本当にガザ地区の悲惨さには目を覆いたくなります。その地で命がけで難民の方々に仕えておられる方々には頭が下がります。 “ハマスの創設者の息子がクリスチャンに……自分を迫害する者のために祈りなさい〜マタイ5:44” の続きを読む
マタイ28章16〜20節「イエスの生き方に倣うように導く共同体として」
私たちはみな小さい頃から、「この地で成功する」ようにと様々な訓練を受けています。そして、キリスト教会でも「弟子訓練」の大切さが説かれてきました。イエスご自身十二人の弟子を特に選んで身近において訓練しました。 “マタイ28章16〜20節「イエスの生き方に倣うように導く共同体として」” の続きを読む
マタイ28章1〜15節「イエスの復活の証人は?」
イエスの復活の記事は、各福音書によって描き方が異なり、明らかな矛盾も見られます。そのために私は以前、聖書を誤りのない神のことばであると信じられなくなったことがあります。しかし、誰に目にも矛盾と見える記述がそのまま残されているということ自体が、聖書が弟子の集団の中で編集されたものではなく、目撃者の記録をそのまま残そうとしたことの証拠とも言えましょう。 “マタイ28章1〜15節「イエスの復活の証人は?」” の続きを読む
マタイ27章55〜66節「イエスの復活の舞台を備えた人々」
一般的なキリスト教の教えでは、イエスの十字架の死の後に、弟子たちの間に復活信仰が芽生えたという説明がなされます。それこそが科学的な表現だとさえ言われます。確かに、イエスの身体の復活は万人が認められることではありませんから、それは客観的な表現のようにも思えます。 “マタイ27章55〜66節「イエスの復活の舞台を備えた人々」” の続きを読む
マタイ11章28〜30節「わたしのもとに来なさい」(山形宣洋KGK主事)
2023年6月25日
マタイ27章45〜56節「十字架の忌まわしさと麗しさ」
イエスの十字架での苦しみは私たちの想像を超えるもので、そこでの主の「大声」での「叫び」が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と記録されています。それはイエスの絶望的な叫びです。 “マタイ27章45〜56節「十字架の忌まわしさと麗しさ」” の続きを読む
マタイ27章27〜44節「神のお気に入りとしての苦難」
今日はペンテコステ、聖霊が信者の上に下ったことを記念する日です。イエス・キリストは、三回に分けて私たちの人生に現れてくださるという神学的な解釈があります。 “マタイ27章27〜44節「神のお気に入りとしての苦難」” の続きを読む
マタイ27章15〜26節「バラバの釈放とイエスの十字架刑」
人の人生は、時の権力者の思い違いによって破滅に向かうような「空しい」ものです。そのことが「人 (アダム) は息に似て、その日々は過ぎ去る影のよう」(詩篇144:4私訳) と歌われます。 “マタイ27章15〜26節「バラバの釈放とイエスの十字架刑」” の続きを読む
マタイ27章1〜14節「建前の信仰ではなく、本音の信頼によって」
私たちの信仰はときに、「建前」のようなドグマに支配され、本音を言えなくなってしまうことがないでしょうか。かつての太平洋戦争を導いた東條英機首相は、「戦争が終わるということは……われわれが勝つということだ……天皇陛下は神であって、天皇陛下に帰一していれば、国体の輝くこの国は負けるわけがない。戦っていまだかつて負けたことのない国なのだから」と語っていたとのことです。 “マタイ27章1〜14節「建前の信仰ではなく、本音の信頼によって」” の続きを読む
マタイ27章3〜5節「使徒イスカリオテ・ユダ」(寺村幸雄神学生)
2023年3月19日(音声のみ)