もしある人が、「信仰をもって、傘を持たずに出かけよう!」と言って、雨でずぶぬれになったとしたら、そんな風に「信仰」ということばを使うのは愚かだと誰もがわかります。ところが意外にも、「信仰」という名のもとに根拠のない楽観主義が正当化されることがあります。 “ヘブル10章32〜11章6節「恐れ退かずに、信じていのちを保つ」” の続きを読む
ヘブル10章19〜31節「恐れから生まれる希望」
イエスはご自身の弟子たちに「永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません」(ヨハネ10:28) と約束してくださいました。ですから、私たちに与えられた「永遠のいのち」は、決して失われることがないはずです。しかも、「失われる可能性のあるいのち」を「永遠のいのち」と呼ぶことはできません。
ヘブル10章1〜18節「キリストの復活が、私たちを聖なるものとする」
「罪の赦し」は「何のため?」と聞かれたら、あなたはどのように答えるでしょう。キリストの福音は、天国行きを保証するという以前に、日々の仕事や家庭生活、教会や他の人間関係を変革(transform)する力があります。 “ヘブル10章1〜18節「キリストの復活が、私たちを聖なるものとする」” の続きを読む
ヘブル9章15〜28節「新しい契約を実現したキリストの血」
昔の人々は、自分の聖書をじっくり読むなどということはできませんでした。私の父も聖書をほとんど読むこともなく信仰告白に導かれました。それは旭川の教会の牧師が何度も父を訪ね、簡潔に福音を語ってくださったおかげです。
そのようなときに用いられるのが、「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(9:22) とか、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27) というみことばです。 “ヘブル9章15〜28節「新しい契約を実現したキリストの血」” の続きを読む
ヘブル9章1〜14節「キリストの血が、良心をきよめる」
人生の中で、何度か自分で自分を赦すことができないと思うほどの大きな罪を犯すことがあるかもしれません。その中で、神と教会に対して、「会わせる顔がない……」という思いになったり、激しい痛みを味わいながら「これは自業自得だから……」と、真正面から神に訴えられない気持ちになることもあるでしょう。
それはあなたの心の奥底の「良心」が機能しているしるしとも言えますが、同時にそれは、「自分を神」として、神の救いを退けようとする「良心の誤作動」の現れとも言えましょう。 “ヘブル9章1〜14節「キリストの血が、良心をきよめる」” の続きを読む
ヘブル7章26節〜8章13節「よりすぐれた契約の仲介者」
旧約、新約聖書という区分けは、福音がローマ帝国に広がり、同時に様々な誤った教えが生まれ始めた紀元180年頃に言われ始めたとのことです(イエスの十字架から約150年後)。
ヘブル8章13節などを見ると「旧約聖書は古びている」とも誤解されかねません。しかし、パウロが伝道したギリシャ北部のベレアの信徒に関しては、「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」(使徒17:11)と描かれていましたが、彼らが調べたのは旧約聖書です。 “ヘブル7章26節〜8章13節「よりすぐれた契約の仲介者」” の続きを読む
ヘブル7章1〜25節「私たちを完全に救うことができる大祭司」
人は何かのすばらしさを説明する時、「あれにはこのような問題があったけれども、これは、このような点ではるかにまさっている」というように、以前の問題点を明らかにしながら良い物を提示するという発想が身についています。そのような発想で、「旧約には大昔の厳しい教えがあるけれど、新約には神の優しがが満ちている……」などと言われることがあります。そのうちに、「新約聖書と詩篇だけあれば神様のことは分かります。救いの基本とは、イエス様を信じることで罪が赦され、たましいが天国に憩うということですから……」と、福音を過度に単純化しかねません。 “ヘブル7章1〜25節「私たちを完全に救うことができる大祭司」” の続きを読む
ヘブル6章9〜20節「神の約束と誓いに生かされる自由」
しばしば、多くの人は聖書に誤った問いかけをして、混乱してしまいます。その一つに、「一度、救いの喜びを体験した人が、サタンの攻撃に屈して、信仰を失うことがあるだろうか?」という問いがあります。ヘブル書6章1-8節は、それに明らかに「そのとおり」と語っているように見えます。そして、諸教会の現実としては、洗礼を受けた人々の半数以上が、信仰から離れるという悲しい現実があるとも聞きます。 “ヘブル6章9〜20節「神の約束と誓いに生かされる自由」” の続きを読む
ヘブル5章11節〜6章12節「成熟を目指して進む」
福音派の教会では、イエスを救い主として信じた人のことを、「あなたは救われたのです」と喜び合います。それは誤りではありません。しかし、その後の生き方に成長が見られないばかりか、教会から離れる人さえいるという現実を見ると、「神のかたちとして成熟を目指して生き始めるスタート台に立った」という面の強調も必要かと思わされます。 “ヘブル5章11節〜6章12節「成熟を目指して進む」” の続きを読む
ヘブル4章14節〜5章10節「苦しみを通して大祭司となられた主イエス」
私たちプロテスタントの教会では、聖母マリアに向かって執り成しを願う祈りはしません。それはイエスご自身が私たちのすべての弱さを理解して、父なる神の右の座に着いて、私たちのために執り成していてくださると信じているからです。 “ヘブル4章14節〜5章10節「苦しみを通して大祭司となられた主イエス」” の続きを読む