ミカ1章〜2章 「この世の権力者たちへのさばき」

2013年10月6日

伊勢神宮の式年遷宮のことが大きな話題になっていました。天皇家は天照大御神の子孫が天から地に下ったことに始まると言われます。そして、天照大御神の臨在のしるしが八咫鏡(やたのかがみ)で、そのご神体を20年ごとに移すのが遷宮です。

天照大御神は太陽神とされていますが、あるとき、須佐之男の乱暴を見るのに耐えかねて天の石屋戸に隠れます。世界は真っ暗になり、災いが広がります。それで神々が集まって知恵を出し合います。そして天宇受売命が恍惚状態で身を露わに踊ると神々が爆笑します。それを不思議に思った天照が岩戸を開けて外を見ます。

天宇受売は「貴方様より貴い神がいる」と言い、別の神が特製の鏡を密かに差し出して天照を映します。天照はそれが別の神かと思い、さらに戸を開けると世界に光が戻ったということです。

この物語の鏡こそ、伊勢神宮のご神体です。そして、天皇はその大祭司です。日本の権力システムがこの神話の上に成り立っているというのは何とも不思議です。

私たちが目くじらを立てて否定するほどのことでもありません。ときが来ると、そのはかない実態は明らかになります。すべての偶像礼拝は、そのような神話の上に成り立っています。

残念ながら政治権力と宗教はどこかで結びついています。実際、ドイツの政権与党を初め、多くの国々の政党には「キリスト教的民主主義」の名がついていますが、日本の保守派はそのようなことを引き合いにだし、日本的な宗教をもとにした政権を作ろうとしているのかもしれません。

私たちはそのような動きに怒りを発する前に、彼らに対する神のさばきを知って、彼らのために祈り、謙遜と柔和の姿勢で彼らに真の神の愛を知らせるべきでしょう。

私たちがこの世の権力者に腹を立てるのは、神の最終的なさばきを知らないことの結果に過ぎないかもしれません。人を虐げる者は、虐げられます。奪う者は奪われます。横暴な者は、横暴な扱いを受けます。

神は、それぞれの行いに応じてさばきを下してくださいます。さばきは主のもの、私たちの責任は、隣人を愛することです。

1.「すべての刻んだ像は打ち砕かれ、その儲けはみな、火で焼かれる」

1章1 節は、原文では「ことば、主(ヤハウェ)の、ミカにあった・・」という順番で、その時代背景が、「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に」と記されています。この書き出し方は、ホセア書とほとんど同じです。時代背景も内容も似ている部分があります。ただ、ウジヤの名が出てこないということで、アモス、ホセア、イザヤよりも若干後の時代の預言と思われますが、この四書には共通したテーマがあります。それは経済的な繁栄の中で、主の怒りを買うような混乱した礼拝がささげられていることに、神のさばきが下されるということです。

現代の日本も過去1500年間の歴史を振り返るなら最高の繁栄の時代にあると言えましょう。しかし、同時に、みな、「何かがおかしい。とんでもなく悪い事が起こりそうな予感がする・・」という不安を多くの人々が抱き始めています。

預言者ミカに関しては、ここで、「モレシェテ人」とのみ記されています。当時は人を紹介するときに、現代のような名字の代わりに父の名がつけられます。ここにミカの血筋の卑しさが示唆されているのかもしれません。

モレシェとはエルサレムの西南35kmの低地、ペリシテ人の地に比較的近いところにありました。ミカという名には、『だれがヤハウェのようであろうか』という意味が込められています。そのことは、この書のほとんど結論部の7章18節で「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」という問いかけにも反映されています。

なお、エレミヤ26章17-19節には、この預言者ミカの激しい預言がエルサレムの王ヒゼキヤの心に主(ヤハウェ)への恐れを起こし、ユダ王国をアッシリヤの攻撃から奇跡的に守ることに貢献したことが記されています。

