エレミヤ21章〜24章「主のみことばを聴く群れとして」

2009年1月11日

アルコール依存症で明らかに人生が破綻している人のほとんどが、「まだ、自分は大丈夫だ・・」と思っているとのことです。その家族は疲労困憊しながら助けを求めているのに、当人は自分が病気であることを認めようとはしません。なぜなら、その病いの根本は、自分の弱さを正直に認められないことだからです。そして、自分の人生がうまく行かないのは、まわりが悪いからだということを恐ろしいほどの説得力をもって話すことができます。まわりの人は、「このまま放っておくと死んでしまう・・・」とやきもきし、一生懸命になって治療を受けるように説得するのに、当人にはその切迫感がまったくありません。ある方は、「自分がお酒のコントロールができないと認めると、今までの自分が全部ダメで、自分がなくなってしまうような気がした」と記しています。私たちにも同じような面がないでしょうか。どこかで自分を強がって、知ったかぶりをし、「私はわかりません」と言うことを躊躇します。

ところで、依存症の人は、自分の問題は認められなくても、同じような問題を抱えている人の生き方の愚かさは、驚くほどよく見えています。そのため、他の人の失敗の証しを聞くことが極めて大切で、それによって自分の弱さを認め、問題に直面する勇気が沸いてきます。これもすべての人にうちにある傾向ではないでしょうか。聖書は人間の心の醜さを、驚くほどに正直に描きます。私はそれを読みながら、ほっとすると同時に、自分の弱さや愚かさを正直に認める勇気がわいてきます。そこには、まことの神を知っているはずなのに、自分の依存症的な生き方の問題にまったく気づいていない王が出てきます。依存症の治療には、自分の破滅的な状況を認めさせることが何よりもまず大切であると言われます。そのため、優しい人はかえって害になる場合があります。今日の箇所には、神の厳しいことばが満ち満ちています。しかし、その背後に、神の燃えるような愛を見られる人は幸いです。

1.「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く」

21章に登場する「ゼデキヤ王」とはユダ王国最後の王です。彼はバビロンの王ネブカデネザルの攻撃を受け、絶体絶命の危機の中で、エレミヤを通して主(ヤハウェ)に尋ねようとします。それはエレミヤがバビロンによる攻撃を語り続けていたからです。ただその際、王は、「主(ヤハウェ)がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼(ネブカデネザル)を私たちから離れ去らせてくださるかもしれませんから」(21:2)と言いますが、これはその約百年前に、エルサレムが中東全域を支配したアッシリヤ帝国に包囲されたとき、主ご自身が夜のうちに御使いを遣わして185,000人を打ち殺したことを指しています(Ⅱ列王19:30)。しかし、そのときはヒゼキヤ王が、人々の心を主に立ち返らせ、「彼はイスラエルの神、主(ヤハウェ)に信頼していた・・ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」(同18:5)と評されるほど、主との親密な関係が築かれている中で起きたことでした。ところがゼデキヤはいつも人の顔色ばかりを見て、主に対する誠実さのかけらも見られないような王でした。

エレミヤは、「イスラエルの神、主(ヤハウェ)」ご自身から既に示されていた驚くべきことばを即座にゼデキヤに告げ、「あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲んでいるバビロンの王とカルデヤ人とに向かって戦っているが・・・わたし自身が、伸ばした手と強い腕と、怒りと、憤りと、激怒とをもって、あなたがたと戦い、この町に住むものは、人間も獣も打ち、彼らはひどい疫病で死ぬ」(21:4-6)と伝えました。つまり、彼らはバビロンと戦っているつもりでも、実際、エルサレムを攻めているのは主ご自身であるというのです。そのあとで、主は、「ユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たちとを、バビロンの王ネブカデレザルの、敵の、いのちをねらう者たちのに渡す」(21:7)と言われます。つまり、主はネブカデネザルと戦うどころか、ゼデキヤと生き残りの民を、残忍な「敵の手」に引き渡すというのです。

