ヘブル9章15〜28節「新しい契約を実現したキリストの血」

2019年4月14日 

昔の人々は、自分の聖書をじっくり読むなどということはできませんでした。私の父も聖書をほとんど読むこともなく信仰告白に導かれました。それは旭川の教会の牧師が何度も父を訪ね、簡潔に福音を語ってくださったおかげです。

そのようなときに用いられるのが、「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(9:22) とか、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27) というみことばです。

また、死の恐怖におびえる人には、ヘブル2章14,15節の、神の子イエスが血と肉を持つからだとなられたのは、「死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」というみことばが有効です。

ヘブル書は難解な書です。しかし、これほどにキリストの十字架のの力を簡潔に現わしている書もないとも言えましょう。神の救いの計画を理解するのには多くの学びが必要ですが、単純に神の救いを語ることもできるのです。

大切なのは、人々の心の奥底の叫びを聞き、それに合った、みことばを示すことができることです。

1.「キリストの死によって、約束された永遠の資産を受け継ぐ」

9章13, 14節では「もし、雄やぎと雄牛の血や、若い牝牛の灰が汚れた人々に降りかけられることが、からだをきよいものへと聖別するのであれば、まして、キリストの血はどれだけまさっていることでしょう、それは、とこしえの御霊によって、傷のないご自分をお献げになったことによるもので、私たちの良心をきよめないわけがありましょうか。それは死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることです」と記されます。

それは、「雄やぎと雄牛の血」また「若い牝牛の灰」には、「からだをきよいものへと聖別する」働きがあることを前提として、「キリストの血」が「私たちの良心をきよめないわけがない」と断言されることです。それは、旧約のきよめの効力のすばらしさを前提に、キリストの血の偉大さを示すものです。

そして15節では、それを受けて、「そのことのゆえに、この方は新しい契約の仲介者です」とまず宣言されます。その上で、「それはこの方の死が起きることで、初めの契約のときの違反からの贖いが実現し、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐことになったからです」と記されています。

それは「初めの契約」がイスラエルの民の「違反」によって「のろい」をもたらしたことに対して、彼らをその「のろい」の捕囚状態から「贖い」、アブラハムに約束された「永遠の資産を受け継ぐことができる状態へと回復することを意味します。

そして、ここでは資産を相続するという観点から、16節の「遺言」という話につながります。ただし「契約」も「遺言」も、同じギリシャ語のディアセーケーの翻訳です。ここで著者は同じ単語を敢えて二つの意味で使っていますので、16, 17節を「遺言」と訳す方が日本語としては自然ですが、それではこの文脈の流れが分からなくなります。とにかく「初めの契約」というときの「契約」ということばを受けて、同じギリシャ語を用いて遺産」の相続の話へと展開していることを覚える必要があります。

ちなみに英語のTestamentの中心的な意味は「遺言」ですが、そこには「契約」という意味もあるので、旧約聖書が the Old Testament、また新約聖書が the New Testament と表現されることになります。

ですから16, 17節は、新改訳の別訳にあるように、「契約 (遺産) の場合、契約者 (遺言者) の死が持ち出される必要があります。なぜなら、契約 (遺言) は、死ぬことによって有効になるのであって、契約者 (遺言者) が生きている間は、効力を発揮できないからです」と訳すことができます。

ただ、「遺言」の場合は、財産の相続が、遺言者が「死ぬ」ことによって有効になるのは事実ですが、契約」の場合は、「契約者」が生きているときから「有効であるので、「契約」という訳はふさわしくないという面も確かにあります。

ただしどちらにしても、著者がここで強調しているのは、「新しい契約」が「契約者」であるキリストご自身の「」をもって初めて「有効になり」、キリストにつながる私たちが「約束された永遠の資産を受け継ぐ」ということが確定したということです。神はアブラハムとその子孫に現在のイスラエル国家の支配地を「約束の地」として「相続する」ことを保証してくださいました。それはイスラエルの民にとって驚くほどの実感をもって迫ってきている約束です。

私も父の死に伴い、土地の相続をどうするかということが大きな課題になっています。農地の大規模化と跡継ぎの不足で、実勢価格では二束三文の価値しかありませんが、父が馬橇とスコップ一つで土を入れ変えた土地には愛着を感じます。

