラに与え、彼女が好奇心に負けてその蓋を開けるとありとあらゆる災いが世界に広がりました。最後に箱の底に「希望」だけが残り、それだけは手元に残りました。それ以来、人間は、諸悪に満ちた世界にありながら希望のみを頼りに生きていると記されます。希望が人にとっての最後に守るべき宝であるというのは、聖書に通じる話ではありますが、世界の背後に神の悪意を見るのか善意を見るのかということは人生の構えを決定的に変えるものです。

聖書によるとこの世界の悲惨は、人が自分を神のようにして、自分を中心に善悪を判断するようになった結果です。しかし、人々の忘恩の罪にも関わらず、神は人を愛し続け、ご自身の御子を送って罪の悪循環を断ち切り、世界を平和に満ちた歓喜に向って導いておられます。このように、世界の始まりと終わりが喜びに満ちているということは、私たちの悲しみは永遠のものではなく束の間の間奏曲にすぎないということを指し示しています。

3.「それゆえ成功をもたらすのに益となるのは知恵である」

著者は続けて「私は日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す誤り。愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席についている。何と私は、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た」(10:5–7) と描きますが、これは権力者がこの世の秩序を自分で壊しているという不条理を述べたものです。当時は現代人には想像できないほど身分の差が歴然としていましたが、それによって社会の秩序が守られ平和が実現していたという面があります。しかし、その頂点に立つ権力者自らがそれを否定しては、社会は混乱するしかなくなります。その意味で、それは「悪」であり、「誤り」だというのです。そればかりか、権力者は、自分に媚を売るような「愚か者」を「高い地位」につけることによって混乱を加速させることがあります。事実、ソロモン王の息子のレハブアムは、長老たちの助言を退け、愚か者の助言を聞くことによって国を分裂させてしまいました。

これと同じように、「穴を掘る者はそれに落ち込むかもしれず、石垣をくずす者は蛇にかまれるかもしれず、石を切り出す者はそれで傷つくかもしれず、木を割る者はそれで危険にさらされるかもしれない」(10:8、9) とは、人が何かを成し遂げようとして、墓穴を掘り、かえって自分を傷つけることになるということの例です。「穴を掘る者」が「それに落ち込む」とは、わなをかけた者が、自分のかけたわなにかかるというようなことです (箴言26:27)。「石垣を崩す」というのも、城を攻撃することに関わります。「石を切り出す」とは、家を建てるための最初の働きですが、これは希望に燃えた働きがその最初でつまずくことを指します。「木を割る」とは、たきぎの準備に関わることです。そして、その際の道具の「斧」のことが、「斧が鈍くなっているのに、その刃を研がなければ、力をさらに込めなければならなくなる」(10:10) と記されます。これは闇雲に力任せに働くことの愚かさを指摘するものです。「その刃を研ぐ」というほんの少しの回り道をすることで、ずっと楽に、また安全に仕事を成し遂げられるようになります。

そして、これらのことを踏まえて、「それゆえ成功をもたらすのに益となるのは知恵である」(10:10) と描かれます。これは、先の「知恵は力にまさる」ということばにもつながります。たとえば、日本でも少し前までは、スポーツにおいて何よりも「根性」というようなひたむきさがばかりが尊重されましたが、最近は、練習方法に様々な科学的な知恵が生かされるようになっています。無理をしすぎて身体を壊しては元も子もないからです。

「ただし、まじないをかける先に蛇がかみつくなら、蛇使いの舌は何の益ともならない」(10:11) とは、タイミングがずれることの悲劇です。蛇使いは、蛇が衝動的に動く前に蛇の気持ちをコントロールする必要があります。つまり、斧を研ぐことを厭うほどに急ぎすぎても、またタイミングが遅くなりすぎても働きを全うはできないというのです。

その上で、「知恵ある者の口から出ることばは恵み。しかし、愚か者のくちびるはその身を滅ぼす。その口のことばの始まりは愚かで、その口の終わりも忌まわしい狂気。愚か者はことばを多くする」(10:12–14) とは、愚か者の特徴は、自分がわかってもいないことをさもわかっているかのように話すという現実が古今東西どこにもあるということを描いたものです。知恵ある者は、少ない言葉で、人に恵みをもたらすことができます。しかし、愚か者は機関銃のようにしゃべり続け、人を疲れさせるばかりで、後で何を言おうとしていたかも分からなくなります。

「人は自分に何が起こるかを知らない。自分がいなくなったとき何が起こるかを、だれが告げることができようか」(10:14) とは、7章14節、8章7節などで繰り返されていたことと同じです。真の知恵とは、何よりも、分かることと分からないことの区別が明確にされていることではないでしょうか。それに比べて、「愚か者たちの労苦は、自分を疲れさせるだけ。彼は町に行く道さえ知らないのだから」(10:15) と述べられますが、「愚か者」は、忙しく動き回りながら、目先のことさえ見えていないというのです。これは当時からは想像もできないほどに進歩した日本や米国で、金融機関が土地の値上がりという幻想をもとに、返済の目処も定かでない借金を企業にも個人にも促しながら、バブルがはじけたという愚かさに似ています。人は、みんな同じ方向に動いていること自体に安心を覚え、行き先がどこかが見えなくなるということが往々にしてあります。しかし、知恵ある者は、自分の人生のゴールがどこにあるかを知っています。彼は身近な町への道を知っているばかりか、天の都への道をも知っているからです。

