ヘブル10章19〜31節「恐れから生まれる希望」

2019年5月12日 

イエスはご自身の弟子たちに「永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません」(ヨハネ10:28) と約束してくださいました。ですから、私たちに与えられた「永遠のいのち」は、決して失われることがないはずです。しかも、「失われる可能性のあるいのち」を「永遠のいのち」と呼ぶことはできません。

しかし、現実には、どの教会でも、洗礼を受けた人の半数以上が、信仰を全うできないという現実があります。そして、このヘブル書では特に、イエスを救い主として信じた者が、キリスト者の集まりから離れてしまうことに対する厳しいさばきの警告が何度も記されています。しかし、この警告を真剣に受けとめる者が「永遠のいのち」に留まることは明らかでしょう。

最近、トヨタ自動車の社長が、30兆円という日本の国家予算の三分の一にも近い売り上げを達成しながら、現代の自動車産業は「勝つか負けるか」ではなく「死ぬか生きるかの」瀬戸際だと言っていました。そして、従業員みんなが、「大丈夫!」と思ったときに、「トヨタは死ぬ」という逆説を述べていました。確かに、過剰な恐怖を与えて、人々の危機意識を高め、それが過労死を生むという危険があるので、そのような発言には注意が必要ですが、「自分は大丈夫!」と思う人が「滅び」に向かうというのは永遠の真理とも言えましょう。

永遠のいのち」は、キリストにある交わりの中にあります。そして、その交わりを軽蔑する可能性は、すべての信仰者にあります。信仰生活には、「健全な危機意識」が必要です。厳しい警告のことばには、神の燃えるような愛が隠されています。

私たちは不安を感じるからこそ、真剣に神に祈るという面がありますが、その人は「永遠のいのち」の中に守られ続けます。不安こそは平安の母とも言えましょう。

1.「真心から神に近づこうではありません……励まし合いましょう」

19-25節はギリシャ語では一つの文章になっています。その中心的な勧めは、「真心から(神に)近づこうではありませんか」(22節) であり、またそれを補足するように、「しっかりと希望を告白し続けようではありませんか」(23節)、「互いに注意を払おうではありませんか」(24節) という二つの勧めが続きます。

そして、そのような三つの勧めの根拠が、19節の原文の最初で、「持つことによって」と記され、それが「聖所に入ることができる大胆さを(持つ)」と、21節の「偉大な大祭司を(持つ)」という二つを修飾します。つまり、私たちのために開かれた「新しい生ける道」(20節) を前提に、どのような姿勢を「持つ」べきかということが記されているのです。

その際、まず19,20節に描かれた「新しい生ける道」が、旧約の幕屋礼拝との関係で、どれほど画期的なものかが理解される必要があります。19-22節は以下のように訳すことができます。

こういうわけで、兄弟たち、私たちは聖所に入るための大胆さを持っているのですからーそれはイエスがご自身の血において、垂れ幕を通しての新しい生ける道を開いてくださったことによりますが(それこそはご自身の肉体によるものです)―、さらにまた、私たちは、神の家を治める偉大な大祭司を持っているのですから真心から神に)近づこうではありませんか。それは、心に血が振りかけられて悪い良心がきよめられ、からだをきよい水で洗われたことによる、満たされた状態の信仰においてです

旧約に描かれた幕屋礼拝では、大祭司が年に一度だけ、自分の罪のための雄牛の血と、民全体の罪のために雄やぎの血を携えて、垂れ幕を通して至聖所に入ることができましたが、新約の時代の私たちはイエスの血において大胆さを持って、垂れ幕を通して至聖所に入ることができるというのです。

その際、新改訳では、「ご自分の肉体という垂れ幕を通して」と記されていますが、イエスの肉体を「垂れ幕」と解釈することには注意が必要です。旧約では、聖所の垂れ幕を通ることは、年に一度、大祭司だけに許されたことで、それ以外の時にそこを通ろうとする者は、死ぬしかありませんでした。しかし、イエスが十字架で死なれたとき、この垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂けました(マタイ27:51)。

確かにイエスの肉体が「垂れ幕」であると解釈することは文法的に自然とも思えますが、現実的に、イエスの肉体を「垂れ幕」にたとえるのは、感覚的に無理と言わざるを得ません。それはイエスの死体を過度に象徴化する解釈で、ヘブル書の中にイエスの復活を読み取らない影響とも言えましょう。

それ以上に、私たちと同じ肉体となられたイエスが十字架にかけられ、三日目によみがえって、天の父なる神の右に着座されたという一連のことが、「天の聖所に入る」ことができるための「新しい生ける道を開く」ことになったと理解すべきでしょう。