イスラエルの民にとっては土地の相続がその家族の生死を決めるほどの大きな意味がありました。それと同じことばを用いて私たちにも、キリストの死に伴う遺産相続のことがここで話題とされているのです。

ローマ人への手紙4章13節では「世界の相続人となるという約束が、アブラハム……の子孫に与えられた」と記されていますが、私たち異邦人もキリストにあってユダヤ人と同じアブラハムの子孫とされ、「神の子ども」とされています。

その上で、「子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです」(ローマ8:17) と記されています。

私たちがキリストの血によって贖われたのは、キリストとともに世界を治めるためです (黙示5:9,10)。私たちはすでに世界全体の相続人とされ、キリストの再臨の時には「世々限りなく王として治める」(黙示22:5) と約束されています。

全世界は私たちの罪のために血を流してくださったキリストのものであり、私たちはその相続人となっているということを心の底から味わうなら、この世の財産への囚われから自由になることができます。

そのことがローマ人への手紙8章32節では、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」と記されています。キリストの死によって実現した相続の豊かさを味わいましょう!

2.「これは、契約の血である」

それを前提に18節は、シナイ契約のことを振り返りながら、「それと同じように、初めのもの (契約) も、血を抜きにして成立したのではありません」と記されます。そして出エジプト記24章に描かれた、(ヤハウェ) が「イスラエルの長老七十人」と結ばれた「契約」の場面を思い起こさせることが19, 20節で次のように記されます。

それは、律法にしたがってすべての戒めが、モーセによって民に語られた上で、子牛と雄やぎの血を取って⎯⎯水と緋色の羊の毛とヒソプとともにですが⎯⎯契約の書と民全体に振りかけたからです。そして、『これは、契約の血である。神があなたがたに命じられたところの』と言いながら

この最後の文章は出エジプト記24章8節からの自由な引用ですが、「契約の血」ということばがどちらでも最初に登場します。そこには、イエスが最後の晩餐で、杯を指して、「これは、わたしの契約の血です。罪の赦しのために多くの人のために流されるものです」(マタイ26:28私訳) と言われたことを思い起こさせる意味もあると言えましょう。

モーセが「見よ」と言ったことばが、イエスが晩餐で「これは」と言われたことばに変えられています。イエスは、その際、翌日に十字架にかけられ「血を流す」ことを示唆しておられました。

なおヘブル書のギリシャ語で「子牛」と記されているのは、原典のヘブル語聖書での「雄牛」に相当し、それがここでの契約を結ぶ儀式で、「」を「民に振りかける」ことのために用いられました。またそれは「祭司」の「罪のきよめ」、また、「祭壇の聖別」のためにも用いられました (レビ8:14, 15)。

それとセットに記される「雄やぎの血」に関しては、記述が欠けている写本も多数あります。それは幕屋の「至聖所」の「きよめ」に用いられるものですが、それが敢えてここに記されることで「血によるきよめ」の効力に目が向けられることになります。

また「水と緋色の羊の毛とヒソプとともに」ということばは出エジプト記には登場しませんが、実際に「血を振りかける」ためには、それらの材料が必要であったという意味だと思われます。

そして21節ではさらに、「また彼は、幕屋と礼拝に用いるすべての用具にも、同じように、血を振りかけました」と記されます。厳密には、血できよめられるのは、「祭壇」と「祭司」と、至聖所の「宥めの蓋」のはずで、他の器具は、聖別のための特別な油が用いられたはずです。

しかしここでは、幕屋礼拝における最も大切ないけにえを献げる祭壇と至聖所との「きよめ」に目が向けられていると言えましょう。

そして22節ではこれらの記事をまとめるように、「そして、ほとんどすべてのものは血によってきよめられるのです、律法に従えばですが……。血を流すことなしには、赦し (解放) は実現しません」と記されます。「ほとんどすべて」と記されるのは、山鳩や家鳩のひなといういけにえさえも準備できないような「貧しい人々」は「十分の一エパ (2.3ℓ) の小麦粉を罪のためのきよめにささげ物として持って行く」こともできたからです (レビ5:11)。

なお「」による「きよめ」の効力に関しては、レビ記17章11節で、(ヤハウェ) は、「実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥め(贖い)を行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥め (贖い) を行うのは血である」と宣言しておられます。