そして、主はエルサレムの住民に対し、申命記30章15,19節でのモーセが用いた表現を使いながら、「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く」と言われますが、その「いのちと死」の選択は意外にも、「この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる」という投降の勧めでした(21:8,9)。モーセの時には「いのち」を選ぶとは、「あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、御声に聞き従い、主にすがる」(申命記30:20)ことでしたが、ここではまるで、「バビロンの王にすがる者は生きる」と言われているかのようです。これは容易に納得しがたいことです。

私たちの目には、「主にすがる」ことと、「人にすがる」ことは矛盾するように思えますが、両者に共通するのは、「へりくだる」ということではないでしょうか。「万軍の主(ヤハウェ)が私の味方だ!」という信仰が愚かなプライドを守る口実になり、人に心から頭を下げることを妨げるとしたら、それは主のみこころではありません。主は多くの場合、天から火を下す代わりに、人を用いて問題を解決するか、または、信仰者に試練を与えられるからです。媚びへつらうことと、自分の無力さを認めて頭を下げることとはまったく別のことです。

ところでこのとき主は、「わたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむける」(21:10)と言っておられます。それは、彼らの先祖がモーセから、「これを守れば、あなたはしあわせになり、この地で長生きできる」という趣旨のわかりやすい教えを受けていながら(申命記4:40、エペソ6:4参照)、それを退けて、自分で「わざわい」を選び取ってしまったことの報いでした。主はここで、ご自身を退けた者たちに敢えて「わざわい」を与えながら、彼らに反省を促し、「いのち」を選び取るようにと迫っているのではないでしょうか。かつてモーセは、「いのちと幸い」、「死とわざわい」をそれぞれセットに提示していましたが(申命記30:15)、ここでは、「わざわい」を通して「生きる」という方向が指し示されます。人は、「そんな苦しみや屈辱に耐えるぐらいなら、死んだほうがまし・・・」と思えることがあったとしても、主にある「いのち」が残されている限り、希望を持つことができます。なぜなら、「わざわい」も主の御手の中にあって起こっているからです。人は、しばしば、過去の栄光や豊かさに捕らわれるあまり、「生き延びる」ためには何でもするという勇気がもてなくなります。しかし、ダイヤモンドを抱えたまま海に沈むような人になってはなりません。しかし、主との交わりという信仰こそ、私たちに与えられた最高の宝物です。すべてを失っても、イエス・キリストとの交わりを持っているなら、やがて、すべての必要は満たされます。

2.「そのとき、彼は幸福だった」という王と、誰からもその死を悼まれることのない王

22章13-19節までは、ゼデキヤの二代前の王のエホヤキムのことが描かれます。彼の父ヨシヤは滅亡後の北王国の領土を回復したユダ王国の最も偉大な王でした。そして、エホヤキムは三ヶ月でエジプトに捉えられて失脚したシャルムの兄弟で、エジプトの傀儡政権として誕生しました。彼はヨシヤの息子でありながら、父とはまったく正反対の生き方をしました。彼は、11年間王の座にありましたが、王宮の建設をめぐって「不義」と「不正」を働きました。その様子がここで、「隣人をただで働かせて報酬も払わず、『私は自分のために、広い家、ゆったりした高殿を建て、それに窓を取りつけ、杉の板でおおい、朱を塗ろう』と言う者」と非難されます(22:13、14)。

そして、そのようなエホヤキムの自己中心な行いが父ヨシヤと比較されながら、「あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行ったではないか。そのとき、彼は幸福だった。彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった・・・しかし、あなたの目と心とは、自分の利得だけに向けられ、罪のない者の血を流し、しいたげと暴虐を行うだけだ」(22:15-17)と非難されます。興味深いのは、ヨシヤが神を恐れ、貧しい人をあわれむ政治を行っていたとき、「そのとき、彼は幸福だった」と繰り返されていることです。