イエス・キリストは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6) と言われました。かつて私はこのことばに独善性を感じました。しかし、このように言われたイエスが、ご自分のいのちを私たちの罪を赦すための犠牲としてささげ、天の父なる神への道を開いてくださったということが分かったとき、このことばが何ともいえない慰めになりました。また私自身が自分の愚かさや罪深さを、人生を重ねるごとに自覚させられるにつれ、このイエスのことばが自分の人生の支えになってきています。この世的な成功を保証してくれる「知恵」をイエスから求めるというのではなく、イエスご自身を知り、イエスとの交わりを深めることこそが最高の「知恵」となるのです。

「惨めなことよ、王が未熟で、重臣たちが朝から宴会をする国は。幸いなことよ、王が気高い子で、重臣たちがふさわしいときに、品位を保って、深酔いすることなく、食事をする国は。怠けていると家が傾き、手をこまねいていると雨漏りがする」(10:16–18) とは、日々の生活を大切に生きることの勧めですが、ここで、「気高い子」とは原文で、「貴族の子」または「自由人の子」と記されています。真の自由人とは、酒に溺れたり、快楽の誘惑に負けずに、「品位を保つ」ことができる人です。真の「知恵」は、私たちをそのような真の自由に導くことができます。

ただし、それは禁欲生活の勧めではありません。そのことが、「食事を作るのは笑うため。また、ぶどう酒は人生を楽しくする。そして、金銭こそはそのすべての必要に応える」(10:19) と記されます。この書では、食事やぶどう酒が肯定的に記されていますが、ここの意味は、日本の昔の歌で、「小原庄助さん、何で身上つぶした。朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした」と歌われることに似ています。目先の「笑い」や「楽しみ」ばかりを求めていると、かえって「笑い」も「楽しみ」もない悲惨な生活になってしまうという警告です。

「思いの中でさえ王をのろってはならない。寝室の中でさえ、富む者をのろってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ」(10:20) とは、権力者や富む者に恨みやねたみの思いを抱きながら生きることの危うさを説くものです。私たちは、何よりも、与えられている生活に喜びを見出し、日々、自分に問われている働きを忠実になし続けることが大切なのです。権力者や金持ちへの憧れが、彼らへの怒りのもとになっている場合が多くあります。しかし、金や権力は、決して幸せを保証するものではありません。

私たちの憲法では、ひとりひとりが幸せを追求する権利が尊重されるべきことが保証されています。不思議に、幸せになる権利ではなく、幸福を「追求する」権利と記されます。そこには、人が常に、幸せに憧れながら、渇きを覚え続けるという地上の現実が前提とされているのではないでしょうか。だからこそ個人の自由が保障され、自分の意思で自分なりの幸福を追求することが尊重されるべきなのです。そして、それこそ、こころの世界です。それに対し聖書は単純明快な答えを提示します。それは、知恵を愛すること、イエスを愛することによるというのです。

私たちは何の根拠もない淡い希望を抱いてこの世の苦しみを生きるのではありません。既に天上には御使いたちの歓喜の歌声が響き渡っています。キリストの復活こそ、そのことの保証です。そして私たちはそれを霊の耳で聴きながらこの地上の生涯を送ります。まさに、キリストを見いだす者は、いのちの喜びを見いだすのです。

バッハの名曲、「主よ、人の望みの喜びよ」という日本語タイトルは、ロバート・ブリッジスの英訳から生まれています。そこにはもとのドイツ語の歌詞とは違った深い味わいがあり、イエスこそが私たちの「希望」の本質であると歌われます。イエスは人が渇望している「喜び」そのものであり、私たちの人生はイエスの王座に向かって羽ばたいてゆくものです。しかも、その出会いに憧れながら生きるその中に、この地上での日々の喜びをも見出されるのです。

Jesu, joy of man’s desiring
イエスよ、人の望みの喜びよ
Holy wisdom, Love most bright
聖なる知恵、最高に輝く愛よ
Drawn by Thee, our soul aspiring
あなたに惹かれ、私たちの魂は切望する
Soar to uncreated Light
創造されたことのない光へと はばたくことを
Word of God, our flesh that fashioned
神のことばが、私たちの肉を身にまとわれた
With the fire of Life impassioned
いのちを燃やすほどの情熱をもって
Striving still to truth unknown
(それゆえ私たちは)まだ知らない真理を追い求めつつ
Soaring, dying round Thy throne
あなたの王座を切に憧れ、はばたいて行く。