ナホム1章〜2章2節「敵を用いて謙遜にし、その後に敵をさばく神」

2013年12月1日

日本では昔から、大岡越前(再放送中)だとか水戸黄門などが根強い人気を博しています。これは意外に、若い主婦の間でも人気だということに驚きました。私たちの周りにはいつも自分の力を誇って、人を振り回す人が耐えません。そのような強い人に、ひどい目に合わされることもあります。しかし、私たちはそれを通して、主に祈ることを覚えるとも言えます。

私たちの世界での最大の悩みは人間関係から生まれます。それは教会の中にもあります。大切なのは、主のご支配の中で、あなたをいじめる人が存在し、同時に、主はその人をご自身の時に懲らしめてくださるということを知ることです。あなたに求められていることは、何よりも主の懐に飛び込むということです。

1.ニネベに対する宣告、幻の書

ナホム書のテーマは、アッシリヤ帝国に対するイスアエルの神ヤハウェのさばきですが、アッシリヤ帝国は古代世界でエジプトに次いで古い帝国です。紀元前3000年に都市国家のひとつとして始まり、紀元前1800年ごろにはメソポタミヤの最強の帝国にのし上がり、ハムラビの古代バビロニア帝国と覇権争いを続けつつメソポタミヤ地方を統一して行きます。

紀元前900年ごろには首都をハランに一時的に移し、イスラエルを圧倒する勢力となります。そして、ついには紀元前7世紀にはエジプトにまで進出し、古代オリエント世界を統一します。

まさにアッシリヤ帝国こそは世界最初の異文化、異民族を統一した帝国でした。しかし、エジプトをも完全に支配したと思ったその50年後に歴史の舞台から忽然と姿を消します。

これほど跡形もなく歴史から消えた国はありません。その秘密がナホム書に記されています。この書は、古代世界の様子を理解する上での欠かせない貴重な歴史書でもあります。

ナホム書のメッセージはヨナ書と好対照になっています。預言者ヨナはニネベに遣わされ神のさばきを宣告しました。それに対し、ニネベの人々はそろって悔い改め、ニネベはその後、繁栄を謳歌しました。その後、ニネベを中心としたアッシリヤ帝国は紀元前722年に北王国イスラエルを滅ぼします。

エルサレムを中心としたユダ王国も風前の灯と思われましたが、預言者ミカやイザヤに励まされたヒゼキヤ王が民をリードして、イスラエルの神、主(ヤハウェ)にすがり、主がアッシリヤ包囲軍を直接に滅びしてくださったことにより、奇跡的に独立を保ちます。

ただ、アッシリヤ帝国の圧力はその後もどんどん強まり、その間、ヒゼキヤの後継者マナセは、徹底的にアッシリヤに服従し貢物を納めることで独立を保ちます。マナセの支配下で預言者イザヤは殉教の死を遂げたと思われます。

その後、アッシリヤ帝国はさらに勢力を強め、ついには、エジプト南部の神聖な都市テーベを略奪します。これは当時の世界観をひっくり返す出来事でした。古代世界において、エジプト文明の中心都市がメソポタミヤ地方から生まれた政権によって略奪されるなどということは、誰も想像できなかったことです。ナホム3章8節の「ノ・アモン」とはそのテーベのことを指しています。

ですからナホム書は、このテーベの略奪があった紀元前664年からニネベが滅亡する612年の間に記されたということは確かです。これは誰の目にも無敵の強さを誇った絶頂期の世界帝国の滅亡を告げることですから、当時の人々には荒唐無稽に聞こえたことでしょう。しかし、この書が預言書として残っているのは、まさに、この預言がその通りに実現したからに他なりません。

この書の最初の言葉は「宣告」ですが、これはもともとの意味は「重荷」という意味があります。この書の言葉は、ニネベに重くのしかかり、そのさばきのことばが実現するという思いが込められているのかと思われます。

続いて、「幻の書」ということばが記され、それが示された著者が「エルコシュ人ナホム」であると記されます。エルコシュがどこの地名かは明らかではありませんが、ユダに対する慰めが記されていることからユダの一地方であることは確かだと思われます。ミカの場合と同様に、地名でその人物が描かれているのは、血筋の卑しさを示している可能性があります。