一方、エホヤキムは自分の利益を優先し、神を忘れ、隣人を虐げることによって、悲劇に向かってゆくというのです。彼は最も嫌われた王でした。彼は最初エジプトに屈服し、その後バビロンの王ネブカデネザルに屈服しますが、裏切って青銅の足かせにつながれてバビロンに連行され(Ⅱ歴代36:6)、最後は、エルサレムで息を引き取ったのだと思われますが、そのとき、だれ一人として、彼の死をいたむ者はなく、エルサレムの城門の外に引きずり出され、ろばのように埋められるというのです(22:18,19)。これは王としての最大の恥辱です。

人は、すべて、何らかの使命を果たすために生かされています。ヨシヤ王は公義と正義を行い、貧しい人々の訴えに耳を傾けていたとき、「そのとき、彼は幸福だった」と描かれています。しかし、エホヤキムは、隣人をただで働かせて、贅沢な家に住み、自分の幸福ばかりを追い求めましたが、彼ほど不幸な王はいませんでした。

3.「いったいだれが、主(ヤハウェ)の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか」

23章9節から22節までは、偽預言者の罪が記されています。特に16節では、「万軍の主(ヤハウェ)」はイスラエルの民に向かって、「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主(ヤハウェ)の口からではなく、自分の心の幻を語っている」(23:16)と言われます。残念ながらいつの時代にも、「自分の心の幻」を主のことばと取り替える説教者がいます。彼らは、聴衆の耳に心地よいことばかりを語り、主を「侮る者に向かって」さばきを宣告すべきところを、その代わりに、「主(ヤハウェ)はあなたがたに平安があると告げられた」などと耳障りのよいことを言うのです(23:17)。そればかりか、「かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって」、「あなたがたにはわざわいが来ない」などと、主のさばきを否定するようなことばを言い続けているというのです。しかし、人々が心のそこで聞きたいと願っていることだけを語る預言者にどんな存在意味があるというのでしょう。預言者は、民の罪を指摘し、民を神のもとに戻すようなことばを語らなければなりません

その上で、「いったいだれが、主(ヤハウェ)の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか」(23:18)という問いかけがありますが、真の預言者は、主がなぜこのように語っておられるのか、その背景までをも知る必要があります。私たちは聖書を通して、主のさばきの背後に、「哀れみに胸を熱くする」という神の葛藤を見ることができます。主は、何の痛みも感じずにエルサレムを滅ぼそうとしているわけではありません。それにしても、ここでは、主の燃える怒りが、「見よ。主(ヤハウェ)の暴風、─憤り。─うずを巻く暴風が起こり、悪者の頭上にうずを巻く。主(ヤハウェ)の怒りは、御心の思うところを行って、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟ろう」(23:19、20)と描かれます。「万軍の主(ヤハウェ)の熱心」(Ⅱ列王19:31)ということばがあるように、主は、情熱に満ち溢れておられます。それは主にへりくだる者への燃える愛として表されるとともに、主の愛を軽蔑するものへの激しい怒りとして表されます。十字架こそは、罪に対する神の燃える怒りとともに、罪人に対する燃える愛の表現です。

ところで主の燃える怒りは、誰よりも偽預言者たちに向けられます。主は彼らに向かって、「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに・・・彼らは預言している」(23:21)と怒っておられます。そして、最後に再び、「もし彼らがわたしの会議に連なったのなら、彼らはわたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪の道から、その悪い行いから立ち返らせたであろうに」(23:22)と真の預言者の働きが述べられます。

なお、主は、当時の偽預言者の習慣を指摘しながら、「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言ったのを、わたしは聞いた」(23:25)と言われます。偶像の神々に仕える宗教指導者たちは常に夢を重んじていましたが、イスラエルの預言者たちもその影響を受けていました。そして主は、彼らの心の奥底に隠されている思いを、「彼らの先祖がバアルのためにわたしの名を忘れたように、彼らはおのおの自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、たくらんでいるのだろうか」と描きながら、彼らの罪をさばくことを前提に、「夢を見る預言者は夢を述べるがよい」)と突き放します(23:25-28)。そして最後に、「しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか」と近隣の宗教的慣習と明確に距離を置くことを命じられます。

