創世記18章〜22章「神の友と呼ばれるまでのプロセス」

2014年8月31日

神が、ソドムとゴモラを硫黄の火で焼かれたこと、また、アブラハムにその子イサクを全焼のいけにえとしてささげるように命じたという記事は、しばしば、人が神を信じる際の大きな障害になっています。それは容易には納得できないことですし、納得してはならないことかも知れません。

しかし、その疑問をすなおに認めながら、しかも、聖書を通して神と率直に対話するときに、私たちにとって何よりも大切なことが見えて来るのではないでしょうか。

実際、私はかつて、「あなたのイサクをささげなさい!」などという力強い?チャレンジの説教のことを伝え聞いて、恐怖と同時に嫌悪感を覚えたものです。それは今も同じですが、創世記12章以降の文脈をじっくりと味わう中で、神の真実が見えてきて、この記事をもっと優しく見られるようになりました。

多くの人は、自分で自分を納得させようと焦り、また急激な信仰の飛躍を願って、かえって自分を霊的な死に追い込もうとしてはいないでしょうか。

1.「アブラハムはまだ、主 (ヤハウェ) の前に立っていた」

「主(ヤハウェ)はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入り口にすわっていた。彼が目を上げてみると、三人のが彼に向かって立っていた」(18:1、2) とは驚くべき表現です。

彼はなお、「約束された地に他国人のように住み……天幕生活をしました」(ヘブル11:9) と描かれたような質素な生活をするアブラハムの前に、主 (ヤハウェ) ご自身が、ふたりの御使いを伴って、人の姿で現れてくださったと記されているからです。

アブラハムは不思議にも、三人のうちのひとりが、御使いではなく主ご自身であることを知り、走って、平伏し、「主 (アドナイ) よ」(3節脚注) と呼びかけます。そして、最高の客人を迎えるように接待させてほしいと願います。

興味深いのは、主ご自身が御使いを伴って人の姿で現れ、アブラハムの接待を受け、「こうして、彼らは食べた」(18:8) と記されていることです。これは、本来、人の目には見えないはずの主 (ヤハウェ) ご自身が、彼の食事を食べるほどまでに日常の中に降りて来られ、その上で、ご自身のみこころを明確に示してくださったということです。

これは、後に、神の御子が、私たちとまったく同じ人間の姿となって、私たちと同じ日常生活を過ごされたということの前触れといえましょう。神は、私たちを超越しておられると同時に、私たちの真ん中に住んでくださる方であられるのです。

主はアブラハムに、サラから子が生まれると改めて約束されましたが (18:10)、その実現のためには、90歳のサラ自身も納得し、極めて肉的とも言える営みが必要なのです。そのために主ご自身が肉の姿で現われ、サラが調理した肉の糧を食べたのかも知れません。

なお、それを聞いたサラが、「心の中で笑って……『老いぼれた私に……』」(18:12) とつぶやいたことが問題にされたのは、それが17章16節に続く二度目の明確な啓示であり、サラがそのことをアブラハムから何度も聞いていながら、それを信じ受け入れようとしていなかったからだと思われます。事実、アブラハムも最初それを聞いたとき疑いながら笑いましたが、それは問題にされませんでした。

しかし、ここでは、「サラはなぜ……笑うのか」と責められ、サラは恐怖に覚えて、笑ったことを打ち消さざるを得ないほどだったからです。

主はアブラハムに、「主 (ヤハウェ) に不可能なことがあろうか」(18:14) と言われましたが、それは、神のみわざを自分の常識の枠で把握しようとする傾向がある私たちすべてに対する永遠のメッセージと言えます。

それから「その人たちは、そこを立って、ソドムを見下ろす方への上って」行きますが、そこで、「主 (ヤハウェ) 」が、ソドムとゴモラを滅ぼすことを、「アブラハムに隠しておくべきだろうか」とご自身に問いかけておられるご様子までが描かれます。