ナホムという名には「慰め」という意味がありますが、この人物に関してはほとんどわかりません。

どちらにしても、「宣告」と「幻」というふたつのテーマが最初に記されているのは極めて珍しいことです。

2.復讐する主(ヤハウェ)

二節の始まりは「ねたむ神」と記されています。これは、「十のことば」の中心にある「ねたむ神」と同じ表現です。主はご自身の民をねたむほどに愛しておられます。ですから、イスラエルが他の神に浮気するときに怒りを燃やされるとともに、ご自身の民を苦しめる者にも怒りを発せられるのです。

そして、ここでは、「復讐する主(ヤハウェ)」と記されています。それに続いて「復讐する主(ヤハウェ)、憤るバアル」という不思議な記述があります。バアルは異教の神の固有名詞のように用いられることもありますが、ここでは本来の「主人」(マスター)という意味が込められています。つまり、ヤハウェの復讐、憤りは、いかなる異教の神々よりも恐ろしいということを強調したのだと思われます。

そして、再び、「復讐する主(ヤハウェ)」ということばとともに、「その仇に」と付け加えられ、「敵に怒りを保つ方」と続きます。ここで「復讐する主(ヤハウェ)」と三回繰り返されるのは極めて異例な、恐ろしい表現です。そしてそれを修飾するように「ねたむ神」「憤る主(バアル)」「敵に怒りを保つ方」ということばが記されます。

主はアブラハムとその子孫に、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」と言われましたが、その子孫をのろったアッシリヤに神ののろいが下るのです。

この前のミカ5章6節では、救い主預言の中で、「彼は、私たちをアッシリヤから救う」と記されていますが、アッシリヤこそは、神の民を迫害する力のシンボルだからです。

「主(ヤハウェ)は怒るのにおそく」とは先の恐ろしいご性質が、感情にかりたてられたようなものではないという意味です。ただ、その怒りが燃えたときの恐ろしさが、「力強い」と表現されます。しかも、「主(ヤハウェ)は決して罰せずにおくことはしない方」ということに、主の公平さが強調されています。

残念ながらこの世界では、権力者の横暴に歯止めがかからないことがあります。そのような中で、多くの人々はただ首をすくめて、嵐が過ぎ去るのを待たざるを得ないことがあります。そして、時には「長いものには巻かれろ」と言いながら、権力者に媚を売り加担して行く人が出て来ます。そのような中で、人々は大岡越前だとか水戸黄門などのような英雄の現れを待ち望みますが、そのような強く公正な指導者への憧れが、次の独裁を招くということを忘れてはなりません。なぜなら、権力は必ず腐敗するからです。

それに対し、主は公正なさばきをくだされる復讐の神であるというのは何よりの慰めなのです。

その上で、「主の道はつむじ風とあらしの中にある。雲はその足でかき立てられる砂ほこり。主は海をしかって、これをからし、すべての川を干上がらせる」という表現に、私たちが「自然」と呼ぶ世界を完全に治め、その自然の猛威と言われるものも、主の前には無に等しいということを示しています。

昔からどの宗教でも、嵐や雷を支配する神が畏れられていますが、主はそれらの神々よりもはるかに恐れられるべき方であるというのです。

「バシャンとカルメルはしおれ、レバノンの花はしおれる」(1:4)とありますが、バシャンはガリラヤ湖の南、ヨルダン川東側の地、カルメルはガリラヤ湖の西、地中海沿いの地、エリヤとバアルの預言者が戦った地、レバノンはガリラヤ湖の北の山地です。

ここではイスラエルと周辺にあるもっとも肥沃な土地も、主のみこころひとつで「しおれる」と繰り替えされているのです。これは肥沃な地が荒野のように何も生み出さない地に変わることを意味します。

5節では「山々は主の前に揺れ動き、丘々は溶け去る。大地は御前でくつがえり、世界とこれに住むすべての者もくつがえる」とは、私たちが高い山々や広大な大地を前にして感動しているときに、それらが主の前にはいかにちっぽけなものに過ぎないかを思い巡らさせるものです。

