ホセア9章〜10章「正義の種を蒔き、耕地を開拓せよ」

2012年12月30日

この世界では、「下手に出ると付け上がり、強気に出ると相手が折れてくれる」などということがあります。また、話を通すために権力者の力を借りるなどということも有効です。経済で政府の監督権などが強くなると、補助金を引き出す能力が重宝されるようなことが起きます。

しかし、そのような交渉術で何かを手にいれることは危険です。誠実さよりも、話の持ってきかたのうまさで何かを成し遂げたという人は、それが癖になるからです。イスラエル王国は北のアッシリヤと南のエジプトを手玉に取るようにして生き延びようとし、不誠実のゆえに破滅しました。

私の母は昔、「秀典や、町の女には、気をつけるのよ・・」と、不思議なことを言っていました。地に種を蒔き、手入れをし、収穫を待つという生き方をしている人にとって、町の人々がどのように生活の糧を得ているのかが理解できないのだと思います。母は、収穫以前に、作物が育つのを見るのが楽しいと言います。収穫したものは惜しげもなく人にやってしまいます。でもすると、肉や魚が、黙っていても届けられてきます。しかし、これこそすべての労働の喜びの基本なのかもしれません。

収穫以前に、種蒔きとその後の成長自体を喜ぶことができるなら、私たちの交わりはどれほど豊かになることでしょう。ところが、都会の生活では、種を蒔いて、世話をするという労を惜しんで、獲得することに目が向かうという誘惑が働きます。しかし、そこからは真のいのちの喜びは生まれません。

「主に信頼して善を行なえ、地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:3,4)というみことばを常に覚え、実践したいものです。

「主のみこころが分からない・・」と言われる方がいますが、主のみこころは単純明快です。それは、神と人とに誠実を尽くすことです。

1.「エフライムはエジプトに帰り、アッシリヤで汚れた物を食べよう」

9章1-9節は北王国イスラエルの異教的な収穫感謝の祭りを非難したものです。ですから、その最初は、「イスラエルよ。国々の民のように喜び楽しむな」と記されます。

まず、「あなたは自分の神にそむいて姦淫をし」とは、彼らがカナンの土着の神バアルを礼拝したこと、また、「すべての麦打ち場で受ける姦淫の報酬を愛した」とは、収穫の祝いの場で昔から、淫らな性的な無軌道な享楽が行われていたことを指すと思われます(士師21;19-21)。バアルは豊穣の神でしたから、その礼拝では子孫を増やすための性的な交わりも励まされました。

続けて主は、「麦打ち場も酒ぶねも彼らを養わない。新しいぶどう酒も欺く」(9:2)と、そのような二重の姦淫の罪がイスラエルを破滅に導くと警告します。それは彼らが、「主(ヤハウェ)の地にとどまらず」(3節)とあるように、約束の地を失ってしまうことを意味します。

彼らは、当時、南のエジプトと北のアッシリヤを両天秤にかけていましたが、「エフライムはエジプトに帰り」とあるように北王国の中心部族は、かつてのエジプトでの奴隷状態と同じような境遇に落とされ、また、「アッシリヤで汚れた物を食べよう」とあるようにアッシリヤの偶像礼拝の民のおこぼれにあずかるような悲惨な状態に落とされるというのです(9:3)。イスラエルの民は、食生活において周辺の国々から区別されていましたが、彼らは自分たちが忌み嫌った食べ物を食べざるを得なくなります。

そして、9章4、5節の表現は、彼らが捕囚の地にあって、「主(ヤハウェ)にぶどう酒を注がず・・彼らのパンは・・主(ヤハウェ)の宮に持ち込むことはできない」とあるように、もう主(ヤハウェ)を礼拝すること自体ができなくなってしまいます。

そして、6節は、彼らがアッシリヤによる破壊を逃れても、エジプトの王の墓であるピラミッドの中心地「モフ」(メンフィス)において殺されてしまうという皮肉を語っています。そこで、「彼らの宝としている銀は、いらくさが勝ち取り、あざみが彼らの天幕に生える」と記されているのはすべての富が失われるという意味です。

そして、7節で「刑罰の日が来た。報復の日が来た。イスラエルは知るがよい」と神のさばきが宣言されます。そして「預言者は愚か者、霊の人は狂った者だ」ということばは、偽預言者の事ではなく、「預言者」や「霊の人」自身が、イスラエルの民にとって「愚か者」「狂った者」に見えるという意味だと思われます。

本来なら預言者や霊の人は、希望を述べるはずなのに、彼らが神のさばきという絶望しか預言することができないからです。そして、そのような事態になったのは「あなたのひどい不義のため、ひどい憎しみのためである」というのです。

