ヨハネ4章1〜26節「神は真の礼拝者を求めておられる」

2014年9月7日

私たちのこころの中には、無限の神によってしか満たすことができない無限の深淵があります。多くの人はそれを世の誉れや一時的な快楽で満たそうとしますが、それは、麻薬のようなもので、真の幸福をもたらすことはできません。

本当は、みんな、愛に渇いていながら、どのようにして良いかが分からないのではないでしょうか?

世の人々は教会を、敬虔なクリスチャンの集る場と考える面があります。昔のパリサイ人たちも、理想的な環境で、ルールを守られる人々だけで礼拝を守りたいと願っていました。

しかし、悲惨も罪もないところでは、神のあわれみを語る必要もありません。イエスの救いは、礼拝を、悲しむ罪人と神との出会いの場とされたことにあります。

1.「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」

4章は、「イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき・・・主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた」という記述から始まります。

これは、イエスの人気がエルサレムを中心としたユダヤ地方で急上昇し(3:22)、それによってパリサイ人たち妨害や攻撃が激しくなることをイエスが自覚され、生まれ故郷のガリラヤ地方に一時、退避しようとされたということです。

イエスはこのとき何よりも弟子たちの信仰の訓練に時間を割きたかったことでしょう。ここで「イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが」と敢えて解説されています。それは、誰が授けたよりも、誰の権威によって授けられるかが大切だからです。

たとえば、そこではイスカリオテのユダによってバプテスマを授けられた人もいたことでしょうが、それがイエスの権威の委任によって授けられているなら、それはイエスご自身によって授けられたのと同じ意味を持ちます。事実、3章22節では「バプテスマを授けていた」の主語は明らかにイエスご自身と記されています。

たとえば、しばしば、「私は…先生にバプテスマを授けていただいた」などと言われることがありますが、もっとも正しくは、「…教会の権威のもとにあった…先生によって」と言うべきでしょう。問われているのは、その先生にバプテスマの司式の権威を授けた教会が正当なキリストの教会であればよいのです。

しかも、ここでは、「サマリヤを通って行かねばならなかった」と敢えて記されています。当時の敬虔なユダヤ人は、サマリヤ人との接触を極力避けていました。そのため、一般的なユダヤからガリラヤへの道は、一度、ヨルダン川東岸にまで下って行って、北上するという恐ろしいほどの遠回りになりました。

しかし、このときのイエスがサマリヤ経由の道を選んだ理由が、厳密には、「サマリヤを通って行く必要があった」と記されています。その「必要」とは、サマリヤの人々にイエスご自身こそが、「ほんとうに世の救い主」(4:42)であることを証しするためと言えましょう。

そしてサマリヤの女との出会いが、「それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。」(4:5-7)と描かれています。

「スカル」とは現在のアスカルと呼ばれる町であるとも言われ、それは旧約聖書の中心都市シェケムのすぐそばです。シェケムは、「ヤコブがその子ヨセフに与えた地所」で(創48:21,22)、出エジプトの終着点としてヨセフの遺骸が埋葬された町です。

私たちとまったく同じ弱い肉体を持ておられたイエスはそのとき疲れを覚え、この歴史的な町の近くの井戸の傍らに腰をおろしておられました。

「第六時」とは現代の正午の時刻です。そんな真昼にひとりで水を汲みに来た女性がいました。そして、スカルの町からヤコブの井戸までは約1.2㎞もあったと見られています。

そのときちょうど、「弟子たちは食物を買いに、町へ出かけて」おり、イエスひとりが残されていました。そこでイエスはその女に「わたしに水を飲ませてください」と言われたと描かれています(4:7,8)。

それに対し、「そのサマリヤの女は」、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」と不思議な応答をします(4:9)。それは、「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである」と理由が記されています。

「つきあい」とは、厳密には「いっしょに使う」という珍しいギリシャ語が使われており、これはユダヤ人の教師であるイエスが、サマリヤ人と同じ器を使って水を飲みたいと願うことの異常さを描いた表現と思われます。

民数記19章11節には「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間汚れる」と記されていましたが、当時のユダヤ人にとってはサマリヤ人と間接的にせよ触れ合うなどと言うことは、同じような意味と見られました。

しかも、ユダヤ人の教師の側から女性に声をかけるなどと言うことは、当時の習慣に真っ向から反しました。

イエスは、それに答える代わりに、突然、彼女の心の渇きに焦点を当て、「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」(4:10)と言われました。

