ホセア13章〜14章「いのちの喜びの復活」

2013年2月3日

ポール・トゥルニエというスイスのクリスチャンの精神科医は、あるカトリック教会の司祭が、「私たちの教会に、意気消沈していて一人前の大人になり切っていない人が、これほどたくさんいるのは、いったいどこに原因があるのでしょう」と尋ねに来たとき、自分たちの教会も「過半数は生気がなく、もの悲しげで疲れた心の持ち主によって占められています」と答えざるを得ませんでした。

トゥルニエは、キリスト教信仰がしばしば道徳主義に陥って、人の生きる力を否定する方向に働くということに心を痛めていました。彼は、多くの信仰者が「自分に課せられた義務を果たすことに失敗するとそのたびに罪意識を経験する」と言いながら、それは娼婦が客を見つけることができないときに感じる罪意識と基本的に変わりはしないと指摘します。

実際、あらゆる失敗が罪意識を引き起こします。それは失敗が私たちの弱さや無力、人間の限界などをむき出しに自覚させるからです。そして、キリスト者には、しばしば、失敗を避けることで自分を神の前に肯定しようとする誘惑が働きます。みなどこかで、良い人間と見られることが、信仰者の証しだと思い込んでいるからです。

しかし反対に、そのようにあらゆる失敗を避けようとして、人生に臆病になり、世界の問題から目を背けてしまうことこそが、聖書が語る罪の根本なのではないでしょうか。

また、無神論哲学者ニーチェは、「神とは、『あなたは考えてはならない!』とわれわれに向けて発せられた一つの大づかみな禁止令にすぎない」などと、信仰者の臆病な姿勢を批判しました。

そのように失敗を恐れる信仰、自分の頭で考えて責任を持って行動しようとしない信仰には、いのちの喜びがありません。

信仰の醍醐味とは、主にあって大胆にチャレンジし、失敗するたびに主に問いかけ、再び主の力を受けて、また大胆に出てゆくことです。主が創造的であるように私たちも創造的な生き方ができます。

信仰の核心とは、いのちの喜びです。主はその喜びを繰り返し復活させてくださいます。

1.「彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」

13章1節では、北王国イスラエルの中心部族であるエフライムの歴史が描かれていますが多くの英語訳では、「エフライムが語ったとき、そこにはおののきがあった。彼はイスラエルの中であがめられた。しかし、彼はバアルにより罪を犯して死んだ」と訳されています。

つまり、エフライムはかつてイスラエルの民の中で尊敬されていましたが、バアルを礼拝することで自滅したというのです。

そして、その後のことが、「彼らは今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。これはみな、職人の造った物」と、自分の手で神々を造ることの愚かさが指摘されています。

なお、2節の最後で人々によって語られる言葉は、多くの英語訳では、「人間のいけにえをささげる者は、子牛に口づけせよ」と訳されています。バアル礼拝には人間の子供をいけにえとしてささげるというおぞましい習慣がありました。彼らはそれほど残虐なことを行ないながら、それを要求するという金の子牛をくちづけして礼拝するようなことをしていたのです。

その結果が、「それゆえ、彼らは朝もやのように、朝早く消え去る露のように、打ち場から吹き散らされるもみがらのように、また、窓から出て行く煙のようになる」と、彼らの存在価値がどんどん軽くなると描かれます。

そして、主(ヤハウェ)とエフライムとの関係を、主ご自身が、「しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主(ヤハウェ)である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた」と描いてくださいました。ここでは、「わたし」ということばを重ねながら、「わたしは知っていた」とご自身の主導権を強調しています。

彼らは自分の力で豊かになったように誤解していますが、主ご自身がエジプトで苦しめられていたエフライムに目を留め彼らの神、救い主になり、彼らをエジプトから連れ出し、荒野の旅路で、パンや水を与えながら、養い育ててくださったのです。

なお「知る」ということばは聖書では親密な交わりを築くことに用いられます。6章6節で主は、「わたしは誠実を喜ぶ…全焼のいけにえよりも、むしろ神を知ることを喜ぶ」と言われましたが、主はご自分の方から私たちを知っていてくださいました。

ところが、彼らは神にますます感謝するどころか、「しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」(13:6)というのです。8章14節でも、「イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた」と描かれています。