ですからミカは、その父の名も記されない預言者ではありましたが、ときの政治を変えることができた稀有な影響力をもった預言者でもあったのです。

そして1節の最後には、この書のテーマが、「これは彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である」と、北王国イスラエルと南王国ユダ双方の首都に対する神のさばきのことばが記されると簡潔に述べられます。

2節は「聞け、すべての国々の民」という呼びかけから始まり、その後すぐに、「耳を傾けよ。地と、それに満ちるものよ」と、その対象が幅広く描かれます。つまり、この預言は神の民ばかりか、すべての被造物に向けられているというのです。

そして、「主、ヤハウェは、あなたがたのうちで証人となる。主はその聖なる宮から来て」と記されます。そして3、4節では引き続き、「なぜなら、見よ。主(ヤハウェ)は御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれるからだ。山々は主の足もとに溶け去り、谷々は裂ける。ちょうど、火の前の、ろうのように。坂に注がれた水のように」と記されます。

つまり、主が天の聖なる宮から降りてくるので、この目に見える世界が変わるというのです。私たちは、地上の自分の視点から高い山を仰ぎ見てその偉大さに感動し、深い谷を見下ろしてその深さに恐怖を覚えることがありますが、天の主の御前にはそれは砂場の砂の模型のようにはかないものに過ぎません。

詩篇97篇では似た表現の後に、「天は主の義を告げ、すべての国々の民は主の栄光を見る偶像に仕える者、むなしいものを誇りとする者は、みな恥を見よう。すべての神々よ。主にひれ伏せ」(6,7節)と記されます。

そして、5節ではそれと同じように神の民の偶像礼拝に対するさばきが、「これはみな、ヤコブのそむきの罪のため、イスラエルの家の罪のためだ。ヤコブのそむきの罪は何か。サマリヤではないか。ユダの高き所は何か。エルサレムではないか」と描かれます。

サマリヤは北王国のアハブのもとでバアル礼拝が盛んになり、一時的にそれはエフーのもとで廃止されることがありましたが、基本的に偶像礼拝の中心地であり続けました。

また、エルサレムには主(ヤハウェ)の神殿があったのに、その周辺の山々には「高き所」と呼ばれる偶像礼拝の祭壇が置かれていました

それに対する主のさばきの警告が、「わたしはサマリヤを野原の廃墟とし、ぶどうを植える畑とする。わたしはその石を谷に投げ入れ、その基をあばく。そのすべての刻んだ像は打ち砕かれ、その儲けはみな、火で焼かれる。わたしはそのすべての偶像を荒廃させる。それらは遊女の儲けで集められたのだから、遊女の儲けに返る」(6、7節)と描かれます。

ここでは「儲け」ということばが三回繰り返され、偶像礼拝で集められた富のはかなさが強調されます。日本でも伊勢神宮の式年遷宮に550億円あまりが使われていると言われます。当会堂が550個も立つ金額です。他にも偶像礼拝で繁栄している町がありますが、それらはすべてはかないものです。

2.裸で恥じながら過ぎて行け・・・どうして、しあわせを待ち望めよう

8、9節は神ご自身の嘆きのように描かれますが、これは預言者ミカ自身の嘆きとも解釈できます。ここで彼は同胞の罪を覚え、「このために、わたしは嘆き、泣きわめき、はだしで、裸で歩こう。わたしはジャッカルのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣こう。まことに、その打ち傷はいやしがたく、それはユダにまで及び、わたしの民の門、エルサレムにまで達する」と嘆いているのでしょう。

ジャッカルもだちょうも荒野に住むのろわれた動物の代名詞ですが、ミカは自分をそのような動物の立場に置き、神の民の救いがたいほどの堕落を嘆いています。

10-16節はミカ自身の記した哀歌です。まず、「ガテで告げるな。激しく泣きわめくな」とは、ガテが本来ペリシテ人の地だからで、そこで嘆くことはペリシテ人の侵入を招くからです。それよりも、自分たちの町、「ベテ・レアフラでちりの中にころび回れ」と言われます。この町の名は「塵の家」という意味で、ユダの嘆きの町を象徴的に描いたものだと思われます。