そして、それを知らせる理由が、アブラハム自身が彼の後の家族に、「主 (ヤハウェ) の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため」(18:19) であるというのです。「主 (ヤハウェ) の道」とは、「正義と公正」に他ならず、これはソドムの罪に対して主がどのようなさばきを下したかを、アブラハムが子孫たちにきちんと説明する必要があるからです。

残念ながら人は、自分たちの罪がどのような非劇をもたらすかを目の当たりにして初めて、「主 (ヤハウェ) の道」に従って生きることの大切さがわかるということがあります。

現代の私たちも、罪に対する神の怒りが分からなければ、「キリストの血によって義と認められ」、「神の怒りから救われる」(ローマ5:9) ということの意味が分かり得ません。

ところで、アブラハムはこの神のさばきの正当性を、腹の底から納得したいと願いました。それでふたりの御使いがソドムの方へと進んで行ったときに、「アブラハムはまだ、主 (ヤハウェ) の前に立っていた」(18:22) というのです。

彼は、何と全世界の創造主に向かい、まるで説教をするかのように、「全世界をさばく方は、公義を行なうべきではありませんか」(18:25) と言いました。そして、「五十人の正しい人がいたら……」から始まって「もしやそこに十人見つかるかもしれません」まで、六段階の数字をあげて、正しい者が悪い者と一緒に滅ぶことがないようにと、主に断固として訴えます。その際、彼の頭には、誰よりも甥のロトに対する心配があったことでしょう。

どちらにしても、これこそ祈りの模範でもあります。私たちも自分が納得できないことを、正直にストレートに訴える必要があります。信仰とは、決して思考を停止することではありません。信仰とは祈りです。それは、神に訴えすがることから始まります。

その後、ふたりの御使いはロトの住むソドムを訪ねます。不思議なのは、ロトが「彼らを見るなり……顔を地につけて伏し拝み」(19:1)、彼らを神の御使いと認めていながら、もてなしたり、守ろうとすることに夢中になっている点です。何と、御使いたちを町の人々の男色の標的から守るために、自分の娘たちを犠牲にしようとしたほどでした。

なお、この記事から、同性愛は「ソドムの罪」と呼ばれるようになりました。それに対して町の人々は、「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさかのようにふるまっている」(19:9) と激高し、ロトに迫ってきました。

これをもとにペテロは後に、「義人ロトは……不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていた」(Ⅱペテロ2:7、8) と記します。

町の人々は、ロトは日ごろからソドムの罪を批判的に見ていたことを苦々しく思っていたからこそ、このように迫って来たのでしょうが、ここに至って初めて御使いたちは力を発揮し、ロトを助けるために攻撃者たちの目をくらませます。

皮肉にも、ロトは、神の御前に正しくあろうと必死でも、自分こそが、主のあわれみを必要とすることを分かっていないかのように振る舞っています。その意味で、ロトの義は、「パリサイ人の義」(マタイ5:20) に近いものだったのではないでしょうか。神の前に正しくあろうとすることよりも、神のあわれみにすがることこそ信仰の基本です。

そして、ロトが逃げることを「ためらって」(19:14) しまったのは、御使いの訪問の目的を真剣に聴こうとしなかった結果かもしれません。それで彼らが、彼と妻と娘たちの手をつかんで町の外に連れ出す必要がありました。それは、「主 (ヤハウェ) の彼に対するあわれみによる」ものと描かれます (19:16)。

しかも、ロトは、「山に逃げなさい」と言われても、主のあわれみを信じることができず、自力で走りきられる範囲の小さな町を願いました。しかし、主はそれをも聞き届けて下さいました。

そして、ロトがその町ツォアルに着いたその時、「主 (ヤハウェ) はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を、天の主 (ヤハウェ) のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた」(19:23-25) と描かれます。

ただ、残念ながら、ロトの妻は、御使いの命令に反して (19:17) 振り返ったので、「塩の柱」になってしまいました (19:26)。その翌朝、アブラハムがかつて主の前に立ったと同じ場所から、主のさばきの跡を見下ろした様子が描かれます。

その際、「神はアブラハムを覚えておられた。それで……神はロトをその破壊の中から逃れさせた」(19:29) と敢えて記されます。ロトが助かったのはアブラハムのおかげだからです。