また新改訳で「全き信仰をもって」、また共同訳で「信頼しきって」と訳されていることばの解釈にも注意が必要です。私を含め多くの信仰者が自分の信仰の不完全さに悩んでいます。ここでの「信仰」は、「満たされた状態の信仰」とも訳せることばで、それは「心に血が振りかけられて悪い良心がきよめられ、からだをきよい水で洗われたこと」の結果として生み出されるものです。

前者は9章13,14節で、「雄やぎと雄牛の血を振りかけると、からだがきよいものにされるなら、まして、キリストの血は、私たちの良心をきよめ、生ける神に仕える者にしないわけがない」と記されていたことに基づきます。

また、「からだがきよい水で洗われた」とはバプテスマを指すと思われ、それが神のあわれみのみわざとして私たちの信仰を確固としたものにすると解釈できます。

とにかく、信仰」は、あくまでも神のみわざが私たちの心の内側に働いた結果に過ぎないからです。自分の心を見る代わりに、神のみわざに目を留めることが大切です。

さらに23-25節は次のように訳すことができます。

私たちはしっかりと希望を告白し続けようではありませんか、動揺することなく、約束してくださった方は真実な方ですから……。また、私たちは互いに注意を払おう(思い巡らそう)ではありませんか、愛と善行を促すために、その際、ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりを捨てることなどなく、むしろ、励まし合いましょう、その日が近づいているのをあなたがたが見ているのですから、ますますそうしましょう

そこには先に述べたように、「イエスの血によって新しい生ける道が開かれたことで、私たちは聖所に入るための大胆さと、神の家を治める偉大な大祭司を 持っている」という前提があります。

希望を告白すること、また互いに励まし合うということを止めるという誘惑は、外部の迫害から生まれますが、それはイエスの血が天の聖所への道を開いてくださったという画期的な「救い」を軽蔑することに他なりません。

ですから23節では、第一に、「しっかりと希望を告白し続けようではありませんか」と勧められます。それに対する動揺」が起こされことがあっても、それに対処するのは約束してくださった方」の真実」に立ち返ることです。「真実」ということばは「信仰」とも訳されることばです。私たちの信仰は、キリストの「真実(信仰)」に対する応答に過ぎません。

第二に24節では、「私たちは互いに注意を払おう(思い巡らそう)ではありませんか」と促され、その内容が「愛と善行を促す」こととして描かれます。ただそれは、日々の「愛と善行」という人間の側の応答の働きに関して、「あなたは、それをしましたか?」などと、「互いに注意をし合う」という意味ではなく、「今、ここで、何が必要とされているか」ということを、互いに知恵を出し合って、ともに考えるという、喜びに満たされ、互いの積極性を刺激し合うような「思い巡らし」を意味します。

当時、ユダヤ人(ユダヤ教徒)はローマ帝国の中でも、自分たちの信仰を守る権利が特別に与えられ、ローマの神々を礼拝することを強要されることがありませんでした。しかし、キリスト信者の群れは、ユダヤ人からもローマ人からの異端視され、迫害されました。現実的には、キリスト者の交わりから距離を置くことで、いのちの危険を避けることができました。

そのことが25節で「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりを捨てる」ことなどしてはならないと厳しく命じられています。そうすることは、イエスの血によって開かれた「新しい生ける道」を無視することになるからです。

しかも、そこでは続けて、「その日が近づいていることを見ている(分かっている)のですから、いっしょに集まるように励まし合いましょう」と強く勧められています。「その日が近づいている」という意味は、すぐ後の37-39節でさらに展開されますが、ここでは簡潔に述べることで、それがイエスの救いを軽蔑するという恐ろしい罪になることが示唆されます。

私たちはそれぞれ、「ただ一人で生ける神の前に立つ」という信仰が求められますが、この世界には様々な誘惑が満ちています。人は、常に、何らかの交わりのうちに生かされていますから、その交わりの中心に「神の家を治める偉大な大祭司」をともに「持っている」ことが何よりも大切です。

信仰者が互いに希望を告白し合って、今ここで何が求められているかをともに思い巡らし、やがて実現する神の平和(シャローム)を今ここで体験し、ともに喜び励まし合うということは、私たちに生きる力の源になります。

2.「ただ、恐ろしいさばきの期待と、逆らう者たちを焼き尽くす恐ろしい火が残っています

26、27節は一つの文章で、前文を受けて、「それは、もし私たちが、真理の知識を受けた後にも関わらず、意図的に罪を犯し続けるということがあるなら、罪のためのいけにえは残ってはいないからです」と記されます。

