イザヤ43章黙想

「恐れるな。私があなたを贖ったのだから」(イザヤ43章1節)
Do no be afraid, for I have redeemed you.

一昨日の国会で「新型コロナ「東京型エピセンター」発生!?」という専門家の意見が出され、このままでは東京は大変なことになるとの報告がなされました。

一瞬、このままここで礼拝を開いて良いのかと、恐れを抱き、それから改めていろいろ調べてみました。そして調べれば調べるほど、専門家と言われる方の中にもいろんなご意見があることが改めて分かってきました。それに対する教会の対応も様々です。

アメリカのアトランタにある礼拝出席者3万人を誇る大教会が、今年中は公の礼拝に人を集めずに、地域に仕える地道な活動に専念すると報道されていました。でも、一方で、カリフォルニアの大教会は、州政府がコロナ対策のために教会の礼拝で歌うことを禁ずる通達を出したことに対して、信教の自由を侵すものだと、厳しく抗議しています。

日本の教会でも、再び礼拝の場を閉じる選択をしている教会もあれば、聖餐式を始めている教会もあります。

この感染症に対する対策は、置かれている状況によって、いろんな意見があります。ときにはそれが先鋭化して、激しい対立を生むことがあります。しかし、その対立感情自体がある意味でサタンの思う壺とも言えましょう。それぞれの健康状態が違うばかりか、感性の違いもあります。それぞれの意見にはほんとうに様々な背景があります。

ただ、一つ、明らかなことは、私たちは自分の不注意によって、自分自身がウイルスをまき散らす媒介になってはいけないということです。マスクをするのもそのためです。

この不気味なウィルスを前に、健全な恐れを抱くことは極めて大切なことです。しかし、恐れのために、他の人の意見を真っ向から否定することも避けなければなりません。私たちは当分の間、毎日、手探りの状態で前に進まざるを得ません。

聖書の中では、「愛し合いなさい」という命令よりも、「恐れてはならない」という命令の方がはるかに多く登場します。しかし、その際、文脈に気を付ける必要があります。そこにはほとんどの場合、神ご自身の「わたしがあなたといるから」という保証があります。また「わたしがあなたを贖ったのだから」という宣言もあります。

ですから、「恐れ」の感情を持つことが否定されているのではなく、「恐れ」のために、なすべき良いことができなくなることに対する警告なのです。全能の主がともにいてくださるから、私たちは自分の危険を顧みずに、人を愛することができるのです。

以下は、イザヤ43章1-7節の私訳です。原文の強調点をより明らかにしようとする試みです。いろんな情報に心が騒ぐときに、信仰の原点に立ち返る意味で以下のみことばを味わっていただければ幸いです。

またこれを英語で歌った賛美も一番下にご紹介します。

43:1 だが、今、主 (ヤハウェ) はこう仰せられる。
―ヤコブよ。あなたを創造された方が、
イスラエルよ。あなたを形造った方が。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだから。
あなたの名をわたしは呼んだ。
あなたは、わたしのもの。

43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、
わたしはあなたとともにいる。
川を渡るときも、あなたは押し流されず、
火の中を歩いても、焼かれず、
炎はあなたに燃えつかない。

43:3 わたしは主 (ヤハウェ)、あなたの神、
イスラエルの聖なる者、
あなたの救い主であるからだ。
わたしはエジプトをあなたの身代金とし、
クシュとセバをあなたの代わりとする。

43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしは、あなたを愛している。
だから、人をあなたの代わりにし、
民をあなたのいのちの代わりにする。

43:5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるから。
東からあなたの子孫を来させ、
西からあなたを集める。

43:6 北に向かっては、引き渡せ、と、
南に向かっては、引き止めるな、と言う。
来させよ。遠くからわたしの息子たちを、
地の果てからわたしの娘たちを……。

43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者を、
わたしの栄光のために創造し、形造り、
確かに造った。