申命記8章11-18節では、彼らが約束の地に招き入れられたときに起こる誘惑のことが、「あなたの心が高ぶり、あなたの神、主(ヤハウェ)を忘れる、そういうことがないように・・・あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)を心に据えなさい」と警告すると同時に、主のご自身の契約に対する真実さを「主があなたに富を築き上げる力を与えられたのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである」と強調されています。

彼らが約束の地において「祝福」を体験できたのは、ひとえに神がご自身の契約に忠実であられたからであり、そこに彼らが誇ることができる理由は何もなかったというのです。

ところで、主の契約には、「のろい」の警告が生々しく描かれていました。申命記28章15節~68節には、イスラエルの民が神の恵みを忘れる時にどのようなわざわいが下るかが、非常にリアルに描かれていました。

そして、ここでは彼らを襲う災いの様子を描くにあたって、アッシリヤ帝国を三種類の野獣にたとえながら、その背後に主ご自身がおられることを、「わたしは、彼らには獅子のようになり、道ばたで待ち伏せするひょうのようになる。わたしは、子を奪われた雌熊のように彼らに出会い、その胸をかき裂き、その所で、雌獅子のようにこれを食い尽くす。野の獣は彼らを引き裂く」(13:7,8)と記しています。

エフライムをこの残虐な野獣の手から救い出せるのは主ご自身しかいないはずなのですが、主ご自身が野獣のようになるなら、誰も彼らを救い出すことはできません。そのことが、「イスラエルよ。わたしがあなたを滅ぼしたら、だれがあなたを助けよう」(13:9)と描かれます。

13章10、11節は、北王国イスラエルのことではなく、初代イスラエルの王サウルが立てられたときの、神とイスラエルの民との会話を思い起こさせるもので(Ⅰサムエル8章)、主は、「あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか・・・あなたがかつて、『私に王と首長たちを与えよ』と言った者たちは。わたしは怒ってあなたに王を与えたが、憤ってこれを奪い取る」と言われます。

かつて主は、王制の導入を求める民の忘恩に悲しむサムエルに向かって、「それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのである」と言われつつ、周辺諸国と同じような王制を望むことは主ご自身がイスラエルの王であるという前提を退けることであると「怒って・・王を与え」ましたが、同時に、「ただし彼らに厳しく警告せよ」と言いながら、これからは王の気まぐれと自己中心性によって、イスラエルの民自身が苦しむことになると警告しました(Ⅰサムエル8:7-9)。

そして、今ここでは、主が「憤って」彼らから王を「奪い取る」ということが、王国自体が滅亡することであると記されます。

私たちは人々の期待に沿った行いができないことを「罪」と思ってしまいがちです。しかし、聖書の語る罪とは、何よりも、神の恵みを忘れて、自分の能力と力によって成功できたと傲慢になることなのです。

主はエフライムの問題を「彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」(13:6)と指摘しています。忘却こそが罪なのです。何かの大きな働きを成し遂げて、人々から称賛されることよりも、主の恵みの一つ一つを忘れないことこそが信仰の基本なのです。

2.「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか」

12,13節では、エフライムの再生が、子供の誕生にたとえられながら、「エフライムの不義はしまい込まれ、その罪はたくわえられている。子を産む女のひどい痛みが彼を襲うが、彼は知恵のない子で、時が来ても、彼は母胎から出て来ない」と描かれます。これは、エフライムが自分の不義や罪を見ることも反省することもないので、主がそのことを取り扱うことができなくなっている状態を指します。

本来なら、罪がもたらした結果の様々な痛みに向き合うことで、そこから主への祈りが起きるはずなのですが、そうならないため、問題がますます複雑に絡み合い、子供の誕生にたとえられる主の「脱出の道」が備えようがなくなっているのです(Ⅰコリント10:13)。

主は後に預言者エレミヤを通してユダの宗教指導者の問題を、「彼らは、わたしの民の傷を手軽に癒し、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」と指摘していますが、その同じ状態がエフライムにも見られたというのです。

14節のことばは、多くの訳では、「わたしはよみの力から、彼らを解き放つだろうか。彼らを死から贖うだろうか」という反語的な問いかけと理解されています。これはエフライムの民が、主が無力であり、彼らを救うことなどできないと思い込んでいることに対し、主は、もし望みさえすれば、彼らをよみの力からも、死からも救い出すことができるのに、彼らはそれを求めようとしないと嘆いているという意味だと思われます。

その上で、主はご自身の救いの力に関して、「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか」と問い、主ご自身が死とよみの力に打ち勝つことができることを宣言していられます。

