ミカ3章〜4章「主の御計らいを知る幸い」

2013年10月13日

映画「おしん」が始まりますが、昔の東北農家の貧しさは想像を絶しました。しかし皮肉にも、第二次大戦の悲劇が小作制度を変える契機になりました。

預言者ミカはイスラエルの権力者へのさばきを熱く語りますが、そこにはイスラエルの神ご自身が社会の抑圧システムを破壊することによって、神の民を再生しようというご計画がありました。目の前の悲惨の後に、希望が見られます。

不思議にも、社会が安定していた時代には奴隷制を正当化する手段として聖書が用いられたこともありました。私たちはもっと聖書のストーリーを大枠から理解し、歴史のゴールが神の平和(シャローム)の完成にあるという観点を見直す必要があります。

たとえば、大津波も、原発事故も、被害をこれほど大きくしたのは人間の傲慢さのゆえです。ただ、それも主の御手の中で起こったことでもあります。そして今問われているのは、私たちがそれを通して世界観を変えることができたかということではないでしょうか。

1.「あなたがたは善を憎み、悪を愛している」

3章には三つの主のさばきの宣告が記されます。それは1-4節、5-8節、9-12節と基本的にほぼ同じ長さです。しかもそのパターンは、責める対象、責める内容、それに対するさばきという共通のものになっています。

第一は、「わたしは言った」と、これが主ご自身の語りかけであると強調されながら、「聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち」と、主ご自身がイスラエルの指導者に向かって、単に「聞きなさい」より強い調子で、「さあ、聞け」と迫っています。

主の命令の核心にはいつも、「聞きなさい」という迫りがあります。私たちの最大の問題は、主のことばに真剣に耳を傾ける前に自分の善悪の基準で動いてしまうことにあります。

主の最大の問いかけは、「あなたがたは公義を知っているはずではないか」というものです。「公義」とは「さばき」とも訳されますが、その中心的な意味は「治める」「支配する」ということにあります。主は彼らに向かって、神から委ねられた責任を思い起こすようにと、強く迫っています。

しかも、主は、「お前たちは善を憎み、悪を愛している」(2節私訳)と厳しく叱責します。支配者の務めは何よりも、「悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめる」ことにあります(Ⅰペテロ2:14、ローマ13:3,4参照)。ところが、支配者自身が善悪の基準をないがしろにするなら、この世の不条理はますます広がります。

しかし、神は「王を廃し、王を立て」られる方、究極的な意味で「人間の国を支配」しておられる方なのです(ダニエル2:21,4:17)。イスラエルの支配者こそ、その真理を知っているはずでした。

ところが、彼らは、支配地の民を自分の食い物にしていました。2節の後半から3節は、人食い人種にたとえた表現で、「人々の皮をはぎ、その骨から肉をそぎ取り、わたしの民の肉を食らい、皮をはぎ取り、その骨を粉々に砕き、鉢の中にあるように、また大がまの中の肉切れのように、切れ切れに裂く」と生々しく描かれています。

4節はそれに対する主のさばきを描いたもので、「それで、彼らが主(ヤハウェ)に叫んでも、主は彼らに答えない。その時、主は彼らから顔を隠される」と記されます。

イスラエルの指導者たちは、敵が攻めてくるときになって急に自分たちの取るべき戦略の答えを求めて主に叫びますが、そのとき主は「彼らから顔を隠される」というのです。

その理由が改めて単純に「彼らの行いが悪いからだ」と記されます。つまり、「困ったときの神頼み」というのが通じないことがあるのです。それは神ご自身が、民の指導者を廃絶するために敵の国を用いているからです。

2.「彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ」

第二はイスラエルの預言者たちに対するさばきです。5節の原文では、「このように主(ヤハウェ)は仰せられる、預言者たちに対して」と記されています。その罪は、「彼らはわたしの民を惑わせ、歯でかむ物があれば、『平和があるように』と叫ぶが、彼らの口に何も与えない者には、聖戦を宣言する」というものです。

