私たちはみな、自分が無視されることに腹を立てます。しばしば、多くの妻たちは、経済的な不安以前に、夫の目が自分に向けられていないことに心を痛めています。実は、私たちの創造主も、何よりも私たちの心が主に向けられていないことに悲しみと怒りを覚えておられるのです。 “ゼパニヤ1章1節〜2章3節「主を尋ね求めない者たちへの主の怒り」” の続きを読む
Ⅱテサロニケ1章1節〜2章14節「神の国にふさわしい者とされるため」
日本の政治の右傾化の問題が議論されています。確かに私たちは政治に目を見張る必要があります。しかし、この世の政治がどれほど私たちの理想に近づいたとしても、信仰者はどこかで必ず、この世の権威と衝突するということをも忘れてはなりません。 “Ⅱテサロニケ1章1節〜2章14節「神の国にふさわしい者とされるため」” の続きを読む
ハバクク2章〜3章「悲惨のただ中に生まれる喜び」
2014年1月5日
私たちは互いに、「今年は(も)、良い年でありますように……」と互いの祝福を祈り合います。しかし、はっきりしていることは、わざわいのない年はだれにもありえないということです。必ず何らかの「まさか」に出会います。 “ハバクク2章〜3章「悲惨のただ中に生まれる喜び」” の続きを読む
詩篇19篇「天は神の栄光を語る」
この詩篇の美しさは比類ないものです。何かの説明を加えること自体が、かえって聖霊の語りかけを減じるようにさえ思われます。ここには言葉にならない神の語りかけと、人のことばを用いた神のかたりかけの二つが記され、私たちの「こころ」を創造主に向けさせてくれます。 “詩篇19篇「天は神の栄光を語る」” の続きを読む
ハバクク1章1節〜2章5節「神の真実に応答する者は生きる」
2013年12月29日
新約聖書の教えの核心に、「義人は信仰によって生きる」というみことばがありますが。それはハバクク書2章4節からの引用で、新約では教理の核心と呼ばれる三つの箇所で引用されます。 “ハバクク1章1節〜2章5節「神の真実に応答する者は生きる」” の続きを読む
イザヤ11章1〜10節「いと高き所におられる神のご支配がこの地に広がるために」
2013年12月24日 クリスマス・イヴ礼拝
聖書ではイエスの誕生という重大なことが、驚くほど簡潔に記されています。 “イザヤ11章1〜10節「いと高き所におられる神のご支配がこの地に広がるために」” の続きを読む
ヨハネ1章1〜18節「ことばが人となられたのは、なぜか」
キリスト降誕から約七百年後に編纂された古事記には、天の神が地に下って王となるという発想以外にも、様々な聖書の影響が見られますが、その物語は不思議な神話に変わっています。 “ヨハネ1章1〜18節「ことばが人となられたのは、なぜか」” の続きを読む
Ⅰテサロニケ5章1〜28節「神があなたがたに望んでおられること」
私たちはこのままでイエスと同じ立場の神の子どもとされています。それは王子や王女であるよりもはるかにすごいことです。ところが私たちの心からは古い奴隷根性が抜けません。奴隷は脅しの力で動かされます。 “Ⅰテサロニケ5章1〜28節「神があなたがたに望んでおられること」” の続きを読む
ナホム2章〜3章「見よ。わたしはあなたに立ち向かう」
今、日本では、与党の絶対多数を背景にした強引な採決手法が批判されています。それは当然、反省が促されるべきことですが、同時に、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」という永遠の真理を忘れてはなりません。 “ナホム2章〜3章「見よ。わたしはあなたに立ち向かう」” の続きを読む
ナホム1章〜2章2節「敵を用いて謙遜にし、その後に敵をさばく神」
日本では昔から、大岡越前(再放送中)だとか水戸黄門などが根強い人気を博しています。これは意外に、若い主婦の間でも人気だということに驚きました。私たちの周りにはいつも自分の力を誇って、人を振り回す人が耐えません。そのような強い人に、ひどい目に合わされることもあります。しかし、私たちはそれを通して、主に祈ることを覚えるとも言えます。 “ナホム1章〜2章2節「敵を用いて謙遜にし、その後に敵をさばく神」” の続きを読む