詩篇46篇に同じような表現があり、そこでは人間的な策略で目の前の問題を解決しようと焦っている人に、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(10節)と語りかけられます。

主こそは、茫漠とした地に、豊かな植物を生えさせた創造主であるということは、その逆もあるということです。主の御怒りによって山々が揺らいで海に沈んだり、この地を溶かされることもあるということです。

6節では主の怒りが三つの異なった表現で描かれ、最初は、「だれがその激怒の顔の前に立ちえよう」と訳すことができます。新改訳で「憤り」と訳されていますが、これは2節とは異なることばで、激怒する主の前に立つことの恐怖が描かれています。

次は「だれがその燃える怒りに耐えられよう。その憤りは火のように注がれ、岩も主によって打ち砕かれる」ですが、「燃える怒り」は怒りの類語を二つ組み合わせたものです。次の「憤り」は2節と同じ言葉で、その憤りの激しさが「火」で、その力が、「岩を打ち砕く」と描かれます。

ローマ人への手紙12章18節以降では、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち自分で復讐をしてはいけません。神の怒りに任せなさい」と記されていますが、この最後の言葉は厳密には、「神の怒りに場所を空けなさい」と記されています。

それは自分で復讐すると、神の復讐の余地を奪うからです。事実、主はその直後に、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」と言われます。

私たちは、主の復讐を知っているからこそ、「敵が飢えたなら・・食べさせ・・渇いたなら、飲ませ」ることができるのです。それが、「善をもって悪に打ち勝つ」ということでした。

私たちが自分の敵に対する恨みから解放されないのは、多くの場合、神の復讐の恐ろしさを知っていないからです。私たちにとって、何よりも大切なことは、自分の気持ちを主に打ち明け、主にすがり、復讐の主(ヤハウェ)との関係を平和に保っていることです。

この頃のユダ王国の王、マナセは、アッシリヤ帝国との平和を保つために徹底的に彼らの要求を聞き入れる一方で、イザヤのように主の救いを求めるようにという預言者を殺し、主の怒りを買うような事ばかりをしていました。

この世の権力者の怒りを恐れ、神の怒りを恐れようとしなかった者が、国を破滅に追いやったのです。

3.主(ヤハウェ)はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである

そして、7節では、それまでと一転して、「主(ヤハウェ)はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる」と記されます。「いつくしみ深く」という原語は、「トーブ」で、「善」と訳すのが一般的です。ですから多くの英語訳は、「The LORD is good」と訳されています。

詩篇34篇8節には、「味わい、見つめよ。主(ヤハウェ)のすばらしさ(善)を。幸いなことよ。主に身を避ける人は」(私訳)と記されています。

私たちにとって最善なことは、主のふところに飛び込むことです。私たちはどこかで、イエスは罪人のために十字架にかかられたことを忘れ、自分の正義を主張し、自分の正しさに応じて、主はあわれみを注いでくださると誤解してはいないでしょうか。

たとえば幼い子供があなたの前で自分の正義を主張するのと、泣きながらそのふところに飛び込んでくるのと、どちらが可愛いと思うでしょう。主も同じようなお気持ちを私たちに抱いておられます。

一方、主はご自分の敵に対しては、「しかし、主は、あふれみなぎる洪水で、その場所を滅ぼし尽くし、その敵をやみに追いやられる」と言われます。2章6,8節でニネベが洪水に流される様子が示唆されています。それは、永遠の繁栄を謳歌すると思われた町が、一瞬のうちに滅び去る空しさを表現しています。

9節からは一転して、アッシリヤ帝国の指導者自身を叱責することばになっており、「あなたがたは主(ヤハウェ)に対して何をたくらむのか。主はすべてを滅ぼし尽くす。仇は二度と立ち上がれない」と記されます。

彼らはイスラエルの神ヤハウェを侮っていますが、彼らはそのことが自分にどのような破滅を招くかを知らざるを得なくなります。

そして、彼らに訪れるさばきが再び三人称で、「彼らは、からみついたいばら。大酒を飲んだ酔っぱらいのようであっても、かわいた刈り株のように、全く焼き尽くされる」(10節)と述べられます。

