ヘブル10章1〜18節「キリストの復活が、私たちを聖なるものとする」

2019年4月28日 

「罪の赦し」は「何のため?」と聞かれたら、あなたはどのように答えるでしょう。キリストの福音は、天国行きを保証するという以前に、日々の仕事や家庭生活、教会や他の人間関係を変革(transform)する力があります。

今回の箇所には、キリストの受肉、十字架、復活、昇天、執り成し、再臨のすべてが含まれていますが、その核心にあるのは、復活の力が聖霊によって私たちの内に働くということです。

私たちはすでに「聖なるものとされ」、さらに栄光の姿へと「完成される」ことが保証された存在です。自分の罪が赦されたかどうかを詮索することを後にして、キリストにある自由で大胆な生き方へと羽ばたいて行きましょう。

1.「罪の良心」から解放された、生ける神に仕える「良心」

9章の結論には、「キリスト」が、「二度目は、罪とは別に、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのため現れてくださいます」(28節) とありましたが、それを前提に10章1節では、「それは、来たるべき良いものの影を、律法が持っているものの、実際のかたち(イメージ)ではないからです。それ(律法)は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、(神に)近づく人々を完全にすることはできません」(10:1) と記されます。

ここでは、「律法」には、「良いもの」を指し示す「」があると、まずその存在意義が述べられていることを忘れてはなりません。そしてその上で、それは「実際のかたち」ではないと論じられ、それは神を待ち望んでいる者たちに真の「救いをもたらすことはできないと記されているのです。

たとえばレビ記の規定は、「聖なる神が、汚れた民の真ん中に、どうしたら住み続けられるのか?」というテーマで描かれているとも言えます。つまり、それは、罪と汚れにまみれた私たちが、自分自身の御利益(ごりやく)のために神を利用するという発想から離れ、「聖なる神を恐れつつ、なお神に近づく」という道が開かれることです。そこに圧倒的な神のあわれみを見ることができます。

しかし、それが「神に近づく人々を完全にすることはできません」と言われるのは、私たちの心を内側から完全に造り変えることはできないという意味です。

2節は「そうであったのなら、いけにえを献げることは終わったはずです。それは、礼拝する人たちが一度できよめられ、もはや罪の意識(罪の良心)を持つようにはならなかったはずだからです」と記されます。

ここに矛盾が見られます。なぜなら、罪の意識」を持つことは良いことのはずで、それによって「良心」の機能が敏感にされ、小さな罪をも避けることができるようになる人のはずだからです。

しかし、ここでの「意識」とは、先に「良心」と訳されていたことばと同じで、「罪の良心」または「罪に囚われた良心」と訳すこともできます。

9章14節では「キリストの血が私たちの良心をきよめる」ことができると断言され、それが「死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にする」と記されていました。つまりここでは、私たちの心の内奥の「良心」の働きが、なお「」の支配から解放されてはいないので、現実には「いけにえを献げる」という「礼拝」を続ける必要があったと述べられているのです。問われるのは「良心のきよめ」です。

そして3、4節では皮肉にも、「それによって罪の記憶が年ごとにあるのです。雄牛と雄やぎの血は、罪を除くことはできないからです」と記されます。ここでは「罪の良心」「罪の記憶」「罪を取り除く」ということばが繰り返されます。

しばしば、福音的な教会の中では、「あなたがどれだけひどい罪人であったかを意識できればできるほど、キリストの十字架の贖いの恵みが理解できるようになる」と指導されてきました。それは正しいことでしょうが、「罪意識を深める」ことが、心理学的には「落ちこぼれ意識を深める」ということになりかねません。

たとえば現実には、その人の傷つきやすい鋭い感性、人の痛みに共感できる優しさ、いつも完全を目指す前向きな心の方向が、激しい競争社会に適応できず、挫折を繰り返し、自己嫌悪に苛まれ、結果的に人々の期待を裏切る生き方に堕落したのかもしれません。

問題は、社会の悪との適度な距離感を保つ知恵の不足かも知れないのです。そのような人が仮に、犠牲のいけにえを献げて、神の赦しを体験できたとしても、「神のかたち」に創造された自分の個性全体を受け入れるということができていないために、「死んだ行いから離れ、生ける神に仕える」という「良心のきよめ」にまでは至りません。

実は、旧約聖書の中でも繰り返し、「いけにえを献げる」ことの限界が語られてきました。たとえば、サムエルは、自分勝手ないけにえを献げて神の好意を勝ち取ろうとしたサウルに向かって、「(ヤハウェ) は、全焼のささげ物やいけにえを、主 (ヤハウェ) の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(Ⅰサムエル15:22) と言っています。