ところで、「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか」(23:29)とは、主のことばが、この世のことばと決定的に異なる創造的な力を持っていることを述べたものです。そして、主は、「わたしは、おのおのわたしのことばを盗む預言者たちの敵となる・・わたしは、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる・・わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる」と三度同じような表現を用いながら、偽預言者たちへのさばきを宣告します。そして再び彼らのやり方を、「偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている」(23:32)と非難しています。残念ながら、これは現代の教会でも起こりえる問題ではないでしょうか。

パウロは、ベレヤの信徒たちのことを賞賛して、「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った」(使徒17:10-12)と描いています。意外にも、彼らの何よりのすばらしさはパウロのことばを鵜呑みにしなかったことにあるというのです。彼らは、自分で聖書を調べ、自分で心から納得して、その結果、まわりの人々に聖書のことばを分かち合うことができました。これを読むときに、偽預言者を見分ける責任は信者自身にあるということがわかります。私たちはすべてのキリスト者のうちに聖霊が宿っていると信じます。

4.「主の宣告」と言いながら、「生ける神、万軍の主(ヤハウェ)、私たちの神のことばを曲げる」

23章33節から40節のキーワードは、「マッサー」というヘブル語で、「宣告」とも「重荷」とも訳すことができます。新共同訳では33節を「もし、この民が・・・あなたに、『主の託宣(マッサ)とは何か』と問うならば、彼らに『お前たちこそ重荷(マッサ)だ』。わたしはお前たちを投げ捨てる」と訳し、その後の36節のことばは、新改訳で「人の重荷」と訳していることばを「人の宣告」と訳していますが、その方が、意味はわかりやすいと思われます。

つまり、主はエレミヤに、「この民、あるいは預言者、あるいは祭司が、『主(ヤハウェ)の宣告とは何か』とあなたに尋ねたら」、すなおにその問いに答える代わりに、主ご自身が、「あなたは彼らに、『あなたがたが重荷だ。だから、わたしはあなたがたを捨てる』と言え」と、敢えて意地悪に、衝撃的な答えをするように命じておられます(23:33)。それは、彼らがエレミヤをからかうような調子で、「主(ヤハウェ)の宣告」ということばを使っていることへの応答でした。そして、エレミヤは、彼らが主の「重荷」となっている理由を、彼らが自分の「ことば」を、「宣告」として、「生ける神、万軍の主(ヤハウェ)、私たちの神のことばを曲げるからだ」と説明します(23:36)。

預言者はただ、「主(ヤハウェ)は何と答えられたか。主(ヤハウェ)は何と語られたか」(23:37)と言うべきであって、自分のことばを、「主(ヤハウェ)の宣告」などとして言う者に対して、主は、「見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたと、あなたがたや先祖たちに与えたこの町とを、わたしの前から捨て、永遠のそしり、忘れられることのない、永遠の侮辱をあなたがたに与える」(23:39、40)というさばきが宣告されます。

今も、一部の過激な教会では、「預言者」という立場の人がいて、礼拝中に、「万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる」と、聖書に書いていないことを告げるというようなことがあると言われます。しかし、大上段に構えて、主の御名の権威を借りて人間のことばを主のことばに置き換えるようなことをする者に、主は誰よりも厳しいさばきを下されます。昔から、そのようなさばきにあった霊的指導者が常にいます。そのような人が出てしまうのは、多くの人々が、自分の頭で考え、悩むということを嫌って、断定口調のことばに魅力を感じるからです。しかし、聖書には、一見、矛盾することが書いてあります。「神は、世を愛された」(ヨハネ3:16)と記した同じ人が、「世を愛してはなりません」(Ⅰヨハネ2:15)と記しています。「私は恐れない」と告白する詩篇作者が、至るところで自分の恐怖心を大胆に表現しています。ことばの意味を決めるのは文脈です。そして、私たちは何よりも、主の熱い思いを知る必要があります。イスラエルへのさばきを宣告している神は、同時に、哀れみで胸を熱くしておられるからです。