ただ同時に、主は、「あわれみはわたしの目から隠されている」と言いながら、彼らが主に立ち帰ろうとしないので、あわれみようがないと嘆いておられます。

なお、上記のみことばを用いてパウロは、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よおまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」と宣言しています(Ⅰコリント15:55-57) 。

そこでは、ホセアからの引用を、基本的な意味を変えることなく読み替えています。それは、その前の節で、イザヤ25章8節を引用しつつ、「『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します」と記されていることとの連続性を明らかにするためです。

初代教会時代から迫害の中で福音が広がったのは、信仰者がキリストにあってすでに死の脅しに打ち勝っている姿が明らかになっていたからです。

なお、死人の復活については、日本語での「よみ」から「帰る」という「よみがえり」とは違います。福音の奥義に関してパウロは先のみことばに先立って、「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです」(同15:52,53)と述べています。

ヘンデル作曲のメサイアでは、第二部の終わりにハレルヤ・コーラスが歌われますが、第三部の中心ではこの復活賛美が美しいトランペットの音色と共に歌われます。これこそ、私たちの真の希望です。

キリストは私たちを死の支配から解放してくださいました。復活とは、私たちが日々の生活で体験することでもあります。私たちは、様々なプレッシャーのなかで、とんでもない間違いを犯したり、また、言ってはならない言葉を吐いてしまうことがあります。

しかし、自分の過ちに気づき、それを主に告白し、主の助けを求める者は、日々新しくなることができます。そのことを使徒パウロは、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント4:16)と記しました。

そして、最終的な復活に至るプロセスが、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、主の栄光を鏡に映すように見ながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)と記されています。

3.「わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得る」

13章15,16節では、主の招きを拒絶したエフライムに対するさばきが、「彼は兄弟たちの中で栄えよう。だが、東風が吹いて来、主(ヤハウェ)の息が荒野から立ち上り、その水源はかれ、その泉は干上がる。それはすべての尊い器の宝物倉を略奪する。サマリヤは自分の神に逆らったので、刑罰を受ける。彼らは剣に倒れ、幼子たちは八つ裂きにされ、妊婦たちは切り裂かれる」と描かれます。

これはかつて栄えたエフライムの首都サマリヤが「東風」にたとえられるアッシリヤの攻撃によって滅亡し、想像を絶する悲惨を味わうという警告です。

ただ同時にホセアは、「イスラエルよ。あなたの神、主(ヤハウェ)に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ」(14:1)と、率直に、また単純に、「主に立ち返る」ことを勧めます。これこそホセア書の核心です。

なお、「回心」とは、自分の悪い行いや悪い習慣を変えるということ以前に、人生の方向を変えることです。それは何よりも、主の救いの招きに応答することです。

神はあなたを赦したいと願っておられます。そして、彼らをつまずかせた不義とは、何よりも、自分たちの創造主以外の神々を拝んだり、神のかたちを小牛のような家畜のかたちに置き換え、偶像を神として拝むことです。

神は私たちがご自身のふところに飛び込んでくるのを待っておられます。

その上で、「主(ヤハウェ)に立ち返り、そして言え」と訴えられながら、彼らのなすべき応答が、「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます」(14:2)と記されます。バアル礼拝では、幼児をいけにえとしてささげるような途方もない犠牲が求められましたが、私たちが主にささげることができる最高のささげものとは、賛美のいけにえ、「くちびるの果実」です。

このみことばを前提に、ヘブル書の著者は、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」(13:15)と訴えています。

そして、3節に記されているように、彼らがささげるべき「くちびるの果実」の内容は、第一に、アッシリヤに救いを求めることを止めることであり、第二は「馬に乗る」というかたちでの軍事行動による解決を諦めること、第三は、偶像を造ってそれを自分たちの神として拝むことを止めることです。そして、最後に、主は「みなしご」をはじめとする社会的弱者の味方であることを告白することです。

これらの約束や賛美の内容は何も難しい事ではありません。私たちが何らかの犠牲を支払って、主の愛を勝ち取るのではありません。自分の罪を認め、主の赦しを受け入れ、主の真実により頼むことこそが救いなのです。

使徒パウロはそれを前提に、「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(Ⅱコリント5:20)と記しています。

4-7節は、主がイスラエルを一時的に懲らしめることによってもたらそうとしておられる救いのみわざです。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない」(哀歌3:33)とあるように、主の懲らしめには豊かな救いの希望があります。

