詩篇91篇「危険に満ちた人生の中で」

2012年9月2日

私たちの人生は、日々、いろんな危険に満ちています。そのような中で、不安な要素を一つひとつ数え上げると、外に出ることさえできなくなるかもしれません。事故で首から下が動かなくなった星野富弘さんは、以下のような詩を、きびしい自然の中で育つ美しい紫色の花を咲かせる高山植物の「おだまき」の絵とともに記しています。

いのちが一番大切だと思っていたころ
 生きるのが苦しかった。
 いのちより大切なものがあると知った日 
 生きているのが嬉しかった

そして、これと対照的な詩が、母豚と四匹の子豚とともに描かれています。

何だってそんなにあわてるんだ。 
 早く大きくなって何が待っているというんだ
 子豚よ そんなに急いで食うなよ  
 そんなに楽しそうに 食うなよ

詩篇91篇はその前の詩篇90篇と関係が深いと言われます。両方とも、主を自分の「住まい」と告白しているからです。私は、葬儀の時に必ずと言って良いほど、詩篇90篇を読みます。そこには、「あなたは人をちりに帰らせて言われます」と記されながら、人生のはかなさが描かれています。そして、その後、詩篇91篇を読むと、とっても嘘っぽく感じられることがあります。なぜなら、そこには、主が私たちをあらゆるわざわいから守ってくださると書いてあるのに、実際は、みな最終的には守ってもらえなくて死んだとも思えるからです。

しかし、それこそ、サタンの誘惑であるとわかって、詩篇91篇をもっと素直に味わうべきだと示されました。イエスは、ヨルダン川でバプテスマを受けられた後の公生涯の始まりにサタンの誘惑を受けられました。そのうちの一つは、悪魔がイエスをエルサレム神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい」と言うものでした。その際サタンは、詩篇91篇11、12節のことばを用いて、「神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにされる」と書いてありますから、と言いました。

イエスは「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてあると、申命記6章16節のみことばをもって応答し、その誘惑を退けました。

多くの人は、自分がわざわいに会ったり、身近な人が悲惨な死を迎えたような時、「神がおられるなら、なぜ……」と問いたくなります。そして、ときには、「神がおられるなら、目の前からこの困難を取り除いて見せてください。そうしたら、私の信仰は堅くなりますから……」などと、主を試みるようなことを言ってしまいます。しかし、私たちに求められていることは、何よりも、今ここで、主が与えて下った人生の使命を生きることです。

自分の人生の意味を考えようともせずに、食べるために働くような生き方は、豚と同じです。そればかりか、星野富弘さんも言っているように、自分の人生を自分で守ろうとしていると、生きることが苦しくなってしまいます。しかし、いのちよりも大切なものがあると知って、神が与えてくださった使命のために自分の命を差し出すときに、生きているのが嬉しくなります

多くの信仰者は、詩篇91篇を、使命のために自分の命を危険にさらすような中で心から味わっています。ある方は、何度も命の危険にさらされるようなところに出向きながら、「私は大丈夫です。神様が、『お前は、もう生きなくても良い……』と言われない限り、私は決して死ぬことはないのだから……」と言っておられました。

私たちのいのちは、神のみ許しがなかれば決して失われることはありません。あなたのいのちを守るのは神の責任であられ、あなたの責任は、神のみこころであるならば、いのちの危険をも冒すことです。

それは決して無謀なことではありません。少なくとも、キリスト教の結婚式では、夫は妻に対して、「あなたを守るためなら、命も賭けます」という趣旨の約束が求められています。実際、いざとなったら、自分を捨てて逃げそうな人と、誰が結婚したいと思うでしょう。

しかし、そうは言っても、みな、わざわいに会うのは、怖いですし、会いたくないのが人情です。だからこそ、神の徹底的な守りを保障しているこの詩篇は、豊かな人生を生きたいと願う者にとってはかけがえのない詩篇になるのです。