5.「良いいちじくと悪いいちじく」

「バビロンの王ネブカデレザルが、エホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのつかさたちや、職人や、鍛冶屋をエルサレムから捕らえ移し、バビロンに連れて行って後」とはゼデキヤ即位のときで、主(ヤハウェ)はエレミヤに、主の宮の前の、二かごのいちじくを見せられましたが、「一つのかごのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないもの」でした(24:1、2)。

主は、彼に、捕囚の民に関して、「この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う。わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない」(24:5、6)と、苦しみの後の祝福を約束してくださいました。その際、主ご自身が彼らの心を造りかえるという意味で、「また、わたしは彼らに、わたしが主(ヤハウェ)であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである」(24:7)と約束してくださいました。これはイエスが私たちに聖霊を遣わしてくださることを指しています。

しかし、一方で、主は、「ユダの王ゼデキヤと、そのつかさたち、エルサレムの残りの者と、この国に残されている者、およびエジプトの国に住みついている者とエルサレムに残る者」を、「悪くて食べられないあの悪いいちじくのようにする」というさばきを宣告されます(24:8)。そればかりか、「わたしは彼らを地のすべての王国のおののき、悩みとし、また、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。わたしは彼らのうちに、剣と、ききんと、疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす」(24:9、10)とまで言われます。これは、先に、エレミヤがゼデキヤに、「いのちの道と死の道」(21:8)を示されたのに対応します。

主は、エルサレムの残りの者が、バビロンの王の前にへりくだり、いのちを保つことを願っていたのです。しかし、彼らは後に、バビロンを裏切り、エジプトに逃れて滅びてしまいます。主が明確に語っておられることを軽蔑して、人間的な判断に頼ってしまったからです。同じことが、現代の私たちにも問われています。主との交わりよりもこの世のことに心を向ける方が短期的には得に思えることがあります。主と主の教会の交わりを第一にしても、仕事が思うように進まない、家族もまとまらないと思えるようなことがあるかもしれませんが、それに失望してはなりません。

主は、バビロン帝国に頭を下げることを求めておられました。主は決して、バビロン帝国もネブカデネザルをも評価しているわけではなりません。彼らも神にさばかれるべき傲慢な悪の帝国でした。しかし、彼らは確かに強い国でした。それに比べて、イスラエルは、どうしようもなく弱い国でありながら、その弱さを認めようとはしていません。彼らにとっての信仰とは、神と人の前にへりくだるということではなく、神と人とを自分の願うように動かす方法に過ぎませんでした。またあるいは、自分の弱さを忘れさせる麻薬のようなもの、現実逃避の道でした。

私たちはみな、神のかたちに創造された高価で尊い存在で、神が創造された世界を治めるための驚くほど豊かな知恵と力が与えられています。しかし同時に、私たちは、みな羊のように、弱く、愚かな者です。私たちはこの両面を常に見る必要があります。そうするとき、私たちは真の意味で、人との協力関係を築くことができます。

聖書に記される神の救いのご計画は、私たちの思いをはるかに超えています。一見、目を背けたくなるような神の厳しいことばの背後に、私たちを謙遜にしてみもとに招こうとする神の燃えるような愛を見ることができます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」というみことばに続いて、「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」、また、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」と記されています(ヨハネ3:18,36)。つまり、イエスご自身も罪人に対する神のさばきを明確に語りながら、ご自身の十字架に信頼する者はさばきを受けることがないとの形で救いを示しておられるということを忘れてはなりません。