8節の「エフライムの見張り人は、私の神とともにある」と記されますが、この「見張り人」とは次の「預言者」のことで、ここでは彼の「すべての道」に「わな」がしかけられ、「彼の神の家には憎しみがある」と言われます。要するに、エフライムを守るために立てられた預言者が、自分の民から憎まれるというのです。

その上で、「エフライム」の民が「ギブアの日のように、真底まで堕落した。主は彼らの不義を覚え、その罪を罰する」(9:9)と記されます。「ギブアの日」とは、士師記19-21章に書かれている悲劇で、レビ人のそばめがベニヤミン族の町ギブアのよこしまな者たちにもてあそばれ虐殺されましたが、イスラエルの諸部族が犯罪者たちの引き渡しを要求したのに対し、ベニヤミン族がそれに戦いで応じてしまい、ベニヤミンがほとんど絶滅に近い状態になってしまったことを指します。

そして今、エフライム族をはじめとするイスラエルの民が神のさばきを受けて絶滅寸前になってしまうというのです。

2.「ところが彼らは・・恥ずべきものに身をゆだね・・忌むべきものとなった」

9章10節では、まず主ご自身が、「わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた」と言われます。主はイスラエルの民をかけがえのない宝物のように見ておられました。

しかし、その後のことが、「ところが彼らはバアル・ペオルへ行き、恥ずべきものに身をゆだね、彼らの愛している者と同じように、彼ら自身、忌むべきものとなった」と描かれます。

「バアル・ペオル」とは民数記25章に記されている悲劇で、イスラエルの民はモアブの娘たちに誘惑されたあげく、彼女たちの神々にささげたいけにえをともに食べ、彼女たちの神々を拝んだことを指します。このときに神罰が下り24,000人が一度に死んでしまいました。そして、今、イスラエルの民はその過ちを再び繰り返し、神のさばきを受けようとしています。

そのことが、「エフライムの栄光は鳥のように飛び去り、もう産むことも、みごもることも、はらむこともない」(9:11)と描かれます。なぜなら、主ご自身が、「たとい彼らが子を育てても、わたしはひとり残らずその子を失わせる」(9:12)と驚くべきことを言われます。これは申命記28章に驚くほどリアルに描かれている「のろい」が実現するためだと思われます。その箇所ではたとえば、「息子や娘が生まれても、あなたのものはならない。彼らは捕えられてゆくからである」と記されます(41節)。

そしてここでは主ご自身も、「わたしが彼らを離れるとき、まことに、彼らにわざわいが来る」と言っておられます。つまり、神ご自身が子供を殺すというのではなく、神がご自身の守りの手を引っ込めることで、現実には、アッシリアの攻撃によって「子を失う」ということが起こるというのです。

そして13節では「わたしが見たエフライムは、牧場に植えられたツロのようであったが」とありますが、「ツロ」という読みは確定できない面もありますが、繁栄した町の象徴として記されたとも解釈されます。しかし、「今や、エフライムはその子らを、ほふり場に連れて行かなければならない」とあるように、アッシリヤの攻撃にさらされます。

その上で、14節では、「主(ヤハウェ)よ。彼らに与えてください。何をお与えになりますか。はらまない胎と、乳の出ない乳房とを彼らに与えてください」という不思議な祈りが記されています。それは彼らが子を失う悲しみを味わう必要がないためです。

15節の「彼らのすべての悪はギルガルにある」とは、Ⅰサムエル15章12-26節で、イスラエルの初代の王サウルが、不従順のゆえに王位から退けられる経緯が描かれています。そこで預言者サムエルはサウルに向かって、「あなたが主(ヤハウェ)のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」と言われます(23節)。

そして、それはイスラエルのすべての民の問題でもありました。そのことを主は、「わたしはその所で彼らを憎んだ。彼らの悪い行いのために、彼らをわたしの宮から追い出し、重ねて彼らを愛さない。その首長たちはみな頑迷な者だ。エフライムは打たれ、その根は枯れて、実を結ばない。たとい彼らが子を産んでも、わたしはその胎の中のいとし子を殺す」(9:15,16)と言われます。

ここでは、何よりも「首長たち」の「頑迷さ」が問題とされています。そして預言者ホセアはこれらの一連のことをまとめるように彼らの結末に関して、「私の神は彼らを退ける。それは、彼らが神に聞き従わなかったからだ。彼らは諸国の民のうちに、さすらい人となる」(9:17)と言われます。

3.「彼らの心は二心だ」

10章ではまず、民の歴史を振り返りながら、「イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多く実を結ぶにしたがって、それだけ祭壇をふやし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた。彼らの心は二心だ。今、彼らはその刑罰を受けなければならない。主は彼らの祭壇をこわし、彼らの石の柱を砕かれる」と語られます。

「彼らの心は二心だ」(2節)とは「心が分かれている」という意味ですが、「心は滑りやすい」とも訳されます。どちらにしても、心が神にまっすぐに向かう代わりに、その地の文化に流されやすい性質を表現しています。これは、ホセア書のテーマの「誠実(ヘセド)」(6:6)の対極にある心の状態です。

