ピリピ2章1〜18節「志を立てさせ、事を行なわせてくださる神」

2013年1月1日

私たちはそれぞれ、他の人から見たら不思議に思えるほどの、偏りやこだわりを持ちながら生きているのではないでしょうか。イエスは、人間的な観点から言うと、なぜ十字架にかけられたのでしょう。それは当時の感覚から言ったら、あまりにもバランスを欠いた「過度」のゆえではないでしょうか?世の人々から尊敬を集めている宗教指導者の偽善をあばいて徹底的に批判し、一方で、やくざのような人と仲良く食事をしたのです。

私たちは誰の目からも評価されるようなバランスの良い生き方よりも「いのち」の輝きを求めたいものです。ある方が次ぎのように書いておられます。

「いのちあるものは、何らかの意味で必ず過度です。燃えているものです。それは不純なものを焼き尽くし、透明であることを目指して燃焼し続けるものです。そうでなければ、いのちはいのちの名に価しません」

1.「キリストは神の御姿である方なので、ご自分を無にされた」

マリヤもヨセフも羊飼いも天使も登場しないクリスマス物語があります。それは、パウロがローマで捕らわれの身となりながら、ピリピ教会の不一致のことで心を痛めて書き送った手紙の中にあります。

その核心は、「キリストは……ご自分を無(空虚)にした」(2:6,7)ということばで、「何事でも、自己中心(自分を前面に出したい思い)や、虚栄(むなしい栄光を求める思い)からすることなく、へりくだって(自分を卑しくする思いで)、互いに人を自分よりすぐれたもの(自分の上座に座るべき人)と思いなさい」という意味です(2:3)。

そして、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」(2:5)と、キリストの物語が描かれます。

クリスマスは、「太陽をお造りになった神様が、赤ちゃんになった日」と表現したほうが良いかも知れません。確かに全世界を創造されたのは父なる神ですが、御父は、御子との交わりの中で、御子を通して、世界を創造されたのです。

それは、「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって(in)造られたからです。すべて、天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も。万物は、御子によって(through)、御子のため(for)に造られているのです。御子は、万物の先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」(コロサイ1:15-17)と記されている通りです。

そのことが、「キリストは神の御姿である方」(2:6)と表現されます。キリストは、父なる神と同じように何でもおできになり、死ぬこともなく、この世のすべての束縛から自由な方です。

その方が、「神と等しくあることを奪い取ろうとは考えず、ご自分を無にして……」と原文で記されます。キリストは御父と同じ本質をお持ちになりながらも、立場においては「子」であられます。当時の文化では、家庭の父には絶対的な権威があったように、父なる神こそがすべての源、善悪の基準、すべての支配者であられ、御子はそれに「従う」ことが期待されていました。

ですからここは、キリストは御父と同じ思いで世界をお造りになった御子であられるからこそ、神(御父)の権威を侵害しようなどとは思われることもなく、それと正反対の「仕える者」(原文では「奴隷」)の「姿」を取ることができたとも解釈できます。

それにしても、キリストは、人の上に立って権威をふるう代わりに、「ご自分を無にされた」(2:7)というのです。昔、「私は、釘(ネイル)であるよりはハンマーでありたかった……」(サイモンとガーファンクル:「コンドルは飛んで行く」)という歌がありましたが、キリストは、世の悪を打つハンマーになることができたのに、悪人から打たれる釘になられました。

そして、釘が二つのものを結びつけるように、主は、神と人、人と人とを和解させてくださいました。

2.「この方は……ご自分を卑しくされた」

そして、「人間と同じようになられた」ということばは、「人としての性質をもって現われ」と言いかえられます。その意味は、この肉体が持つ不自由さをその身に引き受けることです。私たちは、腹が減ると力がなくなり、気力も萎え、心も不安定になります。また人から誤解されたり非難されたりすると心が痛みます。理解してくれる友がいないと耐えられない孤独感に陥りますが、主はその同じ「性質」を持たれたのです。

また、主は、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」(ヘブル4:15)とあるように、生きることの痛みや悲しみを体験され、その中で、肉体から生まれる様々な欲望と戦い、それを制する必要すらあったのです。

そして何よりも、キリストが「人となった」ことで、「死ぬ」ことが可能になりました。そのため主は、御使いのように、一時的に人間の姿を借りることをなされずに、私たちとまったく同じように、母胎の中の胎児の姿から成長して誕生するというプロセスを通られました。太陽をお造りになった方が、マリヤの乳房を吸い、マリヤと対話しながらことばを覚え、成長されました。何という不思議でしょう。

