Ⅰテサロニケ4章「主イエスが命じた歩み方」

2013年11月24日

クリスチャン生活の核心とは、いつでもどこでも、三位一体の神との交わりの中に生きることです。ただ、もっと具体的に、日々の歩み方において、神を知らない人々とどのような違いが生まれるべきかに関して、本日の箇所は三つの観点からわかりやすく解き明かされます。それは、性道徳、お金、死生観です。

しばしば、キリスト教には明確な戒律がないと言われますが、この三つの観点からはこの世の常識から区別される必要があります。それは禁止命令と言うより、神のイメージを世界に現すという崇高な目的のためです。

私たちはそれぞれかけがえのない神の子供とされ、イエスの弟、また妹とされ、聖霊の宮とされました。その恵みを現す歩み方があるのです。

1.「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」

4章1節からは話題が変わり、信仰生活の実際がテーマになります。その最初にパウロは、「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します」と記し、続く文章では、「歩む」という言葉が二回繰り返されています。

第一は「あなたがたの歩み方と神を喜ばせることにおいて、何が必要か」を、「私たちから学んだ」ということを思い起こさせています(私訳)。

第二に「事実いまあなたがたが歩んでいるように」と彼らが教えられたことを実践していることを評価します。

その上で「ますますそのようになるように」と、成長することを勧めました。私たちの信仰は、日々の生き方に変化をもたらすものであり、それはますます成長して行くものであるというのです。

その上で2節では、「私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています」と、これから書くことが新しい事ではなく既に彼らに知らせていたことであることを思い起こさせます。

パウロはまず最初に、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」と断言します(3節)。その背後には、レビ記19章2節の有名な言葉があります。そこには、「あなたがたの神、主(ヤハウェ)であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」と記されており、このみことばはⅠペテロ1章16節でも引用されています。それは、神の聖さの基準に従って隣人を愛することであり、その核心は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)と言い表されます。ですから、聖くなる」とは性的な純潔という以前に、隣人愛全体にかかわることです。

しかし、マケドニヤの中心都市、交通の要衝となる貿易港をかかえたテサロニケのような当時の大都会では、性的な無軌道が最も大きな課題になっていました。ですからパウロも、クリスチャン生活の実際として、性的な純潔さを格別に強調する必要がありました。

しかも当時のギリシャの貿易港にある神殿は、神々を礼拝することと、そこに巫女と性的な交わりをすることが一連の礼拝プログラムになっていたほどです。

そして、ここでは「聖くなる」ということが三つの不定詞で描かれます。

その第一は、「あなたがたが不品行を避け」るということです。不品行とは英語のポルノの語源ですが、神が定めた正常な夫婦間の性的な交わりを除くすべての性的な行動です。そこには当然ながら、ホモ・セックスの問題も入っていました。最近はそのことが、性同一性障害というパーソナル障害の問題と混同され、正当化されますが、聖書は、男女の婚姻関係以外の性的な交わりをすべて不品行の罪として断罪します。

そのことは、レビ記20章10-16節に以下のように記されています。

「人がもし、他人の妻と姦通するなら・・姦通した男も女も必ず殺されなければならない。人がもし、父の妻と寝るなら、父をはずかしめたのである。ふたりは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある・・・男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある・・・女がもし、どんな動物にでも、近づいて、それとともに臥すなら、あなたはその女と動物を殺さなければならない。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある」

ここには父の妻と寝ることと、男が男と寝ること、女が動物と共に臥すことが同列に死刑として断罪されています。もちろん、レビ記の死刑規定を現代に適用することはできませんが、そこに神のみこころが明確にされています。

第二は、「各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず」ということでした。「からだ」とは厳密には、「器」ということばが用いられており、またここでの「異邦人」とは、まことの神を知らないすべての者という意味です。

Ⅱコリント4:6,7では、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」と記されますが、ここでの「宝」とは、「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」を指しています。

つまり、まことの神を知るということは、同時に、それを入れる「土の器」を「聖く、尊く保つ」ということなのです。

彼はまたⅡコリント6章15-20節では、遊女と交わること自体を、「自分のからだに対して罪を犯す」ことと非難し、「あなたがたのからだは・・聖霊の宮」であると真の誇りの自覚を促しています。