その後、ロトは、神の許可があったツォアルさえも離れてしまいます。それは、神がその町をも滅ぼすのではないかと「恐れた」からでしょう (19:30)。そして、彼と娘たちは、山のほら穴に住むようになってしまい、孤立します。そして、ふたりの娘も希望を失い、父親を酔わせて子孫を作ろうなどという主の御教えに反する破廉恥なことを思いつき実行します (19:36)。その結果、モアブ人とアモン人という不幸な民族が誕生します (申命記23:3)。

ロトはアブラハムのあわれみにすがることもできたはずです。ロトは、主のあわれみに信頼することができず、災いを招きました。自分の正義感にとらわれ、また自分の狭い世界を守ろうとしたため、すべてを失ってしまいます。

ロトの問題は、私たちの問題でもあります。私たちも、アブラハムのように主の前に立ち続ける大胆さが必要ではないでしょうか。

2.「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる」

ところが、アブラハムは、その後ペリシテ人の地ゲラルで、エジプトの時と同じ間違いを繰り返します (20:1、2)。彼は、妻の美しさのゆえに自分が殺されるかもしれないと恐れて、サラを「これは私の妹です」と紹介します。それを信じた、ゲラルの王アビメレクはサラを召し入れました。

神は「あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい」(17:19) と明確に語っておられ、彼も確信していたはずでしたが、再び昔の悪い癖に動かされました。いつまでたっても学習できないものです。

しかし、神はそんな彼をあわれみ、夢の中でアビメレクに現われ、「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である」(20:3) と警告して下さいました。

しかも、アビメレクの正当性を認めながら、なおもアブラハムのとりなしの祈りを求めるように命じます (20:7)。まさに、神は、人間の善悪の基準を超えて、アブラハムの側に立っておられるのです。

それを知ったアビメレクは、サラを返すばかりか、羊や牛の群れ、男女の奴隷を与え、自分の領地のどこに住むことをも認め、銀千枚までも与えました。その上で、「アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、およびはしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった」と記されます (20:17)。

明らかにアブラハムに非があったのに、神は、ご自身がアブラハムの側に立ち、彼の祈りを聞かれることを証明されたのです。

それはまた、主が彼に、「あなたは祝福となる。わたしはあなたを祝福する者を祝福し、あなたを蔑む者をのろう。地上 (アダマー) のすべての民族は、あなたにおいて祝福される」(12:2、3私訳) と言われた主の約束が成就したということです。

アブラハムは、人間的な計算で神のご計画を台無しにするところでした。ところが、それにも関わらずその後の事が、「主 (ヤハウェ) は、約束されたとおり、サラを顧み……仰せられたとおりに主 (ヤハウェ) はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ」(21:1、2) と描かれています。

このようなイサクの誕生の経緯に、主のご真実を見ることができます。後にパウロは、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自分を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13) と記しています。

ところで、イサクの乳離れの頃、サラは、ハガルとイシュマエルを追い出すことを主張します。これも昔の彼女のパターンの繰り返しです。アブラハムも悩みますが、「彼もあなたの子だから」(21:13) という主ご自身のイシュマエルに対する約束を聞いて、彼らを送り出します。その後、ハガルは荒野をさまよい、「皮袋の水が尽きたとき」、子供の死を覚悟して「声を上げて泣き」ます (21:15、16)。

それにしても、このような悲劇が起きたのは、アブラハムとサラが、神のみこころを求めて真剣に祈ることなく、人間的な計算で、女奴隷のハガルから子孫を生もうとしたからです。その後のアブラハムの対応も、家長としては失格です。

主がイサクの誕生をイシュマエルの誕生から14年間も遅らせたのは (16:6、17:1)、イシュマエルがハガルとともに荒野で生き延びられる年齢になるのを待つためでした。そして、このとき、絶望するハガルの目が開かれ、井戸が見つけられ、ふたりは生き延びます。

その後のことが、「神が少年とともにおられたので、彼は成長し」と描かれます (21:8-21)。ここにも、アブラハムの人間的な弱さにもかかわらず、「あなたは祝福となる……すべての民族は、あなたにおいて祝福される」という約束が守られています。