また預言者ホセアはそれを簡潔な神のことばとして、「わたしが喜びとするのは真実の愛 (ヘセド)。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである」(6:6) と記しています。

そして、イエスの時代のパリサイ人は社会的には尊敬されている人々で、イエスが取税人や罪人たちの仲間となって一緒に食事を楽しんでいる姿を真っ向から非難しましたが、その彼らに向かってイエスは、このホセアのことばを引用しながら、「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」と言われました (マタイ9:10-13)。

パリサイ人は当時のユダヤ人社会が期待する生き方ができた善良な市民でした。そして、当時、「いけにえを献げる」ことは、期待された生き方ができる証しでもありました。しかし、イエスは彼らの心が本当の意味で、「神が何を喜ばれるか、何を望んでおられるのか」ということに向かってはいないことを指摘されたのです。

パリサイ人は、自分が律法に反することを行ってはないかという意味での「罪意識」には極めて敏感でした。それは「罪の良心」ではありますが、「死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える」という積極的な「良心」の働きにはなってはいませんでした。

今も、多くの信仰者が、人々の期待に沿った生き方ができることが、立派な信仰者であるという意識に囚われ、臆病に自分を殺しながら生きています。

しかし、神が求めておられるのは、あなたの「神のかたち」としての個性や感性全体を感謝して受け入れ、もっと大胆にそれを生かして神と人とに仕えることではないでしょうか。それはときに、社会の期待に反することかもしれませんが、そこにこそ、人々の常識が神のみこころから外れていることを指摘する力があります。

神は、私たちに「地の塩」「世の光」として、人々の常識を問い直させる生き方を求めておられます。何の間違いも犯さない人畜無害な存在だけれども、「その人がいてもいなくても同じ」というのではなく、数限りない間違いを犯したとしても、その人の存在が少しでも社会を変える力になれれば良いと言えましょう。

2.「あなたはわたしの耳を開いてくださいました……わたしに からだを備えてくださいました」

そして5節では、「ですからこの方は、この世界に来て言われます」と記されながら、5-7節で詩篇40篇の6-8節のことばが引用されます。そこにはヘブル語原文と微妙に違っている部分がありますが、著者は詩篇40篇の全体の文脈を意識しているという、その大枠を何よりも覚えるべきでしょう。

その2節では、「滅びの穴から 泥沼から 主は私を引き上げてくださった……主はこの口に授けてくださった。新しい歌を 私たちの神への賛美を」と記されます。これは私たちの「心の復活」を指し示すことばです。

私たち夫婦が心から尊敬するご夫妻の息子さんが、以前、奥さんから離婚を迫られた日に、まさに死ぬ一歩手前に至ったほどの、自殺未遂を起こしました。原因は、彼が自分の感情をコントロールできず、妻と息子に暴力を働いたことのようです。その彼が長いうつ状態からようやく抜け出し、両親や姉妹たちに心からの感謝を表し、教会で赤裸々なお証しをしました。

そこで彼は、「皆様に伝えたい事は一つです。どんなに人生を間違えても、どんなに道を踏み外しても、どんなに人を苦しめ、傷つけたとしても、また、どんなに自分の人生と周りの人の人生が台無しになったとしても、神様は貴方を待っています。待ち続けています。失敗したら終わりだと勘違いしないでください。貴方と一緒にその間違いだらけの人生を取り出し、神の光の中で一緒にそれを眺め、神様が共に歩んでくださるからです。もし、この世での時間が残されていなくても、天の御国では、貴方がこれまで見過ごした楽しさ、世界の美しさ、愛で築き上げられる友情の嬉しさを永遠に喜ぶことができるようになります。これは貴方が正しい生き方をしようが、間違った生き方をしていようが、今生きている限り、手遅れでは絶対ありません」と記しています。

それはまさにこの詩篇にある、「滅びの穴から、泥沼から 主は私を引き上げてくださった」という証しです。お母様もそれを心から喜び、「今彼が生きているのはただ神様の恵みだと思います」と、書いてきてくださいました。

このヘブル書で詩篇40篇が引用されるのは、イエスご自身が、この詩篇がご自分のことを証ししていると理解しておられたからです。

その観点からすると、この詩篇の2,3節はキリストの復活を指しているということが明らかですが、それ以前に、イエスが滅びの穴……泥沼に沈んでいる人間とご自分を一体化するために人となったということが分かります。

それでこの詩篇がギリシャ語に訳されて引用されたときに、「いけにえやささげ物を、あなたはお望みにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました」と、キリストの受肉を示唆する引用になったのだと思われます。

