マタイ5章1〜12節「主にすがる者の幸い」

2009年3月15日

マタイ福音書での 「山上の説教」と「終わりの日の説教」の対比 

〈モーセの最後の説教〉「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い死とわざわいを置く……私は、いのち祝福のろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい……あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ……」 (申命記30:15,19、20)

〈山上の説教の前提〉 イエスは宣教を開始して、言われた。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17) “マタイ5章1〜12節「主にすがる者の幸い」” の続きを読む

ルカ20章1〜19節「誰のために生きるのか」

2009年2月15日

昨年以来、証券会社や投資銀行の評判は悪くなるばかりで、その一員であった私は、何とも複雑な気持ちを味わっています。先日、日本福音自由教会協議会総会で、不本意にも、四人の役員の一人に選ばれました。担当を決める際に、「先生は金融機関に勤めていたから、会計をしてよ・・」などと言われ、さらに嫌な気持ちになりました。同じ金融機関でも、銀行と証券は水と油です。 “ルカ20章1〜19節「誰のために生きるのか」” の続きを読む

エレミヤ21章〜24章「主のみことばを聴く群れとして」

2009年1月11日

アルコール依存症で明らかに人生が破綻している人のほとんどが、「まだ、自分は大丈夫だ・・」と思っているとのことです。その家族は疲労困憊しながら助けを求めているのに、当人は自分が病気であることを認めようとはしません。なぜなら、その病いの根本は、自分の弱さを正直に認められないことだからです。 “エレミヤ21章〜24章「主のみことばを聴く群れとして」” の続きを読む

エレミヤ17章19節〜20章18節「陶器師の御手の中で」

2009年1月4日

人間の苦悩の源泉は、「災害と退屈」であると言われます(ショーペンハウアー「孤独と人生」P43)。「災害」は創造主なる神が支配しておられますが、「退屈」は私たち自身が向き合うべき問題です。イスラエルの民は約束の地に入って生活が安定したとたん、カナンの刺激的な宗教に走りました。そして、最終的に神の怒りを買って、国が滅びます。それがエレミヤ書のテーマです。それは現代の私たちの課題でもあります。退屈(倦怠感)から逃げ出そうとして、やってはならない刺激的な誘惑に手を出し、自分で苦しみを招いてしまうということがないでしょうか。 “エレミヤ17章19節〜20章18節「陶器師の御手の中で」” の続きを読む

ルカ2章21〜52節「待ち望むということ」

2008年12月28日

僕が17歳のとき、宇多田ヒカルの母、藤圭子が歌って大ヒットした曲があります。それは、「十五、十六、十七と、あたしの人生暗かった。過去はどんなに暗くても、夢は夜ひらく」という危ない内容です。夢は、日の光のもとで開かさなければなりません。もし、クリスチャンの「新生の証し」が、自分の過去を必要以上に暗く描きながら、自分ではない自分になろうとするものであるなら、同じように危ない生き方になることでしょう“ルカ2章21〜52節「待ち望むということ」” の続きを読む