それは、ご自分こそが彼女の心の奥底にある問題に答えを与えることができる救い主であることを示すためでした。

しかも、イエスは、不思議にも、ご自分が井戸のたまり水ではなく、新鮮に湧き出て来る「生ける水」(11節)を与えることができると話題を進めます。

それに対し彼女は、「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか」(4:11)と答えます。彼女にとって不思議だったのは、「生ける水」を与えるという当人が水を汲む物さえ持っていなかったことです。

しかも、彼女はこの井戸に誇りを持っており、「あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです」(4:12)と続けて尋ねます。その井戸は南北に分かれたイスラエル王国の共通の父であったヤコブ自ら掘ったものであると言い伝えられてきました。その特徴は何よりもその深さで、最近の調査によると30mもあったとも言われます。

なお、サマリヤ人はアッシリヤ帝国によって滅ぼされた北王国イスラエルと他の民族の雑婚によって生まれましたが、彼らはそこがヤコブからヨセフを通して自分たちに伝わった土地と井戸であると信じていました。エルサレムの住民はダビデを誇っていましたが、この地の人々はヤコブを誇っていました

それで彼女は、井戸水ではなく「生ける水」を与えるというイエスは、ヤコブよりも偉大な存在なのかと聞いて来ました。

そこでイエスは、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり」(4:13,14)と言われます。

主はここで、目の前の井戸の価値や水の性質ではなく、目に見える水は、必ず渇きを引き起こすという現実に目を向けさせながら、ご自分が与える水は、再び渇きを引き起こすことがないと言われました。イエスが与える水は、水を湧き出させる「泉」へと変えられるからです。

そればかりか、そこから「永遠のいのちへの水がわき出ます」と説明されています。「永遠のいのち」とは、もちろん現在の苦しい人生が永遠に続くという意味ではありません。これは、「来たるべき世のいのち」とも訳され、「新しい天と新しい地のいのち」が今から始まるという意味です。これは、イエスが与える聖霊の働きによって生まれます。

なお、水と聖霊には、渇きをいやすという同じ作用がありますが、目に見える水は、その効果が一時的なのに比べ、聖霊を受ける者は、「決して渇くことがありません」という永遠の恵みがあります。

そのことばに女は敏感に反応し、「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい」(4:15)と答えました。これは、「そんな便利な水があるなら・・」と、若干、皮肉を込めた表現とも考えられますが、それ以上に、毎日、人目を避けるようにして日照りの中を1.2㎞も、重い水をもって歩くような生活から解放されたいという願いが込められていました。

それは、水汲み自体の仕事の厳しさ以上に、人目をはばかって水を汲みに来なければならないという孤独感の問題であったと言えましょう。目の前の仕事がどんなに肉体的に辛くても、そこに互いへの気遣いやねぎらい、感謝の応答があるなら喜んで仕事をすることができるからです。

2.「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます」

イエスは彼女の問題に入り込むために、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(4:16)と言われます。女は、「私には夫はありません」と答えますが、イエスはさらに、「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです」(4:17,18)と、問題を言い当てます。

彼女は繰り返し結婚に失敗し、人々から軽蔑されていました。当時、一度の離婚は受け入れられても三度以上になったらふつうの女性とは見なされませんでした。ところが、彼女にはそれまで五人もの夫があり、今いっしょにいる人は夫ではないというのです。

彼女は別に売春で生計を立てていたわけではなく、かなりの教養や行動力を持っていたようです。当時、女性の側から離婚を申し立てることは不可能でしたから、彼女は幸せな結婚を望みながらも、夫から見捨てられ続けたのでしょう。

彼女の問題は、愛に渇きすぎていて人との適切な距離を保つことができないという、ラブ・アディクション(愛情嗜癖)だったのかも知れません。そこにあるのは愛への渇きです。イエスは、ここで水への渇きの話しから、愛への渇きへと話を展開したのです。

私も同じような心の渇きを覚えていました。僻地の小学校の落ちこぼれから始まり、良い高校、良い大学に進学し、国費留学までさせてもらっても、「もっと、もっと」という成功への渇きは強くなるばかりでした。そして、この世のものでは与えられない心の平安、救いを求めるようになり、「もう私が渇くことがないように・・・」という気持ちでイエスを救い主として信じました。しかし、何かしっくりしません。その後も、渇きはいやされてはいないからです。

私は、柄にもなく、証券会社に入りました。それは、枠にはまらず自分の個性を生かせる環境にあこがれたからです。そして、神の導きで、ある程度は成功できたかも知れませんが、心の渇きはいやされませんでした。

それで、株式のように損をすることがない福音のセールスマンになったら平安を得られるかと思いました。しかし、今度は、かえって自分の心の不安定さが見せつけられるばかりでした。どこまで行っても「渇き」がなくなることはありませんでした。