11節の「シャフィル」も「美しい」という意味で、そこに「住む者」に向かって、裸で恥じながら過ぎて行け」という皮肉が記されます。「ツァアナン」は「出て行く」の意味で、そこに「住む者は出て来ない」と言われます。「ベテ・エツェル」とは「奪い取る家」の意味で、そこの「嘆きは、あなたがたから、立つ所を奪い取る」という皮肉が記されます。

神は「美しさ」を誇る者に恥を、「出て行く」勇気を誇る者に臆病を、「奪い取る」ことを誇る者に略奪を報われます。「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)という原則を神は明らかにします。

なお、12節の「マロテ」とは「苦い」の意味で、そこに「住む者が、どうして、しあわせを待ち望めよう」と言われます。それは、「エルサレムの門に、主(ヤハウェ)からわざわいが下った」とあるように主からの報復でした。

13節は「ラキシュに住む者よ。戦車に早馬をつなげ」と記されますが、そこはエルサレムの南西45㎞にある要塞都市でした。ラキッシュという発音はヘブル語の「早馬」に似ているので、このような皮肉が述べられます。

そして、「それはシオンの娘にとって罪の初めであった。イスラエルの犯したそむきの罪が、あなたのうちに見つけられたからだ」とあるのは、その町からエジプトの異教の祭儀がエルサレムに持ち込まれるようになったからです。

14節は、「それゆえ、あなたは贈り物をモレシェテ・ガテに与える」と記されますが、その地は預言者ミカの出身地で、「あなた」とは「シオンの娘」で、「贈り物」とは「手切れの品」(フランシスコ会訳)と訳すことができます。これは、ラキッシュが敵の手に奪われた後、その北東に位置しエルサレムにより近い町モレシェテが敵への贈り物とされるという意味だと思われます。

そして「アクジブの家々は、イスラエルの王たちにとって、欺く者となる」とありますが、アクシブとはモレシェテのすぐ東にある町ですが、「欺く」という意味があり、彼らの裏切りが示唆されています。

15節では、「マレシャに住む者よ。わたしはまた、侵略者をあなたのところに送る」と記されますが、「マレシャ」と「侵略者」は同じヘブル語の語根から生まれた言葉です。その町はモレシェテの少し南にあります。そこにイスラエルの神ご自身が「侵略者を・・送る」というのです。

しかも続く、「イスラエルの栄光はアドラムまで行こう」とありますが、「アドラム」とはダビデがそこの洞穴に隠れて多くの手下を集めて、ダビデ王国への道を進みだした栄光の町です。そこに、「イスラエルの栄光」である方が、侵略者と共に攻めてくるというのです。

16節は「シオンの娘」に対する語りかけで、「あなたの喜びとする子らのために、あなたの頭をそれ。そのそった所を、はげ鷲のように大きくせよ。彼らが捕らえられて、あなたから去って行ったから」と記されます。

「頭をそる」とは悲嘆を現す表現で、そこにはエルサレムの住民が捕囚として連れ去れることが預言されています。

3.あなたがたは首をもたげることも、いばって歩くこともできなくなる。

2章1節~11節までは、イスラエルの民の支配者たちに向けてのさばきの宣言です。まず、預言者ミカ自身が、「ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行う者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々をも取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る」(1,2節)と、彼らが地上の権力を乱用して自分たちの所有地を広げていることを非難します。

しかし、「相続地」とは、本来、主ご自身がくじを用いて、イスラエルの部族ごとに平等に「割り当て」それを、「氏族ごと」に父の家の名と共に「相続地」として受け継がれるべきものでした(民数記26:52-56)。

土地の究極の所有者は神ご自身ですから、彼らが自分たちの「手の力」を用いて土地を奪ったことは、神のものを奪ったことになります。

3節ではそれに対する主(ヤハウェ)ご自身によることばが、「見よ。わたしは、こういうやからに、わざわいを下そうと考えている。あなたがたは首をもたげる(持ち上げる)ことも、いばって歩くこともできなくなる。それはわざわいの時だからだ」と記されます。