つまり、まことの神を知るということは、同時に、情欲におぼれる」生き方を離れ、自分の身体を「聖霊の宮」として「聖く、尊く保つ」ことなのです。

第三に、「また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです」(4:6)と言われますが、これは信仰の友の妻との性的な交わりを求めないということを婉曲的に表現したとも思えますが、それをもっと広く解釈して、自分の隣人の人格を傷つけたり、大切にしているものを欺き取ったりしないこと全般を指すとも思われます。

パウロは、特にこの隣人との関係に関して、「なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです」(4:6)と述べていますが、「正しくさばかれる」とは厳密には、「復讐者」と記されています。

信仰の兄弟を踏みつけたり欺いたりすることに対しては、主ご自身が復讐してくださるというのです。これこそパウロが厳しく警告していたことでもありました。

これらすべての結論として、「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです」と(7,8節)と記されます。

「聖潔を得させる」とは、3節の「聖くなる」、4節の「聖く」ということばと同じです。これは、これらの命令を拒む者は、「聖霊をお与えになる神を拒む」ことになると厳しく命じたものです。

これは恐ろしい表現です。私たちは情欲に負けがちの自分の弱さを神に正直に認め、聖霊のみわざにすがる必要があります。

2.互いに愛し合うことと、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働くこと

4章9-11節では「兄弟愛について」語られます。まずパウロは、「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです」とテサロニケ教会に見られる兄弟愛に関して徹底的に称賛しています。

興味深いのは「神から教えられた」ということばは一つの単語になっていることです。これは、彼らは「互いに愛し合う」ということを、人の勧め以前に、神ご自身から直接に神の霊感によって教えられたということを意味するのだと思われます。

とにかく、これはパウロが性的な聖さに関して、繰り返し語ったであろうこととは対照的に、パウロがほとんど教えもしないのに彼らが実践し始めたことだったようです。

紀元200年ごろ、テルトゥリアヌスは護教論において異教徒たちがクリスチャンを指して、「見ろ。奴らは互いに愛し合っている」「奴らは仲間のためならいつでも死ぬ覚悟でいやがる」と不思議がっていたことが記されています。

また彼らは、クリスチャンたちが互いを「兄弟」と呼ぶことを攻撃したとのことです。それに対して彼は、「われわれは財産を分ち合うことに何の躊躇もしない・・妻を除けばすべてを共有している」とも記しています。

そして、彼らの互いの間の愛は、近隣のピリピとかベレヤなどの他のマケドニヤの教会にまで広がっていました。そのことが、「実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています」(10節)と記されています。

ただ、パウロはそれで満足することなく、「しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください」(10節)とも勧めます。この「ますますそうであってください」ということばは、1節の終わりの表現と同じです。信仰者の成長には、もうこれ以上は必要ないということはないからです。

またパウロの勧めはさらに、「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」(11節)と続きます。これはテサロニケの人々の中に生まれたキリストの再臨を待ち望む思いが、落ち着いた生活を妨げる恐れがあったからです。

「自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」ということばは、パウロ自身がテント作りをしながら生活費を稼いでいたことを彼らに思い起こさせます。

そして最後に「私たちが命じたように」と付け加えます。当時のギリシャでは、「自分の手で働く」というと奴隷労働を意味しました。それに対し、パウロは自分で模範を示しながら、一人一人が自分の手で働くことを勧めたのです。

次に、そのような仕事に精進することの目的が二つの観点から描かれます。

その第一は、「外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ」るためでした。これは厳密には、「外の人に良く映る歩みをする」という意味です。いつの時代にも、怠惰な生き方は、周りに人に良い印象を与えません

そして第二は、「また乏しいことがないようにするためです」と記されます。これは、単純に、ひとりひとりが自分の仕事に精を出さなければ、どこかで共同体として破綻が来るという意味です。

彼らは豊かな兄弟愛によって互いの必要を満たしていましたが、そのうちに、神を礼拝し、互いに愛し合うことを実践すれば、すべての必要は満たされるという錯覚に陥ったかもしれません。実際には「自分の仕事に身を入れ」、教会の外の人々にも評価される働きをしていなければお金は入って来ません。この世の仕事を軽蔑したり、外の人の評価を意に介さなくなることは、危険な宗教の始まりです。

