マルコ14章12〜26節「キリストのからだと契約の血を受ける幸い」

2013年1月6日

イスラエルの民が繰り返し思い越すように命じられたのは出エジプトの出来事、神が彼らをエジプトの国、奴隷の家から連れ出してくださったことで、それこそ旧約聖書の中心テーマです。過越の祭りはそのためにありました。クリスチャンが思い起こすことはキリストの十字架の贖いです。それこそ新約聖書の中心テーマです。聖餐式はそのためにあります。

そして旧、新約を貫くテーマとは「契約」です。なぜなら、そこに共通する「約」ということばは「契約」のことだからです。そして聖餐式こそ、その転換点でした。旧約と新約には連続性と非連続性があります。

使徒パウロはその違いを、「文字は殺し、御霊は生かす」と表現しました (Ⅱコリント3:6)。旧約の基本は、神が良い教えを人間に与えることによって人を変えようとしたという点にあり、新約の基本は、良い教えを実行できない人にそれを行う力を与えるという点にあります。

私たちは小さいころから、「こうしたらいいよ……」という教えを数限りなく受けてきています。それは本当に私たちに役立ちます。しかし、徐々に、「あなたは何度言ったらわかるの!まるで鶏と同じじゃない……」と言われるようになります。

イエスはそんな社会の落ちこぼれをご自分の弟子の中心に据えました。なぜなら新約とは、良い教えを実行できない者を内側から作り変えることにあるからです。まさに聖餐式こそは「新しい契約」(新約)の始まりです。あなたはそれを理解しながら聖餐式にあずかっておられるでしょうか。

1.「弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる」

14章12節では、「種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に」という記述があります。これは、イエスが十字架にかけられる前日、木曜日のことです。この日、人々はエルサレム神殿で過越しのいけにえをささげ、その夜に、過越しの食事をすることになっていました。ですから、遠方からの巡礼者にとって、過越しの食事にあずかるための場所の確保は非常に困難だったことでしょう。

そのような中で弟子たちはイエスに、「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか」と尋ねました。そこで、イエスは、弟子のうちふたり(ルカ22章8節によると、ペテロとヨハネ)を送って、「都に入りなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい」と言われました (14:13)。普通、水がめを運ぶのは女の仕事ですから、その人はすぐに見つかったことでしょう。

それはイエスが、事前に打ち合わせし、依頼をしていたと考えて良いかと思われます。なぜなら、弟子たちがその家の主人に、「弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる」と言いなさいということに対して、「するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます」と席の用意が既になされていると述べられているからです (14:14、15)。

イエスはそれを前提に、「そこでわたしたちのために用意をしなさい」と言われました。そして、その結果が、「弟子たちが出かけて行って、都に入ると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした」という展開になっています (14:16)。肝心のことをイエスご自身が既に用意されたのです。

それにしても、イエスはなぜ、「どこどこの家で……」と直接的に言われなかったのでしょう?私は最初、これはイエスの予知能力を示し、ご自分が十字架への道をすべて支配しておられることを示していると理解していましたが、今は、ここに、イエスの気遣いが見えてきました。

イエスが事前に具体的な場所を述べてしまうなら、それはユダを通して宗教指導者たちに知られ、この最後の晩餐の場が襲われたことでしょう。イエスはご自分が翌日には、十字架にかけられるということを知っておられましたが、それにも関わらず、また、それを知っておられるからこそ、この過越しの食事を、弟子たちにとっての最高の思い出のときになるように、あらゆる気配りをしておられたのです。

ルカの並行記事によるとイエスは、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」と言われました (22:14、15)。「どんなに望んでいたことか」とは原文で、「切望し切望する」という言葉の重複で記され、この食事に対するイエスの思い入れが明らかにされます。

それはイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたことを祝うための食事でした。最初の過越のとき、イスラエルの民は、家族ごとに子羊一頭をほふり、その血を家の二本の門柱とかもいにつけ、その夜、その肉を火で焼いて家族でそろって食べ、旅の支度をしました。

真夜中に、主 (ヤハウェ) は、エジプトのすべての初子を打ち殺しましたが、血を塗っている家は過ぎ越されました。それは神の怒りが過ぎ越すという意味がありました。そして今、私たちの前を、神の怒りが過ぎ越します。それによって、私たちは罪の奴隷状態から解放されます。