さらに最後の「残っています」という動詞を受けて、「ただ、恐ろしいさばきの期待と、逆らう者たちを焼き尽くす恐ろしい火が……」と記されます。

つまり、神の赦しの可能性が「残っていない」一方で、ただ、神の恐ろしい火のさばきへの恐怖ばかりが「残っているという対比が強調されているのです。

この背後にはイザヤ書26章11節の「そして今、火が敵を食い尽くすことになります」(70人訳) という記述がありますが、不思議にその直後の12節では、「主 (ヤハウェ) よ。あなたは私たちのために平和を備えてくださいます」という「救い」が語られます。

それは皮肉にも、神の民が神の敵と見なされるという中での、他の人々の「救い」を意味します。それは、神の民が「真理の知識を受けた」という恵みを軽蔑したことの報いです。

なお、新改訳で「進んで罪に留まり続けるなら」と訳され、また共同訳で「故意に罪を犯し続けるなら」と訳されていることばは、原文の最初で「意図的に」ということばとして強調されています。

それは旧約聖書では別に何の新しいこともない当然のことで、そのことが28節で、「モーセの律法を拒否する者は、あわれみを受けることなく、二人または三人の証言に基づいて、死ぬことになります」と記されています。

たとえばレビ記4章2節では、「人が、主 (ヤハウェ) がしてはならないと命じたすべてのことから離れて、気づかずに罪に陥り、その一つでも行ってしまった」ような場合の「罪のきよめのささげ物」のことは記されていますが、意図的に律法に反抗した場合の「罪のきよめ」、または「罪の赦し」の道のことは記されていません。

また民数記15章27節では、「もし個人が気づかずに罪に陥ってしまったのなら、一歳の雄やぎ一匹を罪のきよめのためのささげ物として献げなければならない」と記されますが、同時にその32-36節では、「安息日に薪を集めている男が見つかった」ときに、「その人を宿営の外に連れ出し、石で打ち殺した」という恐ろしいさばきが下されたことが描かれていました。

つまり、26,27節の恐ろしい文章は、何も新しいことではなく、旧約聖書に記された「いけにえ」の限界を示すことばだったとも言えましょう。

それよりは、29節で何よりも強調されるのは、その比較で、「まして、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう」とまず宣言され、その上で、25節に記されていた、一度はキリストの弟子となりながら「自分たちの集まりを捨てる」という行為が、「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れた(common: 普通の)ものと見なし、恵みの御霊を侮る者」と見られ、そこには旧約にまさる処罰が待っていると記されているのです。

なお、イエスご自身も、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません」(マタイ12:31,32) と言っておられました。

旧約とは違い、キリストにあっては「どんな罪も冒涜も赦していただけるとまず驚くべき「罪の赦し」の福音が宣言されていますが、それでも聖霊に逆らう罪」は、「赦しようがない」と言われているのです。それは神の救いの御手を軽蔑し、払い退けることに他ならないからです。

それは、神が備えてくださった救命ボートを退けて、「自分の力で泳いで向こう岸に渡って見せる!」と息巻きながら、途中で力尽きて、おぼれ死ぬことに似ています。ただ、ここではキリストにある救いを拒絶する罪が三つの観点から、どれほど恐ろしいことかが記されます。

第一は、イエスがご自身の肉体を十字架に差し出した恵みを、犯罪人としての死かのように踏みつけることであり、第二はイエスが新しい契約のために流された血を、普通のいけにえの動物の血程度にしか見ていないことであり、第三には、「恵みの御霊を侮る」という「聖霊に対する冒涜」であると戒められています。恵みが大きいだけ、それを軽蔑することは恐ろしい罪になるのです。

最初のエデンの園においては、自分が「意図的に」神のみことばに逆らうという罪を犯して死ぬべき者となったと記されています。しかし、今の時代、神はキリストにおいて私たちを永遠に生かすために、「いのちの木の実を食べる特権(黙示22:14) を約束してくださいました。

しかしそれを軽蔑する者は、天から降ってきた「新しいエルサレム」に至る門の「外にとどめられ」、「魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべての偽りを好み、また行う者」(黙示22:15) の仲間として、厳しい神のさばきに服することになるのです。

その結果は悪魔の仲間として天から焼き尽くされるか、「火と硫黄の池に投げ込まれ……昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける」というさばきを受ける可能性があります (黙示20:9,10)。

そのことが先の27節で、

逆らう者たちを焼き尽くす激しい火」として描かれていました。それこそが、神のあわれみを軽蔑する者に対するさばきです。新約にも、旧約にまさるような厳しい神のさばきが警告されているのです。それは神の恵みを侮ったという罪が、追加で、さばきの理由になるからです。