先に「兄弟愛については」教える必要を感じなかったということと、ここで、「自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」と「私たちが命じた」と強調している中にテサロニケ教会の問題を垣間見ることができます。彼らは、主イエスの再臨が近いということを短絡的に信じたため、長期的な仕事の設計を立てることを忘れ、自分たちが蓄えて生きた財をみんなのためにどんどん使って行ったのだと思われます。

しかも、今まで、奴隷の仕事をしていた人も、働かなくても教会の食事の交わりに参加することで腹を満たすことができるようになりました。ですから後にパウロはテサロニケの手紙第二では、「働きたくない者は食べるな」(3:10)と厳しく語る必要があったほどです。

パウロは、貧しい兄弟を支えるために自分の手で働き、どんどん分ち合うことは、「ますますそうしなさい」と言いました。

しかし、仕事をする機会と能力がある人には、ますます自分の仕事に身を入れるようにと強く進めています。

3.天と地が一つにされ・・私たちは、いつまでも主とともにいることになる

4章13節から18節までパウロは、キリストの再臨のときに起こることを記します。テサロニケ教会はなにしろ三週間余りのパウロの伝道で生まれた若い教会ですから、旧約聖書を通読したこともないような人々が中心でした。

そこで生まれていた誤解の第一は、既に死んでしまった人は、キリストの再臨の際にはキリストと出会うことができないのでは、と心配したことでした。なぜなら、イエスが復活の後、四十日の間弟子たちにご自身を現し、その後、彼らの見ている間に天に「上げられ、雲に包まれて、見えなくなられ」ましたが、そのとき御使いが弟子たちに現れ、「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たと同じ有様で、またおいでになります」と告げました(使徒1:9,11)。

当時の弟子たちは、これを、自分の生きている間に実現することと期待し、そのキリストの再臨の姿を見ることができない者は、神によってさばかれた結果、先に死んでしまったのだと誤解し、「悲しんでいた」のかと思われます。

それに対し、パウロはまず、「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません」と言いました。彼はまず、「死んだ人」と言う代わりに「眠った人々」と言いました。先に死んだ人は、アブラハムやダビデのような信仰の勇士と共に眠った状態に置かれているというのです。

神に信頼して死んだ人と、神の救いを嘲りながら死んだ人とは自ずと違いが生まれます。そのことが「あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないため」と記されます。信仰の生涯を全うした人々には、この世の人々にはない、生きた希望があることは明らかです。

そして、パウロは引き続き、「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです」(14節)と言います。この基本は、イエスが死んで復活したように、先に死んだ人も復活するという意味ですが、不思議なのは、ここは厳密には、「イエスを通して眠った人々を主とともに導く」と記されていることです。

信仰者の死は、何かわからない世界に行くことではなく、イエスを通して眠り、イエスと共に導かれることなのです。

その上でパウロはまず、「私たちは主のみことばのとおりに言いますが」(15節)と、これがイエスご自身から出た言葉であると強調しながら、「主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んで(眠って)いる人々に優先するようなことは決してありません」と、再臨の時に生き残っている者と、既に眠っている人との間に差がないことを強調します。

なおここで、主が「再び来られる」と記されている言葉は、原文で、主の「現れ(パルーシア)」ということばが用いられています。これは「王の現れ(訪問)」というときに使われる言葉です。

つまり、主の再臨とは、目に見えなかった王、支配者が目に見える形で現れ、ご自身の支配権を明らかにするときでもあるのです。

その栄光に満ちた様子が、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます」(16節)と描かれます。

神がシナイ山に下りて来られたときのことが、「角笛の音が非常に高く鳴り響いていたので、宿営の中の民はみな震え上がった…それは主(ヤハウェ)が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙はかまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた」(出エジ19:16-18)と、主(ヤハウェ)の現れの恐怖が描かれています。同じことがイエスの現れの際に起こるというのです。

また、詩篇18篇には、「主は、天を曲げ、降りて来られた・・ケルブに乗って飛び・・暗い雨雲、濃い雲を仮住まいとされる。主(ヤハウェ)は天に雷鳴を響かせ、いと高き方は、雹と日の炭を伴い御声を発せられた」(9-13節私訳)という表現がありますが、それとも似ています。