3節では、「私たちには王がない。私たちが主(ヤハウェ)を恐れなかったからだ。だが、王は私たちに何ができよう」と記されますが、これは当時の北王国イスラエルの政治的な混乱を描いたものです。

ホセアの時代は、ヤロブアム二世の41年間にわたる統治が終わった後の政治的な混乱の時代です。そこでは約30年間の間に、六人の王が立ちましたが、そのうち自分の子に王位を継がせることができたのは一人だけで、四人は、後継の王のクーデターで殺され、最後の王ホセアの終わりは不明です。

この間、指導者たちはアッシリヤに対する強硬派と服従派に分裂して争っていました。当時は今の日本と同様に、周辺の諸国から見たら、イスラエルの王は誰なのかが分からなくなっているような状態でした。

そして、そのようになった原因は、確かに、彼らが主(ヤハウェ)を恐れなくなった結果なのですが、どちらにしても、彼らは自分たちの王に何も期待できない状態に陥っていました。

4 節は2節にあった民の「二心」または不誠実のことをさらに展開したもので、「彼らはむだ口をきき、むなしい誓いを立てて契約を結ぶ。だから、さばきは畑のうねの毒草のように生いでる」と記されます。これは民と王との契約、また、イスラエル王国と周辺諸国との契約の両方に当てはまります。

北王国イスラエルが滅亡した最大の理由は、二枚舌外交にあります。最後の王のホセアは強硬派の王ペカを殺した後、アッシリヤに服従しますが、その裏で南のエジプトの王に助けを求めていました(Ⅱ列王17:4)。要するに彼は、北のアッシリヤと南のエジプトを両天秤にかけるような外交を行なって、アッシリヤの王の激しい怒りを買ってしまったのです。

そして、その背後に神がおられます。神は、私たちが人と人、組織と人、また国と国との約束を誠実に守ることを期待しておられます。

5節では、「サマリヤの住民は、ベテ・アベンの子牛のためにおののく」とありますが、「ベテ・アベン(悪の家)」とは実際の地名ではなく、「ベテル(ベト・エル:神の家)」を皮肉った呼び名です。彼らはイスラエルの民の父ヤコブにとって最も大切だった礼拝の場を、金の子牛を拝む礼拝の場にしてしまいました。

そこに今、神のさばきが下り、その偶像がアッシリヤに持ち去られるのですが、その様子が、「その民はこのために喪に服し、偶像に仕える祭司たちもこのために喪に服する。彼らは、その栄光のために悲しもう。栄光が子牛から去ったからだ。その子牛はアッシリヤに持ち去られ、大王への贈り物となる。エフライムは恥を受け取り、イスラエルは自分のはかりごとで恥を見る。サマリヤは滅びうせ、その王は水の面の木切れのようだ」と描かれます(10:5,6)。

そして、ベテルを襲う悲劇の様子が、「イスラエルの罪であるアベン(ベテ・アベンの略)の高き所(礼拝の場)も滅ぼされ、いばらとあざみが、彼らの祭壇の上におい茂る。彼らは山々に向かって、『私たちをおおえ』と言い、丘に向かって、『私たちの上に落ちかかれ』と言おう」(10:8)と生々しく描かれます。

4.「正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ」

9,10節で主は9章9節で引用したギブアのことを再び持ち出しながら、「イスラエルよ。ギブアの日々よりこのかた、あなたは罪を犯してきた。彼らはそこで同じことを行っている。戦いはギブアで、この不法な民を襲わないだろうか。わたしは彼らを懲らしめようと思う。彼らが二つの不義のために捕らえられるとき、国々の民は集められて彼らを攻める」と述べられます。

ここに記された神のさばきの理由の「二つの不義」とは、神に対する不誠実の現れとしての偶像礼拝と、隣国に対する不誠実としての二股外交だと思われます。

11節では「エフライムは飼いならされた雌の子牛であって、麦打ち場で踏むことを好んでいた」と記されますが、それは、神が最初イスラエルの民に約束の地を与えたとき、彼らは自分たちが建てなかった町々に住み、自分たちが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑を受け取り(申命記6:10,11)、自分たちが耕しもしなかった畑の収穫の実を脱穀するだけで良かったからです。

そのときの彼らは神の恵みに感謝する「飼いならされた牛」のように従順でしたが、やがてその祝福を既得権益かのように思い、9章15節で言われた「頑迷な者」になってしまいました。

なお、麦打ち場での働きに関しては、「脱穀をしている牛にくつこをかけてはならない」(申命記25:4)とあるように、働きの場での報酬まで保障されましたが、今、神は彼らに厳しい労働を課して、謙遜にする必要を覚えられました。