そのことを主は、「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。わたしはイスラエルにはのようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。 その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる」と約束しておられます。

主の救いの豊かさが、生命力に満ちた植物として描かれています。主はご自身が「露のようになる」と言われるのは、雨の少ないイスラエルでは「露」こそが、植物を育てる力になっていたからです。「ゆり」とは、ガリラヤ湖畔などに群生する「あねもね」のように鮮やかな色に咲く小さな花々を指します。それは当地では美しさの代名詞でした。「ポプラ」はレバノンの木とも訳され、根を深く張るために高く伸びる木の代名詞です。「オリーブの木」とは力と繁栄のシンボルです(詩篇52:8)。「レバノンのかおり」と言うのはよくわかりませんが雅歌では、男女を引き寄せる魅力として描かれています(1:3、7:8)。

「彼らは帰ってきて・・・」(7節)以降の表現は、イスラエルの民が約束の地に帰ってきて、そこをエデンの園のような豊かさを享受できることを示しています。

エフライムが熱を燃やしたバアル礼拝は、豊穣を求めてのものでした。そこには、忌まわしいいけにえと性的な堕落や酒に溺れるような享楽がありました。彼らは現在の歓楽街で体験できるような喜びを求めていました。

しかし、神が与えようとしておられる喜びは、美しい野原を駆け巡り、身体全体で生きていることの喜びを味わえるようなことであり、神は私たちをエデンの園にあった祝福へと招いておられるのです。

主は、私たちがいのちの喜びを味わうことができるようにしてくださいます。信仰の実は、何よりも生命力に満ちた繁栄として描かれます。

14章8節は、主の優しい語りかけとして、「エフライムよ。わたしは偶像と何のかかわりがあろうか」と訳すことができます。

そして、そこでは主ご自身が愛に満ちた関わり方が、「わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ」と描かれます。主がご自身を「緑のもみの木」として描くのは珍しいことです。これは、主こそが私たちにとってのいのちと力のみなもとになってくださるからです。

9節は、ホセアが結論としてひとりひとりに訴えたいことです。「知恵ある者」「悟りある者」とは、この世で何かの偉大な成功を修める者であるとか、人々から称賛される者であるとかではなく、単に、日々の生活で、「主(ヤハウェ)の道を歩む」者になることに他なりません。しかし、主に背く者は、主の道を歩むことを退屈で窮屈なことととらえ、「つまずく」というのです。

真理は決して難しい事ではありません。いつでもどこでも主の恵みを思い起こし、主に感謝をささげ、主を喜びながら生きることです。いのちの喜びは、主を真心から礼拝することによって生まれます。

律法を守ることに熱心だったパウロが、復活の希望を語るときにホセア書を引用したということに驚きを感じます。主が私たちに求めておられることの核心は、主に繰り返し立ち返ることです。

主がしばしば苦難を与えられるのは、「私は自分の知恵や力によって道を切り開いてきました!」などと言って、主の恵みを忘れて傲慢にならないようにという愛の鞭です。

ただし、謙遜になるとは、委縮することとはまったく違います。すべてが主の恵みによると認めることは、復活の力が自分のうちに働くのに身を任せることです。

キリストはその死によって、死の力を打ち滅ぼしてくださいました。キリストが私たちのうちに住むとは、復活の力が私たちを内側から生かしてくださるということです。

その復活の力とは、植物の成長に似ています。主にあっていのちがはち切れるような生き方を求めましょう。

メッセージをネットでお聞きになっている方が、「ホセア書を読み続け、神様の誠実と真実を思い巡らしました。神さまが、私たちを『恋い慕って』くださっていることを受けとめていく時、『神様、ありがとうございます』という応答がでてきます。この応答にも浅いもの、深いもの、思いがけないあふれ出る気持ち、・・いろいろです。その『愛』というものは、感情だけでなく、行動というか、歩み方にも変化が訪れてきます」と書いてきてくださいました。

ホセア書は、神の愛を、妻に裏切られながらなお、その妻を愛し続ける夫にたとえています。私たちは知らないうちに、信仰の核心とは、この神の愛に応答するということだということを忘れてはいないでしょうか。

良い行いに努めることは、人間として、とっても素晴らしいことです。でも私たちはそうできない自分に失望して神のもとにやって来たのです。

私のすべてを知って、私の帰りを待ってくださる神の愛を味わうことから、すべてが始まるべきです。