22節の最後のことばは新改訳で「罪の赦し」と訳されていますが、厳密には「罪の」ということばは原文にはなく、「赦し」とだけ記されています。このことばはまた、捕らわれている状態からの「解放」という意味でも用いられています (ルカ4:18)。

それは9章14節で、「キリストの血」は「私たちの良心をきよめないわけがありましょうか」と断言され、それによって私たちに起こる変化が、「それは死んだ行いから離れさせ生ける神に仕える者にする」と記されていたことを思い起こさせる表現とも言えましょう。

とにかく、「」は「いのち」の象徴であり、」によって、神との生きた交わりが回復されることこそが大切なのです。

興味深いのは、出エジプト記24章では、神とイスラエルの民との「契約」が正式に成立したことを確認したあとで、それを祝うように、「長老七十人」は「イスラエルの神を見た。御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、透き通っていて大空そのもののようであった……彼らは神ご自身を見て食べたり飲んだりした」と、神との親しい交わりが描かれていることです (24:9-11)。

その後、「モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた」と描かれています (24:18)。それに先立って、「モーセは主 (ヤハウェ) のすべてのことばを書き記し」、それを「民に読んで聞かせ」、彼らは「(ヤハウェ) の言われたことはすべて行います。聞き従います」と応答したと記されていますが (24:4, 7)、モーセが山に登ったのは、彼らが神と結んだ「契約」のことばを、「石の板」として受け取るためでもありました。

しかし、このときモーセが、あまりにも長く山から下りて来ないので、民はアロンに強く迫り、金で「鋳物の子牛」を作って、これにいけにえをささげ、「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と描かれます (32:6)。これは、偶像の神との契約の儀式のようなものです。

主 (ヤハウェ) を仰ぎ見ての聖なる食事をした後に、金の子牛の前で同じように食事をするというのは、信じがたい愚かな行為です。イスラエルの民はこのときの罪をモーセの執り成しによって赦していただきましたが、同じようなことをその後も何度も続け、ついに、自分たちの身に「のろい」を招き、国を失ってしまいました。

そこに「初めの契約」の限界が現わされています。まさに「それらは礼拝する人の良心を完全にすることはできません」(ヘブル9:9) と解説されていたとおりです。しかし、イエスの「契約の血」は、「私たちの良心をきよめる」(9:14) ことができます。私たちは今、強制されることもなく、自由の御霊を受けて、「生ける神に仕える」者とされているのです。

3.「キリストもまた、ただ一度、多くの人の罪を負うためにご自分を献げてくださいました」

23節は、「それゆえ、必要があります」ということばから始まり、それが「天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられることの」と記され、さらに、「天にある本体は、それ以上にすぐれたいけにえによって」と記されます。

つまり、「きよめられる必要」が、「天にあるものの写し」である地上の聖所ばかりか、天にある本体」の聖所にも及ぶというのです。それは、私たち罪人である人間が天の聖所を汚してしまうことが明らかだからです。

イスラエルの民が年に一度、地上の聖所をきよめる必要があったのは、民の罪によって汚され、そこに聖なる神が臨在できなくなる恐れがあったからです。同じように、天の聖所で神と人とがともに住むためには、そこがキリストの血によって繰り返しきよめられている必要があるようにも思えます。

ただそれは、私たちが天の聖所に入る前に、キリストが「ただ一度」、ご自身の血を携えて、そこを「きよめることで必要が満たされるというのが、これらから記されることの画期的な意味を現わします。

そして24節では、「キリストは人の手で造られた聖所に入られたのではありません。それは本物の模型に過ぎないからですが、天そのものに (入られたの) です。そして今、私たちのために神の御顔の前に現れてくださっているのです」と記されています。

つまり、イエスは私たち罪人の代表として、天の聖所に入られ、神の御顔を直接仰ぎ見ておられるというのです。それは「私たちの先駆けとしてそこに入られた」(6:20) とあったように、私たちもやがて「神の御顔を仰ぎ見る」(黙示22:4) ことになるのです。

そしてさらに、「この方はご自分を何度も献げるようなことはしません。それは年ごとに自分のものではない血を携えて聖所に入る大祭司とは違います」(25節) と記されています。

