ヘブル9章1〜14節「キリストの血が、良心をきよめる」

2019年3月31日 

人生の中で、何度か自分で自分を赦すことができないと思うほどの大きな罪を犯すことがあるかもしれません。その中で、神と教会に対して、「会わせる顔がない……」という思いになったり、激しい痛みを味わいながら「これは自業自得だから……」と、真正面から神に訴えられない気持ちになることもあるでしょう。

それはあなたの心の奥底の「良心」が機能しているしるしとも言えますが、同時にそれは、「自分を神」として、神の救いを退けようとする「良心の誤作動」の現れとも言えましょう。

旧約においては、神ご自身が汚れたイスラエルの民のただ中に住み、そして、新約においては、神がイエスを通して、ご自身との交わりを回復させてくださいました。「良心のきよめ」という観点から「キリストの血」の意味を考え直してみましょう。

1.「さて、初めのものも礼拝の規定と地上の聖所を持っていました」

9章1節では、「さて、初めのものも礼拝の規定と地上の聖所を持っていました」と記されています。

厳密には、8章13節と同様に「契約」ということばは記されていませんが、文脈からするならば8章9節に記された神がイスラエルの民とシナイ山で結んだ契約を指すことは明らかです。

初めのもの」が「礼拝の規定と地上の聖所」を持っていたのは当然ことではありますが、「初めのものを古いものとされました。年を経て古びたものは、間もなく消え行く」(8:13) と記されていたこととの関係で意味が明確になります。それは単純に「初め」の「礼拝の規定と地上の聖所」という、ある意味、命がけで守られてきたものが、「新しい契約」(8:8,13) の登場によって不必要になったことを指します。

それは、新しい」ものが「古い」ものの必要をすべて満たしているからです。ただそこで気を付けなければならないのは、「古いもの」に示されていた神のあわれみを知ることによって、かえって「新しい契約」の画期的な面が明らかになるということです。

礼拝規定といえばレビ記が大切ですが、その冒頭には、「 (ヤハウェ) はモーセを呼び、会見の天幕から彼に告げられた」と記されています。これは、その前にモーセが主の御声を聞くために標高2244mもあるシナイ山に登頂する必要があったこととの比較で対照的です。

かつてシナイ山に神が降りて来られた時のようすが、「雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の民はみな震え上がった……シナイ山は全山が煙っていた。(ヤハウェ) 火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた」(出エジ19:16-18) と描かれていました。つまり、肉なる人間が、聖なる神に近づくことなど、ありえないことでした。

ところがその栄光に満ちた神が、イスラエルの民の真ん中に住んでくださるというのです。ただし、神がご自身の栄光を隠され、汚れた民の間に遜って住まわれようとする時に、彼らの心と体全体で「神を恐れる」ということを覚えさせる必要がありました。

すべての礼拝規定は、神を恐れることを民の心の底に刻ませるための実物教育とも言えましょう。それは、聖なる主が汚れた民を滅ぼさずに済むためのあわれみの道でもありました。

2節では、「それは、幕屋が初めの部分に設けられ、そこに燭台と机と臨在のパンがあり、聖所と呼ばれました」と記されます。新改訳で「第一の」と記されている部分には、先の「初めのもの (契約)」と呼んだときと同じことばが用いられています。

そこにあった「燭台」は、祭司が徹夜で見守る中、夜通し火がともされ、神こそが真の「」であることを覚えさせました。また「机と臨在のパン」は、「安息日ごとに、これを主 (ヤハウェ) の前に絶えず整えておく」(レビ24:8) ことが命じられ、主こそがパンの源であることを覚えさせる意味があったと思われます。

そして、その幕屋の「初めの部分」は祭司が毎日仕える「聖所」と呼ばれました。

3節では、「また第二の垂れ幕のうしろには至聖所と呼ばれる幕屋があり」と記されますが、ここでは「初めの」との対比で「第二の垂れ幕」ということばが使われ、それで仕切られた場所がギリシャ語では「聖なるもののなかの聖なるもの」という表現が用いられ、「至聖所」と訳されます。

