マタイ1章18〜25節「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」

2012年12月24日

「親の因果が子に報い・・」というのは、とっても嫌な表現ですが、私たちの生きにくさの一面を言い当てているのかもしれません。たとえば、親から虐待を受けて育った子供は、親になった時、「私は親のようには絶対にならない・・」と願っているのに、同じ過ちを繰り返してしまう・・・ということがあります。依存症も、隔世遺伝すると言われることがあります。それに対して、聖書が語る「罪からの救い」とは、そのような「のろい」の連鎖から解放されることです。人はだれも、親を初めとして、自分の人生の基本的な部分を選ぶことはできませんが、神はそれらすべてを「祝福の基」とすることができる方です。

1.「のろい」を「祝福」に変える救い主

聖書では、私たちの仕事で思い通りの結果を出せず、しばしば徒労に終わり、仕事に生きがいよりも苦しみを感じるようになったのは、アダムが神に背いた結果であると記されています。また、女性の出産の苦しみが厳しくなり、また夫を恋い慕いながら支配されてしまうのは、エバが神に背いたせいであると記されています。残念ながら、人は、多かれ少なかれ、アダムとエバが犯した罪の影響を受け継いでいると言えましょう。

マタイの福音書の最初には、長い系図が記されますが、イスラエルの民の歴史が苦難に満ちたものとなったのは、自分で「のろい」を選び取ってしまったからです。神はかつてモーセを通して「いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く、あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と語りましたが、ダビデの後継者は「のろい」を選び取ってしまいました。

しかし、この系図には、不思議な逆転が示唆されています。ここには、明確な血筋の関係を表す四人の女性の名が登場しますが、それはみな忌まわしい過去を持っています。ダビデはヤコブの第四男のユダの子孫ですが、その系図で「タマル」(3節)は遊女の姿をして義父のユダを欺き、子を設けました。しかし、神は彼女の信仰を見られて、その子を祝福してくださいました。「ラハブ」(5節)は、ヨシュアがエリコ攻撃の前に遣わしたスパイを、命がけで逃したエリコの遊女です。神は彼女の信仰を喜ばれイスラエル人に嫁がせました。「ルツ」(5節)はモアブの女でしたが、その民は十代の子孫さえイスラエルの民の交わりに入れられないはずでした。しかし、神は、彼女の信仰を喜ばれ、ボアズの嫁にしました。そして、その孫としてダビデの父エッサイが生まれます。そして、ダビデの跡継ぎとなったのはソロモンですが、その母はここでは敢えて「ウリヤの妻」(6節)と記されます。ウリヤはユダヤ人ではありませんでしたが、ダビデの忠実な家来になりました。この記し方は、ダビデがその信頼を裏切って、忠実な家来の妻を奪い取ったという罪を明確にしています。しかし、神は、この「のろわれた関係」さえも「祝福」に変え、その関係から生まれたソロモンに最高の知恵と力、富と名誉とを与えてくださいました。

この四人の女性に共通するのは、「のろい」が「祝福」に変えられたということです。血筋の上では「のろい」でしかありませんでしたが、彼女たちはアブラハム契約の中に身を寄せてきた結果として、祝福の基と変えられたのです。キリストが「のろい」を「祝福」に変える「救い主」であるということが、彼女たちの名を通して明らかに示されているのです。

2.「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」

マタイの福音書では、「預言が成就するため」ということばが繰り返されますが、様々な預言書に記されていることの中心は、簡単言うと、目の前にはとてつもない悲惨が見えるけれども、それは神の約束が反故にされたということを意味はしない、この苦しみの後には、すばらしい祝福の世界が広がっているから、それを待ち続けるようにという励ましです。

1章18節では「イエス・キリストの誕生の次第は…」とありますが、ここにはベツレヘムへの旅も、飼い葉おけも、羊飼いも、天の軍勢の賛美もありません。これは誕生の様子を報告する記事ではなく、預言の成就、つまり神の救いの計画が実現したことを描こうとしたものだからです。しかも、「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが」と、マリヤの人柄も信仰も何も述べられずに、ヨセフとの結婚を約束した女性であったことだけが記されます。そして、あり得ないようなこと、「ふたりがまだいっしょにならないうちに・・・身重になったことがわかった」と記されます。厳密には、「聖霊によるものを腹に宿していることがわかった」と記されていますが、「聖霊による子」であることはマリヤにはわかっていてもヨセフにはわかりません。

