ホセア11章〜12章「哀れみに胸を熱くする神」

2013年1月20日

どの宗教においても、この世で犯した罪に応じて地獄のさばきを受けるという教えがあります。日本でも、嘘をついたら舌を抜かれる、人を殺したら何度も生き返りながら鬼に食われる、人を貶めたら崖から落とされて針の山で突き刺される、放火をしたら何度も火あぶりの刑で殺される、血も涙もない冷酷な人は血の池地獄に落とされる、などという地獄絵図が描かれて、人々に善行を促しました。 “ホセア11章〜12章「哀れみに胸を熱くする神」” の続きを読む

マルコ14章12〜26節「キリストのからだと契約の血を受ける幸い」

2013年1月6日

イスラエルの民が繰り返し思い越すように命じられたのは出エジプトの出来事、神が彼らをエジプトの国、奴隷の家から連れ出してくださったことで、それこそ旧約聖書の中心テーマです。過越の祭りはそのためにありました。クリスチャンが思い起こすことはキリストの十字架の贖いです。それこそ新約聖書の中心テーマです。聖餐式はそのためにあります。
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ピリピ2章1〜18節「志を立てさせ、事を行なわせてくださる神」

2013年1月1日

私たちはそれぞれ、他の人から見たら不思議に思えるほどの、偏りやこだわりを持ちながら生きているのではないでしょうか。イエスは、人間的な観点から言うと、なぜ十字架にかけられたのでしょう。それは当時の感覚から言ったら、あまりにもバランスを欠いた「過度」のゆえではないでしょうか?世の人々から尊敬を集めている宗教指導者の偽善をあばいて徹底的に批判し、一方で、やくざのような人と仲良く食事をしたのです。 “ピリピ2章1〜18節「志を立てさせ、事を行なわせてくださる神」” の続きを読む

ホセア9章〜10章「正義の種を蒔き、耕地を開拓せよ」

2012年12月30日

この世界では、「下手に出ると付け上がり、強気に出ると相手が折れてくれる」などということがあります。また、話を通すために権力者の力を借りるなどということも有効です。経済で政府の監督権などが強くなると、補助金を引き出す能力が重宝されるようなことが起きます。 “ホセア9章〜10章「正義の種を蒔き、耕地を開拓せよ」” の続きを読む

マタイ1章18〜25節「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」

2012年12月24日

「親の因果が子に報い・・」というのは、とっても嫌な表現ですが、私たちの生きにくさの一面を言い当てているのかもしれません。たとえば、親から虐待を受けて育った子供は、親になった時、「私は親のようには絶対にならない・・」と願っているのに、同じ過ちを繰り返してしまう・・・ということがあります。依存症も、隔世遺伝すると言われることがあります。それに対して、聖書が語る「罪からの救い」とは、そのような「のろい」の連鎖から解放されることです。人はだれも、親を初めとして、自分の人生の基本的な部分を選ぶことはできませんが、神はそれらすべてを「祝福の基」とすることができる方です。 “マタイ1章18〜25節「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」” の続きを読む

イザヤ7章1〜17節、9章6〜7節「神が、私たちとともにおられる」

2012年12月16日

「『神が、私たちとともにおられる』というなら、なぜこんな不条理が放置されているのでしょう・・」という気持ちの中で、神を礼拝しに来るのが苦痛になっている人がいます。また、「神を信じても何も変わりはしない・・」と思って失望感をつのらせる信仰者がいます。しかし、ユージン・ピーターソンはベストセラーとなった信仰の旅路に関する詩篇の解説書のタイトルを、無神論者フリードリッヒ・ニーチェのことば、A long obedience in the same direction 「この天と地において本質的なことは、同じ方向への長い忠実さが必要だということ、それを通してこそ結果が生まれ、それは常に長い期間を通して実現されることである。それこそ、人生を生きるに値するものにするのである」から引用しました。 “イザヤ7章1〜17節、9章6〜7節「神が、私たちとともにおられる」” の続きを読む

マルコ14章1〜11節「福音を生きたひとりの女」

2012年12月9日

故田中角栄氏が「政治は数であり、数は力、力は金だ」と言われたことが、金権政治の哲学と批判されてきましたが、何の既得権益も持たない人が社会に影響力を発揮しようとするときに、このことばは極めて現実的な政治哲学とも言えましょう。私たちもある人の功績をたたえる時、その人が成し遂げた何かを語ります。そして、何かを成し遂げた人は、お金や力や人を使うことに長けている場合がほとんどです。
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ホセア6章4節〜8章14節「神が喜ぶ誠実さとは?」

2012年12月1日

多くの日本人は熱すぎる信仰に恐怖のようなものを感じます。それは自分の確信に熱くなりすぎて、他の人の意見が聞けなくなり、独善的になるからです。そして、その恐れは根拠のないことではありません。 “ホセア6章4節〜8章14節「神が喜ぶ誠実さとは?」” の続きを読む

マルコ13章24〜37節「世界の終わりと思える中で」

2012年11月25日

マルコの福音書13章は、しばしば世界の終わりに関する預言として理解されてきました。しかし、文脈から明らかなように、直接的なテーマはエルサレム神殿の崩壊に関することです。もちろん、これをキリストの再臨に関する教えと理解しても現代への適用は、基本的に変わりはしません。そのことを宗教改革者マルティン・ルターは、「たとい世界が明日滅びると分かったとしても、それでも私は今日、りんごの木を植えるだろう」と言いました。 “マルコ13章24〜37節「世界の終わりと思える中で」” の続きを読む