しかし、これは詩篇のヘブル語原文でも、信頼できるギリシャ語七十人訳でも、「あなたは私の耳を開いてくださいました」と記されています。ただ、その元の表現はイザヤ50章4-6節に描かれた「苦難のしもべ」の生き方でもあります。

そこでは、「神である主は……朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、顔を隠さなかった」と記されています。

そこには、主(ヤハウェ)が苦難のしもべの耳を呼び覚まし」「耳を開く」ことで、人々の侮辱や嘲りに耐えることができるようにしてくださったことが明らかにされています。

つまり、永遠の神の御子が私たちと同じ「からだを備えられた」ことの神秘は、主(ヤハウェ)によって、「耳を呼び覚まされ」「耳を開かれる」生き方に現わされているのです。

さらに6,7節では詩篇40篇からの引用が、「全焼のささげものや罪のきよめのささげ物を、お喜びになられませんでした。『ご覧ください。わたしは来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。それは、神よ、あなたのみこころを行うためです』」と記されます。

それは「神のかたち」としての生き方全体を指したのかもしれませんが、キリストのことばとして引用されると、特にイザヤ書の「苦難のしもべ」の生き方こそが、神によって喜ばれる生き方を現わしていると理解できます。

イザヤ書の始まりの1章11-17節で、主 (ヤハウェ) は、「わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない……もう、むなしいささげ物を携えて来るな……あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた……善をなすことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなし子を正しくさばき、やもめを弁護せよ」と記され、それが「苦難のしもべ」の生き方につながります。

それはこの世界の痛みや悲しみを自分のものとし、それを担って行く生き方でした。つまり、いけにえやささげ物」を規定した旧約聖書自体の中に、その限界が記されていたのです。

そして、ヘブル書の著者は8節で「ささげ物」を四つの枠にまとめながら、「いけにえや、ささげ物、全焼のささげ物、罪のための物」に関して、神に向かい、「あなたはそれを望むことも、喜ぶこともなかった、それは律法にしたがって献げられているにもかかわらず」と記されています。

これはイスラエルの民にとっては衝撃的なことばですが、今まで述べたように、旧約聖書自体の中にもそれが記されています。

9節では詩篇40篇の核心が、キリストのことばとして、「ご覧ください。わたしは来ました。あなたのみこころ(ご意思)を行うために」と記されます。それは今述べたように、イザヤ40章以降の「苦難のしもべ」の生き方に明らかにされています。

そしてさらにその意味が、「彼は最初のものを廃止されました。第二のものを立てるために」と記されます。それは、キリストが預言された「苦難のしもべ」の生き方を全うすることが、「最初のもの」と呼ばれるシナイ律法の「ささげ物」の規定を「廃止する」ことになったということです。

10節では、「このみこころ(ご意思)にしたがって、私たちは聖なる者とされています」とまず宣言され、「それは、イエス・キリストのからだが、ただ一度 (once for all 「一度ですべて」 ) 献げられたことによるのです」と記されます。

ここでは、私たちの意志や信仰を超えて、イエスという救い主のからだが、「ただ一度、献げられた」のは創造主ご自身のご意思であり、それによって「私たちは聖なる者とされているという大胆な宣言がなされています。キリストにつながる私たちはすでに「聖なるものとされている」のです。

私たちは自分の罪深さを認識することは大切ですが、それだけでは、神の赦し」を体験できるために何をしたら良いかということばかりに目が向かいます。それは旧約に描かれた「いけにえ礼拝」の限界と同じ落とし穴にはまります。

より大切なのは、自分が「キリストと一体の者とされた」という健全な誇りを味わいながら、キリストの大使として、この世の痛みや悲しみが満ちる場所に遣わされて、そこで「生きる」ことなのです。

3.「わたしは、わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いに書き記す」

11-12節では、「そして祭司はみな、毎日、礼拝の務めのために立っています。それは、同じいけにえを繰り返し献げるためですが、それは決して、罪を除き去ることはできません。しかし、この方は、罪のための永遠の一つのいけにえを献げ、神の右の座に着かれました」と記されています。

ここでは「祭司たちが立っている」ことと、キリストが「神の右の座に着かれた」ことの対比が強調されています。祭司たちが「立っている」のは、「いけにえ」が「罪を除き去ることはできない」ためです。一方、キリストは「罪のための永遠の一つのいけにえを献げ」、満足しておられます。

そして、キリストが神の右の座で安心しておられる姿が、「あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます」と描かれます (13節)。このことばは今まで何度も引用された詩篇110篇で、その冒頭で「(ヤハウェ) 」はキリストに、「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」と記されていました (ヘブル1:13)。そこには、キリストが来たるべき神のみわざの完成を確信して、安心している様子が示唆されています。

