この詩篇は伝統的に七つの悔い改めの詩篇 (6,32,38,51,102,130,143篇) の最後と呼ばれ、作者もダビデであると見られています。しかし、この詩のどこにもダビデの罪の悔い改めの姿が描かれていません。ひょっとすると、多くの信仰者は詩篇を読むときに、すでに一つの枠を持ってしまっているからこそ、これを悔い改めの詩篇と分類したのかもしれません。 “詩篇143篇「主 (ヤハウェ) よ 私を生かしてください!」” の続きを読む
詩篇55篇「あなたの重荷を主 (ヤハウェ) にゆだねよ」
花粉症に苦しむ方が、「昨夜、私は鼻が詰まって眠られなかった……」と言ったことに、ある尊敬されるカトリックのシスターは、「あら、お薬をちゃんとお飲みになったの?」と応答してしまい、後で自分の配慮のなさを深く反省したとのことです。
私はそれを伺い、その気づき方に感心しました。人は、誰でも、自分の気持ち、自分の辛さをわかって欲しいと願います。そのときに、苦しみの原因を分析されたのではかえって気が滅入るかもしれません。私たちも、しばしば、そのような反応をすることを反省すべきでしょう。 “詩篇55篇「あなたの重荷を主 (ヤハウェ) にゆだねよ」” の続きを読む
詩篇146篇「望みをアダムの子ではなく、主 (ヤハウェ) に置く生き方」
聖書にある神のみわざの最も画期的なことは、人が「神のかたち」として、「神の似姿」に創造されたということではないでしょうか (創世記1:26-28)。ところが人は、「自分を神」としてしまい、そこから「力ある者」が弱者を支配するという構造が生まれました。
ときには、弱者を援助するという慈善事業を通してさえ「力ある者」が「神のかたち」に創造された人を支配するという構図が生まれます。それは人を「捕らわれ人」とすることです。 “詩篇146篇「望みをアダムの子ではなく、主 (ヤハウェ) に置く生き方」” の続きを読む
詩篇133篇、134篇「主にある交わりへの祝福」
日本語の「教会」とはギリシャ語のエクレシアの訳で、それは「召し出された者たちの集まり」と訳すこともできることばです。その本質は「教えを受ける会」ではなく、「互いに愛し合う共同体」です。
そのように言われる割には、「この教会には愛がない」と言われる現実がどの教会にもあります。新興宗教の交わりの方がずっと愛があるように思えることがあっても不思議ではありません。しかしそれは私たちの信仰が、一人ひとりが、たったひとりで創造主と向き合うということが信仰の基礎にあることの逆の面でもあります。 “詩篇133篇、134篇「主にある交わりへの祝福」” の続きを読む
詩篇131篇「乳離れした児のように」
詩篇131篇は120篇から134篇まで続く「都上りの歌」の一つで、これらの中心主題はエルサレム神殿への巡礼の旅です。私たちも「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んで……はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白」しているという旅の途中にあります(ヘブル11:9,13)。
私たちは今、ここでの生活が、旅の途中にあると思えば、少々の居心地の悪さに耐えることができます。また様々の分からないことがあっても、「やがて分かる」という希望の中で「待つ」ことができます。 “詩篇131篇「乳離れした児のように」” の続きを読む
詩篇137篇「エルサレムを至上の喜びとして生きる」
イエスの時代のユダヤ人にとっての神の「救い」とは、ローマ帝国の支配から解放されて、ダビデ王国の栄光が回復されることでした。それは「バビロン捕囚からの帰還」、「新しい出エジプト」と呼ぶことができます。
バビロン帝国によってエルサレム神殿が破壊された70年後に、バビロンはペルシャによって滅ぼされ、ユダヤ人のエルサレム帰還が許され、神殿が再建されましたが、それは捕囚の終わりとは言えません。彼らはなおペルシャ帝国の支配下にあったからです。 “詩篇137篇「エルサレムを至上の喜びとして生きる」” の続きを読む
詩篇132篇「主の安息の場から広がる祝福」
この詩篇の表題の「都上りの歌」というのは詩篇120篇から134篇までの15の詩篇についており、当時はエルサレム神殿への巡礼の歌と理解されていました。 “詩篇132篇「主の安息の場から広がる祝福」” の続きを読む
詩篇42〜43篇「心の渇きへの癒し」
今から50年前、米国はベトナム戦争の泥沼化に苦しんでいる中で、Love & Peaceを掲げた反戦運動が盛になっていました。残念ながら当時の米国においては、キリスト教は戦争を正当化する宗教と見られていました。 “詩篇42〜43篇「心の渇きへの癒し」” の続きを読む
詩篇1〜2篇「主の教えを喜ぶ者の幸い」
サラリーマン時代、「主の教えを喜ぶ人は……何をしても栄える」というみことばが、仕事の成功と結びついて嬉しく思えました。しかし、様々な悩みを抱えた方に接しているうちに、その詩篇1篇があまりにも楽天的に見えてきました。主の教えを喜びながらも次から次と厳しい試練に会う人がいるからです。 “詩篇1〜2篇「主の教えを喜ぶ者の幸い」” の続きを読む
詩篇37篇「平和の人には将来がある」
人に裏切られ続けた人は、人の善意を信頼できず、すべてを損得勘定でしか見られないことがあります。不安に駆りたてられている人は、自分の身を守るために、人の手柄を横取りすることさえ平気でします。しかし、恩を仇で返すような行為とか、目的のためには手段を選ばない生き方が、いつまでもまかり通ることなどあり得ません。神は盲目な方ではないからです。 “詩篇37篇「平和の人には将来がある」” の続きを読む