大祭司は、毎年の大贖罪の日に、自分たち自身ののためには「雄牛の血」を至聖所の持って入る必要があり、民全体ののためには「雄やぎの血」を携えて入る必要がありました。しかし、イエスは何度も天の聖所に入りなおすようなことはなさいません。

そのことがさらに、「もしそうだとしたら、何度も苦難を受ける必要があったことでしょう。世界の基が据えられたときから。しかし、今や、この方はただ一度だけ、世々の終わり (完成の時) に、ご自身が罪を取り除くためのいけにえになるために、現れてくださいました」(26節) と記されます。

イスラエルの大祭司が幕屋の至聖所に血を携えて入ったのは、民の度重なる罪によって反故にされる初めの「契約を更新する」ような意味がありました。それは、神が民のただ中に住み続けることができるためでした。しかし、イエスは「ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた」(9:12) と記されていたのです。

そして9章の結論は、「そして人間には、ただ一度死ぬことと、その後、さばきを受けることが定まっているように、キリストもまた、ただ一度、多くの人の罪を負うためにご自分を献げてくださいました。そして二度目は、罪とは別に、現れてくださいます。それはご自分を待ち望んでいる人々の救いのためです」(27, 28節) と記されています。

ここで、最初に、「人間には、ただ一度死ぬことと、その後、さばきを受けることが定まっている」ということは、私たちがいつも心に留めるべき厳粛な霊的な現実です。私の父も、聖書はほとんど理解することはできませんでしたが、近くの教会の牧師からそのことを迫られ、イエス・キリストにある救いを求めるようになったのだと思われます。妻や娘たちから、その自己中心性と家族の心の痛みを理解しようとしなかったことを繰り返し責められ、それなりに自分の罪を自覚していたからです。

さらに「多くの人の罪を負う」という表現の背後には、イザヤ53章12節のみことば、「彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする」があります。

しかもイザヤの書の直前では「彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末永く子孫を見ることができ、主 (ヤハウェ) のみこころは彼によって成し遂げられる……わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた人たちとともに数えられたからである」(53:10-12) と記されています。

実は、旧約聖書の中でこのイザヤ書ほどに、キリストの苦しみが私たちの救いに結び付けられる箇所はありません。

それにしても興味深いのは、26-28節では、「ただ一度」ということばが三度繰り返されます。それは、キリストが「ただ一度」ご自身をいけにえとしてくださったこと、また私たち人間が「ただ一度死ぬ」こと、またキリストが「ただ一度」、ご自分を献げてくださったということです。

そこには、私たちが「ただ一度死ぬ」ということが、キリストの貴い犠牲によって包まれているという響きがあります。キリストのうちに生かされている者は、自分のと死後のさばきを恐れる必要がないのです。

しかも、二度目に「現れる」ときには、私たちの「救い」を完成してくださるときです。それは私たちが「神の安息に入る」(4:13) ことであり、「幕の内側まで入って」(6:19) 顔と顔を合わせて神を仰ぎ見る時であり、「私たちの卑しいからだ」が、キリストの「栄光に輝くからだと同じ姿に変えられる」ときでもあります (ピリピ3:21)。

私たちは自分の最終的な「救い」を、地獄に落ちずに天国に憩うことができることという程度に小さく考えてはないでしょうか。

先の7章25節では、「したがってイエスは、人々を完全に (永遠に) 救うことがおできになります、ご自分によって神に近づく人々を。それはこの方がいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」と記されていましたが、私たちの「救い」を完成してくださるイエスの「とりなし」の偉大さを私たちは覚えるべきでしょう。

人間には、ただ一度死ぬことと、その後、さばきを受けることが定まっている」というみことばは、私たちの永遠の「救い」か「滅び」かを決めるみことばです。しかし、その「ただ一度の死」を、キリストの「ただ一度の死」が愛をもって包んでいてくださいます。

イエスは、私たちのために先駆けとして」「天の聖所に入り」、神の右の座で、「とりなし」をしていてくださいます。私たちに求められるのは、ただ、イエスの御名によって祈ることです。

どれだけ立派に見える人でも、恩知らずな者は、人間として失格なのと同じように、私たちの「罪の赦し」のために、血を流してくださった方に感謝することなしに「救い」はありません。