3.「落ちることは、恐ろしいことです、生ける神の手の中に

30節は、「私たちはこのように言われる方を知っているからです」とまず記され、その上で主のことばが、「復讐はわたしのもの、わたしが報復する」、さらにまた、「主はご自分の民をさばかれる」と引用されます。

これは申命記32章35,36節からの引用で、七十人訳では、「その復讐の日に、わたしが報復する」また、「主はご自分の民をさばかれ、ご自分のしもべをあわれまれる」と記されています。

不思議にも前半は、イスラエルの民が神の救いのみわざを忘れ、軽蔑したことに対しての「復讐」と「報復」である一方で、後半は、ご自分の民の苦しみを見て「ご自分のしもべをあわれみ」、ご自分の民を救うために「さばき」を下すと記されていることです。そこでは、神の民を苦しめた異教徒の国に対する復讐と報復が描かれます。

旧約では、イスラエルの忘恩に対するさばきが警告されているとともに、イスラエルを滅ぼした「バビロン帝国に対するさばき」が宣告されます。後者は、神の民にとっての「救い」となるはずですが、ここでは厳しいさばきがバビロン帝国に対するかのように、イエスの血を軽蔑した者に対して下されると描かれています。

それは、一度は「真理の知識を受けた」者が、それに目を背けることが、6章6節にあったように、「彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たち」という恐ろしい罪に見られるからです。

実際、しばしば、一度イエスを救い主として信じた背教者こそが、最も恐ろしい迫害者になります。江戸幕府下でキリシタン迫害を徹底的にした責任者は大目付(朝廷、大名までも監視する大監察官)井上政重ですが、彼は転びキリシタンであると言われます。だからこそ、奉行たちは宣教師の心理を理解して、彼らが英雄的な殉教の死を遂げられないように画策し、宣教師を転ばせることができたとのことです。

ですから、神の救いのご計画を知っていながら、それを軽蔑する者へのさばきが厳しくなるのは当然とも言えましょう。パウロはコリント人への手紙第一の最後で、「主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください」と、祝福の祈りの前に記しています。新約でも、祝福と呪いはセットに記されているのです。

上記をまとめるように、31節は、「落ちることは、恐ろしいことです、生ける神の手の中に」と記されています。これは明らかに、神の厳しいさばきを受けることを指しています。

この書ではすでに2章2,3節で、「御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう」と記されます。それは、モーセ律法自体が神の救いのみわざであったことを前提に、それよりも「さらにすばらしい救いを無視する」(私訳) ことの恐ろしさが警告されているのです。それを「無視する者」には永遠の「滅び」が待っていると警告されています。

そしてそれは6章7,8節でも、「土地は、たびたびその上に降る雨を吸い込んで、耕す人たちに有益な作物を生み出すなら、神からの祝福にあずかります。しかし、(土地が)茨やあざみを生えさせるなら、無用とされ、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまいます」と、後者の土地が無用のものとしてのろわれ、焼かれてしまうという悲惨が描かれます。

その「土地」とは、その少し前の4,5節に描かれた神からの恵みを無駄に受けた「見せかけの信者」のことを指します。

モーセは告別説教でイスラエルの民に、「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」と迫りました (申命記30:19)。しかし、彼らは「」と「のろい」を選んでしまったというのが旧約のストーリーです。

しかし、そこには同時に「新しい契約」が約束されており、それは私たちが聖霊の働きによって、神を愛する者に変えられるという約束でした。

私たちには「」と「のろい」を選ぶ可能性は「もう、ありはしない!」と言いたいところですが、神のかたちに創造された人間の心は繊細で、傷つきやすいとともに、揺れやすいものです。

「私は大丈夫!」と豪語する人は危ない人です。しかし、自分の心の弱さを自覚して「不安」を覚え、イエスにすがる者は、永遠のいのちの祝福にあずかり続けます。

ジョン・ニュートン作詞の傑作 Amazing Grace の二番では、「恵みこそが私の心に恐れることを教えてくれ、また恵みによって私の様々な恐れが和らげられた。何と貴く恵みが現れたことか、私が最初に信じた時に」と歌われています。

ジョン・ニュートン

ジョンは、神をも恐れない奴隷売買に手を染めていましたが、沈みそうな船の中で、ヘブル書の警告のみことばが迫ってきて回心しました。しかしその後、奴隷船の船長に抜擢されます。彼が自分の罪の恐ろしさに気づいて、奴隷売買禁止法案に立ち上がるのは晩年のことでした。

健全な神への「恐れ」が彼を導き続けたのは、「永遠のいのち」が三位一体の生ける神との交わりだからです。