「かむ」は、蛇が主語であるときに用いられることばです。アダムの罪の場合にもあるように、蛇は神の「民を惑わせ」、目の前の利益として「歯でかむ物」という獲物があるなら、平気で偽りの「平和」の約束をします

しかし、偽預言者の口に何の食べ物も提供できない者に対しては、何と「聖戦を宣言する」というのです。これは「戦いを聖別する」とも訳されることばで、預言者が自分に利益をもたらさない者に対する戦いを神の名を用いて正当化するということです。

残念ながら、どの時代の宗教指導者にも、「敬虔を利得の手段と考えている人たち」(Ⅰテモテ6:5)がいます。彼らはまず自分の損得勘定を直感的に判断し、自分に益をもたらす人には神の平和(シャローム)の祝福を祈り、反対に益をもたらさない人を神の敵として判断し、彼らのへの戦いを神の名で正当化するというのです。

昔から、神の名を用いた戦いが後を絶ちません。しかし、その根源には、自分の損得勘定を正当化する思いがあります。

そして、偽預言者に対するさばきが、6,7節で、「それゆえ、になっても、あなたがたにはがなく、暗やみになっても、あなたがたには占いがない。太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。先見者たちは恥を見占い師たちはずかしめを受ける。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ」と記されます。

しばしば、主からの「幻」は夜になって与えられ、「占い」は暗やみの中でなされますが、社会的混乱の中で人々が彼らに答えを求めても、彼等には何の答えも与えられなくなります。そして、「先見者たち」や「占い師たち」は、人々から軽蔑され、まるで、重い皮膚病にかかった人のように「口ひげをおおう」ことになるというのです。

哀歌4章15節ではバビロンにエルサレムが滅ぼされた後、人々が預言者たちに向かって「あっちへ行け。汚れた者」「あっちへ行け、あっちへ行け。さわるな」と、預言者たちを「汚れた者」とののしる様子が描かれています。

そのように預言者たちが辱められるのは、彼らに「神の答えがないから」です。なお、「先見者」はしばしば「預言者」と同じ意味で用いられますが、厳密には「見る者」と記され「先の事を見る」ことが期待されます(Ⅰサムエル9:9「予見者」と重なる意味)。

また「占い師」は基本的に神のみこころに反する働きですが、イザヤ3章2節では「さばきつかさと預言者、占い師と長老」などと、エルサレムの政権の中枢に「占い師」がいたと記されます。

「先見者」も「占い師」も、イスラエルが敵の攻撃に対処する際に、「神の答え」を出すために置かれていた役職です。

ところが彼らはいざとなったら何の役にも立たないばかりか、国を敗北に導いた責任を問われて徹底的な辱めを受けるというのです。それは彼らが自分たちの働きを、利得の手段として用いていたからです。

それに対し、預言者ミカは自分の働きに関して、「しかし、私は」と強調しつつ、「力と、主(ヤハウェ)の霊と、公義(さばき)と、勇気とに満ち、ヤコブにはそのそむきの罪を、イスラエルにはその罪を告げよう」(3:8)と語ります。

ミカは当時の偽預言者たちとは正反対に、人々にとって耳の痛いことを、主(ヤハウェ)の霊に満たされて、力と勇気をもって、主のさばきの基準から、神の民に向かって「そむき」と「罪」を指摘するというのです。

3.「しかもなお、彼らは主(ヤハウェ)に寄りかかって・・・」

9節からは預言者ミカ自身が、「これを聞け」と呼びかけます。これは1節と同様に、「さあ、聞け」という強い迫りです。その対象は、「ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家の首領たち」という神の民の全指導者たちです。

そして主が彼らを責める理由が、「あなたがたは公義を忌みきらい、あらゆる正しいことを曲げている」です。「公義」とは神の基準に従って民を治めることですが、彼らは民衆を奴隷化し搾取していました。彼らは民を治めるという本来の働きを「忌み嫌い」、「正しい(まっすぐな)こと」を敢えて捻じ曲げているというのです。