その頃、アビメレクと将軍ピコルがアブラハムに「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる」(21:22) と言います。それは、アブラハムの側にたとえ非があっても、神が彼の味方になっているのを見たからです。

私たちは、自分たちの立派さによって世の人々に神を証ししようと頑張りがちですが、この場合のアブラハムは、彼が意図したわけではありませんが、その愚かさによって主の真実を証ししています。

彼らは、「私があなたに尽くした真実に (ヘセド) ふさわしく……私にも……この土地にも(真実を)尽くしてください」と恐れをもって願います (21:22、23)。そればかりか、井戸のことでアブラハムが抗議をすると、あっさりとそれを受け入れます。それがベエル・シェバの町の始まりとなります。

まさに、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31) とあるとおりです。

そして、これらの記述の後、ここでも、「アブラハムは……永遠の神、主 (ヤハウェ) の御名によって祈った」(21:33) と描かれています。彼は何度も間違いを犯しますが、彼を特徴づける最大のテーマは、「祈り」なのです。

神があくまでも「私たちの味方」となってくださるのは、私たちが恐れから解放されて、自分の身を差し出して主に仕えることができるためです。

私たちはこの世に対して神の祭司としての役割が期待されています。それは、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(Ⅰペテロ2:9) とある通りです。ですから、私たちが世の人々にできる最高の証しも、私たちがいつでもどこでも主に祈っているという姿勢ではないでしょうか。

3.「これらの出来事の後、神はアブラハムに試練を与えられた」

「これらの出来事の後」(22:1) とは12章からのアブラハムの歩みのすべてを指すように思えます。彼は、エジプトでもペリシテでも、サラを自分の妹と言って、彼女を危険にさらしました。

そればかりか、自分の家庭を治められず、ハガルを二度も家から出さざるを得なくしました。しかし、それにも関わらず、神はアブラハムに真実であり続けました。

そして、神の約束を信じきることができない彼に、何度も親しく現われてくださり、目に見えるしるしをさえ与えて彼の信仰を育てて下さいました。

振り返って見ると、私自身の場合も同じです。もちろん、アブラハムのように主または主の御使いに、お会いしたことはありませんが、肝心のときに支えられ続けました。同じことが一人一人に当てはまるのではないでしょうか。誰も自分の信仰を誇ることはできませんし、また、卑下する必要もありません。

その上で、「神はアブラハムを試練に会わせられた」のです。そのとき主は何と、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示すひとつの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」と命じられます (22:1)。これほど乱暴な命令があるでしょうか?

これは キルケゴール が著書「おそれとおののき」で問題にしているように、しばしば教会で牧師が、「アブラハムが最善のものをささげようとしたほど、神を愛したことは偉大なことであった」などと安易に語ってはなりません。

もし、誰かがその模範に習おうとするなら、「お前は悪魔に取りつかれたのか」と必死になって止めることでしょう。これは、「主 (ヤハウェ) の道」に反する、子供をいけにえとするモレク礼拝と同じに見えます。

またこれは明らかに、「星を数えることができるなら、それを数えなさい……あなたの子孫はこのようになる」(15:5)という主の約束に矛盾し、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」(21:12) と主が言われたことにも真っ向から反するように思われます。

事実、アブラハムは出発して三日目に、モリヤの地(後のエルサレム神殿の地)を、「はるかかなたに見」ながら、しもべたちをそこに残し、敢えてふたりだけになります。自分がやろうとすることを誰にも説明することができないからです。

そして、イサクも、何かがおかしいと感じ、「全焼のいけにえのためのたきぎ」を背負いながら、「彼の父アブラハム」に向かって、「お父さん」と呼びかけます。アブラハムは、「何だ、わが子よ」と答えます。

イサクが、「全焼のいけにえのための羊はどこにあるのですか」と尋ねると、アブラハムは、「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。わが子よ」と答えた様子が描かれます (22:7、8私訳)。