なお、「こういうやから」とは、厳密には「この氏族」と記され、それは土地の相続を考える際の家族のまとまりの単位でした。つまり、これは神の割り当て地を、別の氏族から奪い取った「氏族」に対する神のさばきなのです。強い氏族は、自分の力を誇っていますが、その誇りが徹底的に奪われるというのです。

そして4節では、「その日」ということばとともに神のさばきが起こる日のことが描かれます。その日に、力づくで相続地を奪った者たちに対しての「あざけりの声があがり」ますが、それは彼らの「嘆きの歌」を皮肉ったものです。

かつて、彼らから土地を奪われた人々は、「私たちはすっかり荒らされてしまい、私の民の割り当て地は取り替えられてしまった。どうしてそれは私から移され、私たちの畑は裏切る者に分け与えられるのか」と嘆いていましたが、今度は、侵略者であるアッシリヤ人が、かつて土地を奪われた人の嘆きを真似て、イスラエルの権力者の嘆きをあざけるというのです。

つまり、土地を力づくで奪ったものは、力づくでその土地をまた奪われるということです。

イエスは、「剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われました(マタイ26:52)。私たちはこの世の権力者の横暴に怒りを燃やしますが、その権力者自身が、次に別の権力者によって、奪った土地をさらに奪われるのです。

そして5節は、「それゆえ、主(ヤハウェ)の集会で」ということばとともに、やがて主がイスラエルのために割り当ての地を回復してくださるときのことが記されます。そのとき、「あなたのために、くじを引いて測り綱を張る者がいなくなる」とは、かつて力づくで相続地を奪った氏族は、土地の分配のくじ引きに参加できなくなるというのです。

4.以前から、わたしの民は敵として立ち上がっている。

6節最初の 「たわごとを言うな」ということばは、「(預言のことばを)語るな」という意味で、「預言するな」と意訳した方がわかりやすいと思われます。イスラエルの支配者たちは、ミカ、ホセア、イザヤのような真の預言者のことばを遮って、反対に、熱くなりながら彼ら自身から生まれた「(預言の)ことばを語っている」というのです。

その内容は、「そんな(預言の)ことばを語るな。われわれが辱めを受けることはない」(私訳)というものだというのです。

そして、この真の預言者の声を否定するような偽りの預言のことばが、7節では、「このように言うべきだ。ヤコブの家よ。『主(ヤハウェ)の霊が短気だろうか。これらが主のみわざなのか』 」と描かれます。

その上で、主からの語りかけが、7節の終わりから9節にかけて、「わたしのことばは、まっすぐに歩む者に益をもたらす。しかし、以前から、わたしの民は敵として立ち上がっている。そして、あなたがたは、戦いをやめて安らかに過ごしている者たちのみごとな上着をはぎ取る。あなたがたは、わたしの民の女たちを、その楽しみの家から追い出し、その幼子たちから、わたしの誉れを永遠に取り去る」と記されます。

敵であるアッシリヤが攻めてくる前から、イスラエルの指導者自身が神の敵となってしまい、平安に暮らしている者の「上着をはぎ取り」、女たちを「楽しみの家から追い出し」、幼子から主の民としての「誉れを・・取り去る」というのです。

そして10節では、主のさばきのことばが、「さあ、立ち去れ。ここはいこいの場所ではない。ここは汚れているために滅びる。それはひどい滅びだ」と記されます。「いこいの場所」とは2節の「相続地」と基本的に同じ意味のことばです。

民の指導者たちは、かつて支配地の人々に向かって「さあ、立ち去れ。ここはお前の相続地、いこいの場所ではない・・」と言いながら、彼らの上着を剥ぎ取り、女たちを家から追い出しました。

そして今、主ご自身がかつての彼らのことばを真似て、彼らを約束の地から追い出すというのです。それは神が割り当ててくださった神の地が、彼らの罪によって汚されてしまったからです。ここには、バビロン捕囚に至るさばきが預言されています。