そしてその現れが、「血を流してシオンを建て、不正を行ってエルサレムを建てている」(10節)と言われます。彼らはシオンの丘に建つエルサレム神殿を、神の臨在の場ととらえる代わりに、神の権威を用いて自分たちにとって都合悪い人を殺し、またエルサレムの権力機構を用いて、社会的弱者の生活権を侵害しているというのです。

そして、指導者たちの具体的な罪が、「そのかしらたちはわいろを取ってさばき、その祭司たちは代金を取って教え、その預言者たちは金を取って占いをする」と描かれます(11節)。それは第一と第二枠での罪の要約です。

それでいながら、「しかもなお、彼らは主(ヤハウェ)に寄りかかって」、「主(ヤハウェ)は私たちの中におられるではないか。わざわいは私たちの上にかかって来ない」となどと、鉄面皮なことを言っていました。

確かにエルサレム神殿は、主が民の真ん中に住まわれるといいうことのシンボルでしたが、主ご自身がやがてエルサレムを立ち去ろうとしておられたのです。もし、主の栄光がエルサレムを去ってしまうなら、そこは単なる石の家に過ぎなくなります。

その結果として、「それゆえ、シオンは、あなたがたのために、畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる」と告げられます(12節)。

神殿の立っていた聖なるシオンの丘が、他の土地と同じような俗なるものに見られるようになって、「畑のように耕され」るようになり、イスラエルの都としての機能を完全に失ってしまうというのです。

その結果、神殿の置いてあった「宮の山」は「森の丘」と呼ばれるようになってしまいます。

4.「彼らはその剣を鋤に、槍をかまに打ち直し・・・二度と戦いのことを習わない」

4章1-5節の預言は、一転して、「終わりの日」のシオンの回復の希望が記されています。これは黙示録の「新しいエルサレムが・・・天から下って来る」という世界のゴールにつながる記述です。

特に、1-3節の表現は、これとほとんどおなじものがイザヤ2章2-4節に記されています。どちらが先に記されたかはわかりませんが・・・

1節は、先のエルサレム神殿が廃墟にされることの逆転が起こるという意味です。諸国の民はエルサレムの神を何もできない無力な存在と嘲っていましたが、「終わりに日」には、「主(ヤハウェ)の家の山」は、様々な祭壇が置かれた「高き所」を見下ろす栄光に満ちた山として、「そびえ立つ」というのです。

その結果として、「国々の民はそこに流れて来る」と、世界中の人々が、新しいエルサレム神殿に引き寄せられてくる様子が描かれます。

つまり、ここは主の家の山は地理的にどの山より高くなるというよりも、世界中の人々にとっての憧れとなるという意味です。

そしてそこに、「多くの異邦の民が来」るというのです。これはエルサレムの神が、全世界の人々にとっての神となることを現しています。そして、そのときに彼らが言う言葉が、「さあ、主(ヤハウェ)の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう」と記されます(2節)。

世界中の人々が、「主の道」を教えてもらいたいと願い、その「小道」の上を歩みたいと願うというのです。つまり、人々を惹きつけるのは、神殿の荘厳さや輝きというよりも、主が教えてくださる道、生き方を歩みたいと願うからだというのです。

そして、その理由が再び、「それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主(ヤハウェ)のことばが出るからだ」と描かれます。

「みおしえ」とはトーラーで、律法とも訳されます。また、「主(ヤハウェ)のことば」も、「十のことば」を初めとする御教えです。

つまり、かつてイスラエルの民が捨ててしまった主の御教え、それを守ることができなくてさばきを受けた主のみことばを、世界中の人々が聞きたいと切望して、エルサレムに集まって来るというのです。

そして、主の御教えが世界を治める様子が、3節に描かれます。「主は多くの国々の民の間をさばき(治め)」とは、主が正義を持って世界を「治める」ことです。

また「遠く離れた強い国々に、判決を下す」とは、アッシリヤやバビロンのような国々を従えることを意味します。その結果として、世界に平和が実現する様子が、「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」と描かれます。

つまり、「終わりの日」には、神が全世界を治めるということが明らかになるので、「剣」や「槍」という戦いの道具が、「鋤」や「かま」という農耕具に打ち直されるというのです。それは、世界中から戦争の恐怖が無くなり、戦いの訓練もなくなるからです。