全世界の創造主は、死の危険と隣り合わせの中に生まれ、あの貧しいヨセフとマリヤがいなければ一瞬たりとも生きて行くことさえできないひ弱な赤ちゃんとなられたのです。

そればかりか、主は、肉体の自然の死ではなく、「死にまで、実に十字架の死に従う」ほどまでに「自分を卑しくされ」ました(2:8)。十字架刑は、極悪人のしるしです。人がその言葉を聞くだけで、恐怖にふるえるほど、残酷で、あざけりとののしりに満ちた刑罰でした。イエスはそこで、人としてのすべての尊厳を奪われました

人にとって栄誉とか誇りは命よりも大切なものですが、それらを捨てられたのが、「自分を卑しくする」ということでした。イエスは、共感され、理解されたいという人としての自然な思いと戦いながら、父なる神への従順を選ばれたのです。

そして、これらすべては、「あわれみ深い忠実な、大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようになり……民の罪のために、なだめがなされるため」(ヘブル2:17)とあるように、イエスが真の私たちの罪人の兄弟となるため、しかも、人の中でも最も軽蔑された人の兄弟となり、彼らと同じ苦しみを自ら体験され、彼らのすべての罪をその身に負って、罪の「奴隷」となっている人を救い出すためでした。

なお、十字架が全人類の罪の贖いとなり得たのは、イエスが単なる人間ではなく、神の御姿」を保たれたままの創造主であられたからです。

イエスがあなたの創造主でなければ、どうしてすべての罪を贖うことができるでしょう。しかし、真に、「キリストは神の御姿であられ……奴隷の姿を取り、人間と同じようになられた」(2:6,7)のでした。

3.「それゆえ神は、この方を高くあげて、すべての名にまさる名をお与えになりました」

それゆえ神は、この方を高く上げて……」(2:9)とは、イエスが「ご自分を卑しくされた」ことに、神が応答してくださったとの意味が込められています。

これは、イエスが、「誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(マタイ23:12)と言われたのと同じことばの用い方です。ただ、ここでは単に「高く」ではなく、「すべてにまさって高くされた」という意味が込められた表現になっています。

そして、「キリストが……ご自分を無にされた」ということに応えて、「神は……すべての名にまさる名を与えられた」と言われます。それは、自分を空っぽにする者を、神が最高の栄誉で満たしてくださるということです。

その目的が、「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(2:10,11)と記されます。

「すべてが、ひざをかがめ……」とは、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない……すべてのひざはわたしに向ってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ主にだけ、正義と力がある』と言う」という預言の成就です(イザヤ45:22-24)。

それは本来、父なる神が受けるべき栄光を、御子が受けるということです。それによって、「父なる神がほめたたえられる」(2:11)のです。御子が自分を卑しくされた結果、御父と等しい栄光をお受けになられました。なお、「地の下にあるもののすべてが……」(2:10)とは、サタンさえもイエスの前にひざまずくということが宣言されています。

残念ながら、歴史は、人が、その時々の権力者によって不条理に苦しめられ、振り回されるという事例に満ちています。しかし、キリストは、支配する側ではなく支配される側、裁く側ではなく不当なさばきを受ける側を敢えて選ばれ、そのただ中でいのちを輝かされました。

なぜならイエスは、すべての不条理を、ご自身の時にご自身の方法で正すことができる全能の父なる神を知っていたからです。その「いのち」が今、あなたに宿っています。

4.「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」

その上でパウロは、「そういうわけですから……私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」(2:12)と彼らを励まします。多くの教会では、「イエス様を信じた者は既に救われています!」と言いますが、それに矛盾する?ことが言われているかのようです。

それはパウロがいつも、「救い」ということばを「死者の中からの復活」(3:11)と結び付けて語るからであり、「救われた」とは、将来の救いが保証され、復活のいのちが既に私たちの内側に生きていることを意味するからです。

私たちは「栄光の復活」という信仰生活のゴールをいつも心にさやかに描きながら生きるべきです。たとえば、乱れた生き方をしていた人が、スポーツの試合に出ようとしたとたん肉の欲を制することができるようになったという話があります。意思の力というより、人生の目標こそが、人の内側に変化を引き起こすのです。

多くの人は、「私の信仰……聖さ……寛容さ……」などと、心の目が自分に向いすぎて自己嫌悪に陥り、前進する力を失っています。しかし、マザー・テレサの目が寄る辺のないひとりの人に釘付けにされ、小さな一歩を踏み出したとき、その内側に予想もしなかった力が沸き起こったばかりか、まわりの人々をも愛の奉仕へと動かすことができました。それらの力はすべて、神からの賜物だったのです。