1.「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる」

1節は、「いと高き方の保護 (shelter) のもとに座る者は、全能者 (シャダイ) の陰に宿っている」と訳すことができます。「いと高き方」とは、神がこの地のはるか高くにおられて、全地の王としてこの世界を治めていることを示す神の呼び名です。

私たちが聖書の神を自分にとっての王、また保護者として告白するときに、その人は不可能を可能にすることができる「全能の神」(エル・シャダイ) の御守りの中に生きていることを告白していることになります。

そのような中でこの詩篇作者は、主 (ヤハウェ) に向かって「私の避け所、また、とりで、信頼している私の神」(2節) と告白します。私たちは自分で自分を守るように小さいときから訓練をされていますが、最も核心的な部分では無意識的な信頼感がなければ電車に乗ることも、飛行機に乗ることもできませんし、人ごみの中に出ることもできません。

私たちは基本的に、いつも何かに信頼しながら生きています。たとえば、郵便局に自分のなけなしのお金を預けることだって同じです。しかし、経済学的に考えると、たとえば十年後や二十年後に、郵便局に預けたお金の価値が変わることなく戻ってくることを期待することは、まるで奇跡を信じることと同じかもしれません。何しろ、郵便貯金のほぼすべては国の借金の穴埋めに使われています。そして国家財政はすでにいつ破綻しても不思議ではない状態です。

これは、群集心理のなせるわざです。みんなと同じ行動を取っていることに不思議な安心感が生まれています。私たちは、もっと自分がどなたに信頼するかを意識する必要があります。

みんなと一緒であれば沈没の可能性が高い船にさえも乗ることができるかもしれませんが、そこにある安心感は幻想に過ぎません。私たちは、「光があれ」という一言で (創世記1:3)、光を創造された全能の神に信頼するように召されているのです。

その上で詩篇作者は、自分の体験から隣人に向かって、「まことにこの方が、あなたを救い出してくださる」と、「私の神」のことを紹介します (3節)。そして、その救いを具体的に、「仕掛けられた罠から、また、恐ろしい疫病から……」と付け加えます。

私たちが何か積極的に人々を動かすような働きをするときに、必ずと言って良いほど、足を引っ張る人が出てきます。そのような人はリーダーシップを取ろうとする人に罠を仕掛け、その人を追い落とそうとします。

私たちはそのような工作に注意を払う必要がありますが、あまりそれを気にし過ぎても、人との協力関係を築くことはできません。私たちはそこでは、何よりも、そのような罠を無効にしてくださる神に信頼するのです。

そして、「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。その翼の下にあなたは身を避けている」(4節) と約束されますが、これは親鳥が嵐や火災の中で自分の羽を広げてヒナを守っている姿です。たとえば昔、丸焼けになった親鳥の羽の下からヒナが飛び出てくるというようなことがありました。

またルツ記で、ボアズは呪われた民であるモアブの娘のルツに向かって、「あなたがその翼の下に避け所を求めてきたイスラエルの神、主 (ヤハウェ) から、豊かな報いがあるように」(ルツ2:12) と語り、また、ルツはナオミの指示に従って、夜ひそかにボアズの寝床を訪ね、「あなたのおおい(翼)を広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから」(同3:9) と願います。

ルツは当時の常識では、イスラエルの神の保護を求める資格のない女でしたが、主はご自身の翼の下に救いを求めてきた者を退けることはないというのです。

なぜなら、罪の根本は、自分を神として、主の競争者になろうとすることだからです。主は、あなたがご自身の御翼の陰に身を避けてくるのを待っておられます。

その上で、「主の真実は、大盾であり、丸盾である」と告白されます。「大盾」とは体全体を覆うことができるような防具であり、その陰に隠れる時に矢を恐れる必要はありません。しかし、敵に囲まれているような中では、もっと身動きに手軽な「丸盾」が有効です。「主の真実」は、そのようなあらゆる敵の攻撃からあなたを守る盾なのです。

