Ⅱコリント4章1〜18節「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」

2012年1月1日 元旦

私たちは年の初めに、「今年こそは、良い年でありますように」と祈りたいものです。それは当然ことで、そのように祈るのは決して間違ってはいません。しかし、毎年、振り返ってみると、一つや二つ、「なんでこんなひどいことになってしまったのか・・・」と思うようなことが必ず起きています。

昨年の年末はいろんな番組で原発事故を振り返る特集が組まれていました。それを見て改めて日本人は、想定外のことを想定するという能力に欠けている民族ではないかと思わされました。そして、私自身も、極めて日本人的であると思わされています。 “Ⅱコリント4章1〜18節「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」” の続きを読む

イザヤ11章1〜10節「神の平和を完成する救い主」

2011年12月24日 クリスマス・イヴ礼拝

信仰に導かれた二十歳過ぎのとき、僕にとっては、「いつも主にあって喜びなさい」(ピリピ4:4)というみことばがとっても新鮮でした。でも信仰生活が長くなるうちに、それが偽善のように思えてきました。 “イザヤ11章1〜10節「神の平和を完成する救い主」” の続きを読む

マルコ8章1〜21節「主がともに歩んでくださる人生」

2011年12月18日

私たちは「平安の祈り」において、「この世においては、適度に幸せに、来たるべき世界においては、永遠に主とともに住み、最高に幸せになることができますように」と祈っています。それは私たちが、「地上では旅人であり寄留者であることを告白して」いることを意味します(ヘブル11:13)。 “マルコ8章1〜21節「主がともに歩んでくださる人生」” の続きを読む

ネヘミヤ3章〜4章「祈りつつ、助け合いつつ、備えつつ」

2011年12月11日

聖書では、安息日の教えから始まって、季節ごとの様々な祭りなど、休むことが神の前での義務とされている日々が数多くあります。長い人生を短距離走のように走り抜けようとすると、自分の身にも周りにも様々な害を及ぼします。しかし、人生には多くの人々とともにビジョンを共有しつつ助け合って果敢に行動すべき時があります。しかも、そのような時には、必死に働きを妨害しようとする勢力も生まれますから、それに対する備えも必要です。そして、すべての基礎に、神への祈りが必要です。 “ネヘミヤ3章〜4章「祈りつつ、助け合いつつ、備えつつ」” の続きを読む

マルコ7章24〜37節「エパタ(開け)」と言われた主

2011年12月4日

フェイスブックの中で、ある方が「3・11は‎とっても辛いことだけど、3・11を経て友だちになった人たちが結構いる。3・11がなかったらきっと他人でしかなかっただろう。そういう意味ではともて不思議で奇妙な感覚だ。3・11後にできた友人たちは、悲しみの中で生きる意味を教えてくれる。僕はあなたに会えて本当によかったです」と書いているのに、妙に納得できました。 “マルコ7章24〜37節「エパタ(開け)」と言われた主” の続きを読む

ネヘミヤ1章〜2章「神の恵みの御手が働くとき」

2011年11月27日

私たちの人生は、なかなか思い通りには進みません。そのような中で、多くの信仰者は、伝道者の書の3章に、「すべてには季節があり、天の下のすべての営みには時がある・・崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある・・・求めるのに時があり、失うのに時がある・・黙るのに時があり、話すのに時がある・・私は見た…神がすべてをご自身の時に美しくしておられるのを」(1-11私訳)(新改訳「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」)と記されていることに慰めを見出しています。 “ネヘミヤ1章〜2章「神の恵みの御手が働くとき」” の続きを読む

マルコ7章1〜23節「人から出て来るものが、人を汚す」

2011年11月20日

多くの宗教には何らかの戒律があります。イスラム教では豚肉を食べずお酒も飲みません。モルモン教徒はカフェイン飲料を飲みませんし、エホバの証人は輸血を拒否し、格闘技をしません。それは異教徒のとの区別を明らかにして、信仰共同体の一致を保つ上で大きな力となります。それに対して、正統的なキリスト教会ではあまり目に見える戒律や規則のようなものはありません。しかし、それでも、ときにこの世の常識との分離をどのように明確にするかということが課題になります。 “マルコ7章1〜23節「人から出て来るものが、人を汚す」” の続きを読む

エズラ9章〜10章「この世と調子を合わせてはいけません」

2011年11月13日

私たちは今、新しい会堂の候補地を探していますが、物件が少ない中、予算と敷地面積から可能性のあるのは、競輪場の隣接地と、立川駅南口の場外馬券場を経由するのが近道という場所です。この数ヶ月、様々なご意見も聞きながら本当に悩んできました。 “エズラ9章〜10章「この世と調子を合わせてはいけません」” の続きを読む

マルコ6章45〜56節「わたしだ。恐れることはない」

2011年11月6日

私たちは奇跡に包まれて生きています。宇宙の広がり自体が驚異です。研究が進めば進むほど、わかっていなかった世界が増えてゆきます。また私たちの身体や、脳細胞自体が不思議です。なぜ心臓が休みなく動き続け、また、なぜこの脳にはこれほどの想像力があるのでしょう。科学の発展にしたがって、未知の分野は急速な勢いで増えています。それからしたら、アヒルが水の上を歩くように泳ぐことなど何の不思議でもありませんが、ましてイエスが湖の上を歩いたからと言って何の不思議がありましょう。これを理解できないのは、この宇宙の創造の神秘や人間の身体の神秘を、心から味わってはいないからではないでしょうか。 “マルコ6章45〜56節「わたしだ。恐れることはない」” の続きを読む

エズラ7章〜8章「私たちの神の御手が私たちの上にあって……」

2011年10月30日

今回の箇所には6回にわたって、「主 (ヤハウェ) の御手」または「神の恵みの御手」の守りが様々な形で表現されています(7:6、9、28、8:18、22、31)。しかも、そこでは「主 (ヤハウェ) の御手」がエズラの上にあったからこそ、ペルシャの王がエズラの働きを全面的に応援し、保護したというように記されています。神の御手による守りと、異教徒の王の保護は、まったく矛盾せずに描かれます。 “エズラ7章〜8章「私たちの神の御手が私たちの上にあって……」” の続きを読む