そのことが、「わたしはその美しい首にくびきを掛けた。わたしはエフライムに乗り、ユダは耕し、ヤコブはまぐわをひく」と描かれます。エフライムは北王国の中心部族、ユダは南のエルサレムを中心とした王国、ヤコブはそれらすべてを含めた総称ですが、これは神がイスラエルの民を力で動かさざるを得なくなったことを意味します。

その中で神は、「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ」(10:12)と言われます。「正義の種を蒔く」とは、神の正しい基準に従って日々を生きること、「誠実の実を刈り入れる」とは、神と人とに対する誠実(ヘセド)を保ち続けることを意味します。

「耕地を開拓せよ」とは、どんなに厳しくても、神から与えられた目の前の働きに集中するようにという勧めです。しかもそこで、「今が、主(ヤハウェ)を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる」という祝福の約束が示されます。

神が私たちに苦難を与えるのは、私たちが自分の弱さを自覚し、真剣に神を求めるようになるためです。そして、私たちが神に立ちかえるなら、主はご自身の正義に従って、私たちに豊かな働きの報酬を与えてくださいます。

その一方で、13節では彼らの不誠実な生き方が、「あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べていた。これはあなたが、自分の行いや、多くの勇士に拠り頼んだからだ」と描かれます。

彼らは「耕地を耕し、正義の種を蒔く」代わりに「悪を耕し」、「誠実の実を刈り入れる」代わりに、「不正を刈り取り、偽りの実を食べました」。

そして、続く、「自分の行い・・により頼んだ」とは、「自分流のやり方・・により頼んだ」と訳すことができます。つまり、彼らは、神により頼む代わりに、自分の知恵や力により頼んで、自滅してしまうというのです。

エレミヤ9章23,24節で、主はイスラエルの民に対して、「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを」と言っておられます。これを私たちは日々、口ずさむ必要がありましょう。

14節の「シャレマンがベテ・アレベルを踏みにじったように」とは、アッシリヤの王シャルマヌエセルがガリラヤ湖の南東にあるベテ・アレベルを踏みにじって母親や子供を八つ裂きにしたことを思い起こさせるものです。

その際、「あなたの民の中では騒動が起こり、あなたの要塞はみな打ち滅ぼされる」とは、敵の攻撃によって民の恐怖の叫びが起こり、サマリヤの要塞が崩されることを指しています。

エフライムの首都サマリヤは三年間の包囲戦の後(Ⅱ列王記17:5)、紀元前722年に陥落し、その住民は、アッシリヤの東部に強制移住させられました。

そして、これらの悲劇の背後に神がおられることを、「イスラエルの家よ。あなたがたの悪があまりにもひどいので、わたしはこのようにあなたがたにも行う。イスラエルの王は夜明けに全く滅ぼされる」(10:15)と記されます。

「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主(ヤハウェ)を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる」(10:12)というみことばを暗唱しましょう。「耕地を耕し」「正義の種を蒔き」「誠実の実を刈り入れる」というプロセスは、すべての働きに適用できるものです。

たとえば、私たちの教会は開拓から24年間、「正義の種を蒔き」続けてきました。その間、多くの人の出入りがありました。数々の失敗を犯しましたが、基本的に私たちは去って行く方を優しく送り出し、来られる方には誠実に対応させていただきました。労苦が無駄になっているように思えることもしばしばでした。しかし、私たちの側では、誰もさばかず、誰も拒絶はしませんでした。

そして、今、会堂建設ということにおいて、「誠実の実を刈り入れ」ようとしています。今年の初め、私たちは大きな予算を立てながら、それがどのように満たされるか、見当もつきませんでした。私たちの教会で積極的に奉仕をしておられる方々は、やっとの思いで生計をやりくりしているような方々ばかりでした。しかし、最近来られた方々、他教会に移って行かれた方々、また、かって礼拝に集っておられた方々のご家族、また東京武蔵野教会を初めとする他の教会の方々までもが、次々と献金や教会債でご協力くださいました。

それは、数々の失敗にも関わらず、そこにあった「誠実」な思いに主が報いてくださった結果です。

確かに、私たちの歩みにおいて、しばしば、いわれのない非難を受けたり、働きが正当に評価していただけないということも数多くあります。そのとき私たちは主イエスの歩みを思い越すべきでしょう。私たちの主は誰よりも誠実を尽くした方でありながら、不当な十字架にかけられて殺されました。

しかし、神は三日目にこの方を死人の中からよみがえらせました。イエスの誠実は人間の目には裏切られたように見えましたが、神によって豊かに報いられたのです。そのことを覚えて、使徒パウロは、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と記しています。

耕しもせず、蒔きもせずに、収穫を望むようなことがあってはなりません。主は、私たちの一人一人の労苦と誠実さをきちんと見ていて、時が来たら報いをお与えくださいます