そして、さらに「そこには金の香壇と、全面を金で覆われた契約の箱があり、その中にはマナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の板が入れられていました」(4節) と記されています。不思議なのは「金の香壇」は至聖所の幕の手前の聖所に置かれているはずにもかかわらず、ここでは至聖所に置かれているように記されていることです。これは、「香壇」が聖所に置かれながら、至聖所の一部として機能し、「(ヤハウェ)の前の常供の香のささげもの」と呼ばれ (出エジ30:8)、聖所の最奥の部分として、一般の祭司たちに「主を恐れる」ことを教えたからかもしれません。レビ記10章ではアロンの二人の息子が「異なる火を主 (ヤハウェ) の前に献げた」ために、火が主の前から出て焼き尽くされたと描かれています。

また、「マナの入った金の壺」も「芽を出したアロンの杖」も本来、契約の箱の前に置かれていたはずなのですが (出エジ16:33,34、民数17:10)、ここでは契約の箱の中に置かれたことがあったかのように記されています。第一列王記8章9節などでの「箱の中には二枚の石の板のほかには何も入っていなかった」という記述の仕方に、それ以前は他の物が入っていたという示唆があるという解釈もあります。ただ、これも「」と「」を「契約の箱」と一体に見たという意味とも思われます。

とにかくここでは「契約の箱」は「全面」が「金で覆われていた」という荘厳さが強調されています。さらに「またその上では、栄光のケルビムが『宥めの蓋』をおおうようになっていました」(5節) と描かれます。この「宥めの蓋」は多くの英語訳では「mercy seat (あわれみの座)」とも訳されることばです。主はモーセに「わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る」(出エジ25:22) と言われました。それはイスラエルの民の「罪を赦す」とともに、神がモーセに親しく語る場でもあったのです。

その上で、1-5節をまとめるように「これらについて、今は個別に述べるときではありません」と記されます。それはこれらのことがこの書の読者であるヘブル人には十分に知られていることなので、敢えてこれ以上説明を要しないという意味とともに、これらの様々な規定が、キリストが大祭司としていけにえを完成してくださったことによって不必要になったということをも示唆していると言えましょう。

バビロン捕囚以降「契約の箱」は消えてしまい、イエスの時代にあったエルサレム神殿の「至聖所」には何も入っていませんでした。契約の箱が置かれていない神殿を、真の神殿と呼ぶことができるのかは大きな疑問です。当時のユダヤ人たちは、神の臨在のない神殿に向かっていけにえを献げていたということをこの書は示唆しているとも言えましょう。それが「年を経て古びたものは、間もなく消え行くものです」と描かれています。

イエスは安息日のことで当時のパリサイ人から批判を受けた際、ご自分のことを示唆しながら、「ここに宮よりも大いなるものがあります」と、ご自分がエルサレム神殿よりも偉大な存在であると言われました (マタイ12:6)。

私たちは幕屋と神殿の偉大さを認識して初めて、それにまさるイエスの偉大さを理解できます。旧約の恵みの偉大さを分かる程度において、イエスの偉大さが分かるということを忘れてはなりません。

2.「それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません」

9章6,7節では「さてこれらの物が以上のように整えられたうえで、祭司たちはいつも初めの幕屋に入って、礼拝儀式を執行します。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、血を携えずに、そこに入るようなことはありません。それは、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げるためです」と記されています。

ここでは「初めの幕屋」としての「聖所」で、燭台の火を灯し、また香をたくなどの礼拝儀式が毎日行われることとの比較で、「第二の幕屋」である至聖所には、「年に一度、大祭司だけが入る」という大きな対比が描かれます。

そして、至聖所に入るための必須条件として、「血を携える」ということがあり、その血は、まず大祭司自身の罪のためと「民が知らずに犯した罪」のためでした。意図的に犯した罪のための赦しの道は示されていません。10章28節では「モーセの律法を拒否する者は、二人または三人の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死ぬことになります」と厳しく記されています。

ここでは、神の臨在がある至聖所への道がいかに狭いかが強調されています。

8節ではその意味が、「これによって聖霊は説明しています。聖所への道が明らかにされることがないことを、初めの幕屋が存続している限り……」と記されています。ここの「初めの幕屋」という表現は、先の「初めのもの (契約)」に対応しています。それは初めの契約が消えて行くことと、初めの幕屋が不要になることがセットして描かれ、真の意味での聖所への道」は、初めの幕屋の礼拝儀式を通してかえって塞がれているという、驚くべきことが述べられているのです。

実際、祭司たちは夜通し燭台の火を守る奉仕や朝と夕に香をたく奉仕に集中しながら、至聖所への道が塞がれていることを強く意識したことでしょう。

そして、さらにその現代の私たちへの意味が、9,10節で、「これらは今のときに向けての比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられましたが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。それらは、ただ食物と飲み物と様々なバプテスマに関するもので、それは肉の規定であり、改革の時(新しい秩序が立てられる時、まっすぐにされる時)まで課せられているものです」と記されます。