心に大きな不安や葛藤を抱え、自分を責めてばかりいる方にお話をすると、よく、「このままで良いんですね……」という反応が返ってきますが、私は、「そのままの姿でイエス様について行ってください」と言い変えるようにしています。

それは、心の目を、自分ではなくキリストの姿に、神でありながら、奴隷の姿になるほどにご自分を無にされ、十字架の死に従うまでにご自身を卑しくされた姿に向けていただくためです。それは、這い上がろうとする代わりに、人の下に置かれることを願う生き方です。

そこには今までとは違った「恐れとおののき」(2:12)が生まれます。それは人と自分を比べた劣等感のようなものではなく、高い崖の上からハング・グライダーで飛び降りるような思いかも知れません。しかし、そこには、何と言う自由と喜びが待っていることでしょう!

それは、自分の肉の欲望に駆られた冒険ではなく、キリストの生き方に習う冒険です。あなたは自分の無力さや汚れに圧倒されるでしょうが、そのただ中で、自分のうちに働く神の力を体験できます。

しかし、「前に進め……」との神の召しを感じながらも、誤解や中傷を恐れて躊躇するなら、恵みの機会を自分で閉ざすことになるのです。

5.神は、あなたの意思と行いのうちに働いて、みこころを成し遂げられる

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる」(2:13)とは、人の責任神のみわざの関係を表わす中心聖句です。私たち自身が「救いの達成に努める」ことこそ「みこころ」ですが、そのために神は、私たちのうちの「意思(志)」と「行い(働き)」の両方に「働いて」くださいます。

つまり、信仰生活は、外からは人間のわざのように見えても、それを内側から動かしているのは神の御霊の働きなのです。

「あなたがたのうちに働いて」での「働く」とは、原文で、エネルギーの語源となるギリシャ語が使われています。私たちは、神秘の雲に包まれた神の栄光を把握することはできませんが、神の本性が外に向かって働き出る様子を見ることはできます。

神のみわざは、私たちのうちに志が立てられ、事が行われるという中に見られるのです。

それはヨットと風の関係に似ています。操縦する者は、自分でヨットを動かす努力ではなく、帆の方向を調整し、風の力にヨットをまかせる訓練を積む必要があります。肉の力で敬虔な生活を目指すと、パリサイ人のように自分を誇り他人を軽蔑することになります。しかし、自分の「意思」も「働き」も聖霊のみわざに開くとき、この「私」ではなく、「キリストのすばらしさが現わされる」(1:20第2版)ようになります。

そこでは、「つぶやき」と「疑い」の代わりに(2:14)、神とまわりの人々への称賛と感謝が生まれます。私たちは知らないうちに、名誉欲や見捨てられ不安、怒りやねたみなどの思いに駆り立てられ、休むこともできずに働き続けてしまうようなことがないでしょうか。

しかも、その結果、「非難されるところのない純真な者」(2:15)に変えられると約束されています。ただし、イエスご自身でさえ人々から非難されたのですから、それは、家族や同僚や上司の期待に添う生き方を目指すことではありません。

また、それは、今置かれている場で、「傷のない神の子供」とされることでもあります。これらは、あなた自身が、「私は聖められた!」と自覚できるようなことではなく、イエス様だけを見上げているその瞬間に繰り返し起こることだと思われます。しばしば、自分の「聖め」を測る人は、傲慢か絶望かで心が揺れることになります。

そして、イエスご自身があなたのうちに生きておられるときに、必然的に、「曲がった邪悪な世代の中にあって……世の光として輝いている」(2:16)状態にあるのです。

これは、「輝きなさい!」という命令形ではなく、「約束」です。確かに、あなたの目には自分の闇しか見えないかもしれませんが、心の眼が自分ではなくイエスに向けられているとき、これは必然的に起こる聖霊のみわざです。

なお、その際、私たちはイエスにみことばを通してしか出会うことができませんから、常に、「いのちのみことばをしっかり握っている」ということが求められています。

6.「私は……キリストの日に誇ることができます」という期待から生まれる「喜び」

続けてパウロは、「そうすれば、私は……キリストの日に誇ることができます」(2:16)と言います。彼はイエスに習って人からの栄誉を捨てることによって、キリストの再臨の日に、神からの栄誉を受けることを期待しています。それは、この地にあって、キリストの生涯を再現することでもあります。

キリストがこの地に遣わされ、人々に対して父なる神がどのようなお方かを目に見えるように現されたように、パウロもキリストによって遣わされ、この地で主のみことばを伝えました。人々が「いのちのみことば」を自分のものにすることを助けるのが彼の使命でしたから、彼の「誇り」はその一点にかかっていました。私たちも、働きの成果ではなく、使命への忠実さを意識すべきでしょう。