英語の有名な讃美歌に、「Great is Thy faithfulness」(Ⅱ讃美歌191「主のまことはくしきかな」) がありますが、私たちは朝毎に、神が私たちの人生を守り通してくださるという真実をほめたたえ、世の荒波に向かうことができます。

そのような中で、この著者は、「夜の恐怖も、昼に飛び来る矢も、あなたは恐れない。また、暗やみを歩く疫病(ペスト)も、真昼に襲う滅びをも」(5、6) と告白します。

現代の日本では、夜の恐怖も昼の戦争も疫病も、心配する人は、あまり多くいはいないかもしれません。しかし、最後のことばは、「真昼の悪魔」と訳されることもあります。これは私にとっても恐ろしい敵です。それは何とも言えない倦怠感として現れることがあります。それは、「こんなことを続けていて何になるのだろう……自分の働きなど、あってもなくても同じだ……こんな人生は無意味だ……」と思えてしまうような気持ちです。人によってはそのために、新たな興奮を求めて放蕩に走ったり、また、反対に自殺を考えたりします。

結果が出ても出なくても、目の前の課題に誠実に取り組むためには、「主の真実」を、繰り返し思い起こす必要があります。その際に大切なのは、しばしば、主の前に少しの間でも静まって、心と身体を休めることです。五分でも全身の力を抜いて休むことができたら、再び気力が湧いてくるということもあります。

「千人があなたのかたわらに、万人が右手に倒れても、あなたに、それは近づかない」(7節) とは、先の「疫病」や「滅び」の犠牲者となる人があなたの回りに満ちるようなことがあっても、「あなた」に関する限りは、それらの攻撃から守られているという意味です。ここでは「あなたに」ということばが強調されています。

そして、「ただ、あなたの目でそれを眺めるだけだ」(8節) とは、あなた自身に対する攻撃に対して、神が盾となってくださることを、あなたがその目で見るという意味です。攻撃は見えても、被害を受けることはないのです。

なお、「悪者への報いをあなたは見る」とは、周りの人々の苦しみを、「あいつは自業自得で苦しんでいる」と軽蔑するような意味合いではなく、神に信頼することを知らず、神に守っていただけない人の悲劇を悲しみつつ見るという意味合いとも考えられます。

それと対照的に、あなたが守られている理由が、「それはあなたが、私の避け所である主 (ヤハウェ) を、いと高き方を、住まいとしたからである」(9節) と告白されます。

この主を「住まいとする」と言う表現は、詩篇90篇1節にもある珍しい表現です。それは、私たちの地上のいのち、日々の生活が、神の御手の中に守られていることを覚える生き方です。

そこにはもちろん、この肉体の命の終わりをも指す概念です。それはパウロが、「私たちは、神の中に生き、動き、存在しているのです」(使徒17:28) と言ったような生き方です。

2.主は御使いたちに命じ、すべての道で、あなたを守るようにしてくださる

「わざわいは、あなたにふりかからず、伝染病も、あなたの天幕に迫りはしない」(10節) とは、6、7節を言い換えたものです。「疫病」「滅び」「わざわい」「伝染病」は原文でそれぞれ異なった言葉が用いられていますが、基本的には同じような意味で、人間のコントロールを超えたあらゆる種類のわざわいを指します。

しかし、現実には、津波も伝染病も、人を選ばずに襲ってくるようにしか見えません。しかし、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:29、30) とあるように、私たち一人ひとりは、神の前に「十把一絡げ」のような存在ではなく、ひとりひとりその名を持って呼ばれている高価で尊い存在です。仏教的な運命論的なあきらめで自分の人生を見てはなりません。

実際、先にあったように、一万人の人が死ぬ中で、一人が助かるということもあります。その時、「たまたま運が良かった……」というのではなく、神によって守っていただいたと考えるべきなのです。