しかし、イエスは、渇きを永遠に消す魔法の「水」の話をしたのでしょうか?「生ける水」とは、「聖霊」を指しますが(7:38、39)、その方は、御父、御子とともに世界を創造した神です。

ヨハネは、この世界の創造主ご自身が人の姿となって、人々の真ん中に住むという記述から始め、ここでは何と、その神ご自身が私たちのうちに住んでくださると言ったのです。

しかも、イエスは、「わたしが与える水(御霊)は、その人のうちで泉となる」(14節)と言われ、もう神が私たちを離れ去ることはないと保証されたのです。つまり、現実の心の渇きがなくなるというより、創造主との生きた永遠の交わりが消えることがないという霊的な真実を言われたのです。

「渇き」はいつも感じるのですが、それはいつも御霊によって祈る始まりとなるので、「渇くことがない」という現実がすでに成就しているとも言えるのです。

サマリヤの女は、イエスが彼女の問題を言い当てたことに驚き、「先生。あなたは預言者だと思います」と答えます。ただそれに続いて、話題を当時の一般的な論争に転換します。

これは逃げの姿勢とも思えますが、彼女自身も心の奥底で、愛への渇きと神への渇きが表裏一体のものであることを意識していたのではないでしょうか。

ユージン・ピーターソンのもとに、ラブ・アディクションの女性が相談に来ました。彼女は友人の熱い勧めで来ただけで、本当は牧師に相談に載ってもらおうなどとは思っていませんでした。それで彼女は開口一番、ぶっきらぼうに、「あなたも私の異性関係の遍歴を知りたいのでしょうね」と言いました。

先生は、「それがあなたのお話ししたいことなら、聞きますが、私が本当に聞きたいのは、あなたの祈りの生活なのです」と答えました。彼女はすぐにはその意味を理解できませんでしたが、会話を通して、彼女の問題行動は、「親密さへの渇き」から生まれており、それは創造主との親密な祈りの交わりからしか癒されないということが明らかになっていったとのことです。

とにかくサマリヤの女はイエスに対し、「私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます」(4:20)という当時のホットな話題を持ち出しました。

サマリヤ人はゲリジム山を礼拝の場としていましたが、ユダヤ人はエルサレム神殿こそが唯一の礼拝の場であると考えていました。

それに対しイエスは、「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます」(4:21)と言われました。

「エルサレムでもない」とは、当時のユダヤ人の感覚では決して想像もできない答えでした。事実、主は、宣教の初めにエルサレム神殿の崩壊を示唆して、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」(2:19)と言われました。イエスは、十字架でご自身の肉体をおささげになり、本来の神殿の機能を完成してくださろうとしておられたからです。

それにしてもイエスは何と、誰からも相手にされないようなひとりのサマリヤの女に向かって、真の礼拝について聖書の核心を語り出したのです。

そして引き続き、「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています」(4:22)と言われます。

サマリヤ人は、モーセ五書だけを聖書と認めており、神がエルサレムにご自身の神殿をお建てになったことの経緯が記されているその後の記述を聖書として認めていませんでした。彼らは、どなたを礼拝すべきかは分かっていたのですが、どのように礼拝すべきかについての歴史的な神の啓示と礼拝の完成の預言を否定しました。

これは、現代の教会が陥りやすい過ちかも知れません。確かに聖書の神を礼拝しているのですが、「どのように」という点で人間的に流れる可能性があります。

実際、サマリヤの礼拝の始まりには、政治的な打算がありました。ソロモン王の死後、ヤロブアムは北部の十部族をまとめてユダ族の王から独立しました。ところが、エルサレム神殿は南王国ユダにありましたから、北王国の中に礼拝の場を作る必要が生まれたのです。

このように自分たちの都合で新しい礼拝を作ったため、北王国は神のさばきを受けて滅びました。

3.真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。

そしてイエスは、ご自分がもたらす新しい時代の事を、「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます」(4:23)と言われました。イエスの救いとは、礼拝を完成に導くことでした。

「真の」と「まこと」とは同じ語源のことばで、その中心的な意味は、「まごころの伴った礼拝」というわけではありません。実際、世界にはまごころを込めて偶像礼拝に励んでいる人が多数おられます。

その意味は、第一に、サマリヤのように、人が自分の都合で作り出した「偽り」の礼拝との対比です。

また第二には、「本物の模型にすぎない、手で造った聖所」(ヘブル9:24)での礼拝との対比です。それは、イエスがご自身を「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)としておささげになったことによって始まった、模型ではなく、天そのものに入られた、主ご自身が導く礼拝という意味だと思われます。