私たちは戦争以前に、自分の身や権利を守るために、「戦いのことを習う」必要がありました。しかし、主の公正なさばきが全地を満たすとき、「戦う」という概念自体を忘れることができるのです。

そのことが引き続き、「彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない」(4節)と描かれます。彼らは自分の畑を守るために戦う必要も感じなくなります。

そして、これらの約束を保証するかのように、「まことに(なぜなら)、万軍の主(ヤハウェ)の御口が告げられる」と記されます。

この世界で戦いが起こるのは、互いに支配権をめぐって強さを競い合ってしまうからでもあります。しかし、「万軍の主」のご支配が目に見える形で明らかになるところでは、そのような支配権をめぐっての争いはなくなります。

また5節の「まことに」は、「たとい」とか「・・ときにも」と訳した方が良いと思われます。ですからここは、「たとい、すべての国々の民が、おのおの自分の神の名によって歩むことがあっても」、または、「・・歩むときにも」と訳した方が良いと思われます。

つまり、今、現在は、なお多くの人々は、この主の約束を真実に受け止めることが無くて、偶像の神々を拝んでいる現実があったとしても、「しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主(ヤハウェ)の御名によって歩もう」と告白するのです。それは私たちが、主の約束が必ず実現することを信じているからです。

5.「エルサレムの娘の王国が帰って来る」

6,7節で、「その日」ということばとともに、新しい世界の約束が告げられます。そこで「主(ヤハウェ)の御告げ」と言う宣言と共に、「わたしは足のなえた者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を寄せ集める。わたしは足のなえた者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主(ヤハウェ)はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる」と記されます。

「足のなえた者」の「いやし」はそれほど頻繁には聖書には記されていないように思えますが、初代教会の時代の記事こそ、このミカの預言の成就と見ることができます。

ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間にエルサレム神殿に上って行き、「美しの門」で、「生まれつき足のなえた人」を癒しました。

そのときペテロはこの乞食に向かって、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言いました。

するとこの人は「おどりあがってまっすぐに立ち、歩きだし」「神を賛美しつつ・・・、宮に入って行った」というのです(使徒3:1-8)。

そこに記されていることの中心は、ペテロとヨハネとともに、この足の癒された人は、権力者の脅しにも屈することなく、イエスを救い主としてあがめて行ったということにあります。まさに、神から「追いやられた者」が集められ、「足のなえた者」が、「残りの者」として真の神の民とされ、「強い国民」とされました。

そしてこのことを通して何よりも、イエスがシオンの山で彼らの王となったことが明らかになりました。なぜなら、ペテロもヨハネも厳しい脅しを受けながら、ユダヤ人の最高議会の命令に従うよりも、イエスを王としてあがめることを明確にしたからです。

8節の始まりには、「あなたに」と呼びかけが記されています。それが具体的に、「羊の群れのやぐら、シオンの娘の丘よ」と説明されます。

それは、主がご自分の羊の群れを見守る「やぐら」また、「シオンの娘」エルサレムの民を見守る「丘」に「王」が帰って来ることを意味しています。

そのことが「あなたに、以前の主権、エルサレムの娘の王国が帰って来る」と述べられます。これは、失われたと思われた神の国が回復する希望を語ったものです。

6.「バビロンまで行く。そこであなたは救われる・・・あなたは彼らの財宝を全地の主にささげる」

9節から13節まで、神の不思議な二つの救いの計画が描かれます。9節の原文では、「今、なぜ大声で叫ぶのか」という問いかけから始まり、11節は「しかし、今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり」という絶望的な状況が記されます。

しかしそれぞれで、「シオンの娘よ」(10,13節)という呼びかけと共に、不思議な神の救いのご計画が描かれます。ヘブル語では二つの預言とも七行で整えられているのがわかるように記されています。

第一は、「なぜ、あなたは今、大声で泣き叫ぶのか。あなたのうちに王がいないのか。あなたの議官(カウンセラー)は滅びうせたのか。子を産む女のような苦痛があなたを捕らえたのか」という問いかけから始まります。