「からみついたいばら」とは身動きができなくなっている状態、「酔っ払い」とは、戦う力を失っているという意味です。そして、彼らは主の攻撃の前に「かわいた刈り株のように」たちまちのうちに焼き尽くされるというのです。

それでいて11節の「あなたのうちから」は二人称の女性形ですから、これはニネベを指し、「主(ヤハウェ)に対して悪巧みをし、よこしまなことを計る者が出たから」と非難されます。9節と同様に、「主(ヤハウェ)に対するたくらみ」ということばが繰り返されていますが、神の都エルサレムに対する「たくらみ」は、主ご自身に敵対するものと見られています。

しかも、ここでは「悪い」ということばが重ねられ、しかも、「よこしまなことを計る者」と、具体的にニネベの国家戦略のことが非難されます。

このときのアッシリヤはヨナの説教で悔い改めたときとは正反対に傲慢になり、力づくで略奪するような横暴さと残忍さで有名な国になっていました。彼らはそのつけを支払うことになるのです。

4.わたしはあなたを苦しめたが、再び、あなたを苦しめない。

12節からはユダに対する慰めが語られます。まず、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる」ということばとともに、神の民に対する驚くべき救いのご計画が明らかにされます。

まず、「彼らは安らかで、数が多くても、刈り取られて消えうせる」というのは、アッシリヤの滅亡を告げることばです。「安らかで」とはシャロームの訳ですが、これは彼らの繁栄を指した言葉です。つまり、彼らが経済的に繁栄し多くの軍隊を持っていても、跡形もないように「刈り取られて消えうせる」というのです。

それと同時に、主はユダに対して、「わたしはあなたを苦しめたが、再び、あなたを苦しめない。今、わたしは彼のくびきをあなたからはずして打ち砕き、あなたをなわめから解き放す」(12,13節)と言われます。

これはまず第一に、アッシリヤの背後には主ご自身がおられて、主ご自身がユダを苦しめていたということです。ですから彼らが恐れるべきは、アッシリヤではなく、主ご自身であったということです。

それと同時に、主は今、アッシリヤを滅ぼすことによって、ユダをその「くびき」と「なわめ」から解放するというのです。

14節の「主(ヤハウェ)はあなたについて命じられた」ということばは、新改訳ではユダに対することばかのようにも理解されますが、これはアッシリヤに対するさばきのことばと取るのが一般的です。第一の文章は、新改訳の脚注で、「あなたの名はもう蒔かれない」が直訳であると書かれていますが、これは、「お前の名を継ぐ子孫はもはや出ない」(フランシスコ会訳)と意訳できます。

そして、「あなたの神々の宮から、わたしは彫像や鋳像を断ち滅ぼす」というのは、彼らの偶像の宮を主ご自身が断ち滅ぼすという意味です。そして、続く文章も、「あなたはつまらない者であるから、わたしはあなたの墓を用意する」と訳し、彼らを死を宣告することばと理解することができます。

そして、15節ではユダに対する福音が明確に記されます。まず、原文では、「見よ。山々の上にある、足が、良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の」という語順になっています。

それは、ユダの山地を福音が巡り歩く喜びを描いたものです。そして、「良い知らせ」とは、何よりも、「平和(シャローム)」の実現にあるというのです。

この記述は、イザヤ52章7節に極めて似ています。そこでは、「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は」と記されています。ナホムはイザヤを参考にこのように記したのでしょう。

そしてここでは続けて、「ユダよ。あなたの祭りを祝い、あなたの誓願を果たせ。よこしまな者は、もう二度と、あなたの間を通り過ぎない。彼らはみな、断ち滅ぼされた」と、アッシリヤの滅亡が告げられます。

「よこしまな者」ということばは11節の「よこしまなことを計る者」と基本的に同じ言葉が用いられています。今までも繰り返し、アッシリヤの滅亡が告げられていますが、ここでは結論のように、「彼らはみな、断ち滅ぼされた」と強調されます。

なお、ここでは、「あなたの祭りを祝い」ということばと合わせて、「あなたの誓願を果たせ」と記されているのは興味深いことです。誓願は、主の特別なみわざを期待して、そのために自分の側から何かの犠牲を払うことを約束する行為ですが、将来への希望があるからこそ、誓願ができるということに意味があります。