とにかくここは、イエスが全世界を支配する王であるという栄光の現れが描かれているのです。

そのときのことが、「それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり」と、初めてここで「死者」という言葉とともに「よみがえり」が描かれます。つまり14節にあったように、「イエスを通して眠った人々」が、イエスが死んでよみがえったように、主とともに初めに」導かれるというのです。

そして、「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」と描かれます。

ここで「一挙に引き上げられ」ということばは一つの単語ですが、これは一瞬のうちに捉えられることによって「たちまち彼らといっしょに雲の中に」移動することを指しています。

ここで強調されているのは、「引き上げられる」ことよりも、一瞬のうちに初めによみがえった人々と共に栄光の雲に包まれるということです。これは、しばしば「空中携挙」と呼ばれる現象よりも、生きている者も復活した死人と同じ栄光の姿に変えられ、主の栄光を現す雲に包まれることを意味します。

Ⅰコリント15章52節では「終わりのラッパとともに・・・死者は朽ちないものによみがえり」という記述とともに、生きている「私たちも変えられる」と、再臨の時に生きている者が一瞬のうちに朽ちない身体に変えられることが強調されます。

しかもこの「雲」は、ダニエル7章13節で、「人の子のような方が天の雲に乗って来られ」父なる神の前に導かれて「主権と栄光と国が与えられ」と描かれる栄光の雲を意味します。

しかも、そのゴールは、「国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる」(同7:27)という神の民による支配にあります。

しかも、ここでの目的は、「空中で主と出会う」ことにあります。それは、それから空中に住まいを得るためではなく、主とともに天から下ってくるためです。

当時、皇帝が植民都市に現れた際(パルーシア)、町の住民はまず町の外に出て皇帝を出迎え、皇帝を先頭にして町に入ってくるという迎え方をしました。それと同じように、イエスが天から地に下ってこられるとき、私たちがまず主を包む雲の中に、復活の身体に変えられて移動し、主と共に地に下り、この地をキリストと共に支配することになるのです。

しばしばこの描写から、信仰者がこの問題に満ちた地から密かに突然、引き上げられ(携挙)、この地の問題解決は残され復興したイスラエル王国に任され、クリスチャンは天からこの地を治めるというような情景を思い浮かべる方々がいますが、そのような聖書的根拠はあいまいです。

少なくともある朝目覚めてみたら真実な信仰者は天に引き上げられ、偽善的な信仰者が地に残されていたなどということはありません。なぜなら、主の現れは、「神のラッパの響きのうちに」起こると記されているからです。

そればかりか「空中」は、「空中の権威を持つ支配者」(エペソ2:2)というサタンの権力の現れる場ですが、その空中にキリストの支配か貫徹されるのです。

そして、最大の慰めは「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」という保障です。現在は、キリストが天におられ、私たちがこの混乱に満ちた地にあり、空中がサタンの領域という分裂状態がありますが、主の栄光の現れの時には、天と地が一つにされるというのです。

そして、パウロは、「こういうわけですから、このことば(複数)をもって互いに慰め合いなさい」と述べました。私たちは天国に引き上げられて主をたたえながらハープ演奏を聞いてくつろいでいるような天国観を抱いてはいないでしょうか。

私たちはキリストとともに「新しい天と新しい地」を「治めるのです。そこではエデンの園にあったように労働が喜びになります。また、互いの弱さを隠すことなく、そのままの存在を喜び合うことができます。

それは愛の交わりが完成する場所です。そこで夫婦関係が見られないのは、愛を学ぶ地上の学校を卒業したからです。

私たちのうちには既に聖霊が宿っておられます。私たちはこのままの姿で、神のイメージをこの世界に証することができます。その際、私たちが性道徳、お金、死生観のすべてにおいて、この世の常識を超えた歩み方を提示できる必要があります。

「情欲におぼれず」家族を大切にし、地道な生活をしてお金を稼ぎ、それを愛の交わりのために用い、肉体的な死を乗り越えて、イエスとの永遠の交わりを、今、ここで意識して毎日を生きるのです。

私たちの人生のゴールは、たましいが肉体の束縛から解放されて「極楽」に憩うことではありません。私たちのからだが、キリストが復活したように造り変えられ、神の平和に満ちた「新しい天と新しい地」において、神を礼拝し、喜びつつ「世界を治める」ことです。

この地でのクリスチャン生活とは、そのためのリハーサルのようなものです。