エズラ7章〜8章「私たちの神の御手が私たちの上にあって……」

2011年10月30日

今回の箇所には6回にわたって、「主 (ヤハウェ) の御手」または「神の恵みの御手」の守りが様々な形で表現されています(7:6、9、28、8:18、22、31)。しかも、そこでは「主 (ヤハウェ) の御手」がエズラの上にあったからこそ、ペルシャの王がエズラの働きを全面的に応援し、保護したというように記されています。神の御手による守りと、異教徒の王の保護は、まったく矛盾せずに描かれます。 “エズラ7章〜8章「私たちの神の御手が私たちの上にあって……」” の続きを読む

マルコ6章30〜44節「主は羊飼いのようにその群れを飼う」

2011年10月16日

イエスは四十日間の断食の後、石をパンに変えるようにという悪魔の誘惑に対し、「人はパンだけで生きるのではない・・」(マタイ4:4)と言われましたが、これほど誤解されているみことばもありません。人によっては、「では、かすみを食って生きろというのか・・」とさえ言うことさえあります。 “マルコ6章30〜44節「主は羊飼いのようにその群れを飼う」” の続きを読む

詩篇44篇22〜26節「圧倒的な勝利者としての確信への道」

2011年10月9日

福島原子力発電所の事故以来、放射能漏れの影響は留まるところを知らないかのようです。みなが心を合わせて祈っているのに、神は沈黙を続けておられます。しかし、ふと、「主よ。なぜ眠っておられるのですか」という祈りを思い起こし、逆説的な慰めを受けました。それは、未曾有の悲惨の中で、神の沈黙に戸惑いながら、なお、神に信頼し続けた多くの信仰の先輩を思い起こしたからです。 “詩篇44篇22〜26節「圧倒的な勝利者としての確信への道」” の続きを読む

エズラ4章〜6章「神の目が注がれることの幸い」

2011年10月2日

キリスト教会は、しばしば慈善事業や社会奉仕活動に熱心になりすぎることで、信仰における純粋さを失ってきたという面があります。それは働きが評価されすぎることの落とし穴です。そのような教会はしばしば、社会派と呼ばれます。 “エズラ4章〜6章「神の目が注がれることの幸い」” の続きを読む

マルコ6章14〜29節「権力の罠の中で神の前にひとりで立つ」

2011年9月25日

韓国ドラマでは、朝鮮王朝の歴史物語が多くの人気を博していますが、王宮の中での権力闘争や怨念の連鎖を見るときに、「王族に生まれるのも大変だな・・」と思わされます。しかし、そのようなどろどろとした世界は、神の民であったはずのユダヤ人の歴史に中にも見られました。 “マルコ6章14〜29節「権力の罠の中で神の前にひとりで立つ」” の続きを読む

エズラ3章「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう」

2011年9月18日

私たちの礼拝では2004年5月から、創世記1章から駆け足で聖書を解き明かし、聖書の時系列からすればほとんど最後の書に至っています。そしてその中心テーマは、エルサレム神殿の再建です。それはソロモンの神殿に比べれば「無いに等しい」ほどに、ちっぽけなものでした。 “エズラ3章「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう」” の続きを読む

エズラ1章〜2章「わざわいではなく平安の計画の実現」

2011年9月11日

私たちは自業自得でとんでもない苦しみに会うことがあるかもしれません。そこで、「もう、私の人生は終わってしまった……」と落胆しながら、後悔の思いで一杯になることがあります。しかし、そこで神に立ち返るとき、どんな悲惨な中からも、不思議な道が開かれてきます。 “エズラ1章〜2章「わざわいではなく平安の計画の実現」” の続きを読む

マルコ6章1〜13節「神の国の福音の大きさ」

2011年9月4日

私たちはしばしば、「どうして分かってもらえないのだろう!」と悩みます。イエスもご自分の郷里で同じでした。大科学者で神の臨在に感動したパスカルは、「気に障るからこそ、その理由が見つかる・・・心情(le Coeur)は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている・・神を感じるのは、心情であって、理性ではない」と語りました(パンセ276-278)。自分の「心」が自由でなければ、神のみわざが見えなくなります。 “マルコ6章1〜13節「神の国の福音の大きさ」” の続きを読む

ダニエル11章13節〜12章13節「神の公平なさばきを期待した歩み」

2011年8月28日

「正直者がバカを見る」ような世界、言葉巧みにうまく立ち回る人ばかりが評価される世の中は、誰もが嫌だと思いますが、現実はなかなか期待通りには動きません。それどころか、とんでもない邪悪な人間が権力を握ることがあり、神の民を苦しめるときがあります。ダニエル書は、そのような世界の不条理に対する答えとして記されています。そして、神の公平なさばきの現れこそ、キリストの復活です。キリストの十字架は、サタンの勢力の勝利と見られました。しかし、神はキリストを死者の中からよみがえらせました。 “ダニエル11章13節〜12章13節「神の公平なさばきを期待した歩み」” の続きを読む

マルコ5章21〜43節「あきらめないで、信じ続ける」

2011年8月21日

日本語の「諦める」には、「諦めの境地」などと言われるように英語などには訳しきれない美しさがあります。「諦める」の本来の意味は「明らかにする」ことのようです。そこには、「自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念するというプロセスがあれば、悔い、怨み、愚痴が残らない。それが諦めるである」という思いが込められているようです。 “マルコ5章21〜43節「あきらめないで、信じ続ける」” の続きを読む