イエスは、「神を説き明かす」(1:18)ために人となられ、「わたしが・・真理(まこと)・・です」(14:6)と言われたからです。つまり、「まことによる」礼拝とは、人となられたキリストご自身の啓示と贖いによってもたらされた礼拝を意味します。

また、「霊によって」とは、主が「人は、新しく生まれなければ・・水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」(3:3-6)と言われたように、「新しく生まれた者」としての礼拝を意味します。

さらにイエスは、「今がその時です」と言われましたが、礼拝者も礼拝形式も、イエスによって新しくされました。そして、「父はこのような人々を礼拝者として求めておられる」とは、御父の救いの目的は、何よりも、新しい礼拝の創造にあるからです。

この世の基準で考えると、神が求めるのは、徳のある、自立した、平和をもたらす人、その他、この世の役に立つ人のことかと思われます。実際、世の人々は、「あなたは毎週律儀に教会に行っているわりには大した生き方ができてないね。いったい何を習っているの・・・」などと問いかけたりします。そしてそのたびに、私たちは良心の呵責を覚え、「礼拝なんかに行く前に、証しになるように、責任を果たさなければ・・・」などと思い悩みます。

しかし、それこそ本末転倒です。神は、何よりも、あなたが、真の礼拝者であることを求めておられるからです。

実際、イエスは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された・・・」(3:16)と言われました。「世」とは、罪に満ちた私たちの現実の世界を指します。神はイエスを通して、罪人への愛を示されました。ここに新しい礼拝の原点があります。

人間的な努力や工夫で神に喜んでいただこうとする以前に、イエスの救いを私たち自身が喜ぶことこそが礼拝の中心です。「霊とまことによる」礼拝とは、何よりも、イエスが始められた、イエスご自身が働かれる場です。礼拝者の行動の変化という目に見える実を、人間的な尺度で求めてはなりません。

イエスは続けて、「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(4:24)と言われました。それは、私たちの礼拝が、霊である神のご性質に応じたものであるべきという意味です。

それは何よりも「黙示録」全体のテーマでもあります。この書の著者は、このとき、地中海の小島に流され、「主の日に」、信仰の兄弟のことを心配しながら、礼拝をささげていました(1:9,10)。

その彼に、イエスが栄光に満ちた全地の支配者の姿で現われ、目に見えない天の現実を示してくださいました。これこそ「礼拝」で見られるべき「まぼろし」です。

当時は、ローマ帝国の圧倒的な支配下にありました。この書で、「竜」はサタン、「獣」は政治的軍事的な力、「にせ預言者」は不思議を見せる宗教、「大バビロン、大淫婦」はこの世の富をそれぞれ意味し、世の人々は、「力」と「富」と「不思議」を礼拝の対象としていました。

ところが、天においては、長老と御使いたちが、「ほふられた子羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」(5:12)と、主を賛美していました。

無力さの象徴である「小羊」こそが、「王の王、主の主」(17:14)であるというのです。そして、天の賛美がこの地の賛美となることが黙示録のテーマです。

現在の教会でも、毎週礼拝に通って、生活が楽になるわけでも、人々から尊敬されるわけでも、何かの神秘体験をできるわけでもなかったら、何のために礼拝に行くのかというささやきが聞こえてきます。それはサタンの声です。

しかし、私たちは目に見える現実の上にある天のハレルヤコーラスを霊の耳で聞いて、それをこの地上の礼拝で表わすのです。私たちはこの世で様々な困難に直面しますが、すべては「わたしはある」と言われる神の御手の中にあります。その支配のシンボルがこそ、人の目には無力な「小羊」です。

ところで、サマリヤの女はイエスの教えを聞いて、「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう」と応答します(4:25)。

そしてイエスは、「あなたと話しているこのわたしがそれです」と答えられます。この情景は何と感動的なことでしょう。人々は、目を見張るような力、富、不思議を伴って現れる救い主を待ち望んでいましたが、主は疲れを覚えるひ弱な人間の姿で現れ、救いの意味を、ユダヤ人が忌み嫌うサマリヤ人の、しかも、サマリヤの町の中でも軽蔑されている一人の女に、個人的にお話しになったのです。

この女は、この会話を通して、神のあわれみという不思議を体験しました。それは、夢も希望を失った、人々から見捨てられた女に、神が目を留めるという人知を超えた奇跡でした。

私たちの心が、目に見える現実に翻弄され萎える時、神の小羊をともに礼拝する中で、「あなたがたは自分たちの労苦が主にあってむだではないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)との告白に導かれます。なぜなら、人々から見捨てられた小羊イエスが、復活し、神の右の座につかれたからです。それこそ礼拝の恵みです。