その上で10節の原文では、「身もだえし、もがき回れ。シオンの娘よ。子を産む女のように」という不思議な命令が記されます。

そしてその理由が、「なぜなら今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行くだからそこであなたは救われるそこで主(ヤハウェ)が贖ってくださる、あなたを敵の手から」と描かれます。

つまり、人間の目には、絶望的なのですが、その状況を確かに、主(ヤハウェ)ご自身が王として支配しておられるというのです。

なお、「議官」は、多くの英語訳ではカウンセラー(助言者)と訳され、戦いのプランを立てる役割です。同じ語根の言葉が12節では「はかりごと」と訳されます。そしてここには「救い主」の働きが示唆されています。

つまりエルサレムの悲劇の向こうには、奇想天外な救いのご計画があるというのです。それは、バビロン捕囚という悲惨を通して「シオンの娘」、エルサレムの民を、敵の手から贖い出してくださるということです。

なお、「敵の手から贖う」とは、イスラエルの民がすでにこのミカの時代から奴隷状態にあったことを示唆します。彼らはこの世の権力機構、暴力支配の中で奴隷状態にありました。彼らを奴隷としていたのは、何とイスラエルの支配者自身であったということではないでしょうか。

主は国を滅ぼすことによって、そのような抑圧者を一掃してくださったのです。

第二の場面の、「しかし、今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり・・・」という記述は、バビロン捕囚以前に、アッシリヤ連合軍によるエルサレム攻撃を指しています。

周辺諸国は、「シオンが犯されるのをこの目で見よう」と、イスラエルの神ヤハウェを嘲っています。しかしそれは彼らが、「主(ヤハウェ)の御計らいを知らず、そのはかりごとを悟らない」からに過ぎません。

彼らは自分の意志でエルサレム包囲網に加わってきたと思っていますが、そこには主ご自身が彼らを滅ぼすために、「彼らを打ち場の麦束のように集められた」というご計画がありました。

13節は、「立って麦を打て、シオンの娘よ」という命令形から始まり、その直後、「なぜなら、わたしはあなたの角を鉄とし、あなたのひずめを青銅とする。あなたは多くの国々の民を粉々に砕き、彼らの利得を主(ヤハウェ)にささげ、彼らの財宝を全地の主にささげる」というイスラエルの勝利が描かれています。

これは、エルサレムがヒゼキヤ王のもとでアッシリヤ連合軍に劇的な勝利を収めることを示唆しているものと思われます。

私たちは直線的な時間の観点でこの世界の動きを見ようとします。しかし、聖書の視点はそうではありません。4章初めの記述にあるように、主はまず歴史のゴールを示されます。それは神の平和(シャローム)が世界を満たし、全世界の民がイスラエルの神ヤハウェを礼拝するようになるときです。

そして、その始まりとして、主は、「足のなえた者」のようにこの世の弱い者を集めてキリストの教会を建てられます。ただ、この世界では、強い者、賢い者が支配権を握って、人を奴隷化してしまいます。神はイスラエルの民をバビロン捕囚という悲惨を通して建て直してくださいました。

同じように、日本の救いのために、神は第二次大戦の悲劇や東日本大震災や原発事故が起こるのを許されました。それは日本人の傲慢を砕くために必要なことでした。

そして、多くの日本人はそれによってもなお、神の前にへりくだろうとはしていません。日本には残念ながら、もっと大きな悲惨が起きる必要があるのかもしれません。そうしなければ日本人はサタンの奴隷状態から贖われないのかもしれません。

一方、11節は、日本の教会が社会の中で孤立し、批判され、迫害を受ける様子にたとえることもできましょう。しかし、それらすべては主の不思議なご計画の中で起こっていることです。そこには最終的な勝利が約束されています。

私たちの目の前には、様々な苦しみや悲惨があります。それらは私たちが負うべき十字架かもしれません。しかし、それは光り輝く世界への入り口でもあります。主の十字架は悪の力に対する勝利の宣言だからです。