Iテサロニケ1章1節〜2章12節「生き方を通して伝わる福音」

2013年9月29日

私たちの教会では、聖書を誤りのない神のことばであると信じ、告白しています。神のみことばには私たちの生き方を変える力があります。ただし、みことばは、決して、この世の成功者の座右の銘のようなものではありませんし、格言のような情報でもありません。

神のみことばは、いつの時代にも、生きた人格を通して伝えられてきました。のろわれた民モアブの生まれであったルツは、義母のナオミに対して、あなたの神は私の神です」と告白することによって神の民に受け入れられました。

私たちもどこかで、生きた人格の中に生きて働いている神を認めて、「あなたの神は私の神です」と告白したのではないでしょうか。そして、私たちの生き方を見て同じように言ってくれる人に福音がさらに伝わります。

しかし、それは決して、「イエスを信じたら、こんな立派な人間になれる!」という意味での「模範」ではありません。悩み、落ち込み、葛藤する生きた人生の中に生きて働く神が証しされるのです。

しかも、キリスト教国ではない日本で起きる回心こそ新約聖書が記された時代のギリシャ人の回心に似ています。私たちは、キリスト教国の大教会などよりもはるかに、テサロニケ教会の人々の気持ちがわかるはずなのです。

しかも、この手紙を受け取ったときのテサロニケ教会は私たちの教会よりも小さかったことは確かだと思われます。

1.「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ・・・」

テサロニケ人への手紙はパウロ書簡の中でガラテヤ書についで古い手紙です。それは紀元49年から51年にかけてパウロの二回目の伝道旅行の際に、コリント市に一年半滞在したときに書かれた手紙だと思われます。

彼はアジアでの伝道が聖霊によって差し止められ、途方に暮れましたが、「マケドニア(ギリシャ北東部)人の叫び」の幻を見て、神がギリシャ人の地で福音を宣べ伝えさせようとしておられると気づきます。彼は最初にマケドニアのピリピで伝道しますが、激しい迫害に会い、西のテサロニケに向かいました。そこは10万人もの人口を抱えていた大都市でした。

パウロはユダヤ人の会堂に入って行って「三つの安息日にわたり」イエスこそが救い主であることを証しました(使徒17章)。しかしその後、ユダヤ人の怒りを買って夜のうちにベレヤという次の町に行かざるを得なくなります。つまり、テサロニケ教会はたった三週間あまりの伝道の働きで生まれたのです。

パウロは当然ながら生まれたばかりの教会において福音が正しく理解されているかが心配なり、この手紙を書くことになります。ですからこの手紙は、つい最近になってキリスト信者になった人々に、福音の核心を解き明かす画期的な書物です。

パウロは最初に、「シルワノ、テモテ」との連名で、「テサロニケ人の教会へ。恵みと平安」を祈りつつ、「いつもあなたがたすべてのために神に感謝し」ていると言いつつ、祈りの内容を、「絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています」と記します(1:1-3)。

そこで彼は信じて間もない信者の中に起きた三つの変化を述べています。それは彼が後にコリント人への手紙で、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」(Ⅰコリント13:13)と記していることにも通じます。

興味深いのは、「信仰」は行いと対比されるものではなく行いの源泉であり、」とは好ましい感情である以前に苦しむことであり、また、「希望」とは期待に胸を膨らませること以前に不本意な状況の中に留まり続けるということです。

このことばの組み合わせにはとてつもない深い意味が込められています。テサロニケの教会はパウロによる開拓以来、激しい迫害と困難の中におかれていました。そこで生きてくるのがこの三つの信仰の果実でした。

そしてパウロは、「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです」(1:4,5)と記します。

これはその信仰が彼らの知性や求道心によるものではなく、「神の選び」の結果であるというのです。それを証明するのが、福音が「ことば」だけではなく、人智を超えた「力と聖霊と強い確信」によって伝えられたということです。

「力」とは神の臨在を示すしるしです。テサロニケにおける奇跡は使徒の働きには描かれていませんが、その前のピリピではパウロとシラス(シルワノ)が獄舎に捉えられながら賛美の歌を歌っていると、突然、大地震が起こって獄舎の土台が揺れ動き、とびらが全部あいて、みなの鎖が解けるというようなことが起きています。テサロニケにおいても人々を信仰に導く何らかの偉大な力が働いたことでしょう。