もちろんそれを反対に、わざわいに会ったのは、神の罰を受けたからとか、神に見捨てられたからだなどと、他人の人生を軽々に判断することは差し控えなければなりません。神は、どんな大天災の中でも、あなた一人のいのちに関心を持っておられます

そのことが、「なぜなら、あなたのために主は御使いたちに命じ、すべての道で、あなたを守るようにしてくださるから。その手の平で、彼らはあなたを支え、あなたの足が石に打ち当たらないようにする」(11、12節) と記されます。

これは先に述べたように、イエスが荒野の誘惑でサタンから投げかけられたみことばです。イエスは何の罪も犯していないのに、死刑判決を受け、忌まわしい十字架にかけられて殺されました。しかもイエスは、十字架上で、「わが神、わが神。どうして、わたしをお見捨てになったのですか」と、沈黙しておられるように見える神に訴えました。

しかし、イエスは確かに、神の御手に包まれながら十字架にかかって行かれたのです。

事実、イエスがゲッセマネの園で、苦しみ悶えて祈っておられた時、「御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた」(ルカ22:43) と記されています。

また、イエスが捕えられた時、ペテロは剣を取って大祭司のしもべに打ちかかりましたが、そのときイエスは、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それともわたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか」(マタイ26:52、53) と言われました。神は確かに御使いを遣わして私たちを守ってくださる方なのです。

神は、ご自身のしもべを徹底的に守り通すことがおできになると信じるところから、非暴力の覚悟が生まれます。すべての戦争は、自己防衛の名のもとに行われることを忘れてはなりません。残念ながら、しばしば最も有効な防衛の方法は先制攻撃だからです。

イエスは当時のユダヤ人たちが武力によってローマからの独立を勝ち取ろうとしている中で、「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい……あなたに一ミリオン行けと強いる者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい」(マタイ5:39、41) と言われました。

イエスはそのとき、ダニエルの三人の友人が燃える炉の中に投げ込まれながらやけど一つ負わずに救い出されたこと、また、ダニエルがライオンの穴に投げ込まれながら、無傷で出てくることができたことを、人々に思い起こさせようとしておられたことでしょう。

なお、「獅子とコブラをあなたは踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう」(13節) ということばは、詩的な表現で、私たちがあらゆるわざわいから守られるばかりか、攻撃をしかけてくる恐ろしい獣を、完全に服従させることができるという意味です。

イザヤ11章では、救い主が実現してくださる平和の世界を、「小さい子供がこれ(若獅子)を追って行く」「乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる」と描いています (6、8節)。

そして、私たちは今既に、「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのこと(患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣)の中にあっても、圧倒的な勝利者とされている」(ローマ8:37私訳) と言えるからです。

私たちは被害者意識や自己憐憫に流れることを注意しなければなりません。人生に危険や苦しみはつきものです。私たちが何よりも考えるべきは、それを避けること以上に、その中でどのように生きるかということです。

ファニー・クロスビーという米国の賛美歌詩人は、生まれて間もなく失明しました。母は必死に癒しを求めて祈りつつ様々な手を尽くしましたがかないませんでした。祖母はそれに対し、「必死に祈っても主が与えてくださらないことは、あなたが持たない方が良いことなのですよ。神はご自身の働きのために聖別するために、この子が盲目になるのを許されたのです」と言いました。

そして、ファニーは人生の終わりに、「私は盲目であるがゆえに、いつもすばらしい夢を持ち続け、また目の前の人の最も美しい眼差しを意識しながら生きてくることができた」と、神に感謝しました。実際、彼女の書いた美しい詩の数々は、盲目とセットに与えられたヴィジョンに満ちています。