旧約の礼拝儀式は、神を恐れることを覚える規定、また、聖なる神に近づいて死ぬことがないための規定であり、それは神が民の真ん中に住んでくださるために必要なことでした。しかし、それは私たちが心の底から積極的に「神に仕えたい」「神のみこころを自分の思いとして生きたい」という、心の自由を生むことはできませんでした

そのことが、「それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできませんと描かれます。「良心」と訳されることばは英語で「conscience」と記されます。そこには「ともに知る」という基本的な意味があり、私たちの心の奥底で神とともに自分自身を見分ける内奥の意識」とも呼べるものです。

マルティン・ルターは、幕屋の構造と人間を次のように比べます。いけにえを燃やす幕屋の外は、人間の身体に対応し、すべての人に見られる部分です。

祭司が仕える「初めの幕屋」は私たちのたましいに対応し、明確に自覚できる意識の部分です。そこでは常に、燭台に燈明があり私たちの理解、識別、知識、認識のある部分を照らしています。

幕屋の至聖所には何の光もなく、暗い場所で、そこに神が住むと言われていました。私たちに信仰を生み出すのは、人が見ず、感ぜず、理解できない、そのたましいの内奥の部分で、そこが良心の座と言える部分です。

それは積極的に何が正しく何が間違っているかを意識する部分というよりも、多くの場合、悪い行いをした時に自責の念に駆られるように機能します。理性を超えて目に見えない神を信じ、神のみこころを自分の意志としたいというような心の作用は、ここで起きます。

それは、このたましいの内奥、説明できない人間の霊の部分に、神の霊が宿ることで可能になります。先にあった「心の中に神の律法が書き記される」(8:10) とはそれを指します。

それでここでは、その「良心」の部分は「ささげ物といけにえを献げるという礼拝」によって完全にされる」ことはないと強調されます。

3.「キリストの血は……私たちの良心をきよめないわけがありましょうか」

11、12節は、「しかし、キリストが現れてくださり、それは実現しようとしているすばらしいことの大祭司としてですが、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通して⎯⎯人の手による、すなわちこの被造世界のものではないもので⎯⎯雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入られたのです。それは、永遠の贖いを成し遂げるためです」と訳すことができます。

ここの中心の構文は、「キリストが現れ……ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入られたのです」という文です。

なお、キリストは死んでよみがえったのちに初めて、大祭司とされましたので (5:8-10,8:4)、「実現しようとしているすばらしいことの大祭司」と描かれます。

そして、キリストが天に昇られ、神の右の座に着く直前のことが、「もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通して」と描かれます。それは、地上の幕屋は、「天にあるものの写しと影」(8:5) ですので、天にも同じような「初めの幕屋」の部分があり、それは「この被造世界のものではない」のですが、そこを通って、天の至聖所としての神の右の座に着かれたというのです。

その際、地上の祭司は「雄やぎと子牛(ヘブル語聖書では雄牛)」の血を携えて、年に一度だけではあっても繰り返し毎年聖所に入りますが、キリストはご自分の血を携えて、「ただ一度だけ聖所に入られた」と描かれます。

そしてそこには「永遠の贖いを成し遂げる」という途方もない救いのみわざがありました。それによって私たちはもう、神に近づくために、動物の血を流すという必要が一切なくなったのです。

13,14節は「もし、雄やぎと雄牛の血や、若い牝牛の灰が汚れた人々に降りかけられることが、からだをきよいものへと聖別するのであれば、まして、キリストの血はどれだけまさっていることでしょう、それは、とこしえの御霊によって、傷のないご自分をお献げになったことによるもので、私たちの良心をきよめないわけがありましょうか。それは死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることです」と記されます。

ここではまず、「雄やぎと雄牛の血」また「若い牝牛の灰」には、「からだをきよいものへと聖別する」働きがあることを前提として、「キリストの血」が「私たちの良心をきよめないわけがない」と断言されます。それは、旧約のきよめの効力のすばらしさを前提に、キリストの血の偉大さを示すものです。

レビ記では、「自分の身を聖別し、聖なる者とならなければならない」(11:44) と記されます。その際、「」はアダムの罪から始まっているので、「汚れ」と見られます。それで、死体に触れた者が宿営の中に戻るには、「きよめのいけにえ」が必要になるはずでした。