また「聖霊による」とは、これほど短期間のうちに信仰に導かれるというのは、人間の説得によるのではなく聖霊の働きだからです。

また「強い確信」とは、人間的には信仰を持つことが損にしか思えないという逆説があるからです。

そして、それが具体的にどのように現されたかについて、「私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています」と記されます。

テサロニケの人々は、パウロを初めとする三人のキリストの弟子たちのふるまいを通して、そこに「力と聖霊と強い確信」を見ることができたからです。

そしてパウロは彼らの回心のことを振り返り、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました」(1:6)と述べます。ここは原文では、「あなたがたも、私たちにならう(まねる)者となりました。それは主にならうことですが・・」と記されています。つまり、回心とは何よりも生き方の変化が次々と伝染するようなものであるというのです。

原文の順番ではその上で、「多くの苦難」と「聖霊による喜び」が対照的に描かれています。人間的には「多くの苦難」は悲しみの原因でしかないはずなのですが、そのような逆境は聖霊による喜びを証する舞台となるというのです。なぜなら、人間的な喜びは様々なことが期待通りに実現するなかに生まれますが、聖霊による喜びは、そのような外面的な悪い環境から生まれるからです。

そして、そのような回心こそ、パウロたちが「こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです」(1:7)と喜んだことでした。

ここでは、「ならう(まねる)者」「模範」という多くの現代人が抵抗を覚えがちのことばが重なって記されています。ただ、これは決して、万人の模範となる道徳的な生き方と言うのではありません。それなら彼らは迫害を受ける必要はありませんでした。

模範となるのは、まさに、彼らが当時の人々の常識を超え、ひんしゅくを買い、異端者だと罵られながら、なお、そこで「聖霊による喜びを持ってみことばを受け入れた」ということなのです。

つまり、彼らはこの世の人々の期待に縛られない、この世の常識を超越した生き方ができるという意味で「模範」になったのです。つまり、この世の「模範」にもならないという模範なのです。

2.「神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっている」

「主のことば」に対する彼らの感動が、パウロたちの働きを超えたところで、ギリシャ人の地域に次々と広まった様子が、「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです」(1:8)と記されます。

そして9,10節の原文はまず、「彼らは私たちに関して、どのようにあなたがたに受け入れられたかを言い広めています」と記されています。言い広めた「彼ら」とは7節の「マケドニアとアカヤ(ギリシャ北東部と南部)のすべての信者」ばかりか、彼らを含む不特定多数の人々だと思われます。

そして、パウロたちがテサロニケの人々に大きな感動をもって受け入れられたことの結果、つまり、福音がもたらした変化に関して二つの観点から述べられます。

その第一は、「あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って生けるまことの神に仕えるようになり」ということです(1:9)。

テサロニケで信仰に導かれた人々の中心は、ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)に話を聞きに来ていた「神を敬うギリシャ人」(使徒17:4)でした。彼らはユダヤ人の神ヤハウェに魅力を感じてはいましたが、まだローマ人やギリシャ人が拝んでいた様々な偶像を捨てる決心はついていなかったのかかもしれません。

彼らはパウロの話を聞いて、偶像の神々を拝むことをきっぱりとやめて、「生けるまことの神」ヤハウェに「仕える」者となりました。

しかも当時のローマ帝国では、亡くなった歴代の皇帝、ユリウス・カエサル(シーザー)やアウグストスなどが神として祭られていました。

当時はユダヤ人に対しては例外的に、ヤハウェ以外の神々を礼拝しないという特権は認められていましたが、パウロの教えに従った人々は、ユダヤ人になるということもなく、それまでの慣習をいっきに捨てるというのですから、それは大きな問題になりました

これは私たちの回心にも言えることです。クリスチャンとして生きることの第一は、何か、道徳的な生き方をするということ以前に、日本の伝統的な宗教がらみの習慣から離れて「生けるまことの神に仕えるようになる」ということです。

そこには当然、様々な軋轢が生まれます。「お前はご先祖様の事をどう思っているのか・・・日本の文化的な伝統を否定するのか・・」などと言われることでしょう。

しかし、それこそ回心の核心なのです。私たちの信仰は、本来、この世の価値観と衝突するべきものなのです。

そして、第二は、「天からの(ヤハウェの)御子を待ち望むようになった」(1:10)ことです。そして、その「御子」のことが、「神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス」と説明されます。

つまり、再臨信仰こそが核心であるというのです。ただし19世紀以来、再臨信仰の名のもとに、様々な誤った教えが広がり、そこには私たちのこの地に対する責任を軽視するような教えもあります。