彼らは、主の過去の救いの御業を覚えて祭りを祝うとともに、主が開いてくださる明るい未来に期待して誓願を果たすのです。

2章1節はアッシリヤの対するのろいの宣言です。「散らす者が、あなたを攻めに上って来る」とは、アッシリヤを滅ぼすメディヤとバビロンの連合軍の攻撃を示唆したものだと思われます。それに対し、皮肉を込めて、「塁を守り、道を見張り、腰をからげ、大いに力を奮い立たせよ」と告げられます。

そして、3節以降で戦いの様子が描かれますが、彼らは今絶望的な戦いに向かおうとしています。彼らは万軍の主(ヤハウェ)を敵にしてしまったからです。

そして、2節では再び、「主(ヤハウェ)は、ヤコブの栄えを、イスラエルの栄えのように回復される」と記されます。ヤコブの栄えもイスラエルの栄えも区別はないはずですが、そこには、かつてのダビデ、ソロモンのイスラエル王国の栄光を、「ヤコブの残りの者」(ミカ5:8)が回復するという希望が告げられているのだと思われます。

「かすめる者が彼らをかすめ、彼らのぶどうのつるをそこなったからだ」とは、かすめる者としてのアッシリヤがイスラエルの北の部族を滅ぼし、彼らの神の民としての統一性を永遠に損なったと思ったことが逆転されるからです。

アッシリヤ帝国は驚くべき力を持って古代オリエント世界を統一しましたが、彼らはその成功のゆえに傲慢になりました。この書が記される50年余り前に彼らはエルサレムを包囲しながら、主のさばきを受けて退却しました。しかし、彼らはそれから学ぶことがなかったため、忽然と歴史の舞台から姿を消すことになったのです。そこにヤハウェを侮ることの恐ろしさが現されています。

ところで、主に最も愛されたダビデも主の激しい怒りを感じて悶々とした時期があります。それは忠実な家来ウリヤの妻を奪い、ウリヤをだまし討ちにした後のことです。彼は詩篇38篇で以下のように嘆いています。

「主(ヤハウェ)よ。憤りによって、責めないでください。激怒(げきど)のあまり、私を懲(こ)らしめないでください。あなたの矢が 私を刺し抜き、御手(みて)が私の上に重くのしかかりました。御怒のため、私の肉には健全なところがありません。私の罪のため、骨にもやすらぎ(シャローム)がありません。私の咎(とが)が、この頭を圧倒し、重過ぎる重荷のようになっています。私の傷は うみただれ、悪臭を放ちました。それは私の愚かさのせいです。私はうなだれ、ひどく打ちのめされ、一日中、嘆きながら歩いています・・・見捨てないでください。主(ヤハウェ)よ。私の神よ。遠く離れないでください。急いで、助けてください。 主(アドナイ)よ。私の救いよ」

ダビデは自業自得の罪で、神の怒りを感じながら、神のふところに飛び込みました。そして、ダビデの子のイエスは、自分の罪ではなく、全人類の罪を担うため罪人と同じ姿になり、罪人の代表者としてこの詩篇の祈りをもって神の怒りに向き合ってくださいました。

私たちはどこかで、この世界の罪に対する神の怒りや憤りをあまりにも軽く考えすぎてはいないでしょうか。御子の十字架の陰に隠れることがなければ、私たちは神の激しい怒りをその身に受けざるを得ないのです。

イエスにすがる者の罪は、全て赦されています。しかし、その赦しを軽蔑する者たちに対しては、神の燃える怒りが向けられるのです。彼らにはアッシリヤと同じ絶滅の運命が待っています。ですから私たちは、神のさばきを恐れて敵のために祈りましょう。

今週からアドベントです。それは、「神の怒りが天から啓示されている」(ローマ1:18)中で、神の御子ご自身が、神の怒りをその身に引き受けるために人となってくださったことを覚える季節です。

神がもたらしてくださった救いは、奇想天外です。この世の悪を、天からの火でたちどころに滅ぼす代わりに、御子の犠牲によって私たちを罪ののろいの支配から贖い出そうとする不思議な計画でした。