2.「人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかった」

17節では、「夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。そして、みなが席に着いて、食事をしているとき」と描かれますが、それは、一年で最も大切な過越しの食事の最中です。

そのようなときに、イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります」と驚くべきことを言われました (14:18)。それに対し、「弟子たちは悲しくなって、『まさか私ではないでしょう』とかわるがわるイエスに言いだした」と描かれます (14:19)。

それでイエスは、「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です」(14:20) と言いますが、これは裏切り者をみんなの前であらわにするというよりは、「そのように親しい関係にある者が」という意味です。

福音記者ヨハネは不思議にも、これは詩篇41篇9節のダビデの告白、「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとをあげた」ということの成就であると記します (13:18)。そして、ダビデの詩篇には、そのような親しい友の裏切りを嘆く祈りが何度も出てきます (55:20など)。

そればかりか、ダビデ自身も自分を信頼していたウリヤを裏切り、騙し討ちにしています。つまり、信頼している人から裏切られるというのは、残念ながら、誰にでも起こりえることであり、また自分もそのような行動をとりかねないということなのです。

私たちは、ユダの裏切りの理由を考える以前に、神の御子は人が体験する最悪の痛みをすべて体験してくださったということを受け止めるべきでしょう。信頼していた人に裏切られるようなことがあるとき、裏切られた自分の側に甘さがあったとか、人を見る目がなかったなどと反省することも必要かもしれませんが、それ以前に、それはイエスご自身も体験された苦しみであるということの方に目を向けるべきです。

聖書はユダの裏切りの原因を分析しないことによって、これが誰にでも起こりえることであると示唆しているのではないでしょうか。

その上で、イエスは、「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」と言われました(14:21)。これは、ユダに最後の悔い改めの機会を与えるという意味があったのだと思われます。

もし彼がここで、自分の罪を認めることができていたら、自殺する必要も、地獄に落ちることもなかったはずです。

あるご老人は以前、「年を経るにつれて身軽になってきた……」と言っておられました。それは、自分の期待通りに物事が進まないことを受け入れていった結果です。しかし、ユダの心は、イエスご自身を求めていたのではなく、イエスがもたらしてくれる富、力、栄誉などに目が向かっていました。

あなたが誰かから愛されていると思う時、あなたは、自分自身が愛されているか、それともあなたが持っている何かを愛しているかを敏感に察知するのではないでしょうか。それなのに、あなたは、自分の中にあるユダの心には鈍感になってはいないでしょうか?

3.「取りなさい。これはわたしのからだです」

そして、最後の晩餐の様子が、「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて」、「取りなさい。これはわたしのからだです」と言われたと記されます (14:22)。これは、過越の食事をまったく新しくすることばを述べます。これこそ現在の聖餐式で繰り返されていることばです。

この際、主はパンを手で掲げて祝福を祈り、ご自分の手で裂いてひとつひとつ弟子たちに分けてくださったのだと思われます。

その意味を後にパウロは、「私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンはひとつですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです」(Ⅰコリント10:16、17) と説明します。

そして、ルカの並行記事によると、イエスはパンを与えながら、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われました (22:19)。

主は、目に見えるパンを示しながら、「これはわたしのからだです」と確かに言われました。後の時代の人々はその意味を様々に解釈しました。

カトリック教会では、目に見えるパンはキリストの聖なる身体に変化したと解釈し、パンをご聖体と呼び偶像のように扱うようになりました。一方、私たち自由教会の父祖などは反対の極端に走り、パンは単なるシンボルに過ぎないからスーパーで買った食パンをナイフで切って与えても同じであると解釈しました。

しかし、私たちの教会では、できるかぎりイエスの最初の聖餐式を思い起こさせるパンを用いながら、イエスのことばに解釈を加えずに、そのまま素朴に味わう形を守りたいと願っています。

私たちはその尊い犠牲とされたキリストの身体をこの汚れた口から入れさせていただくのです。それは、私たちが聖なるキリストと一体とされることを意味します。

私たちはパンをいただきながら、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなくキリストが私のうちに生きているのです」(ガラテヤ2:20) と告白することが許されています。