私たちはキリストの再臨の意味を、まず何よりも旧約聖書、特に預言書から見る必要があります。なぜなら、パウロが宣教していた時代には、旧約聖書しかなかったからです。キリストの再臨の意味を最も分かりやすく解き明かすのはイザヤ書11章です。

そこでは「エッサイの根株から新芽が生え・・・その上に、ヤハウェの霊がとどまる」というキリスト預言から始まります。このみことばはクリスマスの際によく読まれますが、それに続く6節以降では、「狼は子羊とともにやどり、ひょうは子やぎとともに伏し・・・獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ」と、この世界から弱肉強食が消え、神の平和が全地を満たす新天新地の情景が美しく描かれます。

二千年前にキリストが現れたのは、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかるためでした。そして神はこの方を死者の中からよみがえらせました。

今、キリストは天の父なる神の右の座に着いて、この地を治めておられます。その方が目に見える形で再び現れる時、このイザヤ11章の預言が成就するのです。

そしてそれは同時に、私たちが「やがて来る御怒りから救われる」という最後の審判からの救いです。つまり、私たちの地上におけるすべての行いが、神の前に明らかになっているというのです。

しかし、イエスは「ご自分のいのちを罪過のためにいけにえ」(イザヤ53:10)としてくださいました。私たちはこのイエスにすがることによって、神の怒りを恐れる必要がなくなりました。

残念ながら現代の教会では、エホバの証人などの異端的な教えに対する過度の恐れから、キリストの再臨や最後の審判などについて、あまり大胆に語らなくなっているかもしれません。しかし、これこそ、最初のクリスチャンたちが何よりも大きな感動を持って聞いた福音だったのです。

しかも、このことから必然的に、この世界に対する解釈が生まれます。それは、キリストが目に見える形で天から再び現れてくださるまで、弱肉強食を伴った争いはなくならないということ、また、最後の審判が来るまで、悪魔に従う勢力はこの地を惑わし続けるということです。

つまり、私たちは生ける神に立ち返ることで、この世の価値観と衝突するばかりか、この世の弱肉強食の競争からも、サタンの惑わしからも自由になれはしないのです。

目に見える「救い」は、キリストが再び来られるまで完成はしません。しばしば、「神を信じても、生活は何にも楽にならない・・・信じることの意味がどこにあるのか」などとつぶやく人がいますが、テサロニケのクリスチャンはそんなつぶやきはしなかったことでしょう。

なぜなら、彼らは、イエスを信じることで、当面の生活はかえって厳しくなるという覚悟をもっていたからです。その点で、私たちは福音の語り方を反省する必要があるかもしれません。

パウロは、「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません・・もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます」(ローマ8:24,25)と記しています。

ですから、信仰において何よりも大切なのは、この目に見えない望みを、イメージできるようになることなのです。

3.「母がその子どもたちを養い育てるように・・・父がその子どもに対してするように」

パウロはテサロニケにおける働きを振り返り、「私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました」と記します(2:1,2)。

それは、宣教の働きが無謀で危険な賭けのように思えたからです。信仰を持つことがこの世的には損としか思えないからです。

しかし、パウロの知らせは、ギリシャ人にとっては最初のマラソン走者が命がけで伝えた戦勝報告(福音)のようなものだったのです。

現代のマラソンの起源は、紀元前490年9月12日、アテネの将軍ミルティアデスがアテネから約40㎞の地にあるエーゲ海に面する海岸マラトンに上陸した二万人のペルシャ軍を、その半分の兵力で奇跡的に打ち破ったとき、その戦勝報告をエウクレスという兵士が完全武装のままアテネに知らせに行き、「我ら勝てり」と言った後、絶命したと伝えられている故事に由来しています。

福音」とは、本来、このような戦勝報告だったのです。アテネを初めとするギリシャの都市国家は、内輪もめをしていましたが、アテネ軍のこの勝利は未来を変えました。その知らせを誰よりも先に知ることは、その後の、立ち居振る舞いを決める上で何よりも大切でした。

同じようにパウロは、神がキリストにおいてこの世の悪の力に勝利を収めたという知らせをいのちがけで伝えたのです。

そして、この福音を聞いた者に起こる変化とは、目の前の困難や敵対勢力に勇気をもって立ち向かうということです。それは、最終的な勝利を確信して、これからの生き方の方向を決められる良い知らせなのです。

そして、パウロは自分たちが伝えた福音に関して改めて、「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません・・・ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です」(2:3、5)と語りました。

