I come to the garden alone〜詩篇45篇

最近のニュースは豪雨被害と新型コロナの感染拡大ばかりで、気が滅入ってしまいますが、いかがお過ごしでしょう。私たちはそのような中で、失われたエデンの園への憧れを強くせざるを得ません。

1912年にアメリカのオースティン・マイルズが作詞作曲した I come to the garden alone(私は一人で園に来る)という美しいゴスペルがあります。僕はこれを聞くたびにエデンの園の情景を思い起こします。でも、この曲が作られたのは、ニュージャージーの冷たく陰気なジメジメとした地下室だったそうです。そこには窓もなく、空いた隙間から、隣の家の美しい庭だけが見えていたとのことです。

私たちはこの混乱に満ちた世界からエデンの園の調和に憧れます。そして、私たちは今ここで、その情景を思い浮かべつつ、主イエスと語り合うことができます。そして、私たちはそこからこの混乱に満ちた世界に遣わされて行きます。

今度の日曜日の朝の二つの礼拝で演奏されますが、以下のように訳されて歌われます(日本語歌詞 福音教会讃美歌378 蔦田順子 2012年)

  1. I come to the garden alone
    朝露の園を
    while the dew is still on the roses,
    ひとり歩む時に、
    and the voice I hear falling on my ear,
    耳元に聞こえます
    the Son of God discloses.
    主イエスの御声が
    以下繰り返し
    And he walks with me, and he talks with me
    イエスは私に語る
    and he tells me I am his own,
    「あなたはわがもの」
    and the joy we share as we tarry there,
    イエスとともに歩める
    none other has ever known.
    喜び尽きず
  2. He speaks, and the sound of his voice主イエスの御声は
    is so sweet the birds hush their singing,
    甘い歌のように
    and the melody that he gave to me
    この胸に語られた
    within my heart is ringing.
    素晴らしい調べ
    先の繰り返し
  3. I’d stay in the garden with him
    主イエスと一緒に
    though the night around me be falling,
    園にいたいけれど
    but he bids me go; thru the voice of woe
    主の声は悩む世に
    his voice to me is calling.
    私を遣わす
    繰り返し

以下でアカペラの賛美と園の情景が映されます。

また、次のサイトは昨年2月に当教会で開かれたジャクリーン・ロシェック姉と細木朝子さんによる で、その五番目のシンドラーのリスト等のメドレーの二番目に収録されています。当教会のホームページからご覧いただけます

この関係で詩篇45篇を思い起こしました。以下の解説をお読みいただければ幸い

この詩の標題の最後には「愛の歌」と記され、1節では著者が「王」のためにこの歌を作ったと、その背景が説明され、9節では「王妃はオフィルの金を身に着けて、あなたの右に立つ」と記されていることから、「王の結婚式」の歌とも呼ばれます。

ただ、不思議にもヘブル人への手紙1章8、9節においては、この詩の6、7節が引用されながら、御子が神の栄光に輝き、御使いたちよりもさらにすぐれた、御使いにとっての礼拝の対象であることの証拠として引用されます。

つまり、この歌は、直接的には、王の結婚式のために作られたものでありながら、ダビデの子としての救い主のご支配を預言したものとして、初代教会の人々には理解されていたのです。

そして、この歌が神への不満を祈った44篇に続くものとして配列されていることは興味深いことです。「神よ、どうして……」と祈った後に、理想的な王の出現が歌われているからです。

2-5節には、王の「麗しさ」「尊厳」「義の勝利」が歌われています。そして5節の「国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う」という表現は、先の詩篇44篇10-14節で、神の民が敵からかすめ奪われ、食い物にされ、物笑いの種とされていると描かれていることと驚くほど対照的です。

イスラエルの民がそのような悲劇にあったのは、何よりも、ダビデに続く王たちが、神によって立てられた王としての自覚に生きていなかったからです。

その意味で、詩篇45篇は、イスラエルの民が苦難の中で、本来の王の姿に憧れながら歌われたもので、その意味で、真のダビデの子としてのキリスト預言として理解されるのは、極めてこの詩篇の文脈に合っていると言えましょう。

6節の「神よ」という呼びかけは、「王」に向けてのものと思われます。なぜなら、7節では、「神よ、あなたの神は喜びの油を……あなたに注がれた」と、王が「神」と呼ばれ、その王の神が、王に油を注いだと記されているからです。

イエスご自身も、聖書が「神のことばを受けた人々を、神々と呼んだ」と言っておられます (ヨハネ10:35)。なお「神」も「神々」もヘブル語にするとエロヒームという全く同じ単語になります。

6節では「あなたの王座は世々限りなく」と歌われますが、これはダビデが神の住まいとしての神殿を建てると申し出たときに、反対に、神ご自身がダビデのために「一つの家を造る……あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:11、16) と約束してくださったことを思い起こさせます。

そして、ここでダビデの王座の支配が「公正の杖」と呼ばれるのは、詩篇2篇9節で、「あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き」とあるように王の力ある支配を意味します。

そのことが7節では、「あなたは義を愛し、悪を憎んだ」と記されます。そして「救い主」このような理想的な王として登場されたのです。

8-15節には喜びと栄華に満ちた結婚式の情景が描かれます。それは黙示録19章6-9節では、「小羊の婚宴」として実現すると約束されています。

そこでは、「われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう……花嫁は、光輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである」と記されています。これこそ、すべてのクリスチャンに約束された栄光のゴールです。

祈り

主よ、私たちの救い主イエスが、ダビデの子として現れ、愛の支配をこの地に実現してくださる王であることを感謝します。私たちをその支配の完成のためにお用いください。