しかし、死人が多すぎたので、より安価な方法が示されました。そのため、「赤い雌牛」(民数19:2)を宿営の外でほふらせ、「杉の木とヒソプと緋色の撚り糸を取り、雌牛が焼かれている中に投げ入れ」(同19:6)、特別な「」を作らせ、それを集めて「汚れを除く水」を用意させました。

そして不思議にも、「ヒソプを取ってこの水に浸し……汚れた者に……振りかけることで、その人は……きよくなる」という一週間のプロセスが指定されました (民数19:18-19)。

ここには、主ご自身が「汚れた人」をご自分が真ん中に住む宿営に招きれたいと熱く願われた思いが込められています。それは主が「雌牛の灰」を用いてでも、人の「からだをきよいものへと聖別する道を開かれたからです。

それに比べ、「まして、キリストの血はどれだけまさっているでしょう」と言われながら、その血のことが「それは、とこしえの御霊によって、傷のないご自分をお献げになったことによるもの」と説明されます。

さらに先との比較で、「キリストの血」は「私たちの良心をきよめないわけがありましょうか」と断言され、それによって私たちに起こる変化がそれは死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にする」と描かれます。

私たちは、キリストのからだである教会に仕える働きができているのは、「キリストの血」によって私たちの「良心」、つまり「心の内奥の意識」がきよめられた」結果であることを忘れてはなりません。

仏教の経典に「阿闍世」という性格が邪悪で、父の王を殺して王になった者の「救い」の記事があります。彼は父を殺した後、後悔の焔が燃え上がり、その熱で身体中に出来物が生じ、その悪臭と不潔さは人を寄せ付けないほどになります。彼はそこで、「私は今すでに現世で報いを受けた。地獄の報いも間近いだろう」と絶望します。

そこに仏弟子の一人が現れて、阿闍世王は、自分の罪に対し慚愧の念を深く持って苦しんでいるからこそ、救いの望みがあると語り、彼を仏陀自身に会わせます。彼は仏からの光で身体がきよくされ、その説法で心が癒され、多くの人々への救いの道を開きます。

これはその500年前の詩篇38篇や51篇に記されたダビデの記事に似て、「慙愧の念」また「良心の呵責」が病を生み出すと同時に、救いの原因になっています。つまり、人の「良心」には、悪行を避けさせ、善行を求めさせるという不思議な機能があるのです。それは「神のかたち」に創造されているすべての人間に備わっています。

そして、そこからすべての宗教的な救いの物語が生まれます。旧約のいけにえの儀式にも、人々の良心をきよめる働きが確かにありました。しかし、そこには限界がありました。そこには意図的に犯した罪の赦しの道はありませんでした。

また、神との生きた交わりは、いけにえの動物の血では生み出されませんでした。

アダムの罪を逆転させるほどの神との生きた交わりの回復は、神の御子自身の「」によって初めて可能になりました。私たちの信仰以前に、「キリストの血」が心の内奥の「良心をきよめ」、「死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にする」ことができるのです。

キリストの血」こそ救いの原動力です。

宗教改革者マルティン・ルターは、生真面目人間のフィリップ・メランヒトンに向けて、「神は架空の罪を犯した者を赦し給うのではない。罪人であれ、そして大胆に罪を犯せ。しかし、罪と死と世界との勝利者であるキリストをさらに大胆に信じ、かつ喜び給え。

マルティン・ルター / フィリップ・メランヒトン

われわれがわれわれであるかぎり、罪は犯されるに違いなかろう。この生は義の住家ではなく、ペテロと同様に、われわれは、義が住う新しい天と新しい地とを待ち望んでいる世の罪を除く小羊を神の栄光の富によって知ったことで、十分なのだ……雄々しく祈り給え。君は最も断固たる罪人なのだから」という驚くべき逆説を書きました。

メランヒトンは、罪から自由になれない自分を責めていたのだと思われます。それに対して、ルターは、何よりもキリストの十字架の血の贖いの力に目を向けるように、彼の心の目をイエスに向けさせたのです。

雌牛の灰」にからだを聖別させる力を与えた神は、キリストの血によって私たちの「良心」をきよめてくださいます。自分で自分をきよめられるぐらいなら、イエスが十字架にかかる必要はなかったのです。主の十字架の血を仰ぎ見ましょう。