そこで、「ヨセフは正しい人であって」と描かれますが(19節)、それは神の御教えに忠実な人という意味ですから、自分との関係以外の人の子を宿しているような女性との結婚はあきらめざるを得ないと考えるのが当然でした。そして、当時の正当な手続きとしては、彼女の浮気を祭司に訴え出るという手続きがとられるはずでした。なぜなら、当時の婚約は現在の結婚と同じ拘束力を持っていたからです。律法によればそのような女性は石打ちの刑に処せられるはずですが、当時の慣習としてはふしだらな女として村八分にされるということがありました。ただし、ヨセフは、そのように「彼女をさらしものにはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」というのです。この趣旨は、杓子定規にマリヤの罪を裁こうとするのではなく、彼女が今後もどうにかして生きて行かれることを真剣に「望んだ」という意味だと思われます。

そして、「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れ」ます(20節)。御使いの最初のことばは、「ダビデの子のヨセフ」というものです。当時、普通の人に名字はありませんでしたから、「ヤコブの子のヨセフ」などと、父親の名前をつけて似たような名前を区別しましたが、一介の大工に過ぎないヨセフを「ダビデの子」と呼ぶのは途方もないことです。天使が現れ、ヨセフを「ダビデの子」と呼んだということ自体が、ヨセフにとっては驚きであり、恐れ多いことでした。

その上で御使いは、「恐れないで、あなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」(20節)と言います。つまり、マリヤの胎に子が宿ったのは、神が人智の超えた救いのみわざを実行に移されたからなのです。

そして、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(21節)と言われますが、生まれる前から名を与えられるというのは、神の特別の選びの器であることの証明です。なお「イエス」という名は、当時の結構ありふれた名前でした。それは、へブル語読みにすると「ヨシュア」、モーセの後継者として、イスラエルの民を約束の地に導いた指導者です。

つまり、この場面を通して、マリヤから生まれた子が、見たところごく普通の子として生まれながら、なお、普通の人間にはできない途方もない働き、神の民を導いて、全世界を平和のうちに治めるという働きを担ってくださるというのです。

その際、ここで御使いはヨセフに、イエスに与えられた使命をもっと具体的に、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と言いました。「罪からの救い」は、抽象的な概念ではなく、イスラエルをバビロン捕囚の「のろい」から解放するというものでした。それは神が再びイスラエルの民の真ん中に住み、彼らをこの地がもたらす飢えや渇き、周辺の国々の攻撃から守り、あらゆる祝福に満ちた平和な国を作ってくださるという約束です。しかも、それは、イスラエルの民ばかりか、全世界に及び、そこではイザヤ11章に記されていたような神の平和(シャローム)が全地に満ちることになります。

つまり、「罪からの救い」とは、私たちのために「新しい天と新しい地」への道が開かれたことを意味するのです。そしてまた、「罪からの救い」とは、人生の方向が、「のろい」から「祝福」へと決定的に変化することを意味します。

3.「その名はインマヌエルと呼ばれる」

そして、「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった」(22節)と記されます。つまり、「救い」とは、イスラエルの民に与えられた預言の成就という観点から見る必要があるのです。そのことばが、「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤ7章14節のみことばでした。これは、エルサレムの王アハズが預言者イザヤの勧めを退けて、人間的な解決を図ろうとして神の招きを拒絶したときに、神が語られたことばです。それは、神の救いは、人間の思いをはるかに超えているということを現すことばです。

それにしても、女性が身ごもったら、その人はもう処女ではないというしるしでしかありません。しかも、「インマヌエル」という名の意味は、その文脈では、困窮と不安と敗北の中で理解できるものです。つまり、「神がともにおられる」とは、人間的な救いの期待が裏切られた後で見えてくるという不思議な救いです。目に見える現実が、期待通りにはならなくても失望する必要がないということのしるしがインマヌエル預言の核心なのです。それは、ときを経て初めてわかる神の救いです。