4.「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです」

23節では、イエスが「また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ」と描かれ、その際のことばが、「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです」と言われたと記されます (24節)。

これは、モーセがシナイ山のふもとに作った祭壇で、契約の書を民に読んで聞かせた後、ほふられた雄牛の血をとって民に注ぎかけ、「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主 (ヤハウェ) があなたがたと結ばれる契約の血である」(出エジプト24:8) と言われたことを思い起こさせる表現です。

ルカ22章20節では、主は、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言われたと記され、その文章の基本は、「この杯は、新しい契約です」からなっていますから、杯とともに覚えるべきことは、何よりも「新しい契約」です。

しばしば、「あなたがたのために流されるわたしの血による」と説明された部分ばかりが一人歩きし、キリストの犠牲に習う生き方ばかりが強調される場合がありますが、原文では、「契約」の有効性を保障するためにこそキリストの血が描かれています。

ですから何よりも、「新しい契約」の意味を思い巡らすことが大切です。それは、イエスが私たちに聖霊を与え、私たちを内側からイエスに似た者になるように造り変え、新しい身体に復活させ、新しいエルサレムの祝宴にあずからせてくださるというすべてのプロセスを指す約束です。つまり、この杯を受けるたびに、信仰を全うさせてくださるのはイエスのみわざであるということを覚えるのです。

つまり、イエスは、この最後の晩餐で、古い契約(旧約)に対する「新しい契約」をご自身の弟子たちと結んでくださったのです。私たちは聖餐式のたびに、キリストがご自身の血を流しながら、古い契約」を「新しい契約」に変えてくださったことを思い起こすのです。

ヘブル書の著者は、「もし……雄牛の血……を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。こういうわけでキリストは新しい契約の仲介者です」(9:13-15) と記しています。

ギリシャ語ではこの「契約」と「遺言」は同じ言葉で表されます。英語(ドイツ語)でもたとえば新約聖書を The New Testament と呼び、そこには契約と遺言の両方の意味があります。

宗教改革者ルターは、「契約(遺言)とは、それぞれの約束のことではなく、死に行く者の最後の、訂正不能の意志であり、それによって彼の財産が、彼が相続させたい者に委譲される」と語り、主の最後の約束を思い起こすことが聖餐式の中心であるべきだと主張しました。

また彼は、イエスがパンと杯の両方を分ける際に、「わたしを覚えて、これを行いなさい」(Ⅰコリント11:24、25) と言われたことの意味を、イエスは私たちに、「人よ、この約束を見なさい。このことばによって、わたしはあなたに、あなたのすべての罪の赦しと永遠のいのちを約束し、分け与える」と言っておられることにあると解説しています。

5.「神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」

そして、25節ではイエスは最後に、「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」と言われたと記されます。

これは「新しい天と新しい地」、または「新しいエルサレム」での「小羊の婚姻」の祝宴が実現するときを指します (黙示録19、20章)。

これは断酒の宣言でも、翌日の十字架での死に方の予告でもなく、イエスが私たちすべての弟子たちを天の御国の祝宴に招き、みながそろうのを待ち焦がれているという気持ちを表したものです。私たちは、一緒によみがえって、一緒に祝宴にあずかるのです。先に天に召された人も、その日までは「ぶどうの実で造ったもの」を飲むことなく待っています。

先に天に召された愛する人が、一緒によみがえる日を待ち焦がれています。そして、その時が必ず来ることを保証するのがこの契約の杯です。イエスがあなたの目に見える花婿になる時、それは、失った愛する人、尊敬する人に出会う時でもあります。天の祝宴の影が今ここにあります。

このイエスの最後の晩餐は、天の御国における小羊の婚姻の祝宴と直結しています。私たちはこの聖餐式のたびごとに、「新しい契約」の始まりと、「契約の完成」というふたつの時を記念するように招かれているのです。

パウロは、ピリピの教会に向けて、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成してくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1:6) と言いましたが、私たちはこの聖餐式のたびに、自分の罪に嘆き、信仰の弱さを思い起こしながらも、主ご自身が私たちの信仰を完成してくださるということを堅く信じることができます。イエスは聖餐式を通して、信仰の弱い者の信仰を励ましてくださるのです。