彼は、「そうすれば自分の努力したことが無駄ではなく、苦労したことも無駄ではない」(2:16)と言いつつ、「たとい私が……注ぎの供え物になっても……」(2:17)と付け加えます。これは、動物のいけにえに添えられるぶどう酒や強い酒のささげ物のことで、自分の殉教の死を示唆しています。

ピリピ教会の人々はパウロの釈放を日夜祈り続けていましたが、彼は、ピリピ教会の人々が自分たち自身を「信仰の供え物また礼拝」として献げる際の添え物になることで満足するというのです。

それを、「私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。同じように喜んでください。私とともに喜んでください」(2:17,18)と、「喜び」ということばを四回も繰り返します。そこにあるのは、地上的な働きの結果に左右されることのない、本当の「いのちの喜び」です。

「善行を積んだら良い報いが来る。罪を犯したら災いに会う」とは、どの宗教でも、道徳でも言うことですが、キリストもパウロも、人間的には悲惨な最期を遂げました。ですから、真の「いのちの喜び」は、キリストの日」(救いの完成のとき)を目の前に描かない限り実現できないものです。

なお、目の前に予期できない悲しみばかりが起こる世の中で、「いつも……喜びなさい」(4:4)という命令は、まるで偽善の勧め?にしか聞こえないということもあるかも知れませんが、何よりも大切なのは、「主にあって」ということばです。

救いのみわざの核心は十字架と復活ですが、それは、イエスがご自分を無にした結果、神が彼をはるかに高く上げてくださったという神の物語です。

その中で、自分の人生の物語を見直すときに、状況に関わりなく喜ぶことができるようになります。誤解され中傷され、また努力が実を結ばないように思えるようなそのときこそ、あなたは主の十字架の御跡に従っているのかも知れません。

パウロはピリピの教会に向けて、「恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリピ2:12、13)と語っていますが、それは、私たちは自分の救いの完成を恐れとおののきのうちに目指し続けなければならない一方で、それは、人間的な努力ではなく、神のみわざがあなたのうちになされることによってのみ可能であるという逆説です。

その結果、私たちは、「彼らの間で世の光として輝く」(2:16)ことができます。その際、私たちに求められているのは、私たちのこころをイエスに明け渡して、イエスご自身に生きていただくことです。世の人々には、やり過ぎ、バランスを欠いたものにしか見えないかもしれません。しかし、そこにこそキリストのいのちの輝きがあります。

それは、具体的に言うと、主の前で静まりのときを持ちながら、その中で自分のうちに湧きあがってくる熱い思いにすなおに身を任せることではないでしょうか。そのとき、あなたの信仰の友さえ、あなたに向かって、「それは分不相応だ……それはやり過ぎだ……あなたに向いている働きではないのでは……」と言うかもしれません。

しかし、私たち自身の歩みを振り返ってみても、人との出会いや働きは自分で選び取ったというよりは、自分が選ばれたものだと思います。

また、人によって、とうてい自分には不可能と思える大きな働きや課題が、目の前に迫ってくるかも知れません。そんなときまず、人間的な能力の判断やバランス感覚でその思いにブレーキをかけるのではなく、まず身をまかせてみてはいかがでしょう。

それが本当に神から出たものか、自分の人間的な思いなのかは、しばしば進んで見なければ分からないことです。クリスチャンの特権は、何よりも、やり直しができるということです。

それにしても、確かに、自分勝手なこだわりや思いこみによって、まわりの人々を振り回してはいけないのはもちろんのことです。ですから、ここでは「いのちのことばをしっかり握って……」と強調されています。自分で自分の心にブレーキをかけるのではありません。キリストは、現在、ご自身が記した聖書のみことばを通して私たちの心のうちに働きかけるのです。

積極的にみことばを心に蓄え、みことばに思いを巡らし、みことばがあなたのうちに根をはって、あなたの思いを動かすように心を明け渡して見ましょう。神の働きが、あなたのうちに全うされるのです。

それはあなたの力によるのではなく、神のエネルギーです。それに身をまかせて、失敗や非難を恐れず、大胆に世に出て行きたいものです。生きる力、意欲を削ぎ取ることばが、しばしば、そこには善意を伴って、私たちの内側に語りつづけます。そんなマイナスのことばに身をまかせてはなりません。

「いのちの喜びを削ぎ取ることば、あなたの意欲を否定することば」ではなく、「いのちのことば」「いのちの喜びを生み出すことば」に耳を傾けましょう。