これはヨセフにとって信仰を生み出すことばになりました。なぜなら、すべての目に見える出来事は、ヨセフにとって都合悪くしか展開していないからです。しかし、ヨセフは、御使いが自分を「ダビデの子」と呼んでくれた語りかけのことばに信頼したのです。かつてのエルサレムの王であったダビデの子アハズはこのことばを退けましたが、人間的には悲惨な生活をしている大工のヨセフはこのことばを受け入れることができました。それは自分の弱さを知っていたからです。

そのことが、「ヨセフは・・・主の使いに命じられたとおりにした」ということばで記されています。ヨセフはこれから自分の人生がどうなるかをわからないままに、神の真実に対して真実に応答しました。ヨセフの態度は、イザヤの預言を聞いた当時のアハズ王とは対照的でした。それは、彼が心から主のご計画の実現を期待していたからではないでしょうか。

バビロン捕囚直前の王たちは、神に信頼することに失敗し、国を滅亡に追いやりました。しかし、同じダビデの子孫であるヨセフは、葛藤を味わいながらも、神の計画を実現する器になることができました。これこそ、私たちに求められている信仰の応答です。ここで「インマヌエル」と呼ばれている方は、その後、十字架にかけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。それは、「神は今、ともにおられない・・・」という意味の叫びにほかなりません。しかし、神は三日目にイエスを死者の中からよみがえられました。つまり、「神がともにおられる」という確信は、「神がともにおられない・・・」と思われるような苦しみとあざけりを受けている中でこそ、理解されるという霊的事実なのです。

かつてイスラエルの民が、ヨシュアに導かれてヨルダン川を渡り、約束の地を占領することができましたが、そこにはいつも全能の主がともにいてくださいました。私たちは今、新しいヨシュアであるイエスを先頭に世界へと派遣されます。その際、かつてのような武力によってではなく、神の愛の力によってこの地に神の平和を広げるようにと召されています。

マタイ福音書の系図こそ、神がご自身の約束を守り通してくださったということの証です。のろいを祝福に変えてくださったということの証です。旧約の預言がひとつひとつ成就したということの証です。私たちは、これを味わうとき、神はこれからの私たちの人生を確実に守り通してくださるということがわかります。インマヌエル「神が私たちとともにおられる」という霊的事実は、様々な苦しみの中でこそ味わうことができるもの、この世の暗闇の中で見ることができる「光」です。

4.大震災の悲劇を通して新しい道が開かれた

当教会で9年前のクリスマス礼拝で受洗の恵みにあずかった前田望さんは、その後、アメリカのいくつかの学校で教師としての働きをしつつ、日本人の若者のクリスチャンの交わりを築く働きをしてきましたが、今年8月からアメリカの宣教団体から派遣された宣教師として、仙台の東の被災地の真ん中にある塩釜バプテスト教会で奉仕しています。彼女は先日のANRC(全世界からの日本人帰国者大会)でそこで出会った方のことを証ししてくれました。

大友恒雄さんは六年前、56歳で電機メーカーを早期退職し、野菜作りをしながらご自宅で家庭集会を開きつつ福音を宣べ伝え、家の教会を始めるべく準備を積んでおられました。彼はその中で80歳になる、車椅子生活のご老人に聖書のお話をするようになりました。そして、2011年3月11日の日には、奥様とともに二台の車でその後老人を初めとする何人もの方々の避難を助けました。そこでは、まず、小学校の校庭に避難するように指示が出ていました。小学校では規定のマニュアルに従い、まず、人々を校庭に落ち着かせ、津波の様子を見て、校舎の中に誘導するということになっていました。

しかし、そこで20分ぐらいが経過し、いよいよ津波が迫って来るというときになって、校舎の二階に避難するように指示がでました。大友さんは足の悪いご老人を支えながら、必死に校舎に向かいました。しかし、なかなか前に進むことができません。彼は慌てるあまり、転んでしまいました。大友さんはしゃがんでその方を背負おうとしましたが、うまく立ち上がることができませんでした。そうしているうちに津波が目に見えるところに迫ってきました。

そのご老人は大友さんに向かって、「俺はいいから、お前だけ逃げろ」と、強く勧めてくれました。大友さんは、膝の下まで水につかりながら、ぎりぎりで校舎に飛び込みました。ご老人は水につかりながらそこにあった車に必死につかまっていました。そこに大きな津波が押し寄せてきました。大友さんは、もうその様子を見ることができませんでした・・・。