その際、「私たちの過越の小羊キリストがすでにほふられた」(Ⅰコリント5:7) とあるように、イエスはご自身のからだをいけにえとしながら、過越の祭りに新しい意味を与えてくださいました。

パウロは私たちの救いを、「あなたがたは……この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」というサタンの奴隷からの解放、また「私たちもみな、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」という滅びからの解放として描きます (エペソ2:1-3)。つまり、私たちも裏切り者ユダの仲間だったのです。

しかし、イエスのみからだと流された血が、「世の罪を取り除く神の小羊」としての新しい過越のいけにえとなってくださいました。私たちはその救いの御業を、目に見えるパンと杯を越えた現実を霊の目で見て、味わうのです。

今、キリストご自身が、私のからだを養うパンとして入って来て下さいます。また、キリストご自身の血が、くじけやすい私の心を慰め励まし、罪の赦しの確信を生み出してくださいます。

私たちはこのパンと杯を受けながら、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」(Ⅱテモテ2:13) ことを味わうのです。

6.「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります」

ユダはイエスを裏切るという決心を固めた上でこの聖餐式にあずかり、イエスの恵みを徹底的に軽蔑し、自滅してしまいました。恵みの機会が滅びの機会となってしまったのです。

後にパウロはこのユダの悲劇を思いながら、「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります」(Ⅰコリント11:29) と言ったのかもしれません。

なおこれは、自分の罪深さに嘆き、良心の呵責に悩む人を退けることばでは決してありません。事実、パウロはこの直後に、「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません」(同11:31) と言っています。これを結びつけると、聖餐式にあずかることができる条件が見えてきます。

聖餐式にあずかる人は、何よりも、このパンと杯が、単なる普通の食事ではなく、キリストがご自身を十字架で犠牲とされたみからだと血をあらわすものであるということを信じている必要があります。それは十字架の福音の核心を受け入れているという意味です。

それと同時に、イエスが十字架にかかられたのは、自分の罪のためであると認めている必要があります。多くの人は、自分を一方的な被害者にまつりあげることで天才的であり、「私は悪くはなく、相手が悪い……」と思い込んでいます。しかし、そのような気持ちのままこの聖餐式にあずかってはなりません。私たちは人の痛みをいつも自分の尺度でばかりはかり、本当の意味で人に共感することができません。しかし、それが行過ぎるとユダの心になります。

ですからこの聖餐式にあずかるときは、自分にもユダの心があることを認めながら、同時に、ユダのようにイエスの恵みを軽蔑するなら救われないという恐れをもって臨む必要があります。

私たちが幼児や子供にこの聖餐式にあずかっていただくのをご遠慮いただいているのは、彼らがまだ自分の罪深さを反省する能力が十分に育っていないと思うからです。イエスの十字架による罪の赦しの大きさを感動しつつ、この聖餐式にあずかることができるときを期待するからこそ、その機会を遅らせるのです。それは、聖餐式のありがたさをわきまえるようになってからあずかってほしいという意味です。

それからすると、大人の方でも、この聖餐式のありがたさをわきまえておられないなら、それがわかるまで待っていただきたいということになります。

聖餐式こそ初代教会以来の礼拝の中心でした。ただその中で、人々は聖餐式のパン自体に神秘的な力を求め、みことばを軽視するようになりました。宗教改革はみことばの朗読こそ礼拝の中心であるというところから始まっています。

しかし、それが行き過ぎて、イエスが聖餐式において言われた「新しい契約」の意味を忘れ、文字と説教による「教え」ばかりが先行する教会が生まれてきたのかもしれません。しかし、「文字は殺し、御霊は生かす」とあるように、外からの文字による教えは私たちの心に自己嫌悪と失望感を引き起こします。

それに対し、「それが良いことだとわかってはしても実行できない」と自分に失望する人に、慰めと力を与えるのが新約の福音です。

聖餐式においては、イエスご自身が、私たちを生かすためのパンとなり、忘れっぽい私たちのためにご自身の血によって新しい契約を思い起こさせてくださるのです。

そして、それを導くのはキリストの御霊の働きです。聖霊は、聖餐式を通してキリストとの出会いを起こし、私たちの内側に住んで神のみこころを実行させてくださいます。