このようなことを敢えて語るのは、当時のギリシャの町々には、仕事に役に立つ特別情報や、目新しい哲学などを伝えながら生計を立てている巡回教師が数多くいたからです。

パウロが何よりも恐れたのは、信仰の若いテサロニケの信者たちが彼らの餌食にされて、せっかく聞いた福音の確信が揺らぐことでした。

それでパウロは自分たちとそのような情報や目新しい哲学を売り物にしている教師たちとの違いをまず述べました。彼らは人々の喜ぶ話をして生計を立てており、聴衆の気に沿わない話は、お金にならないので、都合の良い話ばかりをしていました。

パウロはそれに対し、「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、人を喜ばせようとしてではなく・・神を喜ばせようとして語るのです」(2:4)と言っています。

これこそ、人々を魅了する講演と礼拝説教の違いです。いつでもどこでも神の眼差しを意識して語ることが、聖書教師には求められています。

またパウロは、自分たちの宣教の仕方の特徴を、「キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは・・・人からの名誉を受けようとはしませんでした。 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思った」と振り返ります(2:6-8)。

パウロは後にコリント教会に対しては、誤った教えに対抗するために使徒としての権威を大胆に主張しました。しかし、テサロニケではそうする必要がありませんでした。

彼はそれよりも、キリストの福音が、対人関係の持ち方を、母がその子に対するように、見返りを期待しない生き方を生み出すと実例を持って証ししました。

私たちが他人に対して「優しく振る舞う」ことができないのは、それによって自分の大切な時間やお金を失う恐れがあるからです。しかし、パウロは、与えれば与えるほど神が自分の必要を豊かに満たしてくださるということを身を持って示そうとしていました。

さらにパウロは、「兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました」(2:9)と記しています。

パウロは、お金にうるさいコリント教会に対して、「あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかるのを知らないのですか。同じように主も、福音を伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。しかし、私はこれらの権威を一つも用いませんでした」(Ⅰコリント9:13-15)と記しています。

パウロはテント作りをしながら、自分の生活費を稼ぎ、教師としての当然の報酬を受け取りはしませんでした。それは、当時の巡回教師と明確な区別をつける必要を感じたからだと思われます。

また、それは何よりも、自分たちの生き方を通して、福音の豊かさを証ししたいと思ったからです。パウロは、福音を語ることから報酬を受けないことこそが、若いギリシャの教会の成長のためには必要なことであると確信していたのです。

そしてパウロは、自分たちの語った福音は自分たちの生活に現されていたということを「信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました」(2:10-12)と敢えて記しています。

私たちの信仰の核心とは、創造主である神との個人的な親密な交わりです。それは日々の生活の中に現されるものです。神はご自身の教えを最初、アブラハムというたったひとりの人との交わりを通して伝えました。福音はそのようにパーソナルな交わりを通して伝えられるものです。

インターネットによる感動的なメッセージを聞くことも信仰の成長には役に立つことがあります。しかし、神は生きた一人の生き様を通してご自身の福音を知らせようとされました。これは説教者にとって何よりも恐ろしいことです。

先にパウロは、母親のように優しくふるまい自分の権威を主張しなかったと言い、ここでは、父親のように自分の生き方を通して福音のすばらしさを証し、信者としての歩み方を、「勧め、慰め、命じた」と語っています。

ただ、パウロはそこで、「ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように」と記しています。それは、私たちがこのままで、神の王国の王子、王女とされたという誇りを持って、その立場にふさわしい歩みをすることです。

この世の権力者たちの顔色を伺って生きる奴隷のような生き方を捨てなければなりません。神がキリストにおいて私たちをどれだけ豊かにしてくださったかを知ることこそ信仰の出発点なのです。

キリストのために富も名誉も宝を捨てたとしても、あり余るほどの豊かさをすでに持っていることを知ることこそ信仰のいのちなのです。

ご利益宗教における「模範」とは、「神を信じると、こんなに豊かになれる」というものです。しかし、パウロの証しは、キリストを知っているすばらしさのゆえに、何を捨てても損とは思わないという自由です(ピリピ3:8)。

獲得する力ではなく、捨てることができる余裕が何よりの証しなのです。成功談はしばしば真の証しにはならないのかもしれません。

強がりを捨て、もっと堂々と、自分の失敗や足りなさをもオープンにしながら、「こんな私でさえ神は支え、守り、用いてくださる」と言ってみましょう。

あなた自身の心の余裕ではなく、あなたの神の真実と力とを語るのです。