一方、11節では偽りの(預言の)のことばを語る者の姿が、「もし人が歩き回って、霊(風)と偽りによって欺き、『私はあなたがたに、ぶどう酒と強い酒について(預言)のことばを語ろう』と言うなら、その者こそ、この民の(預言の)ことばを語る者だ」と、皮肉を込めて言われます。

「風」と「霊」とは同じヘブル語ですが、私たちはしばしば、「霊的」ということばに惑わされてしまいます。「霊」には聖い霊もあれば偽りを預言する汚れた「霊」もあるのです。

5.彼らの王は彼らの前を進み、主(ヤハウェ)が彼らの真っ先に進まれる

12節では、それまでと逆に、主の最終的な救いの約束が、「ヤコブよ。わたしはあなたをことごとく必ず集める。わたしはイスラエルの残りの者を必ず集める。わたしは彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集める」と言われます。

これは確かに申命記30章1-5節にあるように、主ご自身がイスラエルの罪に応じて彼らを約束の地から国々の中に追い散らした後、今度は彼らをあわれんで約束の地に集めてくださるという約束としても解釈することができます。

しかし13節ではその後の事が、「こうして人々のざわめきが起ころう。打ち破る者は、彼らの先頭に立って上って行き、彼らは門を打ち破って進んで行き、そこを出て行く」と記されます。

つまり、主が「残りの者」を一つに集めてくださるのは、彼らを敵の包囲から救い出すためであるというのです。

Ⅱ列王記19章では預言者イザヤがエルサレムの王ヒゼキヤに向かって主ご自身がアッシリヤの王を自分の国に追い返すときに与えた約束のことが、「ことしは、落ち穂から生えた者を食べ、二年目も。またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は、下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出てくるからである」と記されます(29-31)。

つまり、主はイスラエルの残りの者をエルサレムの城壁の中に集め、彼らに食べ物を保証し、その後、ヒゼキヤを「打ち破る者」として先頭に立たせて、エルサレムの包囲網を突破させ、ついにはエルサレムの残りの者に約束の地を分配し、彼らに三年目の収穫を保障するというのです。

そして、その解釈を保証するようなことが、最後に、「彼らの王は彼らの前を進み、主(ヤハウェ)が彼らの真っ先に進まれる」と記されます。これは現代の教会に当てはめて解釈することができます。私たちはこの世の不条理の中で傷つき、また、いのちを失う者もいます。

しかし、主は「残りの者」をキリストの教会に集めてくださり、みことばと互いの間の愛で養ってくださいます。しかし、それは私たちがこの世から離れて生きるためではなく、この世に遣わされて行くためのプロセスに過ぎません。主ご自身が先頭に立って歩んでくださいます。

イエスはヨハネ福音書10章で、「牧者は・・自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます」(3,4節)と最初に言って、ご自身が羊を連れ出す者であると明言します。

しかしその後、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます」(9節)とご自身が何よりもまず、羊を囲いの中に招き入れる者であることを明らかにします。

しかし、同時に、「わたしの羊はわたしの声を聞きわけます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます」(27節)と、彼らの囲いの中から連れ出す者であることを明らかにしておられます。

ミカ書には厳しい主のさばきが次々と記されています。しかし、よく見ると、すべて、この世の権力を乱用して、社会的弱者から奪い取り、偶像礼拝で富を得ていたような者に対するさばきです。

そして、主はそのようにこの世の権力者をさばいた後に、この世で虐げられた人をあわれみ、ご自身のもとに集め、彼らを慰め、この世の旅路を導き、新しい天と新しい地の祝福へと招き入れてくださると約束しておられます。

主のさばきは、私たちにとって福音でもあります。神は自分の罪を嘆き、救いを求める者を決してないがしろにはなさいません。私たちは、この世の不条理に怒る代わりに、自分の生き方を振り返るべきでしょう。