暁の明星の何と麗しく輝くことか〜詩篇105篇

東京で新型コロナウィルスの感染者数が過去最高を記録し、また九州から日本列島全体に広がる集中豪雨の犠牲を思いながら、本当に、不安と悲しみに圧倒される思いを味わっておられる方が多いかと思います。

ドイツ・コラールの女王と呼ばれる賛美歌346「たえに麗しや ヤコブより出でし あしたの星よ」(原歌詞:暁の明星の何と麗しく輝くことか)は、1597年フィリップ・ニコライが自分の牧会する町ウンナで、ペストの蔓延下で作られた名曲です。

毎日、十数人もの人々の葬儀を続けるような中で、ある朝、起き上がって、全精神をイエス・キリストに向け、すでに暁の明星としてのキリストの支配が始まっており、これは完成に向かうということに心の目を向けました。

この地の苦難は、天上の神の支配が、この地に広がる機会であると捉えたのです。それは、人間が自分たちの無力さに圧倒されるそのときこそ、神のみわざが人々の間で認められる時でもあるからです。

今、この苦難の中で「新しい創造」が始まっています。

以下は、オリジナルのメロディーでの賛美です

そして、ヨハン・セバスチャン・バッハが1725年にこの賛美歌を元にカンタータ1番を記しました

そして、私たちの教会では開拓30周年を機に、この賛美歌に次のような歌詞を新たに付けました

  1. キリストの愛に やすらぎいやされ 御姿みすがたに似る
    すべての疲れし 重荷おもに負いし者 御もとに来たれ
    主イエスと ともに歩む日の幸い 恵みは尽きせじ
  2. 新しい創造そうぞぅここにて喜び シャローム望む
    愛と正義住む 御国みくにを待ちつつ 今日きょうも生かさる
    十字架の 主イエスのくすしきみわざよ すべてがあらたに
  3. 主イエスにならいて 御神のかたちで ともにこの地に
    ひとり子をも世に つかわせし御父みちち われら遣わす
    御霊みたまよ われら愛のうつわとなし 御国をこの地に

詩篇105篇はイスラエルの歴史を振り返った歌です。

「主に感謝し 御名を呼び求めよ」という呼びかけから始まり、「主 (ヤハウェ) とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。主が行われたくすしいみわざを思い起こせ。その奇跡と御口のさばきを」(4、5節)と続きます

そしてその後、一人のアブラハムから神の民を創造し、その子孫をエジプトでの奴隷状態から解放し、約束の地に導かれた、主 (ヤハウェ) のみわざが歌われています。

7節では「この方こそ 私たちの神 主 (ヤハウェ) そのさばきは全地にわたる」と告白されますが、主は全世界を治める(さばく)方ではありますが、旧約ではあくまでもアブラハムの子孫であるイスラエルにとっての神として描かれているということを忘れてはなりません。自分をアブラハムの子孫の立場に置いて読まなければ、聖書の話は心に落ちません。

8、9節では、「主はご自分の契約を とこしえに覚えておられる……それはアブラハムと結んだ契約」と記され、その後、主のみわざが具体的に思い起こされた上で、42節では再び、「これらのことは 主がそのしもべアブラハムへの聖なることばを 覚えておられたからである」と描かれています。これこそ、聖書のストーリーの核心です。

それは、創世記12章2、3節の「あなたを大いなる国民とする……地のすべての部族は、あなたによって祝福される」という約束であり、同15章5、18節にあったアブラハムの子孫が天の星のように数えられないほどに増えるという約束、また、「エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで」の約束の地を与えるという契約です。そして旧約の前半部分にはアブラハムの子孫に約束の地が与えられたという物語が描かれ、新約においては、地のすべての部族がアブラハムによって祝福されるという物語が描かれています。

私は最初、主がアブラハムと結んだ「契約」という観点から聖書を読むことができていなかったため、旧約での残酷な物語や、救いが選びによるという教理にも違和感を覚えました。しかし、この観点から全体を読み出すとすべてに一貫性が見えてきました。

12-15節では、たとえば、アブラハム一族が約束のカナンの地に入りながら、飢饉のためにエジプトに「渡り歩いた」物語が示唆されます。彼は妻のサライを妹だと偽ることで自分の身の安全を保とうとしました。エジプトの「王」は彼女を妻の一人として召し入れましたが、神が王を「戒め」、王は多くの贈り物とともにアブラハムを約束の地に送り出すはめになりました。王からしたら不条理極まりない話ですが、これは神が、アブラハムの不真実にも関わらす、契約を守り通したという神の真実の物語になります。

16-23節ではイスラエルの民が「飢饉」のために避難する過程が描かれます。興味深いことに、「主は一人の人を彼らに先駆けて送られた」(17節) と記されます。それは「ヨセフが奴隷として売られた」ことを指します。兄弟たちから憎まれ、奴隷に売られることなど、あってはならない悲劇です。しかし、主は彼をエジプトの支配者へと引き上げました。

後にヨセフは兄弟たちに、「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」(創世記50:20) と、兄たちを安心させ、優しく語りかけました。そこにアブラハムへの契約の成就の始まりを見たからです。

24-38節はイスラエルがエジプトから解放される過程が描かれます。その前提で、「主は人々の心を変えて ご自分の民を憎ませ……悪賢く扱うようにされた」(25節) と記されます。ここでも、人々の不真実を通して、契約に対する神の真実が描かれます。

祈り

主よ、あなたの使徒パウロは、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13) と記していることを感謝します。聖書全体を通して、ご自身の契約に対するあなたの真実を見させてください。