その後、大友さんご夫婦とふたりのお嬢さんは、寒さに凍えながら呆然としつつ避難所で数日を過ごしました。家も畑も全部流されました。野菜を販売しつつ福音を伝えてきた人々の家も同じように流されてしまい、多くの命が失われました。

しかし、そのような中で、近くの町の別の教会の方々が、彼ら四人家族をご自分の家に招き、三週間にもわたって心のこもったお世話をしてくださいました。大友さん家族は、その愛によって、前に進む力をいただけたとのことです。

やがて、被災地に様々な支援団体が手を差し伸べてくれるようになりました。大友さんは避難生活をしながらも家庭集会を続けていましたが、その中で、被災者と支援団体をつなぐ働きへと召されました。そのプロジェクトでは、たとえば、津波で被災した60軒もの家の再建に関わってきました。そこから信仰に導かれた方々も起こされてきています。

そのような中で、一時頓挫していた家の教会を始めようという声が盛り上がってきました。そして、米国の宣教団体からの資金を受け、360坪の水田を購入し、家の教会を建て、被災者の共同農園を開くというプロジェクトが始まりました。

大友さんは、あの日の出来事を振り返りながら、幸い、罪責感も、恨みも感じることがないと言います。主の使いはヨセフに、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ1:21)と言われました。そして、「罪からの救い」とは、何よりも、悲劇が次の悲劇を生むという負の連鎖、「のろい」の連鎖からの解放を意味します。

人は、災難に会う時に、しばしば、自分を責め、人を責め、またときには神さえも恨むということがあります。そして、そのような傷ついた心は、人と人との関係を壊し、また人を絶望感や無気力に追いやります。そして、それがまた次の悲惨を生み出します。しかし、大友さんは、想像を絶する災いに会うことによって、かえって神と人との交わりを深めて行くことができました。何よりも、「家の教会を建てる」というビジョンが、この悲惨を通して、実現に向かっています。そしてそこにまた不思議に、何の縁もゆかりもない私たちの教会の交わりにあった姉妹も引き寄せられて、働きに加わるようになっています。

ただし、大友さんは、あの日のことを振り返りながら、「悔しさ」の思いが沸き起こると言っておられます。それは、第一に、マニュアル通りにしか動かなくて悲劇を生んだ学校の対応です。第二に、大友さんが必死にご老人を助けようとしているそばを駆け抜けて行った人がいたことです。第三に、指示に逆らってでも車で遠くに避難しなかったことです。そして考えてみれば、これらの、想定外に対応できないマニュアル、人への無関心、機転の利かないことの三つこそ、原発事故を初めとする悲惨に会ったときの日本人が持つ最大の弱点ではないでしょうか。私たちの目の前に起こる悲劇は、自分たちの築いてきた土台のもろさを顕にします。しかし、神は、そこから新しい歩みを始めさせてくださいます。

しばしば、多くの人々は、「わざわいの中で、神はどこにいるのか・・・」という問いかけをしながら、神を見失ってしまうことがあります。しかし、神は、わざわいのただ中に、ともにいてくださるのです。そして、神の助けが必要ないと思われる人々の中で必死に神にすがって生きる人を通して、神はご自身の力を現してくださいます。何よりも、神は、私たちのこころの中に生きて働き、悲惨の中に希望を生み出し、また悲惨の中に愛の交わりを作り出してくださいます。

「罪からの救い」とは、どんな悲惨の中にも希望を生み出す力、どんな悲劇の中にも愛の交わりを生み出す力です。「罪からの救い」とは、私たちの罪が赦されて天国に行けるということ以前に、この世の悲惨の中に私たちを送り出す力になります。復活のイエスは弟子たちに向かって、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と言われました。クリスマスは、世界の創造主が、私たちと同じ弱い肉体を持つ人となって、この世の痛みや悲しみを背負ってくださったことを思いおこすときです。神はイエスを私たちのもとに遣わし、そして今、イエスは私たちを暗やみの世界に遣わしてくださいます。私たちはそれによって、罪が支配する世の中で、「祝福の基」となることができるのです。