彼女は自分が盲目であることを卑下することなく、神に愛され守られている者としての誇りを持って生きたのです。

3.「わたしの救いを彼に見せよう」

14節からは神の語りかけに変わります。そこではまず、「彼がわたしを恋い慕っているから、彼を助け出そう。彼を高く上げよう。わたしの名を知っているから……」と記されています。この「恋い慕う」という動詞は、「主 (ヤハウェ) があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは……」(申命記7:7、拙著のタイトル)などと言われるときの言葉で、感情的な結びつきを伴った愛情の表現です。

これと似た表現では「すがる」ということばもあります。これは、「私はあなたなしには生きて行けない」と言うような意味です。

私たちはどこかで、立派な信仰者とは、人の手をわざらわせず、いつでもどこでも、人の援助者として生きられるような自律した人間になることと思っていないでしょうか。しかし、神が喜ばれる信仰とは、「私は神様なしには生きて行けません!」と告白し続けることなのです。

そのように神を恋い慕い、神にすがる人に対して、「わたしを呼び求めれば、彼に答えよう。わたしは、苦しみのときに彼とともにいる」(15節) と約束してくださいます。

ここでは、私たちが苦しみに会うということが前提とされています。多くの人は、「神がおられるならなぜ、このような悲惨が起きるのか……」と問いますが、それに対する明確な答えは聖書のどこにも記されていません。

たとえば、パリサイ人は社会的にはとっても信頼できる人でした。しかし、彼らは、人生をすべて原因結果で考えてしまいました。もちろん、私たちのすべての行動には何らかの結果が伴いますから、いつでもどこでも、原因結果の関係を考えることは大切です。それが分かっていない人は人を振り回し、人に迷惑をかけてしまいます。

しかし、それよりもはるかに大切なことは、神が私たちの祈りを待っておられ、神がこの私一人の人生に深い関心を持っておられ、私と共に歩んでくださっていることを知ることです。

私たちが自分の決断で選ぶことができる分野というのは驚くほど少ない領域に過ぎません。親は子供を育てる時、すべての環境を整えてあげた上で、そこで子供ができた些細なことを大げさにほめて自信を持たせるというプロセスを経ます。

大人の目には、子供が自分でやっている部分はほんの小さいことですが、子供は世界を自分でコントロールできたような気になっています。

大人になるとは、自分が決して自分の力で生きているわけではないということを心の底から悟り、神と人とに感謝できるようになることです。それにしても、神は私たちの些細な祈りを聞いてくださることによって、私たちのすべてのいのちが神の御手の中にあることを知らせようとしておられます。

そのことが引き続き、「わたしは彼を救助し、誉れを与えよう。長いいのちで彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見させよう」(16節) と記されています。この詩篇では、同じ概念を様々な異なったことばで表現しています。

神は、それを通してご自身が私たちの歩みに目を留めておられるということを知らせようとしておられます。

「神について知る」ことと、「神を知る」ことは決定的に違います。信仰の基本は、神との個人的な関係です。神がこの私一人に目を留めておられるということを知ることです。

もちろん祈りは、アラジンの魔法のランプのようなものではありません。信仰生活が長くなるにつれ、自分の祈りがまったく届かないと思える現実は多くなるものです。

しかし、そのようなとき支えになるのが、「あの苦しみの中で、神は私を助けてくださった」という生きた記憶です。そして、「私の願いはかなわなくて、かえってよかった」と思えることさえ出てきます。そのとき、私たちは神との生きた交わりの中で、自分の願いではなく、神の願いが何かを知るように導かれているのです。

詩篇91篇は、私たちが困難の中に自分を差し出すときの祈りです。アメリカの軍隊では、希望者に聖書全巻が無料で配布されますが、その第一ページ目は、創世記ではなく、この詩篇でした。軍人は国や家族を守るために自分の身体を危険の中に差し出すことが求められています。それはとっても恐ろしいことです。戦争は絶対に避けるべきだと言っても、歴史を見るとわかるように、国を守るために戦わざるを得ないときが起きて来ました。

そこで何よりも励ましになるのがこの詩篇です。人生の荒波に向かう人に必要な励ましと慰めが、ここに記されています。