「父」、「わが子よ」とそれぞれ二回繰り返される中に、恐ろしいほどの緊張感が示唆されています。

今、ここで、父はわが子を殺すように迫られていると悶え苦しみながら、とっさに、「そうであって欲しい」という希望的な観測を「わが子に」必死に述べたのかもしれません。

なおも二人は歩き続けて目的地に達し、アブラハムは、今、主の命令に従って、「自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置き……刀を取って自分の子をほふろうと」(22:9、10) しました。このとき彼らは何を考えていたのでしょう。イサクが自分の身を縛られるままに任せたのは、父に対する絶対的な信頼の証しなのでしょうか……。

後にヘブル書の著者は、アブラハムの気持ちを、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました」と描きますが (ヘブル11:19)、それでも「わが子」にナイフを突きつけている気持ちはどんなものでしょう。

だからこそキルケゴールはアブラハムの試練についての考察の書名を、「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」(ピリピ2:12) とのみことばから取っています。

なお、「アブラハムは……どこに行くか知らないで出て行きました」(ヘブル11:8) とありますが、信仰の歩みでは、最終ゴールは分かっても目の前はしばしば不安に満ちています。

ただし、このような過酷な命令は、突然与えられたものではありません。アブラハムにとって、イサクの誕生こそ神の真実の最大の証しでした。ですから彼は、この途方もない命令を聞きながら、神には何か特別のご計画があると思ったことでしょう。

彼はこれを納得はできなかったでしょうが、神の真実を体験的に知っていました。ですから、人間的な価値判断を超えて、神の命令に従えたのです。

かつてアダムは、神の明確な命令を聞きながら、自分を神として、自分の価値判断に従って、神に背きました。しかし、今、アブラハムは、人間的な価値判断を超えて、神を善悪の基準としたのです。つまり、この命令は、人間の目には理解しがたいこと自体に意味があるのです。

アブラハムはこれによって、「神のようになり、善悪を知るようになった」(創世記3:5、22) というアダムの罪を逆転させました。この試練を通して、「私の道」ではなく、「主 (ヤハウェ) の道を守る」という、神のわざとしての信仰に導かれたのです。

主は、その時になって彼を差しとめ、「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」(22:10) と言われ、一頭の雄羊を見せてくださいました。そのことから、「アドナイ・イルエ」(主 (ヤハウェ) の山には備えがある)と言われるようになります。

それから主 (ヤハウェ) の使いは、天から彼を呼んで、「あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し……あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」(22:16) と言われました。

パウロはこれと同じことばを使って、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32) と記しました。

つまり、神は、世界の救いのためにご自身の御子をおささげになるご計画を既に持っておられた上で、アブラハムに同じ痛みを体験させ、真に彼を「神の友」にふさわしいものとして承認してくださったと解釈できるのです。

ヤコブは、「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められた……彼の信仰は行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ……アブラハムは神の友と呼ばれたのです」(2:21-23) と語っています。

私たちの信仰は、いのちよりも大切なものをも犠牲にする行動として完成するというのです。私は長らく、自分の信念や愛する人のためには命を犠牲にできる気高い人になりたいと思っていましたが、そこには自分の世界を絶対化する、自爆テロと変わらない思いがありました。

アブラハムはイサクをささげたとき、人の目には最悪の父になる覚悟をさえ決めたのです。彼の「信仰」とは彼の信念ではなく、神の真実への応答でした。

アブラハムが神のみこころと自分の思いを一つにし、「神の友」と呼ばれるまでに、どれだけのプロセスがあったことでしょう。創造主ご自身でさえ、ひとりの人の心を成長させるにはこれだけの苦労をされているのです。

私たちは、自分も人も、あまりにも厳しい尺度で測ってはいないでしょうか。アブラハムは確かに「信仰の父」です。しかし、それは彼が誇ることができるものではありません。彼の信仰は、神の作品であったからです。

彼の模範に習うことは大切ですが、それよりはるかに大切なのは、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいる」(ヘブル12:2) ことではないでしょうか。十字架の苦しみの向こうには、必ず復活の喜びが保障されているからです。