そして14節では、キリストの安心の意味が、「なぜなら、この方は一つのささげ物によって、聖なる者とされている人々を、永遠に完成されたからです」と記されています。

ここでの「完成された」とは、罪の赦し以上のことで、キリストの十字架の血によって「聖なる者とされている人々」が、キリストの栄光のからだと同じ姿に変えられることを指します。

しばしば誤解されるのは、10節での「キリストのからだが献げられた」とか、12節の「一つのいけにえを献げた」とは、十字架を超えて、天の聖所でなされていることです。イエスが大祭司となられたのは、復活の後のことなのです。

多くの人々は、ヘブル書に復活が明確に記されていないなどと言いますが、「大祭司と呼ばれる」前に、「苦しみによって従順を学び、完全なものにされる(復活する)」というプロセスが前提とされているのです (5:8-10)。

そして、イエスが「天の聖所」に携えて入ったのは「ご自身の血」そのものですが、その前に死人の中からよみがえっています。そして永遠に朽ちることのない復活のからで、そのご自身の生き方すべてを現わす「からだ」を、神に喜ばれる最高のいけにえとして献げておられるのです。

そして、私たちキリストにつながる者は、キリストが復活したように栄光の復活が保証されています。なぜならイエスを復活させた御霊が私たちのうちに生きておられるからです。

先の詩篇40篇に続く9、10節では、「私は大いなる会衆の中で、義を喜び知らせます。ご覧ください。私は唇を抑えません……私は あなたの義を心の中におおい隠さず あなたの真実と……救いを言い表します。私は あなたの恵みと……まことを 大いなる会衆に隠しません」と記されますが、これは復活のイエスが弟子たちに現れ、そこから全世界に神への賛美が広がったことを示唆します (詩篇22:21-31参照)。

ここでの「」とは、「主に信頼」(4節) する歩みに、主がご自身の義をもって報いてくださることです。さらに私たちを救ってくださる主のご性質が、「あなたの義」「真実」「恵み」(契約の愛)」「まこと(偽りのないこと)」と描かれます。イエスの信頼に豊かに報いてくださった神が、あなたの信頼の歩みに報いてくださいます

さらにこの15-18節では「聖霊もまた、私たちに証しして、まず、『これこそ、わたしが彼らと結ぶ契約である。それは、これらの日の後のことである。-主のことばーわたしは、わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いに書き記す』と言われ、その後で、『彼らの罪と不法を、わたしはもはや、思い起こさない』と言われます」と記されます。

これは8章8節以降で引用されたエレミヤ31章31-34節の核心部分です。そこではシナイ契約が「石の板」に記されたことが示唆されながら、「新しい契約」は、私たちの「心に与えられ」「思いに書き記される」ことで、彼らが心から主 (ヤハウェ) を愛するようになり、その結果、主 (ヤハウェ) は、彼らの「罪と不法」を「もはや、思い起こさない」ということになるというのです。

それをまとめるようにして18節では、「そして、これらに赦しがあるところでは、もう罪のためのささげ物はありません」と断言されます。これは当時にイスラエルの民にとっては奇想天外な発言です。

しかし、エレミヤ31章に預言されたことがキリストにおいて実現した以上、旧約のいけにえ礼拝は、その目的を達成し、完全に終わりを告げたのです。なぜならそれらは、「神を恐れながら、神に近づく」ための規定に過ぎなかったからです。

それに対し、「新しい契約」は、聖霊ご自身が私たちの「良心」に語りかけ、私たちの心の内奥から神のみこころを行いたいという思いを与えるものです。それは「罪の赦し」の先の「神への愛」を生み出す聖霊のみわざです。

今、聖霊が私たちの内に生き、私たちを心の底から造り変え、神に自由に仕える喜びを与えてくださいます。単に「間違いを犯さない」「人の期待を裏切らない」というマイナスの発想ではなく、あなたの個性や感性のすべてが生かされる、「神と人とに仕える」という前向きな自由な生き方が、聖霊のみわざによって起こされることです。

罪の赦し」は驚くべき恵みではありますが、神に仕える生き方の出発点に過ぎません。自分の罪や失敗を数え上げて自己嫌悪に陥る生き方から離れて、この社会の現実の中でうまく機能できなかったあなたのユニークさが、キリストにあって生かされるという道を探り求めましょう。また、あなたはキリストの栄光の姿にまで造り変えられる途上にあり、完成が約束されていることを覚えましょう。